これまでの 80年間、私は毎日毎日、その日を、同じように始めてきた。ピアノで、バッハの平均律から、プレリュードとフーガを、 2曲ずつ弾く。…
Schumann シューマン、Mozart モーツァルト、Schubert シューベルト・・・Beethoven ベートーヴェンですら、私にとって、一日を始めるには、物足りない。Bach バッハでなくては。
どうして、と聞かれても困るが。完全で平静なるものが、必要なのだ。そして、完全と美の絶対の理想を、感じさせるくれるのは、私には、バッハしかない。(パブロ・カザルス 鳥の歌 ジュリアン・ロイド・ウェッバー編)
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わたくしはここ数年、シューベルト、シューマンを愛する時をもったが、こういうときは(?)カザルスの言うようにバッハでしかない。
2年半ほど前出会ったシンガポールのSee Ning Hui(1996年生まれ)のデビューコンサートのBWV 878をふたたび聴いてみる。
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とても魅惑されるバッハである(最後のほうでミスタッチがあるが)。そして彼女のようにーー祈りを捧げるようにーー音楽に集中している女性はとても美しい。
BWV 878のフーガは晩年のグールドのビデオ版を聴いて以来ーーけっしてCD版ではないーー、平均律のなかで最も愛する曲となり、わたくしにとって数少ない暗譜で弾ける曲のひとつである。
ここに次のような方法がある。若いたましいが、「これまでお前が本当に愛してきたのは何であったか、お前のたましいをひきつけたのは何であったか、お前のたましいを占領し同時にそれを幸福にしてくれたのは何であったか」と問うことによって、過去をふりかえって見ることだ。
尊敬をささげた対象を君の前にならべてみるのだ。そうすればおそらくそれらのものは、その本質とそのつながりによって、一つの法則を、君の本来的自己の原則を示してくれるであろう。
そういう対象を比較してみるがよい。一つが他を捕捉し拡充し、凌駕し浄化して行くさまを見るがよい。そして、それらが相つらなって、君が今日まで君自身によじ登ってきた一つの階梯をなすさまを見るがよい。
なぜなら、君の本質は、奥深く君のうちにかくされているのではなくて、君を超えた測りしれない高い所に、あるいは少なくとも、普通きみが君の「自我」と取っているものの上にあるからだ。(ニーチェ『反時代的考察 第三篇』1874年)
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