お前と礼儀作法の法の国日本
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主体がおのれの根源的同一化identification fondamentaleとして、 「唯一の徴 le trait unaire」にだけではなく、 星座でおおわれた天空にも支えられることは、主体が「おまえ le Tu」によってしか支えられないことを説明する。「おまえ le Tu」によってというのは、 つまり、 あるゆる言表が自らのシニフィエの裡に含む礼儀作法の関係relations de politesse によって変化するようなすべての文法的形態のもとでのみ、主体は支えられるということである。
日本語では真理は、私がそこに示すフィクションの構造を、このフィクションが礼儀作法の法lois de la politesseのもとに置かれていることから、強化している。 (ラカン、「リチュラテール Lituraterre, Autres Écrits19、1971年)
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このラカンを補うために日本の論客の文章群を引こう。 |
日本語の二人称性
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夫人同伴でパリ滞在中の高田氏(彫刻家高田博厚)を訪れる。ソルボンヌ広場で一緒に昼食。
僕はある種の態度に我慢できない。自分が三人称になれないこと、そして話し相手が三人称になることを認められないこと。換言するなら、話し相手と相互に二人称の関係に入り、融合してしまい、自分自身及び話し相手が主観性を取り戻すことを認められないこと、このような態度が僕には我慢できない。
次の二つの態度を分つ本質的な相違について。一人称で話すこと、一人称で話すことは話すのだが一人称を二人称の中に流し込んで話すこと。(森有正全集14 P162)
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日本語には一人称も三人称もない
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日本語を見ておりますと、日本語で何か言うわけです。「私は生徒です」とか「これは本です」とか言っているわけですが、よく考えて見ますと、「です」というのはいったい何だろうか。「です」というのは話しことばですから「私」しかそれを言わない。あなたがそれを言う時にそれを私から見る場合に「です」と言うのはぜんぜん意味をなさないわけでしょう。「これは時計です」というのは、私が時計ですということを言うわけです。と同時に「です」の中に「あなた」が入っている。もし、目の前に非常に偉い、白いひげの生えたおじいさんが来たら、「これは時計でございます」と無意識に言ってしまう。それから前に弟とか息子が出てくると、「これは時計だ」と言うわけでしょう。すると「です」とか「でございます」とか「だ」とことになっている。(……)
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これは一人称的な性格を持っていると同時に、二人称の如何がそれに影響しているわけです。ですから、「だ」とか「です」とか「ございます」とかいう、いわゆる敬語というものは(……)実は私、日本語全体がこういう意味で敬語だと思うのです。(……)
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だから何か日本語でひとこと言った場合に、必ずその中には自分と相手とが同時に意識されている。と同時に自分も相手によって同じように意識されている。だから「私」と言った場合に、あくまで特定の「私」が話しかけている相手にとっての相手の「あなた」になっている。(……)私も実はあなたのあなたになって、ふたりとも「あなた」になってしまうわけです。これを私は日本語の二人称的性格と言います。ですから、私は日本語には根本的には一人称も三人称もないと思うんです。(森有正『経験と思想』1974年)
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汝と汝の関係
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私は、「日本人」において「経験」は複数を、更に端的には二人の人間(あるいはその関係)を定義する、と言った。(……)二人の人間を定義するということは、我々の経験と呼ぶものが、自分一個の経験にまで分析されえない、ということである。(……)肉体的に見る限り、一人一人の人間は離れている。常識的にはそこに一人の主体、すなわち自己というものを考えようとする誘惑を感ずるが、事態はそのように簡単ではない。(……)本質的な点だけに限っていうと、「日本人」においては、「汝」に対立するものは「我」ではないということ、対立するものも相手にとっての「汝」なのだ、ということである。(……)親子の場合をとってみると、親を「汝」として取ると、子が「我」であるのは自明のことのように思われる。しかし、それはそうではない。子は自分の中に存在の根拠をもつ「我」ではなく、当面「汝」である親の「汝」として自分を経験しているのである。(……)肯定的であるか、否定的であるかに関係なく、凡ては「我と汝」とではなく、「汝と汝」との関係に推移するのである。(森全集12 P64-65)
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相互篏入性
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……相互篏入性とは、関係が対等者間の水平な関係ではなく、上下的な垂直的な関係だという点である。(……)親子、上役と下のもの、先生と生徒、師匠と弟子、など一定の社会秩序を内容とするものである。(……)したがって、二項関係の直接性は、本当の直接性、すなわち独立の個人の間の接触ではなく、すでにある限定を受けた者同士が、その限定の框の中で、その限定そのものを内容として起る直接性なのである。(森全集12 P74-75)
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ーーこの森有正の引用群は冒頭のラカン文の注釈として実にすぐれている。1970年代にはこういったことが比較的しばしば語られていたが、現在は稀になってしまった。たとえば「中動態」の議論をするときにこういった思考が外されてしまうのはわたくしには信じがたいのだが、その信じがたいことが一流と言われるらしい著者の評判の高い書物で起こっている。エミール・バンヴェニストの中動態の定義――「能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」に依拠しているのもかかわらずである。
さて、もう少し補うとすれば、中井久夫と柄谷行人がよい。
