– Ich sage noch ein Wort für die ausgesuchtesten Ohren: was ich eigentlich von der Musik will. Daß sie heiter und tief ist, wie ein Nachmittag im Oktober. Daß sie eigen, ausgelassen, zärtlich, ein kleines süßes Weib von Niedertracht und Anmut ist... (ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私はこんなに賢いのか」第7節、1888年)
◼️Joseph Haydn, Piano Sonata No. 19, D-major, Ivo Pogorelich
第一ヴァイオリンのピエール・コロンベ Pierre Colombetはもとからとってもうまいんだが、この演奏では第二ヴァイオリンのガブリエル・ル・マガデュール Gabriel Le Magadureの歌にとても惹かれる。3分12秒あたりからビオラのマリー・シレムの音がよく聞こえてくるのも、こんな風にきこえてきたことはなかったのでとても印象的。チェロのラファエル・メルラン Raphaël Merlinだって控えめながらとってもいい。ときにもう少しツヤのある音を出してほしいと思わないことはないがそれは贅沢というものだろう。
大他者はない。…この斜線を引かれた大他者のS(Ⱥ)…il n'y a pas d'Autre[…]ce grand S de grand A comme barré [S(Ⱥ)]…
「大他者の大他者はある」という人間にとってのすべての必要性。人はそれを一般的に神と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、神とは単に「女というもの」だということである。La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». (ラカン、S23、16 Mars 1976)
享楽自体、穴Ⱥをを為すもの、取り去らねばならない過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。
そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。
フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.
神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」に至る。
こうして我々は、ラカンによるフランク・ヴェーデキント『春のめざめ』の短い序文のなかに、この概念化を見出すことができる。すなわち、父は、母なる神性・白い神性の諸名の一つに過ぎない noms de la déesse maternelle, la Déesse blanche、父は《母の享楽において大他者のままである l'Autre à jamais dans sa jouissance》と(AE563, 1974)。(Jacques-Alain Miller、Religion, Psychoanalysis、2003)
ラカンは言っている、最も根源的父の諸名 Les Noms du Père は、母なる神だと。母なる神は父の諸名に先立つ異教である。ユダヤ的父の諸名の異教は、母なる神の後釜に座った。おそらく最初期の父の諸名は、母の名である the earliest of the Names of the Father is the name of the Mother 。(ジャック=アラン・ミレール、The Non-existent Seminar 、1991)
神の死 La mort de Dieuは、父の名の支配として精神分析において設立されたものと同時代的である。そして父の名は、少なくとも最初の近似物として、「大他者は存在する」というシニフィアン[le signifiant que l'Autre existe]である。父の名の治世は、精神分析において、フロイトの治世に相当する。…ラカンはそれを信奉していない。ラカンは父の名を終焉させた。
したがって、斜線を引かれた大他者のシニフィアンS(Ⱥ)がある。そして父の名の複数化pluralisme des Nom-du-Père がある。名高い等置、「父の諸名 les Noms-du-Père」 と「騙されない者は彷徨うles Non-dupes-errent」である(同一の発音)…この表現は「大他者の不在 L'inexistence de l'Autre」に捧げられている。…これは「大他者は見せかけに過ぎないl'Autre n'est qu'un semblant」ということである。(J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique,Séminaire- 20/11/96)
The three brothers Mark, Erik and Ken Schumann, who grew up in the Rhineland, have been playing together for five years. In 2012, they were joined by violist Liisa Randalu, who was born in the Estonian capital, Tallinn, and grew up in Karlsruhe, Germany. (Schumann quartett biography)
音楽、それは身体と身体のぶつかりあいであり、孤独と孤独のぶつかりあいであり、交換すべきものがなにもないような場での交換である。ときにそれは愛だと思われもしよう。演奏する者の身体と聴く者の身体がすっかり肉を失い、たがいに遠く離れ、ほとんどふたつの石、ふたつの問い、ふたりの天使を思わせるものとなって、どこまでも悲しい狂おしさを抱いて顔を向き合わせたりしないならば。 (ミシェル・シュネデール、グレン・グールド Piano solo )