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2020年2月14日金曜日

神との同一化


人には三つの根源的パッション les trois passions fondamentales  がある。愛 amour、 憎悪 haine、無知 ignoranceである。

象徴界と想像界の繋ぎ目が愛、想像界と現実界の繋ぎ目が憎悪、現実界と象徴界の繋ぎ目が無知である。(ラカン、S1、30 Juin 1954, 摘要)

ーーこの箇所は、女流臨床ラカン派第一人者コレット・ソレールが2011年の書であらためて感心し直して引用しており、後期ラカン観点からも不備はない。

このセミネール1当時はボロメオの環はもちろんまだなかったが、ボロメオスキーマを利用すれば次のように置ける。




そして自我理想と理想自我と超自我のポジションは各々次の通り。



自我理想との同一化(象徴的同一化)をしている者は、なかなか修正できない。無知のパッション者だから。


一神教的な神との同一化とは、初期ジジェクが既に言っている象徴的同一化のことである。

想像的同一化と象徴的同一化
想像的同一化と象徴的同一化とのあいだの関係ーー理想自我Idealichと自我理想Ich-Idealとのあいだの関係ーーは、ジャック=アラン・ミレール によって「構成された同一化」と「構成する同一化」の差異とされる。

簡単に言えば、想像的同一化とは、われわれが自身にとって好ましいように見えるイメージへの、つまり「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージへの、同一化である。

象徴的同一化とは、そこからわれわれが見られているまさにその場所への同一化、そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、「愛するに値するように見える」ような場所への、同一化である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989年)


上にあるように、神という「自身が愛するに値するように見える」ような場所=自我理想に同一化して、「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージ=理想自我をナルシシズム的に享楽するのが、基本的な「神の信者」構造である。


想像的自我  i(a)
自我は想像界の効果である。ナルシシズムは想像的自我の享楽である。Le moi, c'est un effet imaginaire. Le narcissisme, c'est la jouissance de cet ego imaginaire(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, Cours du 10 juin 2009)
想像界 imaginaireから来る対象、自己のイマージュimage de soi によって強調される対象、すなわちナルシシズム理論から来る対象、これが i(a) と呼ばれるものである。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 09/03/2011)


冒頭のジジェク 1989年におけるミレール の「構成された同一化」と「構成する同一化」も直接引用しておこう。

「構成する同一化」と「構成された同一化」
・理想自我との同一化はイマジネールな同一化(想像的同一化)である。
l'identification du moi idéal, c'est-à-dire l'identification comme imaginaire.

・「自我理想との同一化」と「理想自我との同一化」の相違は、「構成する同一化」と「構成された同一化」の相違である。Cette distinction de l'Idéal du moi et du moi idéal, en tant qu'elle distingue l'identification constituante et l'identification constituée,

・象徴的自我理想は想像界の限界の一種として現れる。C'est en quoi l'Idéal du moi symbolique apparaît alors comme une sorte de limite de l'imaginaire,(JACQUES-ALAIN MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 1986 - 1987)


ラカン自身はたとえばこう言っている。

この理想自我のイメージは、主体が自我理想として囚われる点から、固着されるようになる。C'est cette image qui se fixe, moi idéal, du point où le sujet s'arrête comme idéal du moi(ラカン「主体の転覆」E809, 1960 年)


だがこれではわかりにくいだろうから、若手ラカン派の新しいリーダーと呼ばれるロレンゾ・チーサを引いておこう。

一般的には、理想自我は、自我の理想イメージの外部の世界(人間や動物、物)への投射 projection であり、自我理想は、彼の精神に新たな(脱)形成を与える効果をもった別の外部のイメージの取り込み introjection である。言い換えれば、自我理想は、主体に第二次の同一化を提供する新しい地層を自我につけ加える。(……)

注意しなければならないのは、自我理想は、必然的に、理想自我のさらなる投射を作り変えることだ。すなわち、一方で理想自我は論理的には自我理想に先行するが、他方で理想自我は避けがたく自我理想によって改造される。これがラカンが、フロイトに従って、次のように言った理由である。すなわち、自我理想は理想自我に「新しい形式」nouvelle forme de son idéal du moiを提供すると(セミネール1)。 (ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness、2007)


