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2021年10月25日月曜日

美女たちの Crucifixus

 

◼️Bach - Messe in h-moll BWV232 - Crucifixus Chór Akademicki Uniwersytetu Warszawskiego





◼️Crucifixus by Johann Sebastian Bach Lumen Choir, conducted by Jooyoung Kim

(Moonjeong-dong Catholic Church, Seoul, South Korea)




◼️Crucifixus -- J. S. Bach




いやあ、何という美だ。それぞれひどく美しい。


芸術や美へのあこがれは、性欲動の歓喜の間接的なあこがれである。Das Verlangen nach Kunst und Schönheit ist ein indirektes Verlangen nach den Entzückungen des Geschlechtstriebes   (ニーチェ遺稿、1882 - Frühjahr 1887 )

すべての美は生殖を刺激する、ーーこれこそが、最も官能的なものから最も精神的なものにいたるまで、美の作用の特質である。daß alle Schönheit zur Zeugung reize - daß dies gerade das proprium ihrer Wirkung sei, vom Sinnlichsten bis hinauf ins Geistigste... (ニーチェ「或る反時代的人間の遊撃」22節『偶像の黄昏』1888年)




ボクは合唱、とくにバッハの合唱を好むので、YouTubeでしばしば探るのだが、日本の合唱団では「刺激」を受けることは稀なんだな、おばちゃんやばあさんばっかりが目立つよ。

いやあでもこのコレギウムジャパンのモテットとってもいいけどな➡︎Bach Collegium Japan - Bach Motets


・・・とはいえ若いイキのいい女たちはどこいったんだろ?



2021年10月21日木曜日

五つの「泣き、嘆き、憂い、怯え」

① J. S. Bach - Cantata "Weinen, Klagen, Sorgen, Zagen" BWV 12 - 2. Weinen, Klagen, Sorgen, Zagen (2/7)


②Bach: Mass in B minor - Crucifixus - Herreweghe



③A. Vivaldi: RV 675 / Piango, gemo, sospiro e peno [cantata] for alto & b.c. - (spurious) / C. Calvi


④Naoumoff plays his own piano transcription of Bach's Sinfonia Coro from Cantata BWV 12 Weinen Klagen


⑤Werner Elmker: Crucifixus from J. S. Bach Mass in B minor with improvisation




2020年8月30日日曜日

グルダとアルゲリッチ





いやあグルダはやっぱりとってもいいな、最近はほとんどきかなくなってしまったけど。ボクは高校時代、バッハにいかれていたので、平均律も最初チェンバロできいて退屈した後、リヒテル、グールド、グルダをきいたのだけど、そのときよくきいたのは、リヒテル、グルダ、グールドの順だったな。





完全に負けてるね、先生に。音が天に広がってゆく感じがぜんぜんないや。




ところでアルゲリッチってなんで急にとてつもなくきれいになったんだろうな、




こういうもんかね、少女から乙女への変身ってのは



ああ死にそうになる、こんな目で見詰められたら。




こんな美女って他にいるかな、少なくとも女優や歌手のなかには見出せないね(もちろんボクの趣味では、という意味だけど)。





2020年8月18日火曜日

女がなければ人生は一つの錯誤であろう






幸福に必要なものはなんとわずかであることか! 一つの風笛の音色。――音楽がなければ人生は一つの錯誤であろう。Wie wenig gehört zum Glücke! Der Ton eines Dudelsacks. - Ohne Musik wäre das Leben ein Irrtum. Der Deutsche denkt sich selbst Gott liedersingend.(ニーチェ『偶像の黄昏』「箴言と矢」33番)
音楽がなければ、生には何の意味もありませんよ。音楽は私たちの深部に触れます。音楽は、私の人生で途方もなく大きな役割を果たしました。音楽を解さない人間にはまったく興味がありませんね。ゼロですよ。(シオラン『対談集』)

あんたたちそんなこと言うけどさ
女なしでもいいわけ?
音楽なしの人生と女なしの人生
どっちか選ばなくちゃならないとしたら
どっちとるの?

高橋悠治はグールド追悼文で言ってるわ
「音楽なんか聴かなくても生きていける」って
でも女なんかいなくても生きていけるわけ?


