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2020年11月26日木曜日

2020年8月31日月曜日

アファナシエフ1972

◼️Valery Afanassiev 1972




◼️Afanassiev 1972
(Queen Elisabeth International Competition, Recital of the 1st prize laureate)



◼️Afanassiev 1969-1971




◼️Afanassiev 2019





2020年8月30日日曜日

グルダとコヴァセヴィッチ





前回のガボットに引き続き、このグルダのバガテルもとってもいい。グールドのよりずっといい。でもグールドってのはボクにとってあらゆる意味でーー音楽に限らず少なくとも20世紀以降の全芸術のなかでーーナンバーワンだということは言っておかなくちゃな、ボクにとっては。

ピアノを愛するというなら、そのためには、別の時代からやってきて、つねに完了形で語っているようなアルトゥーロ・べネデッティ=ミケランジェリのピアノがあるだろう。あるいはまた近年のリヒテルのようにある種の期待が告げられるようなピアノがある。期待、すなわち近頃リヒテルが登場すると、一緒にそこにあらわれるあの未来のノスタルジーだ(ドアはそのときひとりでにひらき、そこにあるのがわからなかった部屋が見える。)しかしながら現在形で演奏するグールドの姿は決定的な光をもたらし、無垢あるいは天使という使い古された語を唇にのぼらせる。(ミシェル・シュネーデル『グレン・グールド 孤独のアリア』)

話を戻せば、ほかのひとの演奏はどうだろうといくつかきいてみたら、アルゲリッチの三人目のだんながやってるや。





好みのテンポで繊細さもあり悪くないんだが、ここでやっぱり音が宙に伸びてゆく感じがわずかなんだな





二番目のだんなはデュトワでよく知られているだろうがーーデュトワの浮気が発端になって離婚ーー、最初のだんな陈亮声の写真を拾ったので貼り付けておこう。




マルタ・アルゲリッチは三人の娘がすべて種違い等、奔放な愛の女という印象があるが、それは印象だけではないか。真摯に愛に生き、愛に苦しみ、愛と闘った女性ではないか。彼女のファンとしてそう錯覚に閉じ籠ることにしている。




10歳下のミシェル・ベロフとも4年間恋愛関係にあったとされるが、次の二人のデュオは煌き輝く愛の結晶のようで実にに美しい。





グルダとアルゲリッチ





いやあグルダはやっぱりとってもいいな、最近はほとんどきかなくなってしまったけど。ボクは高校時代、バッハにいかれていたので、平均律も最初チェンバロできいて退屈した後、リヒテル、グールド、グルダをきいたのだけど、そのときよくきいたのは、リヒテル、グルダ、グールドの順だったな。





完全に負けてるね、先生に。音が天に広がってゆく感じがぜんぜんないや。




ところでアルゲリッチってなんで急にとてつもなくきれいになったんだろうな、




こういうもんかね、少女から乙女への変身ってのは



ああ死にそうになる、こんな目で見詰められたら。




こんな美女って他にいるかな、少なくとも女優や歌手のなかには見出せないね(もちろんボクの趣味では、という意味だけど)。





2020年8月18日火曜日

女がなければ人生は一つの錯誤であろう






幸福に必要なものはなんとわずかであることか! 一つの風笛の音色。――音楽がなければ人生は一つの錯誤であろう。Wie wenig gehört zum Glücke! Der Ton eines Dudelsacks. - Ohne Musik wäre das Leben ein Irrtum. Der Deutsche denkt sich selbst Gott liedersingend.(ニーチェ『偶像の黄昏』「箴言と矢」33番)
音楽がなければ、生には何の意味もありませんよ。音楽は私たちの深部に触れます。音楽は、私の人生で途方もなく大きな役割を果たしました。音楽を解さない人間にはまったく興味がありませんね。ゼロですよ。(シオラン『対談集』)

あんたたちそんなこと言うけどさ
女なしでもいいわけ?
音楽なしの人生と女なしの人生
どっちか選ばなくちゃならないとしたら
どっちとるの?

高橋悠治はグールド追悼文で言ってるわ
「音楽なんか聴かなくても生きていける」って
でも女なんかいなくても生きていけるわけ?


女はその本質からして蛇であり、イヴである Das Weib ist seinem Wesen nach Schlange, Heva」――したがって「世界におけるあらゆる禍いは女から生ずる vom Weib kommt jedes Unheil in der Welt」(ニーチェ『アンチクリスト』1888年)

あらシツレイね、
アファナシエフは神か音楽かっていってるわ




で、《女というものは神の別の名である La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu》(ラカン, S23, 1975)だわ

あんたたちこっちのほうでしょ?

