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2021年11月24日水曜日

キゾンバの女

 






なおひとこと、選り抜きの耳をもつ人々のために言っておこう、わたしが本来音楽に何を求めているかを。それは、音楽が十月のある日の午後のように晴れやかで深いことである。音楽が独特で、放恣で、情愛ふかく、愛想のよさと優雅さを兼ねそなえた小柄のかわいい女であることである。


– Ich sage noch ein Wort für die ausgesuchtesten Ohren: was ich eigentlich von der Musik will. Daß sie heiter und tief ist, wie ein Nachmittag im Oktober. Daß sie eigen, ausgelassen, zärtlich, ein kleines süßes Weib von Niedertracht und Anmut ist... (ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私はこんなに賢いのか」第7節、1888年)



◼️Joseph Haydn, Piano Sonata No. 19, D-major, Ivo Pogorelich


1st mvt 0:07 2nd mvt 9:55 3rd mvt 21:44



2020年7月25日土曜日

若いカルテットのメンバーたち





シューマンカルテットは三人兄弟にひとりの女性という組み合わせだが、このハイドンは実にすばらしい、こんなに生き生きとしてハイドンは聴いたことがない。彼らの別の演奏を聴いたもどうということはないのだが。

若いカルテットが好きだ。むかしはオッサン、というか爺さんたちのカルテットばかりをきいてその重苦しさにいささか辟易気味になったせいもあるが。女性がひとり混じっていたらさらにいい。




ーーこの記事は、この映像に行き当たったので記しているのだが、4人の集まりが続くのは我慢が必要だ、2人の結婚だって難しいのに4人だったらずっと難しいよ、と言っている第一ヴァイオリンのピエール・コロンベの言葉は重いね。

エベーヌカルテット Quatuor Ebène は、15年来のメンバー、ビオラのマチュー・ヘルツォク Mathieu Herzog が2014年にグループから離れた(彼は現在指揮者をやっているが、たぶん苦闘中。みずからアンサンブルを結成しているのだが、ときに昔の仲間、第二ヴァイオリンのガブリエルをコンサートマスターに呼んだりしている)。

Mathieu Herzog の後釜は、約3年のあいだ Adrien Boisseau だった(彼は今ソロ奏者をやっていて内田光子との共演もある)。そして2017年から上の映像のなかの女性マリー・シレム Marie Chilemmeである。

最近のフォーレop121三楽章とマチュー・ヘルツォク時代の同じ三楽章を貼り付けておこう(op121は偏愛の曲でとくに二楽章のアンダンテが格別なのだが、ここでは三楽章のアレグロ)。



第一ヴァイオリンのピエール・コロンベ Pierre Colombetはもとからとってもうまいんだが、この演奏では第二ヴァイオリンのガブリエル・ル・マガデュール Gabriel Le Magadureの歌にとても惹かれる。3分12秒あたりからビオラのマリー・シレムの音がよく聞こえてくるのも、こんな風にきこえてきたことはなかったのでとても印象的。チェロのラファエル・メルラン Raphaël Merlinだって控えめながらとってもいい。ときにもう少しツヤのある音を出してほしいと思わないことはないがそれは贅沢というものだろう。





これは上のコンサート録音とは違いスタジオ録音で、そうであってもとても情動的演奏で、ああ若いカルテットはとってもいいなと感じ、エベーヌに真に惹かれた最初のものなのだが、今は2018年のほうを取る。




2020年2月16日日曜日

女への祈り

前回の「祈りのために」の日本版です。最後にさるインドシナ国の「神さん」が出現しますが、これは至高のマザコンピアニスト、イーヴォ・ポゴレリチのハイドンの長さに合わせたたんなる付けたしです。とはいえ神への祈りの一環ではあります。






大他者はない。…この斜線を引かれた大他者のS(Ⱥ)…il n'y a pas d'Autre[…]ce grand S de grand A comme barré [S(Ⱥ)]…

「大他者の大他者はある」という人間にとってのすべての必要性。人はそれを一般的に神と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、神とは単に「女というもの」だということである。La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». (ラカン、S23、16 Mars 1976)




ああ、そこの「無知のパッション」に囚われている方には、もはやお返事はありません。






享楽自体、穴Ⱥをを為すもの、取り去らねばならない過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.