女はその本質からして蛇であり、イヴである Das Weib ist seinem Wesen nach Schlange, Heva」――したがって「世界におけるあらゆる禍いは女から生ずる vom Weib kommt jedes Unheil in der Welt」(ニーチェ『アンチクリスト』1888年)

あらシツレイね、
アファナシエフは神か音楽かっていってるわ




で、《女というものは神の別の名である La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu》(ラカン, S23, 1975)だわ

あんたたちこっちのほうでしょ?

ああ、アリアドネ、あなた自身が迷宮だ。人はあなたから逃れえない。…
Oh Ariadne, du selbst bist das Labyrinth: man kommt nicht aus dir wieder heraus” ...(ニーチェ、1887年秋遺稿)

おバカなこと言わないほうがいいわよ
「女がなければ人生は一つの錯誤であろう」にきまってるわ

「まことに彼は神の子だった Wahrlich, dieser ist Gottes Sohn gewesen」
だって、人はみな女の子ってことよ





おわかりかしら、
「女か音楽か」しかないのが。


生への信頼 Vertrauen zum Leben は消え失せた。生自身が一つの問題となったのである。ーーこのことで人は必然的に陰気な者、フクロウ属になってしまうなどとけっして信じないように! 生への愛 Liebe zum Leben はいまだ可能である。ーーただ異なった愛なのである・・・それは、われわれに疑いの念をおこさせる「女への愛 Liebe zu einem Weibe」 にほかならない・・・(ニーチェ対ワーグナー、エピローグ、1888年)




2020年7月15日水曜日

BWV230を歌う美女たち





BWV230は、このリムーザンの乙女たちの歌う姿をみて、とりわけ惹かれるようになった。バッハのモテットのなかでは最も親しみやすい曲のひとつだろう、ソウルのカトリック合唱団の育ちのよさそうな若者たちも歌っている。





巧拙については何もいうまい。女性たちは次のような形でそれぞれじっくりみたくなるいきのいい女揃いである。




서울가톨릭싱어즈 で、アップの画像を探してしまった。



この程度の距離ならいいが、あまりアップでみないほうがいいようだ。



京大の合奏団の方々のBWV230映像もあるが、こっちのほうは「遠近関係なしに」とくに感想はない・・・






2020年6月2日火曜日

どうしてこんなにヘンなんだろ




ボクどうしてこんなにヘンなんだろ
中学生に入ってからはとくにそう思ったけど
実際は小学5年ぐらいからいくらかそうだったな






ボクは当時トッテモカワイカッタので、大学教師の娘だった教養ある十兵衛に「憎さ余って可愛さ百倍」って言われちゃったよ。で、彼女を含めた「3人娘」と言われた大柄の太もも美少女たちと毎日さ。彼女たちもボクがヤスンダラ、物足りなかったんじゃないだろうか・・・気をつかったよ、ひとりだけに集中しちゃダメだと。

それでっとーー、
もう言いたくないね、この先は


とってもいいなあ、モジリアーニ




ヘ短調のフーガみたいだな、この女。BWV857

絵をみて匂いがしてくるのはモジリアーニだけだよ



因果ですね、と抱かれた後で女がつぶやいたのもあの晩のことになる。それまでに幾夜かさねてもほぐれず、その晩もかわらず硬かった女のからだが、遠くから風の渡ってくる音にすくんだのを境に、ひと息ごとにほどけて、男の動きにこたえてどこまでも受けいれるようになり、人の耳をおそれて音をひそめあうような、長いまじわりとなり、ようやくはてて、なごりの息のおさまっていく下から女が何を言い出すことかと、男がこんな始末になったことにあきれて待つうちに、その言葉が女の口から出た。

前世で寝たことがあるんですよ、今夜初めて知りました、とその面相のまま言った。(古井由吉『蜩の声』除夜)



2020年5月15日金曜日

原母について

さて前投稿をしたところで、在庫のなかから補足となる引用記事を掲げておきます。以後、たぶんーーすこし考えたいことがあるのでーーしばらくお休みさせていただきます。

………


世界は女たちのものである。
つまり死に属している。
人はみな女の掌の上にいる。

Le monde appartient aux femmes.
  C'est-à-dire à la mort.
  Là-dessus, tout le monde ment.