ああ、アリアドネ、あなた自身が迷宮だ。人はあなたから逃れえない。…
Oh Ariadne, du selbst bist das Labyrinth: man kommt nicht aus dir wieder heraus” ...(ニーチェ、1887年秋遺稿)

おバカなこと言わないほうがいいわよ
「女がなければ人生は一つの錯誤であろう」にきまってるわ

「まことに彼は神の子だった Wahrlich, dieser ist Gottes Sohn gewesen」
だって、人はみな女の子ってことよ





おわかりかしら、
「女か音楽か」しかないのが。


生への信頼 Vertrauen zum Leben は消え失せた。生自身が一つの問題となったのである。ーーこのことで人は必然的に陰気な者、フクロウ属になってしまうなどとけっして信じないように! 生への愛 Liebe zum Leben はいまだ可能である。ーーただ異なった愛なのである・・・それは、われわれに疑いの念をおこさせる「女への愛 Liebe zu einem Weibe」 にほかならない・・・(ニーチェ対ワーグナー、エピローグ、1888年)




2020年8月15日土曜日

女ぎらひ

以下、前回の記事を記した後、蚊居肢散人の脳髄のなかの自動生成装置が次の文献群を呼び起こした。ひょっとして相関関係がたいしてないかもしれないが、記念にここに貼り付けておく。



女嫌いとは何だろうか? 「自分の嫌うところは」と、定評あるストリンドベルヒが正直に答えて居る。「女の気質や性格であって、肉体に属するものではない。」と。同様にショーペンハウエルが、彼の哲学で罵倒しながら、彼の膝の上で若い女を愛撫して居た。すべての女嫌いについて、定義し得るところはこうである。人格としてでなく、単に肉塊として、脂肪として、劣情の対象としてのみ、女の存在を承諾すること。(婦人に対して、これほど憎悪の感情をむき出しにした、冒涜の思想があるだろうか。)

しかしながら一方では、それほど観念的でないところの、多数の有りふれた人々が居り、同様の見解を抱いている。殆ど多くの、世間一般の男たちは、初めから異性に対してどんな精神上の要求も持っていない。女性に対して、普通一般の男等が求めるものは、常に肉体の豊満であり、脂肪の美であり、単に性的本能の対象としての、人形への愛にすぎないのである。しかも彼等は、この冒涜の故に「女嫌い」と呼ばれないで、逆に却って「女好き」と呼ばれている。なぜなら彼等は、決してどんな場合に於ても、女性への毒舌や侮辱を言わないから。

然る一方で、何故に或る人たちが、常に女性を目の敵にして、毒舌や侮辱をあえてするのだろうか。(それによって彼等は、女嫌いと呼ばれるのである。)けだしその種の人々は、初めから女に対して、単なる脂肪以上のものを、即ち精神や人格やを、真面目に求めているからである。女がもし、単なる肉であるとすれば、もとより要求するところもなく、不満するところもないだろう。彼等もまた世間多数の男と同じく、無邪気に脂肪の美を讃美し、多分にもれない女好きであるだろう。それ故に女嫌いとは? 或る騎士的情熱の正直さから、あまりに高く女を評価し、女性を買いかぶりすぎてるものが、経験の幻滅によって導かれた、不幸な浪漫主義の破産である。然り! すべての女嫌いの本体は、馬鹿正直なロマンチストにすぎないのである。(萩原朔太郎『虚妄の正義』1929年)


………………


大体私は女ぎらいというよりも、古い頭で、「女子供はとるに足らぬ」と思っているにすぎない。 女性は劣等であり、私は馬鹿でない女(もちろん利口馬鹿を含む)にはめったに会ったことがない。 事実また私は女性を怖れているが、男でも私がもっとも怖れるのは馬鹿な男である。まことに馬鹿ほど怖いものはない。

また註釈を加えるが、馬鹿な博士もあり、教育を全くうけていない聡明な人も沢山いるから、何も私は学歴を問題にしているのではない。 こう云うと、いかにも私が、本当に聡明な女性に会ったことがない不幸な男である、 という風に曲解して、私に同情を寄せてくる女性がきっと現れる。こればかりは断言してもいい。 しかしそういう女性が、つまり一般論に対する個別的例外の幻想にいつも生きている女が、実は馬鹿な女の代表なのである。 (三島由紀夫「女ぎらひの弁」1955年)






三島の初期の母子関係は異様なものであった。多くの人がその異様さの一端として引用するが,『伜』 によれば,三島の授乳は4時間おきで,祖母・夏子によって管理されており,授乳時間も10分か15分と 決まっていたという(安藤,1998)。また,早くから母親と引き離され,ヒステリー持ちの祖母のカビ臭い部屋に置かれ,祖母の世話役的な育てられ方をした。近所の男の子との遊びも悪戲を覚えてはいけないとの理由で禁止され,女の子として育てられた。祖母の名を差し置いて最初に母の名を呼ぶことが祖母のヒステリーを誘発することを恐れた幼い三島は,いつも祖母の名を先に呼ぶよう気を遣っていた(平岡, 1990)。

こうした陰鬱な時間は,三島が16歳で書いた処女作『花盛りの森(1944)』の中に,「祖母は神経痛をやみ,痙攣を始終起こした。(中略)痙攣が,まる一日,ばあいによっては幾夜さもつづくと,もっ と顕著なきざしが表れてきた。それは『病気』がわがものがおに家じゅうにはびこることである」と,幼い感受性でとらえた異常さと緊張が描写されている。ここには,①母性の早期の剥奪,②性の同一性の混乱,③依存を体験する前に大人に対する気遣いや世話を身につけてしまったことなど,世代の錯綜の問題などがすでに孕まれており,三島自身が初期に拘るようになるに十分な人生のスタートであった。(井原成男「ロールシャッハ・テストプロトコルからみた 三島由紀夫の母子関係と同性愛」2015)