起源となるフロイト文は次のもの。

理想自我という自己愛の対象
理想自我 Idealich は幼児期にリアルな自我 wirkliche Ich が享楽 genoßしていた自己愛 Selbstliebeに適用される(自己愛のターゲットになる)。ナルシシズムはこの新しい理想的な自我 neue ideale Ich に変位した外観を現す。それは幼児期の自我と同様にあらゆる完全性を所有する。

ここで人間は、リビドーの分野においていつでもそうであったように、ひとたび享楽した満足 genossene Befriedigungを断念するのは不可能であることを示している。彼は幼児期のナルシシズム的完全性narzißtische Vollkommenheit なしではすませないのであって、成長期にいろいろな警告によって妨げられたり、自らの判断に目覚めたりした結果、このような完全性を確保することができなくなると、彼はこれを自我理想 Ichidealいう新しい形式のなかにもう一度獲得しようとする。彼が自己の理想としてその眼前に投射projiziertするものは、彼自身が自己の理想sein eigenes Ideal であった幼児期の、 喪われたナルシシズムverlorenen Narzißmusの代理物なのである。(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)


………

フロイトラカン理論においてはどんな愛の対象も見せかけ(仮象)である。

愛自体は見せかけに宛てられる [L'amour lui-même s'adresse du semblant]。…存在の見せかけ[semblant d'être]、……《i マジネール [i-maginaire]》…それは、欲望の原因としての対象aを包み隠す自己イマージュの覆い [l'habillement de l'image de soi qui vient envelopper l'objet cause du désir]の基礎の上にある。(ラカン、S20, 20 Mars 1973)


上に引用したミレールが示しているように自己イマージュ とは i(a)である。




欲望の原因はもちろん人によって異なる。

「対象選択 Objektwahl」ーーフロイトが対象 Objektと言うとき、それはけっして対象aとは翻訳しえない。フロイトが愛の対象選択について語るとき、この愛の対象は i(a)である。それは他の人間のイマージュである。ときに我々は人間ではなく何かを選ぶ。ときに物質的対象を選ぶ。それをフェティシズムと呼ぶ。この場合、我々が扱うのは愛の対象ではなく、「享楽の対象 objet de jouissance」あるいは「欲望の原因 cause du désir」である。それは愛の対象ではない。

愛について語ることができるためには、「a」の機能は、イマージュ・他の人間のイマージュによってヴェールされなければならない。たぶん他の性からの他の人間のイマージュによって。(J.-A. MILLER, 「新しい種類の愛 A New Kind of Love」)


だが究極的な「欲望の原因=享楽の対象」は一つである。

究極の欲望の原因=原初に喪失した対象
欲望の原因は、フロイトが、原初に喪失した対象 [l’objet originairement perdu]」と呼んだもの、ラカンが、欠如しているものとしての対象a[l’objet a, en tant qu’il manque]と呼んだものである。 (コレット・ソレール、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », Brésil, 10/09/2013)


たとえばラカンはこう言っている。

喪われた対象=享楽の対象(モノ)
反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。…

享楽の対象は何か? [Objet de jouissance de qui ? ]…

大他者の享楽? 確かに!  [« jouissance de l'Autre » ? Certes !   ]

…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)


大他者の享楽は、後期ラカンにとって享楽自体のことであり、エロスである。

大他者の享楽=エロス  
大他者の享楽[la Jouissance de l'Autre]…私は強調するが、ここではまさに何ものかが位置づけられる。…それはフロイトの融合としてのエロス、一つになるものとしてのエロスである[la notion que Freud a de l'Éros comme d'une fusion, comme d'une union]。(Lacan, S22, 11 Février 1975)


だが究極のエロスは死を意味し、不可能である。

大他者の享楽=不可能
大他者の享楽 jouissance de l'Autre 、すなわちエロスは不可能である。…エロスとはひとつになる faire Un という神話だ。

…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりえないne peuvent en faire qu'Un。…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974、摘要訳)
JȺ(穴の享楽)⋯⋯これは大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autreのことである。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [穴Ⱥ] の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)


さて上に、究極的な「欲望の原因=享楽の対象」は一つである、と記したが何だろうか、この喪われた対象は?