神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」に至る。

こうして我々は、ラカンによるフランク・ヴェーデキント『春のめざめ』の短い序文のなかに、この概念化を見出すことができる。すなわち、父は、母なる神性・白い神性の諸名の一つに過ぎない noms de la déesse maternelle, la Déesse blanche、父は《母の享楽において大他者のままである l'Autre à jamais dans sa jouissance》と(AE563, 1974)。(Jacques-Alain Miller、Religion, Psychoanalysis、2003)
ラカンは言っている、最も根源的父の諸名 Les Noms du Père は、母なる神だと。母なる神は父の諸名に先立つ異教である。ユダヤ的父の諸名の異教は、母なる神の後釜に座った。おそらく最初期の父の諸名は、母の名である the earliest of the Names of the Father is the name of the Mother 。(ジャック=アラン・ミレール、The Non-existent Seminar 、1991)
神の死 La mort de Dieuは、父の名の支配として精神分析において設立されたものと同時代的である。そして父の名は、少なくとも最初の近似物として、「大他者は存在する」というシニフィアン[le signifiant que l'Autre existe]である。父の名の治世は、精神分析において、フロイトの治世に相当する。…ラカンはそれを信奉していない。ラカンは父の名を終焉させた。

したがって、斜線を引かれた大他者のシニフィアンS(Ⱥ)がある。そして父の名の複数化pluralisme des Nom-du-Père がある。名高い等置、「父の諸名 les Noms-du-Père」 と「騙されない者は彷徨うles Non-dupes-errent」である(同一の発音)…この表現は「大他者の不在 L'inexistence de l'Autre」に捧げられている。…これは「大他者は見せかけに過ぎないl'Autre n'est qu'un semblant」ということである。(J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique,Séminaire- 20/11/96)







2019年9月28日土曜日

鎧戸から漏れ入る光



ーーArthur Ancelle (2018) Haydn Piano Sonata No. 30 in D major, Hob.XVI:19より

アーサー・アンセルは、あまり知られていないピアニストのようだけれど(ざっとみたかぎりだが、ウエブ上にはいくらかの情報があるだけ)、この比較的早い時期のハイドン(1767年)アンダンテの後半の上に切り取った冒頭箇所はとってもいいな。どういうわけか鎧戸から漏れ入る光を感じてしまった。


ポゴレリチの1991年のライブ版が落ちていたので(1992年のスタジオ録音版は名演としてよく知られている)、アンダンテの箇所だけ抜き取った。このライブ版自体いくらか省略がある。



ーーIvo Pogorelich Live at Carnegie Hall Year:1990 May 7より


ボクはポゴレリチのハイドンの大ファンで、全体をきけばポゴレリチのフレージングや切れ味のほうがいいにきまってるのだけれど、アーサー・アンセルだってすてたもんじゃない。




2016年2月28日日曜日

若いカルテット Schumann Quartett

◆Schumann Quartett - 2013 (Haydn Quartet in G Major, Op. 77, No. 1)




なぜか若いカルテットの演奏を聴くと、ときどきドキッとするのだが、いいなあ、この四人、このなんという軽やかさ!

The three brothers Mark, Erik and Ken Schumann, who grew up in the Rhineland, have been playing together for five years. In 2012, they were joined by violist Liisa Randalu, who was born in the Estonian capital, Tallinn, and grew up in Karlsruhe, Germany. (Schumann quartett biography)

ーーということらしい。次男の第一ヴァイオリンと三男のチェロがとくにうまい。

ほかのカルテットの演奏を聴いてみたけれどーー有名どころのーーこんな魅力的なのにはあたらない。この若いカルテットの11th Banff International String Quartet Competition での同じハイドンもある(冒頭にわずかな瑕瑾があるか。だがたちまち取り戻している)。

…………

わたくしのお気に入りの若いメンバーによる四重奏団ーー若いといっても彼らはすでに三十代半ばだが(第一ヴァイオリンのピエール・コロンベ (Pierre Colombet)は、1979年生まれ)ーーの紹介画像を掲げておこう。エベーヌ四重奏団、すなわち黒檀 EBENE カルテット。

◆Quatuor EBENE: Ravel, Debussy, Fauré -String Quartets



Ebene Quartet's Top Five String Quartet Piecesも、彼らが何を愛しているのかが、よく分かる映像だ。僅かの断片が流れるモーツァルトのK.421やベートーヴェンのOP.131の響きにわたくしは魅了される。