ーーPhilippe Sollers, Femmes, 1983



原母 Urmutter について
フロイトの新たな洞察を要約する鍵となる三つの概念、「原抑圧 Urverdrängung」「原幻想 Urphantasien(原光景 Urszene)」「原父 Urvater」がある。

だがこの系列(セリー)は不完全であり、その遺漏は彼に袋小路をもたらした。この系列は、二つの用語を補うことにより完成する。「原去勢 Urkastration」と「原母 Urmutter」である。

フロイトは最後の諸論文にて、躊躇しつつこの歩みを進めた。「原母」は『モーセと一神教  』(1938)にて暗示的な形式化がなされている。「原去勢」は、『防衛過程における自我分裂 Die Ichspaltung im Abwehrvorgang』 (1938)にて、形式化の瀬戸際に至っている。「原女主人 Urherrin」としての死が、最後の仕上げを妨げた。(ポール・バーハウPaul Verhaeghe, Does the Woman exist?, 1997)



女の原型は原母である
構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者との同一化がある。それは起源としての原母 [primal mother] であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。したがって原母は純粋享楽の本源的状態[original state of pure jouissance]を再創造しようとする。

この理由で、セクシュアリティは、つねに魅惑と戦慄 [fascinans et tremendum]、つまりエロスとタナトスの混淆(融合と分離の混淆ーー欲動混淆Triebentmischung)なのである。これが明らかにすることは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も自らが恐れるものを憧憬する。つまり享楽の原状態 [original condition of jouissance ]の回帰憧憬である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL、1995年)


原母の穴
メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)
〈母〉、その基底にあるのは、「原リアルの名」である。それは、「母の欲望」であり、「原穴の名  」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou(コレット・ソレール、Colette Soler, Humanisation ? , 2014)




モノという原母
享楽の対象は何か? [Objet de jouissance de qui ? ]…

大他者の享楽? 確かに!  [« jouissance de l'Autre » ? Certes !   ]

…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカンS7, 16 Décembre 1959)
モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)


原母の享楽は不可能である
大他者の享楽は不可能である jouissance de l'Autre […] c'est impossible。大他者の享楽はフロイトのエロスのことであり、一つになるという(プラトンの)神話である。だがどうあっても、二つの身体が一つになりえない。…ひとつになることがあるとしたら、…死に属するものの意味 le sens de ce qui relève de la mort.  に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974、摘要)
大他者の享楽[la Jouissance de l'Autre]……それはフロイトの融合としてのエロス、一つになるものとしてのエロスである[la notion que Freud a de l'Éros comme d'une fusion, comme d'une union]。(Lacan, S22, 11 Février 1975)
JȺ(斜線を引かれた大他者の享楽)⋯⋯これは大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autreのことである。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [穴Ⱥ] の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)


原母への回帰は死である
享楽自体は、生きている主体には不可能である。というのは、享楽は主体自身の死を意味する it implies its own death から。残された唯一の可能性は、遠回りの道をとることである。すなわち、目的地への到着を可能な限り延期するために反復することである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。…(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。⋯⋯⋯我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)





人はみな原母回帰の憧憬がある
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
我々の原カオス回帰への希望と欲望は、蛾が光に駆り立てられるのと同様である。…人は自己破壊憧憬をもっており、これこそ我々の本源的憧憬である。la speranza e 'l desiderio del ripatriarsi o ritornare nel primo chaos, fa a similitudine della farfalla a lume[…] desidera la sua disfazione; ma questo desiderio ène in quella quintessenza spirito degli elementi, (『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』)




※参照:モノ簡潔版



2020年4月15日水曜日

白い鳩が飛ぶ

■Johann Sebastian Bach (1685-1750) - Mass in G major, BWV 236

 


いやあいい女がいっぱいいるな、
Ton Koopmanひきいる合唱団よりはいくらかへたくそでも 
(ソプラノ高音が高すぎるんだろうな)
やっぱり美女のほうがいいよ
冒頭キリエの半音階下降音のところなんかは
腰をひねられたような感じがするな
やっぱりバッハはエロだね