子供は成人の心理学的な父である。幼児の最初期の出来事は、後の全人生において比較を絶した重要性を持つ。 das Kind sei psychologisch der Vater des Erwachsenen und die Erlebnisse seiner ersten Jahre seien von unübertroffener Bedeutung für sein ganzes späteres Leben,(フロイト『精神分析概説』第7章草稿、死後出版1940年)

男性の同性愛において見られる数多くの痕跡 traits がある。何よりもまず、母への深く永遠な関係 un rapport profond et perpétuel à la mère である。(ラカン、S5、29 Janvier 1958)
男性の同性愛者の女への愛 L'amour de l'homosexuel pour les femmes は、昔から知られている。われわれは名高い名、ワイルド、ヴェルレーヌ、アラゴン、ジイドを挙げることができる。彼らの欲望は女へは向かわなかったとしても、彼らの愛は「女というもの Une femme 」に落ちた。すくなくとも時に。

男性の同性愛者は、その人生において少なくとも一人の女をもっている。フロイトが厳密に叙述したように、彼の母である。男性の同性愛者の母への愛は、他の性への欲望 désir pour l'Autre sexe のこよなき防御として機能する。…

私はすべてがそうであると言うつもりはない。同性愛者の多様性は数限りない。それにもかかわらず、…ラカンがセミネール「無意識の形成」にて例として覆いを解いた男性の同性愛者のモデルは、「母への深く永遠な関係」という原理を基盤としている。(Pour vivre heureux vivons mariés par Jean-Pierre Deffieux、2013 ーーLe Journal extime de Jacques-Alain Miller)






母の行ったり来たり allées et venues de la mère⋯⋯行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ? (ラカン, S5, 15 Janvier 1958)
母が幼児の訴えに応答しなかったらどうだろう?……母はリアルになる elle devient réelle、…すなわち権力となる devient une puissance…全能omnipotence …全き力 toute-puissance …(ラカン, S4、12 Décembre 1956)
全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存 dépendance を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)

すべての女性に母の影は落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」

この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。(ポール・バーハウ  Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE, 1998)




………………


女が真実を語るのは、言葉でなしに、からだでだ。(坂口安吾「恋をしに行く」1947年) 
素子とは何者であるか? 谷村の答へはたゞ一つ、素子は女であつた。そして、女とは? 谷村にはすべての女がたゞ一つにしか見えなかつた。女とは、思考する肉体であり、そして又、肉体なき何者かの思考であつた。この二つは同時に存し、そして全くつながりがなかつた。つきせぬ魅力がそこにあり、つきせぬ憎しみもそこにかゝつてゐるのだと谷村は思つた。   (坂口安吾「女体」1946年)
男の肉体にくらべれば、女の肉体はもっと悲しいものゝようだ。女の感覚は憎悪や軽蔑の通路を知るや極めて鋭く激しいもので、忽ちにして男のアラを底の底まで皮をはいで見破ってしまう。そして極点まで蔑み憎んでいるものだ。そのくせ、女の肉体の弱さは、その極点の憎悪や軽蔑を抱いたまゝ、泥沼のクサレ縁からわが身をどうすることもできないという悲しさである。(坂口安吾「ジロリの女」1948年)
私自身が一人の女に満足できる人間ではなかつた。私はむしろ如何なる物にも満足できない人間であつた。私は常にあこがれてゐる人間だ。
私は恋をする人間ではない。私はもはや恋することができないのだ。なぜなら、あらゆる物が「タカの知れたもの」だといふことを知つてしまつたからだつた。
ただ私には仇心があり、タカの知れた何物かと遊ばずにはゐられなくなる。その遊びは、私にとつては、常に陳腐で、退屈だつた。満足もなく、後悔もなかつた。(坂口安吾「私は海をだきしめてゐたい」1947年)
母。――異体の知れぬその影がまた私を悩ましはじめる。
私はいつも言ひきる用意ができてゐるが、かりそめにも母を愛した覚えが、生れてこのかた一度だつてありはしない。ひとえに憎み通してきたのだ「あの女」を。母は「あの女」でしかなかつた。(略)

三十歳の私が、風をひいたりして熱のある折、今でもいちばん悲しい悪夢に見るのがあの時の母の気配だ。姿は見えない。だだつぴろい誰もゐない部屋のまんなかに私がゐる。母の恐ろしい気配が襖の向ふ側に煙のやうにむれてゐるのが感じられて、私は石になつたあげく気が狂れさうな恐怖の中にゐる、やりきれない夢なんだ。母は私をひきづり、窖のやうな物置きの中へ押しこんで錠をおろした。あの真つ暗な物置きの中へ私はなんべん入れられたらうな。闇の中で泣きつづけはしたが、出してくれと頼んだ覚えは殆んどない。ただ口惜しくて泣いたのだ。(略)

ところが私の好きな女が、近頃になつてふと気がつくと、みんな母に似てるぢやないか! 性格がさうだ。時々物腰まで似てゐたりする。――これを私はなんと解いたらいいのだらう!

