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2020年2月16日日曜日

祈りのために

ラカンのシニフィアンのオベンキョウをするには、S(Ⱥ)が最も肝腎である。S(Ⱥ)とは一神教的父なる神はインチキだというマテームであると同時に、神とは実際は母なる女だというマテームである。別名、穴Ⱥのシニフィアン。


S(Ⱥ):穴のシニフィアン(穴の境界表象)
大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ)》(ラカン、 S24, 08 Mars 1977)
不気味なもの Unheimlich とは、…私が(-φ)[去勢]を置いた場に現れる。…それは欠如のイマージュimage du manqueではない。…私は(-φ)を、欠如が欠けている manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン, S10, 28 Novembre 1962)
欠如の欠如が現実界を為す Le manque du manque fait le réel(AE573、1976)
現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)
女は何も欠けていない La femme ne manque de rien(ラカン, S10, 13 Mars 1963)
女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)



蚊居肢子はS(Ⱥ)を把握するのに正直2年以上かかったが、女性の方なら鏡と睨めっこしたりイクラカ使イ込ンダリスレバ、2ヵ月ぐらいでいけるはずである・・・





この写真は蚊居肢子のお気に入りである、実に穴の境界表象、現実界に対する最後の防衛という感を抱くーー「美は現実界に対する最後の防衛」(ミレール、2014)。

女性の方々、お気をつけを! 防衛しすぎても美は消え去りますが、何も防衛しなかったらもっとイケマセン


メドゥーサの首は女性器の描写を代替している、…ラブレーにおいても、女にヴァギナギを見せつけられた悪魔は退散している。(フロイト『メドゥーサの首』)


さらに言えば、大半の女性の方々が既に少女時代からミニスカ着用などでご存知のように、最も重要なのは出現消滅の演出です。


身体の中で最もエロティック érotique なのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯 zones érogènes》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇intermittenceである。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちらりと見える肌 la peau qui scintille の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えること自体 scintillement même qui sédui である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出 la mise en scène d'une apparition-disparition である。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)






ーーいくらか詳しく言えば、S(Ⱥ)とは上のすべての項目と等置できるシニフィアンであるが、これはラカン派プロパにまかしておけばヨロシイ。

肝腎なのは以下のことである。


あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ)の効果…an effect of S(Ⱥ) as a sucking vagina dentata, eventually as an astronomical black hole absorbing all energy; (ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?、1999)
ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現、女のヴェールが落ちて、ブラックホールtrou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。(Lacan, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir, Écrits 750、1958)
(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)



蚊居肢子はもはやS(Ⱥ)に祈りを捧げる段階に入っている。それはマン・レイがシュルレアリスト運動の雑誌に掲げた傑作の如くである。





ここにはブルトンがジャコメッティと喧嘩別れした後も終生書斎の中央に飾っていたあの「宙吊りになった玉 Boule suspendue」の相似形がある。






男前のブルトンは「宙吊りになった玉」とニラメッコして何を考えていたのか。それは彼の愛人のタイプの変遷をじっくり研究すれば、きっとオワカリニナルコトデセウ








〈母〉、その基底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール Colette Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)
母は巨大な鰐 Un grand crocodile のようなものだ、母なる鰐の口 boucheのあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざすle refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である。(ラカン、S17, 11 Mars 1970)
ラカンの母は、《quaerens quem devoret》(『聖ペテロの手紙』)という形式に相当する。すなわち母は「貪り喰うために誰かを探し回っている」。ゆえにラカンは母を、鰐・口を開いた主体 le crocodile, le sujet à la gueule ouverteとして提示した。(J.A. Miller, LA LOGIQUE DE LA CURE DU PETIT HANS SELON LACAN, 2008)







ジャコメッティの「宙吊りになった玉 Boule suspendue」、…女の溝 creux fémininで刻まれたこの木製の玉は、クロワッサンの上にヴァイオリオンの細い弦で宙吊りになっている。三日月型の縁は空洞 cavité に触れかかっている。見る者は、本能的に強制されて隆起物の上の玉を滑らせる。しかし弦の長さは二物の間の接触を部分的にしか許さない。(サルバドール・ダリ Salvador Dalí, « Objets surréalistes », Le Surréalisme au service de la révolution, 1931)