彼らが最も愛するのは、ベートーヴェンの14番なのだ、しばしば顕揚される15番OP.132ーーあのゴダールが「カルメンという名の女」で使った「感謝の歌」の楽章があるーーではない。実際、何度も聴くと、15番は飽きてくる。

とはいえ、美しい二人の女と、波の音・水鳥の鳴き声とともの、この場面、この楽章はすばらしい。





OP.130(13番のプレストもひどく好みの断章なのだけれど、若い演奏家たちのものがYOUTUBEにないかと探しても、残念ながら見当たらない。

かわりに次ぎのものを貼り付けておこう。知らないカルテットだが、映像はーーいやテンポもフレージングもーー、楽しめる(ブタペストカルテットを好むのだが(特にOP.131)、ブタペストのプレストはややかったるい)。





ああ、友と、愛する人と一緒に合奏できるのはなんと羨ましいことだろう。

音楽を聞くには隠れなければならないと思うことがある。音楽は手袋の内と外をひっくり返すようにわたしを裏返してしまう。音楽が触れ合いの言葉、共同体の言葉となる。そんな時代がかつてあったし、いまも人によってはそんな場合があるのはもちろん知っているが、わたしの場合は、ほかの人々と一緒に音楽は聞けない。誰かと一緒に音楽を演奏するとなれば話は別だ。室内楽ならば、あらゆる意味で相手に合わせなければならない。二重奏のソナタや三重奏なら一緒に演奏することができる。それだけの謙虚な気持ちと少しばかりの愛があれば十分だ。あるいは深い知識があって、憎しみがなければできる。

だが、なぜ一緒に聞くことができないのだろう。なぜ音楽は孤独で身動きできない状態にあるときのわたしたちをとらえるのか。一緒に聞けば、他人の目の前で、そして他人とともにいながら、自己をあくまでも自分ひとりきりのものでしかない状態に投げ出してしまうことになるからなのか。それぞれの人間によってたがいに異なるはずの遠くの離れたものを共有することになるからなのか。子供時代も死も共有できはしないからなのか。

音楽、それは身体と身体のぶつかりあいであり、孤独と孤独のぶつかりあいであり、交換すべきものがなにもないような場での交換である。ときにそれは愛だと思われもしよう。演奏する者の身体と聴く者の身体がすっかり肉を失い、たがいに遠く離れ、ほとんどふたつの石、ふたつの問い、ふたりの天使を思わせるものとなって、どこまでも悲しい狂おしさを抱いて顔を向き合わせたりしないならば。 (ミシェル・シュネデール、グレン・グールド Piano solo )

2015年8月19日水曜日

Beethoven Bagatelle Op.33 No.1

太くて短い、不器用な、動きのにぶい親指、強く器用な2の指、一番長いがゆえに受動的な3の指、日常生活ではあまり使わないが打つ力が以外に強く機敏な、歌うのに適した4の指、筋力はあるが、短くて小さいので打鍵力が弱い5の指(ヨゼフ・ガート)

ある本でーー旅行者が子どもたちのピアノの練習の参考に、といって数年前我が家に置いていった「ピアニストへの基礎」(田村安佐子)ーー上の文を見出したので、さてヨゼフ・ガートとはだれだったかと調べてみると、ハンガリーのピアノ教師らしい。

ネット上には「芸術的表現のための不変なるピアノ演奏テクニック探究 ~名教師ヨーゼフ・ガート教授が遺した偉大なる功績~」(2011)なる日本人による小論もある。

この論を眺めていると次ぎのような画像がある。




ははあ、オレの左手はショパンみたいな手だな・・・わたくしの左小指は机の上に手をポンとのせると、ショパンのように曲っているのだ、それに親指の関節の付け根の骨がひどく出ている。

冗談ぬきで、四十すこし前になるころに左手を熱心に矯正したことがある。薬指を中心にスタカートの練習やら重音のトリルやら。まったく上がらなかったーー小指、薬指、中指を三本、机の上につけて薬指だけ上げようとしても2、3ミリしか上がらなかったーーその指が、今では2センチぐらいは上がる。そのため掌や甲が痛くなったり、前膊から肘まで痺れるようになった時期がある。

とはいえそれでピアノを弾くのがたいして上達したわけではない。やはりピアノの技術も機械体操みたいなところがあり、躰がかたくなるまえにーー10歳前後までに--基本的なところをやっておかないとどうしようもないのだろう。

