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2018年12月23日日曜日

ロスコとプロトパシー

ロスコと女」から引き続く。

ロスコの絵というのは、「身体的なもの」としての原始感覚性を触発する筈だよ。人にはそれぞれ感じ方があるのだから、あまり強調して言うつもりはないけど。それに比べたら、精密なデッサンや構成で成り立っている絵画作品は、すくなくとも受け手にとっては「心的なもの」として捉える割合が多いんじゃないか。この箇所は何の象徴なんだろう? とかね。

もちろんあらゆる「まともな」芸術は、身体のリアルと心的幻想とのあいだの境界を彷徨っているのだろうけど。

芸術が基盤としているのは、リアルは内在的かつ手の届かないものという想定である。リアルは、つねに表象に「突き刺さっている」。表象の他の側あるいは裏面に、である。裏面は、定められた空間に常に内在的でありながら、また常に手が届かない。(……)芸術は常に境界と戯れる。境界を創造・移動・越境する。(アレンカ・ジュパンチッチ Alenka Zupančič、The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan,2013、PDF




今グールドのバッハを貼り付けたのは、冒頭のようなことを記すと「構成」や「形式」をバカにしていると思われてしまうかもしれないからだ。最高のフーガの構成がなされている作品の一つ「フーガの技法」が、演奏によっては「窮極の身体的なもの感」を与えてくれるというのは、いまもって謎だな、ボクにとっては。後にすこしだけ記すが、子宮のなかで聞いた声みたいなんだ、これ。鼻の奥がツンとしてきて脳までくる。鳥肌もんだね。

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2017年に英ランカスター大学のヴィンセント・リード教授チームは、「The human fetus preferentially engages with face like visual stimuli(人間の胎児は顔のような視覚刺激により強く反応する)」という論文を発表している。





実験では赤い光を3点組み合わせて、二つの目と口のように見える配置にしたパターンと、それを反転させて三角形に見えるパターンを、妊娠後期(28〜39週)の胎児に1パターンにつき5回ずつ見せた。

 胎児の頭の近くに光を照射する実験を計195回行った結果、「顔」のような光を目で追いかけるようすは40回確認されたが、「三角形」の光には14回しか反応しなかったという。リード教授は「お腹の中の赤ちゃんは視覚刺激に反応できるのに、今まで誰も胎児の能力に注目してこなかったのです」と言う。

 2011年の研究では、明るい夏の日に母親が服を着ないで過ごすと、子宮の中の胎児は、部屋にいるのと同じくらいの明るさを感じていると言う実験結果を発表している。(赤ちゃんはお腹の中でも「顔」を見てる 胎児の視覚 英研究で明らかに

あの逆三角形を「顔のようなもの」としてしまうのは、わたくしはあまり好まないが、あの形のほうが胎児はより強い反応をするのは、われわれ成人のことを考えても当然だろう。上部からの鮮やかな色により多く襲われるほうが。





あの逆三角形の印象が強くあるな、ロスコの多くの作品は。胎内でみた光景とまで言わずとも出産直後の何週間、まだひどく視力が弱い時期には世界とはあのように見えるんじゃないか。たとえば母の乳房でさえ。


中井久夫はすでにこう書いている、《視覚は遅れて発達するというけれども、やわらかな明るさが身体を包んでいることを赤児は感じていないだろうか》。赤児とあるが文脈から母胎内の胎児のことであるのははっきりしている。そして「やわらかな明るさが身体を包んでいる」ことが、人間の視覚における原始感覚性 protopathy の重要なひとつであることは間違いない。

胎内はバイオスフェア(生物圏)の原型だ。母子間にホルモンをはじめとするさまざまな微量物質が行き来して、相互に影響を与えあっていることは少しずつ知られてきた。母が堕胎を考えると胎児の心音が弱くなるというビデオが真実ならば、母子関係の物質的コミュニケーションがあるだろう。味覚、嗅覚、触覚、圧覚などの世界の交歓は、言語から遠いため、私たちは単純なものと錯覚しがちである。それぞれの家に独自の匂いがあり、それぞれの人に独自の匂いがある。いかに鈍い人間でも結婚して一〇日たてば配偶者の匂いをそれと知るという意味の俗諺がある。