ジャコメッティは祈りの作家である。


娼婦とは最もまっとうな女たちだ。彼女たちはすぐに勘定を差し出す。他の女たちはしがみつき、けっして君を手放そうとしない。人がインポテンツの問題を抱えて生きているとき、娼婦は理想的である。君は支払ったらいいだけだ。巧くいかないか否かは重要でない。彼女は気にしない。(ジャコメッティーーJames Lord、Giacometti portraitより)

男児は、性行為の醜い規範から両親を例外として要求する疑いを抱き続けることができなくなったとき、彼は皮肉な正しさで、母親と売春婦の違いはそれほど大きくなく、基本的には母親がそうなのだと自分に言い聞かせるようになる。……娼婦愛…娼婦のような女を愛する条件はマザーコンプレクスに由来するのである。

Er vergißt es der Mutter nicht und betrachtet es im Lichte einer Untreue, daß sie die Gunst des sexuellen Verkehres nicht ihm, sondern dem Vater geschenkt hat. (…) 

Dirnenliebe…die Bedingung (Liebesbedingung) der Dirnenhaftigkeit der Geliebten sich direkt aus dem Mutterkomplex ableitet. (フロイト『男性における対象選択のある特殊な型について』1910年、摘要)



彼はあまりにも明らかに至高のマザコンである。



ーーアルベルト! あんたアネットほっぽりだして娼婦に入れ込んでるらしいけど、どうなってるの?

ーーでも日本の矢内原という哲学者がアネットの相手してくれるんで・・・


(ある種の男は)愛するとき欲望しない。欲望するとき愛しえない。Wo sie lieben, begehren sie nicht, und wo sie begehren, können sie nicht lieben.(フロイト『性愛生活が誰からも貶められることについて』1912)
(場合によっては)誰にも属していない女は黙殺されたり、拒絶されさえする。他の男と関係がありさえすれば、即座に情熱の対象となる。Weib zuerst übersehen oder selbst verschmäht werden kann, solange es niemandem angehört, während es sofort Gegenstand der Verliebtheit wird, sobald es in eine der genannten Beziehungen zu einem anderen Manne tritt.(『男性における対象選択のある特殊な型について 』1910)
もしわれわれが心的インポテンツpsychischen Impotenz概念の拡大ではなく、症候学に注意を払うなら、現在の文明化された世界の男たちの愛の習性Liebesverhalten des Mannesは、全体的にみて心的インポテンツの刻印が負わされている。教育ある人々のあいだでは、情愛と官能 die zärtliche und die sinnliche Strömung の流れが合流しているケースはごくわずかである。

男はほとんど常に、女性への敬愛Respekt vor dem Weibeを通しての性行動sexuellen Betätigung に制限を受けていると感じる。そして貶められた性的対象erniedrigtes Sexualobjekt に対してのみ十全なポテンツを発揮する。(フロイト『性愛生活が誰からも貶められることについて』1912)
こう言うと奇妙にきこえるかもしれないが、性欲動の本性そのもののなかに、その完全な満足達成を阻もうとするような何かがふくまれている、と私は考えている。Ich glaube, man müßte sich, so befremdend es auch klingt, mit der Möglichkeit beschäftigen, daß etwas in der Natur des Sexualtriebes selbst dem Zustandekommen der vollen Befriedigung nicht günstig ist. (フロイト『性愛生活が誰からも貶められることについて』1912)








ジャコメッティは若き時代、毎夜眠りにつく前に、自分が二人の男を殺し、二人の女をレイプして殺害することを想像した。(James Lord、Giacometti portraitより)






シツレイしました、ジャコメッティファンの皆さん。でも真の愛はこういった妄想に至るものです。あなたがたはアルベルトの男性の彫像と女性の彫像からはまったく異なる印象を受けたことはありませんか?