よく訓練されたピアニストの手というものがある。だいたい小指から眺めると次ぎのような形をしている。




小指がわに手の甲をわずかにひねった形とでもいうのだろうか。小指から掌の縁の線が独特の形をもっている、--はずだが、そうでないピアニストもいるのでこのあたりも一概にいえない。

ところで当地はかつてフランスの植民地だった国なので、ピアノの練習にLes classiques favoris du pianoという仏出版の書を使う。難易度ごとに五冊あるのだが、その三冊目、たぶん日本でいえば中級レヴェルということになるだろう、そこにベートーヴェンのバカテルOp. 33 No. 1があり、それを10歳になる次男が練習している。

これはわたくしもなんとか弾けないではないが、下手さが目立つ曲である。ようする音の粒が揃っていないと、スケールなどの速いパッセージがどうしようもなく醜く聞える。またスタカートの躍動感が手の力が抜けていないとぜんぜんダメだ。


◆Emil Gilels plays Beethoven Bagatelle in E flat Op. 33 No. 1




弾けるといってもギレルスのようなテンポではなく、次ぎのシュナーベルよりもやや遅めのテンポだが、そうであってもわたくしや息子が弾くとどうしようもなく「きたない」。


◆Artur Schnabel Beethoven Bagatelle Op.33 No.1




もうふたりの名手の演奏をきいてみよう、わたくしは十代のころ、グールドの演奏におどろいた口でありこの曲には馴染み深いが、こうやってほかの演奏家の演奏をきいてみるのは今回がほとんど初めてである。

◆Walter Gieseking plays Beethoven Bagatelle in E flat Op. 33 No. 1




◆G.Gould Beethoven - Bagatelle Op.33-1




最近の人はどうなのか、と探してみると、次ぎのものがある。

◆Beethoven, Seven bagatelles op. 33 — Sergey Kuznetsov




Sergey Kuznetsovは1978年ロシア生まれ。魅力的なハイドンの録音がある。

◆Haydn, piano sonata in E minor — Sergey Kuznetsov




ああ、ハイドンとはなんとすばらしいのだろう!

ハイドンをきくたびに思う、何とすてきな音楽だろう! と。

すっきりしていて、むだがない。どこをとってみても生き生きしている。言うことのすべてに、澄明な知性のうらづけが感じられ、しかもちっとも冷たいところがない。うそがない。誇張がない。それでいて、ユーモアがある。ユーモアがあるのは、この音楽が知的で、感情におぼれる危険に陥らずにいるからだが、それと同じくらい、心情のこまやかさがあるからでもある。

ここには、だから、ほほえみと笑いと、その両方がある。

そのかわり、感傷はない。べとついたり、しめっぽい述懐はない。自分の悲しみに自分から溺れていったり、その告白に深入りして、悲しみの穴を一層大きく深くするのを好むということがない。ということは、知性の強さと、感じる心の強さとのバランスがよくとれているので、理性を裏切らないことと、心に感じたものんを偽らないということとがひとつであって、二つにならないからにほかならないのだろう。(吉田秀和『私の好きな曲』ーー「ハイドン ピアノソナタ Hob. XVI:46」より

ベートーヴェンのBagatelle Op.33 は作曲時期は1801-1802年であり中期の作品となるのだろうが、初期ベートーヴェンの名残り、ハイドンの影響の澄明さがあるから好のむのかもしれない。

最近とみにハイドンに惹かれる。ところがピアニストたちはだいたいハイドンに冷たい、なんど残念なことだろう!

ソナタへ長調(第44番Hob.XVI:29 )。この曲をたった一度だけ弾いた場所がロンドンだった。優しいハイドン、あなたが大好きだ。でもほかのピアニストたちはどうだろう。みんなあなたに対しては冷たい。残念なことだ。(リヒテル)

◆Haydn - Piano sonata n°44 Hob.XVI:29 - Richter London 1961







2015年5月16日土曜日

ハイドン ピアノソナタ Hob. XVI:46

ハイドンのピアノソナタ第46番(第31番) 変イ長調 op.54-3(n°31 Hob.XVI:46)はひどく好みの曲なのだが、あまり多くの演奏家はやらないようで、YouTubeでざっと眺めても、名高い演奏家のものが上がっているのは、リヒテルとポゴレリチぐらいだ(名高いといっても、寡聞のわたくしにとって、という意味だが)。