何年か前にうっとりした映像もみなおしちゃったよ
キリンみたいな女の子がいるんだ


■Johann Sebastien Bach motet "Lobet den Herrn" BWV 230




ま、でももうトシだから思春期みたいにはいかないよ
高校一年のとき、カール・リヒターのサンクトゥスの
トランペントの音が高まったり低まったりする箇所で
白い鳩が飛んじまったことがあるけど

2分24秒ぐらいから45秒ぐらいのあいだだったな

■Messe in B Minor, BWV 232: Sanctus Karl Richter 1961




彼女の股は空虚である
ぼくはそこに乞食が物を乞うのをさえ見た
…
ぼくの精液は白い鳩のように羽搏く
…
氷のように曇った彼女の頬が見える
花のように曇った彼女の陰部が見える
そして鳥たちは永遠に
風のなかに住むだろう
狂った岩石のように。

盲目の鳥たちは光の網を潜る。

ーー瀧口修造「地上の星」

2020年4月11日土曜日

Hommage à J. S. Bach

■György Kurtág - Hommage à J. S. Bach (Keller Quartet)


とっても上手いな、ケラー弦楽四重奏団って。
クルターグの曲自体がいいのかも知れないけど、
最後のほうにある一秒弱の沈黙の間に鳥肌立っちゃたよ。

少し前、彼らのフーガの技法に出会って、
とくに19:19 Contrapunctus 11に魅せられたのだけど。


以下のクルターグ(1926年生まれ)は93歳だ。

■GYÖRGY KURTÁG AND XELO GINER Budapest 2019





次は何度も掲げているお気に入りのクルターグ夫妻のバッハ。こういう渋い音でやってほしいね、バッハのコラール変奏曲は( BWV 614、BWV 804、BWV 106)。

■Márta and György Kurtág play Bach-transcriptions by Kurtág


 


上の映像は2015年、ジョルジュ89歳(1926年生まれ)、マルタ88歳(1927年生まれ)のときのもの。クルターグの妻マルタは2019年10月17日、92歳で亡くなった。


2020年4月7日火曜日

BWV 997とBWV 817とBWV622

Alexander Jocheles plays Bach Suite (Lute Partita), BWV 997,Prelude





どんな愛する理由も愛する対象のなかにはない
愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第2版、1970年)
私がジルベルトに恋をして、われわれの恋はその恋をかきたてる相手の人間に属するものではないことを最初に知って味わったあの苦しみ cette souffrance, que j'avais connue d'abord avec Gilberte, que notre amour n'appartienne pas à l'être qui l'inspire(プルースト「見出された時」)
そのようにして、アルベルチーヌへの私の愛は、それがどのような差異を見せようとも、ジルベルトへの私の愛のなかにすでに書きこまれていた……Ainsi mon amour pour Albertine, et tel qu'il en différa, était déjà inscrit dans mon amour pour Gilberte ...(プルースト「見出された時」)
ある年齢に達してからは、われわれの愛やわれわれの愛人は、われわれの苦悩から生みだされるのであり、われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷とが、われわれの未来を決定づける。Or à partir d'un certain âge nos amours, nos maîtresses sont filles de notre angoisse ; notre passé, et les lésions physiques où il s'est inscrit, déterminent notre avenir. (プルースト「逃げ去る女」)
われわれ自身の内部に精神を集中すること
人が芸術的なよろこびを求めるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象自体の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好者たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。
それというのも、われわれはどうしても他の愛好者たちと自分との双方にとっておなじ一つの事柄を話題にしようとするからで、そのために自分だけに固有の印象の個人的な根源が断たれてしまうのである。われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに、まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびているtoute impression est double, à demi engainée dans l'objet, prolongée en nous-mêmes par une autre moitié。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。それなのにわれわれは前者の半分のことしか考慮に入れない。その部分は外部であるから深められることがなく、したがってわれわれにどんな疲労を招く原因にもならないだろう。(プルースト「見出された時」)