私はジャコメッティの彫刻を愛している J'aime la sculpture de Giacometti…これらは真のフェティッシュ vrais fétichesである。つまりわれわれに似た、われわれの欲望の具象化された形態 forme objectivée de notre désir である。

…私に期待しないでほしい、この作品を疑問の余地なく彫刻と呼ぶことを。私は「さまよい DIVAGUERU」と呼ぶことを好む。なぜなら、これらの美しいオブジェクトを私は見つめて触ることができるから。そして私のなかにある多くの記憶の発酵 fermentationを揺り動かすのだ。…(ミシェル・レリス Michel Leiris, « Alberto Giacometti », ドキュマンDocuments, n°4, sept. 1929)


最初のフェティッシュの発生 Auftreten des Fetischの記憶の背後に、埋没し忘却された性発達の一時期が存在している。フェティッシュは、隠蔽記憶 Deckerinnerung のように、この時期の記憶を代表象し、したがってフェティッシュとは、この記憶の残滓と沈殿物 Rest und Niederschlag である。(フロイト『性欲論』1905、1920年注)



と引用したらムチの皆さんのためにこうも貼り付けておくべきでしょうか。


現実界の窓としての隠蔽記憶=フェティッシュ  
隠蔽記憶(スクリーンメモリー souvenir-écran、Deckerinnerung )はたんに静止画像(スナップショット instantané)ではない。記憶の流れ(歴史 histoire)の中断 interruption である。記憶の流れが凍りつき fige 留まる arrête 瞬間、同時にヴェールの彼岸 au-delà du voile にあるものを追跡する動きを示している。(ラカン、S4 30 Janvier 1957 )
スクリーンはたんに現実界を隠蔽するものではない L'écran n'est pas seulement ce qui cache le réel。スクリーンはたしかに現実界を隠蔽している ce qui cache le réel が、同時に現実界の徴でもある(示している indique)。…我々は隠蔽記憶(スクリーンメモリー souvenir écran)を扱っているだけではなく、幻想 fantasme と呼ばれる何ものかを扱っている。そしてフロイトが表象représentationと呼んだものではなく、フロイトの表象代理 représentant de la représentation を扱わねばならないのである。(ラカン、S13、18 Mai 1966 )
幻想は現実界のスクリーン(覆い)だけではない。同時に現実界の窓(現実界に開かれた窓)である。幻想には二つの価値がある。スクリーンと窓である。le fantasme n'est pas seulement écran, écran du réel. Il est en même temps fenêtre sur le réel. Et il y a là deux valeurs du fantasme […] entre l'écran et la fenêtre.(J.-A. MILLER, - 2/2/2011 )
フェティッシュ自体の対象の相が、「欲望の原因 cause du désir」として現れる。…
フェティッシュとは、ーー靴でも胸でも、あるいはフェティッシュとして化身したあらゆる何ものかはーー、欲望されるdésiré 対象ではない。…そうではなくフェティッシュは「欲望を引き起こす le fétiche cause le désir」対象である。…

フェティシストはみな知っている。フェティッシュは、「欲望が自らを支えるための条件 la condition dont se soutient le désir」だということを。(ラカン、S10、16 janvier 1963)


現実界の窓とはもちろん究極的にはアレの窓です、ミレール は「ありうる」なんて遠慮して言っていますが、ーー《穴としての対象a は、枠・窓と等価でありうる En tant que trou, l'objet a peut être équivalent au cadre, à la fenêtre。》(J.-A.Miller, L’image reine , 2016)。こういった場合、女流分析家のほうが信頼できます。上に引用したコレット・ソレールのようにズバリと母=原穴の名、つまりブラックホールの名と言わねばなりません。





ジャコメッティは、まさに最後まで『ドキュマン』の記事を保持していた。それは、バタイユが1929年から1930年に出版したもので、ジャコメッティの作品に捧げられた最初の記事(ミシェル・レリスによる)が含まれている。(Christian Klemm, Alberto Giacometti, MOMA出版、2001)
われわれ人間存在の基盤 base de notre existence humaineにあるフェティシズム fétichisme は、偽装されていない形態 forme non déguiséeとしての条件をめったに見出せない。…われわれは「変質されたフェティシズム fétichisme transposé」へのしがみつきに至っている。それは、われわれの最も深い動因にたいする貧しい見せかけsemblantに過ぎず、この「粗悪なフェティシズムmauvais fétichisme」は、われわれの活動の大いなる部分を占めている。実質的に「真のフェティシズム fétichisme véritable」にとっての余地はないのだ。…

芸術作品の領野において、われわれはこの「真のフェティシズムvrai fétichisme」の要求に相応しいどんなオブジェクト(絵画あるいは彫刻)もほとんど見出せない。「真のフェティシズム」とは、われわれ自身の愛(真に愛するもの réellement amoureux)、自己の内部から外部へと投射されたもの projeté du dedans au dehors だ。(ミシェル・レリス Michel Leiris, « Alberto Giacometti », ドキュマンDocuments, n°4, sept. 1929)