これを直接に言っちゃあオシマイというところがあるのだけど、最近はとってもニブイ方々ばかりだからやむえず言うべきなんだろうか。

永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a (喪われた対象)の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
例えば胎盤 placentaは、個人が出産時に喪なった individu perd à la naissance 己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象 l'objet perdu plus profond(対象a)を象徴する。(ラカン, S11, 20 Mai 1964)


「欲望の原因=享楽の対象=永遠に喪われている対象」とは、「黒い夜 la nuit noireである。

愛するという感情は、どのように訪れるのかとあなたは尋ねる。彼女は答える、「おそらく宇宙のロジックの突然の裂け目から」。彼女は言う、「たとえばひとつの間違いから」。 彼女は言う、「けっして欲することからではないわ」。あなたは尋ねる、「愛するという感情はまだほかのものからも訪れるのだろうか」と。あなたは彼女に言ってくれるように懇願する。彼女は言う、「すべてから、夜の鳥が飛ぶことから、眠りから、眠りの夢から、死の接近から、ひとつの言葉から、ひとつの犯罪から、自己から、自分自身から、突然に、どうしてだかわからずに」。彼女は言う、「見て」。彼女は脚を開き、そして大きく開かれた彼女の脚のあいだの窪みにあなたはとうとう黒い夜を見る。あなたは言う、「そこだった、黒い夜、それはそこだ」[Elle dit : Regardez. Elle ouvre ses jambes et dans le creux de ses jambes écartées vous voyez enfin la nuit noire. Vous dites : C'était là, la nuit noire, c'est là. ](マルグリット・デュラス Marguerite Duras『死の病 La maladie de la mort』1981)



縄文人はよく知っていた、黒い夜のことを。



別名、縄文ヴァギナデンタータ。

これは、黒い夜=ブラックホールȺに対する最後の防衛シニフィアンS(Ⱥ)の形象である。




あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ)の効果…an effect of S(Ⱥ) as a sucking vagina dentata, eventually as an astronomical black hole absorbing all energy; (ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?、1999)
ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現、女のヴェールが落ちて、ブラックホールtrou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。(Lacan, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir, Écrits 750、1958)
(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)

この黒い夜を股のあいだに抱えている女性の皆さんがナルシシズム的になるのはある意味で当たり前である。フロイトは不気味なもの=女性器を語るなかで、「愛は郷愁であるLiebe ist Heimweh」と言っている。




ラカン理論における究極のシニフィアンS(Ⱥ)、穴のシニフィアンは、実際は種々の意味合いをもっているが、これを示しだすととても長い記述をせざるを得ず、割愛させて頂く。

例えば次の内実があるがこの多様さだけでさえない。




例えば上に後期ラカンに依拠して「母の名」としたのは、前期ラカンにおいては「母なる超自我」、「母の法」のことである(そして母なる超自我は超自我自体となる)。そしてこれらS(Ⱥ)に対する防衛として「父の名=自我理想」という仮象がある。




実際、底部に対する防衛をしなければならない。なぜなら《タナトスとは超自我の別の名》(ピエール・ジル・ゲガーン Pierre Gilles Guéguen, 2018だから。

ラカンの処方箋はこうである。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)

すなわちエディプス的父の信者になることなく、だが「距離のない狂宴」の審級にある「母の名=母なるオルギア」を飼い馴らす「父の機能=父なるレリギオ」を持て、と。

エディプス的父にて防衛しすぎると、かえって豚になってしまうのは、歴史が証明している。だが冒頭に示したように彼らはなかなか修正ができない「無知のパッション者」である。

自然的本性を熊手で無理やり追いだしても、それはかならずや戻ってやってくるだろう。Naturam expellas furca, tamen usque recurret  (ホラティウス Horatius, Epistles)
世には、自分の内部から悪魔を追い出そうとして、かえって自分が豚のむれのなかへ走りこんだという人間が少なくない。nicht Wenige, die ihren Teufel austreiben wollten, fuhren dabei selber in die Säue.  (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「純潔」)