Alicia de Larrocha & Glenn Gould, French Suite No.6, BWV 817 Allemande




若いバッハは、入念に粉を振った最新の鬘をつけ、若い女を連れ、パイプをくわえて街をそぞろ歩く伊達男だったと言われる。音楽がまだ化石になっていないのも、そこにただようエロティシズムの記憶のせいかもしれない。(踊れ、もっと踊れ  高橋悠治)




Alexander Jocheles plays Bach Chorale Prelude BWV 622




平素以上に埋葬の多い場合には収入もそれにつれて増加しますが、ライプチヒは空気がすこぶる快適なため、昨年の如きは、埋葬による臨時収入に百ターレルの不足を見たような次第です。(バッハの手紙ーーデュアメル『慰めの音楽』尾崎喜八訳)





トリオソナタBWV528アンダンテ

■Víkingur Ólafsson – Bach: Organ Sonata No. 4, BWV 528: II. Andante [Adagio] (Transcr. Stradal)




トリオソナタBWV 528のこのアンダンテは、なぜピアノでやらないのだろうと長いあいだ思っていたのだけれど、ようやくヴィキングル・オラフソンがとりあげて、それなりの数の人がきくようになったんだろう、上の動画は5ヶ月前にアップロードされたばかりなのに53万回も見られている。この曲はメロディメーカーの相のあるバッハの真骨頂のような、とても優美で親密な曲だ。

当時ーー1970年代、わたくしがはじめて出会ったのは16歳ーー、盲目のオルガリスト、ヘルムート・ヴァルヒャの曇りガラスをへだてたような音で一冬のあいだ何度も聴き、窓から見える裸になった百日紅の姿の記憶とともにある。

■Organ Sonata No. 4 in E Minor, BWV 528: II. Andante · Helmut Walcha




そのあと、軽快なマリー=クレール・アランで聴いたのだが、どうもいけなかった。当時はこのふたりしかレコードが手に入らなかった。

■Organ Sonata No. 4 in E Minor, BWV 528: II. Andante · Marie-Claire Alain




ヴィキングル・オラフソンの演奏は冒頭は沈潜とした音ではじまり惹きつけられたが、後半は過剰なクレッシェンドやフォルテなど、わたくしにはいくらかうるさすぎる。とはいえどちらかというと単調な曲なので、ピアノ演奏ならとくにああせざるをえないのかもしれない。

彼を「アイスランドのグールド」(NYタイムズ)と呼ぶのはいくらかいいすぎであるがーーすくなくともグールドのようなはっとする閃光が感じられないーー、イージーリスニングのバッハといってしまうほどにはわるくない。

■Víkingur Ólafsson – Bach: Prelude & Fugue, BWV 855a: 1. Prelude No. 10 in B Minor (Transcr. Siloti)




2020年4月5日日曜日

これまでお前が本当に愛してきたのは何であったか


これまでの 80年間、私は毎日毎日、その日を、同じように始めてきた。ピアノで、バッハの平均律から、プレリュードとフーガを、 2曲ずつ弾く。…

Schumann シューマン、Mozart モーツァルト、Schubert シューベルト・・・Beethoven ベートーヴェンですら、私にとって、一日を始めるには、物足りない。Bach バッハでなくては。

どうして、と聞かれても困るが。完全で平静なるものが、必要なのだ。そして、完全と美の絶対の理想を、感じさせるくれるのは、私には、バッハしかない。(パブロ・カザルス 鳥の歌 ジュリアン・ロイド・ウェッバー編)


わたくしはここ数年、シューベルト、シューマンを愛する時をもったが、こういうときは(?)カザルスの言うようにバッハでしかない。

2年半ほど前出会ったシンガポールのSee Ning Hui(1996年生まれ)のデビューコンサートのBWV 878をふたたび聴いてみる。





とても魅惑されるバッハである(最後のほうでミスタッチがあるが)。そして彼女のようにーー祈りを捧げるようにーー音楽に集中している女性はとても美しい。


BWV 878のフーガは晩年のグールドのビデオ版を聴いて以来ーーけっしてCD版ではないーー、平均律のなかで最も愛する曲となり、わたくしにとって数少ない暗譜で弾ける曲のひとつである。