私は復讐なんかしてゐるんぢやない。それに、母に似た恋人達は私をいぢめはしなかつた。私は彼女らに、その時代々々を救はれてゐたのだ。所詮母といふ奴は妖怪だと、ここで私が思ひあまつて溜息を洩らしても、こいつは案外笑ひ話のつもりではないのさ。(坂口安吾「をみな」1935年)


…………………


急に聰子の中で、爐の戸がひらかれたやうに火勢が増して、ふしぎな焔が立上つて、雙の手が自由になつて、清顯の頬を押へた。その手は清顯の頬を押し戻さうとし、その唇は押し戻される清顯の唇から離れなかつた。濡れた唇が彼女の拒みの餘波で左右に動き、清顯の唇はその絶妙のなめらかさに醉うた。それによつて、堅固な世界は、紅茶に涵された一顆の角砂糖のやうに融けてしまつた。そこから果てしれぬ甘美と融解がはじまつた。

清顯はどうやつて女の帶を解くものか知らなかつた。頑ななお太鼓が指に逆らつた。そこをやみくもに解かうとすると、聰子の手がうしろへ向つてきて、清顯の手の動きに強く抗しようとしながら微妙に助けた。二人の指は帶のまはりで煩瑣にからみ合ひ、やがて帶止めが解かれると、帶は低い鳴音を走らせて急激に前へ彈けた。そのとき帶は、むしろ自分の力で動きだしたかのやうだつた。それは複雑な、収拾しやうのない暴動の發端であり、着物のすべてが叛亂を起したのも同然で、清顯が聰子の胸もとを寛ろげようとあせるあひだ、ほうぼうで幾多の紐がきつくなつたりゆるくなつたりしてゐた。彼はあの小さく護られてゐた胸もとの白の逆山形が、今、目の前いつぱいの匂ひやかな白をひろげるのを見た。

聰子は一言も、言葉に出して、いけないとは言はなかつた。そこで無言の拒絶と、無言の誘導とが、見分けのつかないものになつていた。彼女は無限に誘ひ入れ、無限に拒んでゐた。ただ、この神聖、この不可能と戰つてゐる力が、自分一人の力だけではないと、清顯に感じさせる何かがあつた。

それは何だつたろう。清顯は、目をつぶつたままの聰子の顔がすこしづつ紅潮してきて、そこに放恣な影の亂れるのをまざまざと見た。その背を支へる清顯の掌に、はなはだ微妙な、羞恥に充ちた壓力が加はつてゆき、彼女はさうして、あたかも抗しかねたかのやうに、仰向きに倒れた。

清顯は聰子の裾をひらき、友禪の長襦袢の裾は、紗綾形と亀甲の雲の上をとびめぐる鳳凰の、五色の尾の亂れを左右へはねのけて、幾重に包まれた聰子の腿を遠く窺はせた。しかし清顯は、まだ、まだ遠いと感じてゐた。まだかきわけて行かねばならぬ幾重の雲があつた。あとからあとから押し寄せるこの煩雑さを、奥深い遠いところで、狡猾に支へてゐる核心があつて、それがじつと息を凝らしてゐるのが感じられる。

やうやく、白い曙の一線のやうに見えそめた聰子の腿に、清顯の體が近づいたときに、聰子の手が、やさしく下りてきてそれを支へた。この恵みが仇になつて、彼は曙の一線にさへ、觸れるか觸れぬかに終つてしまつた。

――二人は疊に横たはつて、雨のはげしい音のよみがへつた天井へ目を向けてゐた。彼らの胸のときめきはなかなか静まらず、清顯は疲れはおろか、何かが終つたことさへ認めたがらない昂揚の裡にゐた。しかし二人の間に、少しづつ暮れてくる部屋に募る影のやうな、心殘りの漂つてゐることも明らかになつた。彼は又、源氏襖のむかうに、かすかな、年老いた咳拂ひをきいたやうに思つて、身を起しかけたが、聰子がそつと彼の肩を引いて引止めた。

やがて聰子は、一言もものを言はずに、かうした心殘りを乗り越えて行つた。そのとき清顯は、はじめて聰子のいざなひのままに動くことのよろこびを知つた。あのあとでは何もかも恕すことができたのである。

清顯の若さは一つの死からたちまちよみがえり、今度は聰子のなだらかな受容の橇に乗つた。彼は女に導かれるときに、こんなにも難路が消えて、なごやかな風光がひろがるのをはじめて覺つた。暑さのあまり、清顯はすでに着てゐるものを脱ぎ捨ててゐた。そこで肉のたしかさは、水と藻の抵抗を押して進む藻刈舟の舟足のやうに、的確に感じられた。清顯は、聰子の顔が何の苦痛も泛べず、微光のさすやうな、あるかなきかの頬笑みを示してゐるのをさへ訝らなかつた。彼の心にはあらゆる疑惑が消えた。
( ……)