触覚や圧覚は、確実性の起源である。指を口にくわえることは、単に自己身体の認識だけではない。その時、指が口に差し入るのか、指が口をくわえるのかは、どちらともいえ、どちらともいえない状態である。口-身体-指が作る一つの円環が安心感を生むもとではないだろうか。それはウロボロスという、自らの尾を噛む蛇という元型のもう一つ先の元型ではないだろうか。

聴覚のような遠距離感覚でさえ、水の中では空気中よりもよく通じ、音質も違うはずだ。母親の心音が轟々と響いていて、きっと、ふつうの場合には、心のやすらぎの妨げになる外部の音をシールドし、和らげているに違いない。それは一分間七〇ビートの音楽を快く思うもとになっている。児を抱く時に、自然と自分の心臓の側に児の耳を当てる抱き方になるのも、その名残りだという。母の心音が乱れると、胎児の心音も乱れるのは知られているとおりである。いわば、胎児の耳は保護を失ってむきだしになるのだ。

視覚は遅れて発達するというけれども、やわらかな明るさが身体を包んでいることを赤児は感じていないだろうか。私は、性の世界を胎内への憧れとは単純に思わない。しかし、老年とともに必ず訪れる、性の世界への訣別と、死の世界に抱かれることへのひそかな許容とは、胎内の記憶とどこかで関連しているのかもしれない(私は死の受容などと軽々しくいえない。死は受容しがたいものである。ただ、若い時とは何かが違って、ひそかに許しているところがあるとはいうことができる)。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003年 『時のしずく』所収)


以下の文は、出産後の乳幼児期をめぐる記述だが、《視覚的映像も、しばしば、混乱したものである。すなわち「共通感覚的」であり「原始感覚的」でもある》とされている。

成人世界に持ち込まれる幼児体験は視覚映像が多く、稀にステロタイプで無害な聴覚映像がまじる。嗅覚、味覚、触覚、運動覚、振動感覚などはほとんどすべて消去されるのであろうか。いやむしろ、漠然とした綜合感覚、特に母親に抱かれた抱擁感に乳の味覚や流れ入る喉頭感覚、乳頭の口唇触覚、抱っこにおける運動感覚、振動感覚などが加わって、バリントのいう調和的渾然体 harmonious mix-up の感覚的基礎となって、個々の感覚性を失い、たいていは「快」に属する一つの共通感覚となって、生きる感覚(エロス)となり、思春期を準備するのではなかろうか。

これに対して、外傷性体験の記憶は「成人世界の幼児型記憶」とはインパクトの点で大きく異なる。外傷性記憶においては視覚の優位重要性はそれほど大きくない。外傷性記憶は状況次第であるが、一般に視覚、聴覚、味覚、触覚、運動覚が入り交じる混沌である。視覚的映像も、しばしば、混乱したものである。すなわち「共通感覚的」であり「原始感覚的」でもある。(中井久夫「発達的記憶論」2012年『徴候・記憶・外傷』)

ーーそもそも幼児が《視力が1.0になるには、3歳頃まで時間を要する》そうだ(参照:寺師恵子「赤ちゃんの視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚の不思議な発達!」)。


蓮實重彦はヴェンダースとの対談で、《ああ、偉大な映画作家は、やはりみんな近眼なのだ。フォードも、フィリッツ・ラングも、そしてあなたも(笑)。》(『光をめぐって』)と口走っているが、マーク・ロスコもかなり強い近眼だ。





中井久夫は上に引用して文に引き続き、「共通感覚的」と「原始感覚的」なもの以外に「絶対性」をトラウマ性感覚としている。

私たちは、外傷性感覚の幼児感覚との類似性を主にみてきて、共通感覚性 coenaesthesiaと原始感覚性 protopathyとを挙げた。

もう一つ、挙げるべき問題が残っている。それは、私が「絶対性」absoluteness、と呼ぶものである。(……)