ここに次のような方法がある。若いたましいが、「これまでお前が本当に愛してきたのは何であったか、お前のたましいをひきつけたのは何であったか、お前のたましいを占領し同時にそれを幸福にしてくれたのは何であったか」と問うことによって、過去をふりかえって見ることだ。

尊敬をささげた対象を君の前にならべてみるのだ。そうすればおそらくそれらのものは、その本質とそのつながりによって、一つの法則を、君の本来的自己の原則を示してくれるであろう。

そういう対象を比較してみるがよい。一つが他を捕捉し拡充し、凌駕し浄化して行くさまを見るがよい。そして、それらが相つらなって、君が今日まで君自身によじ登ってきた一つの階梯をなすさまを見るがよい。

なぜなら、君の本質は、奥深く君のうちにかくされているのではなくて、君を超えた測りしれない高い所に、あるいは少なくとも、普通きみが君の「自我」と取っているものの上にあるからだ。(ニーチェ『反時代的考察 第三篇』1874年)






2020年1月15日水曜日

穴の歌

やあダイジョウブだよ、関係ないさ。
そもそも人はみなニブイところがあるのさ。

ヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』にあるように、それぞれ自分の器量を超えた部分は、いかにも、ないも同然である。(中井久夫「ヴァレリーと私」)
結局誰にせよ、何事からも、従って書物からも、自分がすでに知っている以上のものを聞き出すことはできないのだ。体験上理解できないものに対しては、人は聞く耳をもたないのだ。ひとつの極端な場合を考えてみよう。ある書物が、人がたびたび経験することができないばかりか、ほんの稀にも経験できないような体験ばかりを語っているとするーーつまり、その書物が、一連の新しい経験を言い表わす最初の言葉であるとする。この場合には、全く何も耳にきこえない。そして何もきこえないところには何も存在しない、という聴覚上の錯覚が起こるのである。(ニーチェ『この人を見よ』)


ボクは子宮がないから女のことにニブイよ、
キミはオチンチンあるかい? 
なかったら男のことにニブイよ。

キミにオコラレテ在庫のままにしているのをついでに貼り付けとくよ、

これぐらいだったらいいだろ?  
ゴダールとジャコメッティで格調高いんだから。
しかもバックグラウンドはバッハの教会カンタータだしな






不気味な穴
女は何も欠けていない La femme ne manque de rien(ラカン, S10, 13 Mars 1963)
不気味なもの Unheimlich とは、…私が(-φ)[去勢]を置いた場に現れる。…それは欠如のイマージュimage du manqueではない。…私は(-φ)を、欠如が欠けている manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン, S10, 28 Novembre 1962)
欠如の欠如 manque du manque が現実界を為す Le manque du manque fait le réel(AE573、1976)
現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)
享楽の穴
享楽は去勢である。la jouissance est la castration. (ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un 25/05/2011)
リビドーは、その名が示しているように、穴に関与せざるをいられない。La libido, comme son nom l'indique, ne peut être que participant du trou.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
享楽の名le nom de jouissance…それはリビドー というフロイト用語である。(J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 30/01/2008)
享楽の対象Objet de jouissance …フロイトのモノ La Chose(das Ding)…それは、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
モノ=享楽の空胞  [La Chose=vacuole de la jouissance] (Lacan, S16, 12 Mars 1969)
原穴の名
女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なもの Unheimliche とはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)
(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)
〈大文字の母〉、その基底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、「原穴の名 le nom du premier trou 」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou (コレット・ソレールColette Soler, Humanisation ? , 2014)









こういったのってクセになるからもう返事しないよ
まえみたいに教師やらされたらたまったもんじゃないしな

でニブイって言葉はもう使わないようにするよ
なんかきみに一度いったのかな
口がすべっただけさ

マヌケとかビョウキだったらいいかい?