聰子が言つた最初の言葉は、清顯のシャツをとりあげて、
「お風邪を召すといけないわ。さあ」
と促した言葉だつた。彼がそれを亂暴につかまうとすると、聰子は輕く拒んで、シャツを自分の顔に押し當て、深い息をしてから返した。そのとき聰子が手を鳴らすのにおどろかされた。思はせぶりな永い間を置いて、源氏襖をひらいて、蓼科が顔を出した。
「お召しでございますか」
聰子はうなづいて、身のまわりに亂れた帶のはうを目で指し示した。蓼科は、襖を閉めると、清顯のはうへは目もくれずに、無言で疊をゐざつて来て、聰子の着衣と帶を締めるのを手つだつた。それから部屋の一隅の姫鏡臺を持つてきて、聰子の髪を直した。この間、清顯は所在なさに死ぬやうな思ひがしてゐた。部屋にはすでにあかりが點ぜられ、女二人の儀式のやうなその永い時間に、彼はすでに無用の人になつてゐた。(三島由紀夫「春の雪」『豊饒の海』第一巻)






………………


女が欲することは、神も欲する。Ce que femme veut, Dieu le veut(ミュッセ、Le Fils du Titien, 1838)
問題となっている「女というもの」は、「神の別の名」である。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
「大他者の大他者はある」という人間にとってのすべての必要性。人はそれを一般的に神と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、神とは単に「女というもの」だということである。La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». (ラカン、S23、16 Mars 1976)


モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン, S7, 16 Décembre 1959)
モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)
享楽の対象Objet de jouissance …フロイトのモノ La Chose(das Ding)…それは、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求Bedürfnissesのあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給Besetzung(リビドー )を受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzung(リビドー )は絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)



モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09  Décembre  1959)
ひとりの女は異者である。 une femme, […] c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)
異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)
女性器は不気味なものである。das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. 女性器は誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)
人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある。Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, […] eine solche Rückkehr in den Mutterleib. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)





なぜかシューベルトが20歳のときに書いた未完のD 571の「暗闇に蠢く幼虫」のような感覚まで想起したのだが、これはどういったわけだろうか?




暗闇に蔓延る異者 wuchert dann sozusagen im Dunkeln […] fremd (フロイト『抑圧』1915年)
暗闇に置き残された夢の臍 im Dunkel lassen[…]Nabel des Traums」(フロイト『夢解釈』第7章、1900年)
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)



2020年8月13日木曜日

遠くからやってくるもの


音が遠くからやってくればくるほど、音は近くからわたしに触れる。(グレン・グールド 孤独のアリア』)


◼️「Wie Aus Der Ferne 遠くからのように」




そのとき肩に手の置かれるのを感じた。技師は彼女の手から本を取り上げ、黙ったまま書棚にもどし、 彼女をソファペッドのほうへと導いた。

テレザにペトシーンでの執行人にいったことばがふたたび浮かんできた。彼女は今それを声に出していった。「でもこれは私の希望ではないんです!」

状況をあっという間に変える魔法の文句だと信じていたが、この部屋ではことばは魔力を失った。それどころか、彼女は男をよりしっかりと決意させたように思える。彼女を引き寄せ、手を乳房に置いた。

不思議なことに、その感触により急に彼女の恐怖感が失せた。技師の手が彼女の身体に触れた瞬間、彼女は彼女が(彼女の心が)問題なのではまったくなく、ただひたすら身体が問題であることを意識した。彼女を裏切り、世間の他の身体の中へと追い出した身体が。

技師はテレザのプラウスのボタンを一つはずすと、残りを自分ではずすように身ぶりで示した。しかし彼女はこの命令に応じなかった。 自分の身体を世間へと追い出したが、そのためのいかなる責任もとりたくなかった。抵抗もしなかったが、彼を助けもしなかった。心は今行われていることに同意しておらず、どっちつかずであると決めたことを、明らかにしようとしていた。

彼は彼女を脱がせたが、彼女のほうはほとんど不動であった。彼がキスをしたとき、彼女の唇は彼の唇の接触に応えなかった。しかし、そのあと急に自分のデルタがうるんでいるのを感じて、うろたえた。Puis elle s’apeçut soudain que son sexe était humide et elle en fut consternée.

自分の意志に逆らって興奮した。それだけより大きな興奮を感じていた。心はすでにおこったことすべてとひそかに同意していたが、その大きな興奮をさらに統けようとするならば、心の同意をロに出してはならないことを知っていた。もしその承諾を口に出していったなら、もし自由意志でラブシーンに加わろうと望むなら、興奮は静まるであろう。なぜなら心が高まっているのは、身体が意志に反して作用しているからで、身体は意志を裏切り、意志はその裏切りを見ているからなのである。

Elle sentait son excitation qui était  d’autant plus grande qu’elle était excitée contre son gré. Déjà, son âme consentait secrétement à tout ce qui était en train de se passer, mais elle savait aussi que pour prolonger cette grande excitation, son acquiescement devait rester tacite. Si elle avait dit oui à voix haute, si elle avait accepté de participer de plein gré à la scène d’amour, l’excitation serait retombée. Car ce qui excitait l’âme, c’était justement d’être trahie par le corps qui agissait contre sa volonté, et d’assister à cette trahison.