私の臨床経験によれば、絶対音感は、精神医学、臨床医学において非常に重要な役割を演じている。最初にこれに気づいたのは、一九九〇年前後、ある十歳の少女においてであった。絶対音感を持っている彼女には、町で聞こえてくるほとんどすべての音が「狂っていて」、それが耐えがたい不快となるのであった。もとより、そうなる要因はあって、聴覚に敏感になるのは不安の時であり、多くの場合は不安が加わってはじめて絶対音感が臨床的意味を持つようになるが、思春期変化に起こることが目立つ。(……)

私は自閉症患者がある特定の周波数の音響に非常な不快感を催すことを思い合わせる。

絶対性とは非文脈性である。絶対音感は定義上非文脈性である。これに対して相対音感は文脈依存性である。音階が音同士の相対的関係で決まるからである。

私の仮説は、非文脈的な幼児記憶もまた、絶対音感記憶のような絶対性を持っているのではないかということである。幼児の視覚的記憶映像も非文脈的(絶対的)であるということである。

ここで、絶対音感がおおよそ三歳以前に獲得されるものであり、絶対音感をそれ以後に持つことがほとんど不可能である事実を思い合わせたい。それは二歳半から三歳半までの成人型文法性成立以前の「先史時代」に属するものである。(……)音楽家たちの絶対音感はさまざまなタイプの「共通感覚性」と「原始感覚性」を持っている。たとえば指揮者ミュンシュでは虹のような色彩のめくるめく動きと絶対音感とが融合している。

視覚において幼児型の記憶が残存する場合は「エイデティカー」(Eidetiker 直観像素質者)といわれる。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)


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もしラカン派の美の定義、「美は現実界に対する最後の防衛」を受け入れるなら、この意味は、「美はトラウマに対する最後の防衛」でもあり(参照)、トラウマとはすなわち「身体の出来事」(身体の上への刻印)であり(参照)、つまりは「美は身体の出来事に対する最後の防衛」となる。

身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard …この身体の出来事は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation (ジャック=アラン・ミレール 、L'Être et l'Un 、2 février 2011)

ーー何度か掲げているがラカン「ボロメオの環」のフロイト変奏版における、「固着 」とは次のポジションにある。




ーーラカンはリビドー固着の場にあるものを骨象[osbjet]と呼んでいる(参照)。すなわち身体に突き刺さった骨。

そして原「身体の出来事」は母胎内で起こるのは疑いようがない。

①触覚や圧覚という身体の出来事、《指を口にくわえること⋯⋯指が口に差し入るのか、指が口をくわえるのかは、どちらともいえ、どちらともいえない状態⋯⋯口-身体-指が作る一つの円環⋯⋯はウロボロスという、自らの尾を噛む蛇という元型のもう一つ先の元型》、ーーこれは彫刻制作者における原始感覚でありうる。

私は彫刻家である。
 
多分そのせいであろうが、私にとって此世界は触覚である。触覚はいちばん幼稚な感覚だと言われているが、しかも其れだからいちばん根源的なものであると言える。彫刻はいちばん根源的な芸術である。

人は五官というが、私には五官の境界がはっきりしない。空は碧いという。けれども私はいう事が出来る。空はキメが細かいと。秋の雲は白いという。白いには違いないが、同時に、其は公孫樹の木材を斜に削った光沢があり、春の綿雲の、木曾の檜の板目とはまるで違う。考えてみると、色彩が触覚なのは当りまえである。光波の震動が網膜を刺戟するのは純粋に運動の原理によるのであろう。絵画に於けるトオンの感じも、気がついてみれば触覚である。口ではいえないが、トオンのある絵画には、或る触覚上の玄妙がある。トオンを持たない画面には、指にひっかかる真綿の糸のようなものがふけ立っていたり、又はガラスの破片を踏んだ踵のような痛さがあるのである。色彩が触覚でなかったら、画面は永久にぺちゃんこでいるであろうと想像される。

音楽が触覚の芸術である事は今更いう迄もないであろう。私は音楽をきく時、全身できくのである。音楽は全存在を打つ。だから音楽には音の方向が必要である。(高村光太郎「触覚の世界」)