私は相対的にはマヌケ débile mental にすぎないよ…言わせてもらえば、全世界の連中と同様に相対的マヌケdébile mentalにすぎない。というのは、たぶん私は、いささか啓蒙されている une petite lumière からな。(ラカン、S24, 17 Mai 1977)
私はビョウキだよ。なぜなら、皆と同じように、超自我をもっているからな。j'en suis malade, parce que j'ai un surmoi, comme tout le monde(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)


どの超自我のこと言ってんだろうな、啓蒙ってあるから言語かな。

言語は父の名である。そしてさらに、言語は超自我である。C'est le langage qui est le Nom-du-Père et même c'est le langage qui est le surmoi.(ジャック=アラン・ミレール、MILLER Jacques-Alain, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthiques, séminaire 96/97)

ボクの趣味だと女という超自我がいいんだけど。

一般的には神と呼ばれる on appelle généralement Dieu もの……それは超自我と呼ばれるものの作用fonctionnement qu'on appelle le surmoi である。(ラカン, S17, 18 Février 1970)
問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

ま、それはこの際どうでもいいけど
大切なのは人はみなビョウキだってことだな
ビョウキの種類がちがうだけで。
ラカン派のテーゼ、
「症状のない主体はない il n'y a pas de sujet sans symptôme」
ってのは何よりもまずそういうことだよ







2019年11月24日日曜日

おい、信者のみなさん、鳥語装置で叫ぶな!

私はキリスト教のほんとうの歴史を物語る。――すでに「キリスト教」という言葉が一つの誤解であるーー、根本においてはただ一人のキリスト教者がいただけであって、その人は十字架で死んだのである。「福音」は十字架で死んだのである。この瞬間以来「福音」と呼ばれているものは、すでに、その人が生きぬいたものとは反対のものであった。すなわち、「悪しき音信」、禍音であった。「信仰」のうちに、たとえばキリストによる救済の信仰のうちに、キリスト者のしるしを見てとるとすれば、それは馬鹿げきった誤りである。たんにキリスト教的実践のみが、十字架で死んだその人が生きぬいたと同じ生のみが、キリスト教的なのである・・・今日なおそうした生は可能であり、或る種の人たちにとってはそのうえ必然的ですらある。真正のキリスト教、根源的キリスト教は、いかなる時代にも可能であるであろう・・・信仰ではなく、行為、なによりも、多くのことをおこなわないこと、別様の存在である・・・意識の状態、たとえば、信仰とか真なりと思いこむとかはーーいずれの心理学者も知っていることだがーー本能の価値にくらべれば完全にどうでもよいことであり、五級どころのことである。もっと厳密に言うなら、精神的因果性の全概念が誤りなのである。キリスト者であることを、キリスト者であるゆえんのものを、真なりと思いこむことに、たんなる意識の現象性に還元することは、キリスト者であるゆえんのものを否定することにほかならない。実際のところ一人のキリスト者も全然いなかったのである。「キリスト者」なるものは、二千年以来キリスト者と呼ばれているものは、たんに心理学的な自己誤解にすぎない。(ニーチェ『反キリスト者』)

ニーチェが言っていることを「全面的には」支持しないまでも、この期に及んでの鳥語装置での信者のみなさんの言葉ってのはとってもクサイんだよーー《完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しき魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども。》(ニーチェ『この人を見よ』)

もし法王がお好きなら、静かに祈っておれよ






■ヴェイユ書簡、ペラン神父宛
わたくしをこわがらせるのは、社会的なものとしての教会でございます。教会が汚れに染まっているからということだけではなく、さらに教会の特色の一つが社会的なものであるという事実でございます。わたくしが非常に個人主義的な気質だからではございません。わたくしはその反対の理由でこわいのです。わたくしには、人々に雷同する強い傾向があります。わたくしは生れつきごく影響されやすい、影響されすぎる性質で、とくに集団のことについてそうでございます。もしいまわたくしの前で二十人ほどの若いドイツ人がナチスの歌を合唱しているとしたら、わたくしの魂の一部はたちまちナチスになることを、わたくしは知っております。これはとても大きな弱点でございます。けれどもわたくしはそういう人間でございます。生れつきの弱点と直接にたたかっても、何もならないと思います。(…)

わたくしはカトリックの中に存在する教会への愛国心を恐れます。愛国心というのは地上の祖国に対するような感情という意味です。わたくしが恐れるのは、伝染によってそれに染まることを恐れるからです。教会にはそういう感情を起す価値がないと思うのではありません。 わたくしはそういう種類の感情を何も持ちたくないからです。持ちたくないという言葉は適当ではありません。すべてそういう種類の感情は、その対象が何であっても、いまわしいものであることをわたくしは知っております。それを感じております。(シモーヌ・ヴェイユ『神を待ちのぞむ Attente de Dieu』)