ジャコメッティに真の愛を捧げるのなら、人はミシェル・レリスとともに歩まなければなりません。ラカンのフェティッシュ論なんてのは、レリスのパクリです。


Jean-Paul Sartre, Albert Camus, Michel Leiris e Jean Aubier (sitting) and Jacques Lacan, Cécile Eluard, Pierre Reverdy, Louise Leiris, Pablo Picasso, Zanie de Campan, Valentine Hugo, Simone de Beauvoir and Bassaï (the photographer itself); 1944;

サルトルなんてのもぜんぜんダメです。『言葉』でジャコメッティの自動車事故について(実存主義にかこつけて)おばかなことを書き、それ以後、ジャコメッティはサルトルと絶交しました。

ま、でもここでふたたびラカンに登場願っておきましょう、哲学よりは精神分析のほうがずっとましです。

私はどの哲学者にも喧嘩を売っている。…言わせてもらえば、今日、どの哲学も我々に出会えない。哲学の哀れな流産 misérables avortons de philosophie! 我々は前世紀(19世紀)の初めからあの哲学の襤褸切れの習慣 habits qui se morcellent を引き摺っているのだ。あれら哲学とは、唯一の問いに遭遇しないようにその周りを浮かれ踊る方法 façon de batifoler 以外の何ものでもない。…唯一の問い、それはフロイトによって名付けられた死の本能 instinct de mort 、享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance である。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し視線を逸らしている。Toute la parole philosophique foire et se dérobe.(ラカン、S13、June 8, 1966)



とはいえ文とは本来こう書かねばなりません。

彼はほほえむ。すると、彼の顔の皺くちゃの皮膚の全体が笑い始める。妙な具合に。もちろん眼が笑うのだが、額も笑うのである(彼の容姿の全体が、彼のアトリエの灰色をしている)。おそらく共感によってだろう、彼は埃の色になったのだ。彼の歯が笑う――並びの悪い、これもやはり灰色の歯――その間を、風が通り抜ける。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』)







肝腎なのは風です。風が通り抜けることです。

彼らが私の注意をひきつけようとする美をまえにして私はひややかであり、とらえどころのないレミニサンス réminiscences confuses にふけっていた戸口を吹きぬけるすきま風の匂を陶酔するように嗅いで立ちどまったりした。「あなたはすきま風がお好きなようですね」と彼らは私にいった。(プルースト「ソドムとゴモラ」)
私は問題となっている現実界 le Réel en questionは、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値 valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme を持っていると考えている。これは触知可能である人がレミニサンスと呼ぶもの qu'on appelle la réminiscence に思いを馳せることによって。レミニサンスは想起とは異なる la réminiscence est distincte de la remémoration。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976








こういった僥倖的偶然はじつに稀有ですから、女性の方々は真の祈りの対象となるためにも自転車に乗らねばなりません。

生きつづける欲望を自己の内部に維持したいとねがう人、日常的なものよりももっと快い何物かへの信頼を内心に保ちつづけたいと思う人は、たえず街をさまようべきだ、なぜなら、大小の通は女神たちに満ちているからである。しかし女神たちはなかなか人を近よせない。あちこち、木々のあいだ、カフェの入り口に、一人のウェートレスが見張をしていて、まるで聖なる森のはずれに立つニンフのようだった、一方、その奥には、三人の若い娘たちが、自分たちの自転車を大きなアーチのように立てかけたそのかたわらにすわっていて、それによりかかっているさまは、まるで三人の不死の女神が、雲か天馬かにまたがって、神話の旅の長途をのりきろうとしているかのようであった。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)
すこし前方に、べつの一人の小娘が自転車のそばにひざをついてその自転車をなおしていた。修理をおえるとその若い走者は自転車に乗ったが、男がするようなまたがりかたはしなかった。一瞬自転車がゆれた、するとその若いからだから帆か大きなつばさかがひろがったように思われるのだった、そしてやがて私たちはその女の子がコースを追って全速力で遠ざかるのを見た、なかばは人、なかばは鳥、天使か妖精かとばかりに。(プルースト「囚われの女」)