ーーこの高村光太郎の言葉遣いからすれば、原始感覚性 protopathyのみを強調するのではなく、共通感覚性 coenaesthesiaを言わなければならないのかもしれない。するとすべてが触覚にかかわってくるとさえ言いうる。嗅覚、味覚、触覚、運動覚、振動感覚等だけではなく聴覚、視覚でさえ、身体的な触覚でありうるのだ。ひょっとしたらフロイトの「リビドー固着」、すなわち身体の上への刻印、あるいはラカンの「身体の出来事」自体、「触覚」と翻訳できうるかも。

とはいえここでは原始感覚性という語を基盤として記述し続けよう。

②聴覚、母の心音、一分間七〇ビートの音楽(音楽家)

③視覚、やわらかな明るさが身体を包んでいること(画家)





そして詩人にとっての原始感覚的基盤もまた母の言葉である。

し前からわかっているように、人間は、胎児の時に母語--文字どおり母の言葉である--の抑揚、間、拍子などを羊水をとおして刻印され、生後はその流れを喃語(赤ちゃんの語るむにゃむにゃ言葉である)というひとり遊びの中で音声にして発声器官を動かし、口腔と口唇の感覚に馴れてゆく。一歳までにだいたい母語の音素は赤ちゃんのものになる。大人と交わす幼児語は赤ちゃんの言語生活のごく一部なのである。赤ちゃんは大人の会話を聴いて物の名を溜めてゆく。「名を与える」ということのほうが大事である。単に物の名を覚えるだけではない。赤ちゃんはわれわれが思うよりもずっと大人の話を理解している。なるほど大人同士の理解とは違うかもしれない。もっと危機感や喜悦感の振幅が大きく、外延的な事情は省略されるか誤解されているだろう。その過程で、母語としておかしな感じを示すかすかな兆候を察知するアンテナが敏感になってゆく。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)

※より詳しくは「羊水をとおしての刻印」。


出産直後の身体の出来事は羊水の吐き出しであり、それに引き続く空気吸入、母乳吸入である(参照:出生時の呼吸動態の変化




(新生児における)呼吸システムへの最初の空気吸入、消化システムへの最初の母乳吸入は、おそらく外傷体験と呼びうる。(The Mark, the Thing, and the Object: On What Commands Repetition in Freud and Lacan by Gertrudis Van de Vijver, Ariane Bazan and Sandrine Detandt, 2017年)

「最初の空気吸入」にかかわる身体的アートとしては、ヨガをすぐさま思い浮かべることができる。そして母乳吸入にかかわる口唇欲動は、性器を使った性行為に先行した原性行為アートの根でありうる。フロイトは、フェラチオをこの母乳吸入としての口唇欲動に関連付けた。

ペニスを吸うという倒錯的幻想は、最も無邪気な源から発している。それは母または乳母の乳房を吸うという、先史的ともいえる幻想の改変されたものである。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』「症例ドラ」)

ーーもはや紋切り型ではあるが、性行為後の喫煙とは、口唇欲動が十分には満足されなかったためであることが多い。ラカンの言い方なら「性交の成功」による不満足である。

男は、間違って、ひとりの女に出会い rencontre une femme、その女とともにあらゆることが起こる。つまり、通常、性交の成功が構成する失敗 ratage en quoi consiste la réussite de l'acte sexuel が起きる。(ラカン、テレヴィジョン、1973)

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中井久夫によるトラウマの定義は、《人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶》であり、《語りとしての自己史に統合されない「異物」》である。

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)

ーーこの「異物」はフロイト用語である(参照:原抑圧・固着文献)。そして「異物 Fremdkörper」は《異者としての身体 un corps qui nous est étranger 》(ラカン、S23, 11 Mai 1976)のことである。

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ロスコの最後の作品は次のものである。




1970年に66歳で自殺。病気(大動脈瘤)や私生活上のトラブルなどの理由で、ということになっている。スタジオで手首を切り血まみれになって死んでいたという話があるが詳しいことはしらない。