なぜあの連中ーーこの今、法王来日に浮き立っている連中ーーをひどく不快に感じるのか、といえば、ヴェイユの言っているのとほぼ似たような感覚だな、言ってしまえば、連中はナチスと同じにおいがする。

最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』)

次の中島義道はアンナ・アーレントのパクリだが、よくまとまっているので彼を引用しておこう。

ナチスを最も熱心に支持したのは、公務員であり教師であり科学者であり実直な勤労者であった。当時の社会で最も真面目で清潔で勤勉な人々がヒトラーの演説に涙を流し、ユダヤ人という不真面目で不潔で怠惰な「寄生虫」に激しい嫌悪感を噴出させたのである。…

魔女裁判で賛美歌を歌いながら「魔女」に薪を投じた人々、ヒトラー政権下で歓喜に酔いしれてユダヤ人絶滅演説を聞いた人々、彼らは極悪人ではなかった。むしろ驚くほど普通の人であった。つまり、「自己批判精神」と「繊細な精神」を徹底的に欠いた「善良な市民」であった。(中島義道『差別感情の哲学』)

ーーだな、ニブイんだよ、あれらの連中は。


ヒトラー大躍進の序文
フロイトの『集団心理学と自我の分析』…それは、ヒトラー大躍進の序文[préfaçant la grande explosion hitlérienne]である。(ラカン,S8,28 Juin 1961)
集団は衝動的 impulsiv で、変わりやすく刺激されやすい。集団は、もっぱら無意識によって導かれている。集団を支配する衝動は、事情によれば崇高にも、残酷にも、勇敢にも、臆病にもなりうるが、いずれにせよ、その衝動はきわめて専横的 gebieterisch であるから、個人的な関心、いや自己保存の関心さえみ問題にならないくらいである。集団のもとでは何ものもあらかじめ熟慮されていない。激情的に何ものかを欲求するにしても、決して永続きはしない。集団は持続の意志を欠いている。それは、自らの欲望と、欲望したものの実現にあいだに一刻も猶予もゆるさない。それは、全能感 Allmacht をいだいている。集団の中の個人にとって、不可能という概念は消えうせてしまう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)
集団にはたらきかけようと思う者は、自分の論拠を論理的に組みたてる必要は毛頭ない。きわめて強烈なイメージをつかって描写し、誇張し、そしていつも同じことを繰り返せばよい。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)
集団は異常に影響をうけやすく、また容易に信じやすく、批判力を欠いている。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)
集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる。彼の情動 Affektivität は異常にたかまり、彼の知的活動 intellektuelle Leistung はいちじるしく制限される。そして情動と知的活動は両方とも、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な欲動制止 Triebhemmungen が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。

この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原初的集団 primitiven Masse における情動興奮 Affektsteigerungと思考の制止 Denkhemmung という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章)
(自我が同一化の際の或る場合)この同一化は部分的で、極度に制限されたものであり、対象人物 Objektperson の「たった一つの徴 einzigen Zug 」(唯一の徴)だけを借りていることも、われわれの注意をひく。…そして同情は同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。

…同一化は対象への最も原初的感情結合である Identifizierung die ursprünglichste Form der Gefühlsbindung an ein Objekt ist。…同一化は退行の道 regressivem Wege を辿り、自我に対象に取り入れ Introjektion des Objektsをすることにより、リビドー的対象結合 libidinöse Objektbindung の代理物になる。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章)
原初的な集団は、同一の対象を自我理想の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する集団である。Eine solche primäre Masse ist eine Anzahl von Individuen, die ein und dasselbe Objekt an die Stelle ihres Ichideals gesetzt und sich infolgedessen in ihrem Ich miteinander identifiziert haben.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章、1921年)
理念 führende Ideeがいわゆる消極的な場合もあるだろう。特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的依存 positive Anhänglichkeit と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結つき Gefühlsbindungen を呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第6章)