今、Ivo Pogorelić, 1958年10月20日のカタカナ名は記そうとして、検索してみたら、《1958年10月20日生れ…。イーヴォ・ポゴレリチは、クロアチアのピアニスト。1980年、22歳のとき当時43歳の師の女流奏者アリザ・ケゼラーゼと結婚したり、弱音指定の箇所を強打するなど型破りなことでも知られる》などとある。

長いあいだ彼はロシアのピアニストだと勘違いしており、今ごろクロアチア生まれであることを知った。

ハイドンのピアノソナタ第46番は、7,8年前、路上で自転車の荷台に積まれたDVDの山からたまたま探り当てたーーわたくしの住んでいる国はCDやDVD販売が整備されておらず、多くの場合、海賊版をそのようにして日本円にして100円、200円の値段で購入するーーポゴレリチの演奏で初めてめぐり合ってひどく魅せられた。





彼は1983年、日本でもこの曲をやっているようで、その演奏録音に昨晩めぐりあった。





ーーやや神経質になっているところがあるようにも思えるが、耳に新しいせいか、この演奏のほうがいまは魅力的にきこえてくる。

いずれにせよ一楽章はポゴレリチがお気に入りだ。ただしニ楽章のアダージョはリヒテルがいいと感じていた。だが、昨晩たまたま探ってみたのだが、これも名を知らなかったエルンスト・レヴィErnst Levyという音楽学者の1956年の録音のアダージョに魅せられた。

ここでは、別にAriel Lanyiというまだ若いピアニストのHaydn Piano Sonata in A-flat major Hob. XVI:46全曲演奏を貼り付けておく。





ハイドンのソナタはモーツァルトやベートーヴェンに比べて退屈だというのが定評だがーーモーツァルトの半音階的な要素もすくなく、ベートーヴェンのダイナミクスもないーー、わたくしはこのハイドンのソナタよりも好みのものとして、モーツァルトやベートーヴェンのソナタからどれかを選べるだろうか。

ハイドンをきくたびに思う。何とすてきな音楽だろう! と。

すっきりしていて、むだがない。どこをとってみても生き生きしている。言うことのすべてに、澄明な知性のうらづけが感じられ、しかもちっとも冷たいところがない。うそがない。誇張がない。それでいて、ユーモアがある。ユーモアがあるのは、この音楽が知的で、感情におぼれる危険に陥らずにいるからだが、それと同じくらい、心情のこまやかさがあるからでもある。

ここには、だから、ほほえみと笑いと、その両方がある。

そのかわり、感傷はない。べとついたり、しめっぽい述懐はない。自分の悲しみに自分から溺れていったり、その告白に深入りして、悲しみの穴を一層大きく深くするのを好むということがない。ということは、知性の強さと、感じる心の強さとのバランスがよくとれているので、理性を裏切らないことと、心に感じたものんを偽らないということとがひとつであって、二つにならないからにほかならないのだろう。(吉田秀和『私の好きな曲』「《弦楽四重奏曲作品64の5 (ひばり)》)

ここで吉田秀和は誰と対照させて語っているのかは、いうまでもない。

彼は、声をあげて泣いていた。その泣き声は泣いている間も、ずっと彼の耳から離れない。彼が誇張したとはいわないが、その泣き声が、どんな影響をきく人に与えるかを、彼はよく知っていた。

ーーという偉大な作曲家である。とはいえ、ベートーヴェンも晩年、とくにその小品には次のような曲がある。それは初期のーー本来の?--ベートーヴェンが生き返ったような作品である。





四分の三の力―― ひとつの作品を健康なものらしく見せようというなら、それは作者のせいぜい四分の三の力で産み出されていなくてはならぬ。

これに反して、作者がその極限のところまで行っていると、その作品は見る者を興奮させ、その緊張によって彼を不安におとしいれる。

あらゆるよいものは、いくぶん呑気なところがあって、牝牛のように牧場にねそべっている(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的』下Ⅰ 107番)

※高橋悠治が最近のコンサートでーーテーマは、簡潔な線 透明な響き Gesualdo Bach Haydn Wolff 見えないフクシマのための沈黙の音ーーハイドンの《ソナタ》 ハ長調 Hob.XVI/50, L.60をやっているようだ。このソナタは、わたくしにはリヒテルもブレンデルの演奏もいけない。ぜひ高橋悠治の演奏で聴いてみたいものだ。

※追記:吉川隆弘によるSonata in G minor Hob. XVI 44