技師はテレザのパンティを引きずりおろし、彼女は生まれたままの姿になった。心が、見知らぬ男の腕に抱かれた裸の身体を見て、まるで近くから火星を見ているかのように、信じがたい思いがした。信じがたさという光の中で初めてテレザは自分の身体が陳腐さを失うのを見、初めてそれをうっとりと眺め、身体の前面に身体のあらゆる個性や、ユニークさや、模倣を許さぬ性格があらわれてきた。それは(これまで見てきたような)ごくありふれたものではなく、もっと特別なものであった。心はデルタの毛のすぐ上のところにある丸い、褐色の点、ほくろから目を離すことができなかった。テレザはこのほくろを彼女自身(心)が身体に印したものと見なしていたが、この聖なる刻印の冒滑的ともいえる近さで見知らぬ男の局部が今動きまわっていたのである。

そして、テレザが技師の顔を見たとき、テレザの心は自分のサインをした身体が、知りもしないし、知りたくもない誰かの腕の中で喜ぶのを許したことは一度もないということを意識した。彼女をぞくぞくするような憎悪感が満たした。その見知らぬ男の顔につばを吐きかけるために、ロにつばをためた。その男も彼女を、彼女が彼を観察していたのと同じ熱心さで見ていた。彼は彼女の怒りを認め、彼女の身体の上で動きを速めた。

テレザは遠くのほうから彼女に官能のうずきが迫ってくるのを感じて、「いや、いや、いや」と、叫び始めていた。彼女はやってきつつある享楽をこらえていたが、それをこらえることで、抑えられた享楽がながながと彼女の身体に広がっていった。というのもその官能は静脈に注射されたモルヒネのように彼女の中で広がり、どこへも逃れていくことができなかったからである。彼女は彼の腕の中でもがき、両手を振りまわし、彼の顔につばを吐きかけた。

Tereza, sentant de loin la volupté la gagner, se mit à crier : « Non, non, non », elle résistait à la jouissance qui approchait, et comme elle lui résistait, la jouissance réprimée irradiait longuement dans tout son corps n’ayant aucune issue par où s’échapper ; la volupté se propageait comme de la morphine injectée dans une veine. Elle se débattait dans les bras de l’homme, frappait en aveugle et lui crachait au visage. (クンデラ『存在の耐えられない軽さ』1984年)







2020年7月30日木曜日

唯一の祈りの対象



ーーとってもいいスチール画像だな。映画の一場面なんだろうか、ちょっとわからない。



フロイトにとって、信じることのの最も大きな問題は、結局、父を信じること[la croyance au père]だ。(…)

ラカン は考えた、父を信じることを超えるのは完全に可能だと。では問いが生じる。男にとってどうやって可能となるのだろう。男はまったく簡単に女というものを信じる[la croyance à La femme]ようになるが、それをなしで済ますには。そして女にとってどうやって可能になるのだろう。彼女について語るパートナーを被愛妄想的に信じること[la  croyance érotomaniaque en un partenaire qui parlerait d'elle]から自由になるには。(エリック・ロラン Éric Laurent 、Conversation des AE du 21 mars 2012 à Paris, « Savoir y faire avec son symptôme »)


エリック・ロランは、フロイト大義派(ミレール 派)のナンバーツーだが、女というものを信じちゃダメなのかな、ボクは完全に信仰してるけど。


問題となっている「女というもの」は、「神の別の名」である。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

ムリなこと言われてもな、女なる神への信仰はやむことはないよ

女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。[La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme](Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme, 1975)
女というものは存在しない。しかし存在しないからこそ、人は女というものを夢見るのです。女というものは表象の水準では見いだせないからこそ、我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を撮って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。[La femme n'existe pas, mais c'est de ça qu'on rêve. C'est précisément parce qu'elle est introuvable au niveau du signifiant qu'on ne cesse pas d'en fomenter le fantasme, de la peindre, d'en faire l'éloge, de la multiplier par la photographie, qu'on ne cesse pas d'appréhender l'essence d'un être dont,](J-A. MILLER, エル・ピロポ El Piropo , 1979年)

問題は女性のほうの信仰だよ、《彼女について語るパートナーを被愛妄想的に信じること[la  croyance érotomaniaque en un partenaire qui parlerait d'elle]》なんてのからは、絶対逃れなくちゃな。男と同様、女なる神のみを信仰しといたらいいのさ。

ラカン だってこう言っている。

定義上、異性愛とは、おのれの性が何であろうと、女たちを愛することである。それは最も明瞭なことである。Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair. (ラカン、L'étourdit, AE.467, le 14 juillet 72)

もっとも「女というもの La femme」じゃなくて「女たち les femmes」になっているから、《女というものは存在しない。だが女たちはいる》ーーの女たちだ。

ひとりの女が複数いる、ようはひとりの女の複数をみんな愛すべきだね、男も女も。異性愛とは異者愛さ。これは誰もそう言っているのに出会ったことはないけど、論理的必然だよ。

ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une bizarrerie, c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)
異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

不気味なものが「真に存在する」神でないわけないさ

女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なもの Unheimliche とはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)

これは別名「穴」と呼ばれる。女の穴。ーー《女は何も欠けていない La femme ne manque de rien》(ラカン, S10, 13 Mars 1963)。

不気味なもの Unheimlich とは、…私が(-φ)を置いた場に現れる。(-φ)とは、想像的去勢castration imaginaire を思い起こさせるが、それは欠如のイマージュ image du manqueではない。…私は(-φ)を、欠如が欠如している manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン、S10「不安」、28 Novembre 1962)
欠如の欠如が現実界を為す Le manque du manque fait le réel(AE573、1976)
現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)

ラカンは別に「享楽の穴」とも呼んだが、フロイトの「愛の引力」のことだ。アソコは、人の子の故郷なんだから、ブラックホールの力があるに決まっている。

あの穴にどうして祈りを捧げずにいられるわけがあろう?

ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である。ce réel de Lacan […], c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.  (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)
人はみなトラウマ化されている。…この意味は、すべての人にとって穴があるということである[tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )


ボクはフォーレの遺作op.121のアンダンテの次の箇所を聴くと、必ず女の穴への祈りの体制に入るんだが、きっとフォーレ自身も死をひかえて祈りつつ作曲したんじゃないかな、穴に吸い込まれていく感じがするよ。今のところ葬儀用音楽にきめてんだけど。






2020年7月25日土曜日

若いカルテットのメンバーたち





シューマンカルテットは三人兄弟にひとりの女性という組み合わせだが、このハイドンは実にすばらしい、こんなに生き生きとしてハイドンは聴いたことがない。彼らの別の演奏を聴いたもどうということはないのだが。

若いカルテットが好きだ。むかしはオッサン、というか爺さんたちのカルテットばかりをきいてその重苦しさにいささか辟易気味になったせいもあるが。女性がひとり混じっていたらさらにいい。




ーーこの記事は、この映像に行き当たったので記しているのだが、4人の集まりが続くのは我慢が必要だ、2人の結婚だって難しいのに4人だったらずっと難しいよ、と言っている第一ヴァイオリンのピエール・コロンベの言葉は重いね。

エベーヌカルテット Quatuor Ebène は、15年来のメンバー、ビオラのマチュー・ヘルツォク Mathieu Herzog が2014年にグループから離れた(彼は現在指揮者をやっているが、たぶん苦闘中。みずからアンサンブルを結成しているのだが、ときに昔の仲間、第二ヴァイオリンのガブリエルをコンサートマスターに呼んだりしている)。

Mathieu Herzog の後釜は、約3年のあいだ Adrien Boisseau だった(彼は今ソロ奏者をやっていて内田光子との共演もある)。そして2017年から上の映像のなかの女性マリー・シレム Marie Chilemmeである。

最近のフォーレop121三楽章とマチュー・ヘルツォク時代の同じ三楽章を貼り付けておこう(op121は偏愛の曲でとくに二楽章のアンダンテが格別なのだが、ここでは三楽章のアレグロ)。



第一ヴァイオリンのピエール・コロンベ Pierre Colombetはもとからとってもうまいんだが、この演奏では第二ヴァイオリンのガブリエル・ル・マガデュール Gabriel Le Magadureの歌にとても惹かれる。3分12秒あたりからビオラのマリー・シレムの音がよく聞こえてくるのも、こんな風にきこえてきたことはなかったのでとても印象的。チェロのラファエル・メルラン Raphaël Merlinだって控えめながらとってもいい。ときにもう少しツヤのある音を出してほしいと思わないことはないがそれは贅沢というものだろう。





これは上のコンサート録音とは違いスタジオ録音で、そうであってもとても情動的演奏で、ああ若いカルテットはとってもいいなと感じ、エベーヌに真に惹かれた最初のものなのだが、今は2018年のほうを取る。




2020年7月15日水曜日

BWV230を歌う美女たち





BWV230は、このリムーザンの乙女たちの歌う姿をみて、とりわけ惹かれるようになった。バッハのモテットのなかでは最も親しみやすい曲のひとつだろう、ソウルのカトリック合唱団の育ちのよさそうな若者たちも歌っている。





巧拙については何もいうまい。女性たちは次のような形でそれぞれじっくりみたくなるいきのいい女揃いである。




서울가톨릭싱어즈 で、アップの画像を探してしまった。



この程度の距離ならいいが、あまりアップでみないほうがいいようだ。



京大の合奏団の方々のBWV230映像もあるが、こっちのほうは「遠近関係なしに」とくに感想はない・・・






2020年6月2日火曜日

どうしてこんなにヘンなんだろ




ボクどうしてこんなにヘンなんだろ
中学生に入ってからはとくにそう思ったけど
実際は小学5年ぐらいからいくらかそうだったな






ボクは当時トッテモカワイカッタので、大学教師の娘だった教養ある十兵衛に「憎さ余って可愛さ百倍」って言われちゃったよ。で、彼女を含めた「3人娘」と言われた大柄の太もも美少女たちと毎日さ。彼女たちもボクがヤスンダラ、物足りなかったんじゃないだろうか・・・気をつかったよ、ひとりだけに集中しちゃダメだと。

それでっとーー、
もう言いたくないね、この先は


とってもいいなあ、モジリアーニ




ヘ短調のフーガみたいだな、この女。BWV857

絵をみて匂いがしてくるのはモジリアーニだけだよ



因果ですね、と抱かれた後で女がつぶやいたのもあの晩のことになる。それまでに幾夜かさねてもほぐれず、その晩もかわらず硬かった女のからだが、遠くから風の渡ってくる音にすくんだのを境に、ひと息ごとにほどけて、男の動きにこたえてどこまでも受けいれるようになり、人の耳をおそれて音をひそめあうような、長いまじわりとなり、ようやくはてて、なごりの息のおさまっていく下から女が何を言い出すことかと、男がこんな始末になったことにあきれて待つうちに、その言葉が女の口から出た。

前世で寝たことがあるんですよ、今夜初めて知りました、とその面相のまま言った。(古井由吉『蜩の声』除夜)



2020年5月15日金曜日

原母について

さて前投稿をしたところで、在庫のなかから補足となる引用記事を掲げておきます。以後、たぶんーーすこし考えたいことがあるのでーーしばらくお休みさせていただきます。

………


世界は女たちのものである。
つまり死に属している。
人はみな女の掌の上にいる。

Le monde appartient aux femmes.
  C'est-à-dire à la mort.
  Là-dessus, tout le monde ment.

ーーPhilippe Sollers, Femmes, 1983



原母 Urmutter について
フロイトの新たな洞察を要約する鍵となる三つの概念、「原抑圧 Urverdrängung」「原幻想 Urphantasien(原光景 Urszene)」「原父 Urvater」がある。

だがこの系列(セリー)は不完全であり、その遺漏は彼に袋小路をもたらした。この系列は、二つの用語を補うことにより完成する。「原去勢 Urkastration」と「原母 Urmutter」である。

フロイトは最後の諸論文にて、躊躇しつつこの歩みを進めた。「原母」は『モーセと一神教  』(1938)にて暗示的な形式化がなされている。「原去勢」は、『防衛過程における自我分裂 Die Ichspaltung im Abwehrvorgang』 (1938)にて、形式化の瀬戸際に至っている。「原女主人 Urherrin」としての死が、最後の仕上げを妨げた。(ポール・バーハウPaul Verhaeghe, Does the Woman exist?, 1997)



女の原型は原母である
構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者との同一化がある。それは起源としての原母 [primal mother] であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。したがって原母は純粋享楽の本源的状態[original state of pure jouissance]を再創造しようとする。

この理由で、セクシュアリティは、つねに魅惑と戦慄 [fascinans et tremendum]、つまりエロスとタナトスの混淆(融合と分離の混淆ーー欲動混淆Triebentmischung)なのである。これが明らかにすることは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も自らが恐れるものを憧憬する。つまり享楽の原状態 [original condition of jouissance ]の回帰憧憬である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL、1995年)


原母の穴
メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)
〈母〉、その基底にあるのは、「原リアルの名」である。それは、「母の欲望」であり、「原穴の名  」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou(コレット・ソレール、Colette Soler, Humanisation ? , 2014)




モノという原母
享楽の対象は何か? [Objet de jouissance de qui ? ]…

大他者の享楽? 確かに!  [« jouissance de l'Autre » ? Certes !   ]

…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカンS7, 16 Décembre 1959)
モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)


原母の享楽は不可能である
大他者の享楽は不可能である jouissance de l'Autre […] c'est impossible。大他者の享楽はフロイトのエロスのことであり、一つになるという(プラトンの)神話である。だがどうあっても、二つの身体が一つになりえない。…ひとつになることがあるとしたら、…死に属するものの意味 le sens de ce qui relève de la mort.  に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974、摘要)
大他者の享楽[la Jouissance de l'Autre]……それはフロイトの融合としてのエロス、一つになるものとしてのエロスである[la notion que Freud a de l'Éros comme d'une fusion, comme d'une union]。(Lacan, S22, 11 Février 1975)
JȺ(斜線を引かれた大他者の享楽)⋯⋯これは大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autreのことである。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [穴Ⱥ] の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)


原母への回帰は死である
享楽自体は、生きている主体には不可能である。というのは、享楽は主体自身の死を意味する it implies its own death から。残された唯一の可能性は、遠回りの道をとることである。すなわち、目的地への到着を可能な限り延期するために反復することである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。…(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。⋯⋯⋯我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)





人はみな原母回帰の憧憬がある
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
我々の原カオス回帰への希望と欲望は、蛾が光に駆り立てられるのと同様である。…人は自己破壊憧憬をもっており、これこそ我々の本源的憧憬である。la speranza e 'l desiderio del ripatriarsi o ritornare nel primo chaos, fa a similitudine della farfalla a lume[…] desidera la sua disfazione; ma questo desiderio ène in quella quintessenza spirito degli elementi, (『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』)




※参照:モノ簡潔版