言表行為 énonciation とは、話し手がラング langue を所有する、そのつど更新される行為である(バンヴェニストはそれを正しく、自らのものとする se l'approprie、と述べている) 。主体は言語に先だっては存在しない。主体は、話すかぎりにおいてのみ主体となる。要するに、「主体」など存在しない (従って、「主体性」も言うに及ばず) 、存在するのは話し手だけである。更に言えばーーバンヴェニストが絶えず注意を促しているように ーー対話する人たちしかいない 。(バルト「なぜ私はバンヴェニストを愛するか」Roland Barthes, “Pourquoi j'aime Benveniste” 1974)
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日本の根回し性、日本語の受け取り方を絶えず気にする性質
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一般に、日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」2013年)
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いまさらながら、日本語の文章が相手の受け取り方を絶えず気にしていることに気づく。日本語の対話性と、それは相照らしあう。むろん、聴き手、読み手もそうであることを求めるから、日本語がそうなっていったのである。これは文を越えて、一般に発想から行動に至るまでの特徴である。文化だといってもよいだろう。(中井久夫「日本語の対話性」2002年『時のしずく』所収)
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日本語は本質的に「敬語的」
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…日本語は、つねに語尾において、話し手と聞き手の「関係」を指示せずにおかないからであり、またそれによって「主語」がなくても誰のことをさすかを理解することができる。それはたんなる語としての敬語の問題ではない。時枝誠記が言うように、日本語は本質的に「敬語的」なのである。(柄谷行人「内面の発見」『日本近代文学の起源』1980年)
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前島密がまず「ツカマツル」や「ゴザル」といった語尾を問題にしたことに注意すべきである。「言文一致」が当初からまるで語尾の問題であるかのようになっていったのは、日本語の性質からくる必然だった。日本語は、つねに語尾において、話し手と聞き手の「関係」を指示せずにおかないからであり、またそれによって「主語」がなくても誰のことをさすかを理解することができる。それはたんなる語としての敬語の問題ではない。時枝誠記がいうように、日本語は本質的に「敬語的」なのである。この場合、前島は「ツカマツル」とか「ゴザル」を用いるように提言しているが、それは武士という身分またはそのような「関係」と切りはなすことはできない。(……)
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二葉亭四迷は「敬語なし」の「だ調」を試みたというが、「だ」はやはり相手に対する関係を示しているのだから、広義の“敬語”であることにかわりはない。われわれが話し言葉で「だ」を用いるとき、ふつう同格まはた目下の者との関係においてである。「です」であっても、「だ」であっても、本当は同じことで、関係を超越したニュートラルな表現ではない。にもかかわらず、「だ」調が支配的になっていったのは、それがいわば「敬語なし」に近くみえたからだと思われる。(柄谷行人「内面の発見」『日本近代文学の起源』1980年)
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…………
冒頭に掲げたラカンの日本語論は、ロラン・バルトの日本旅行記『表徴の帝国 L'Empire des signes 』(新訳邦題『記号の国』)に触発されている。 |
ロラン・バルトは自分のエッセーを 『表徴の帝国 L'Empire des signes 』(新訳邦題『記号の国』)と題しているが、 それは 『見せかけの帝国』 l'empire des semblantsを意味する。(ラカン『リチュラテール Lituraterre』 AE19、1971 年)
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次の文に現れる《言葉の空虚な大封筒》(パロールの空虚な大封筒 une grande enveloppe vide de la parole)とは、時枝の風呂敷のことである。
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……日本語には機能接尾辞がきわめて多くて、前接語が複雑であるという特徴から、つぎのように推測することができる。主体は、用心や反復や遅滞や強調をつうじて発話行為を進めてゆくのであり、それらが積み重ねられたすえに(そのときには単なる一行の言葉ではおさまらなくなっているだろうが)、まさに主体は、外部や上部からわたしたちの文章を支配するとされているあの充実した核ではなくなり、言葉の空虚な大封筒のようになってしまうのである、と。したがって、西欧人にとっては主観性の過剰のようにみえること(日本人は、確かな事実ではなく印象を述べるらしいから)も、かえって、空虚になるまで細分化され微粒化されて言語のなかに主体が溶解し流出してゆくようなこといなってしまうのである。(ロラン・バルト『記号の国』1970年)
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バルトはこうも記している。
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(私たちの言語では)主体と神は、追いはらっても追いはらっても、もどってくる。わたしたちの言語のうえに跨がっているからである。これらの事実やほかのさまざまな事実などから、確信することになる。社会を問題にしようと主張するときに、そうするための(道具になる)言語の限界そのものをまったく考えずに問題にしようとしても、いかに愚かしいことであろうか、と。それは、狼の口のなかに安住しながら狼を殺そうと望むようなものだからである。したがって、わたしたちにとっては常軌を逸している文法を習ってみること。そうすれば、すくなくとも、わたしたちの言葉のイデオロギーそのものに疑念をいだくようになる、という利点はもたらされるであろう。(ロラン・バルト『記号の国』1970年)
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このバルトを受け入れるなら、日本人には、日本語を使用して生きるかぎり、主体も一神教的神もない。
ここで時枝の風呂敷についていくらか引いておこう。
時枝は、英語を天秤に喩えた。主語と述語とが支点の双方にあって釣り合っている。それに対して日本語は「風呂敷」である。中心にあるのは「述語」である。それを包んで「補語」がある。「主語」も「補語」の一種類である! (私はこの指摘を知って雷に打たれたごとく感じた)。「行く」という行為、「美しい」という形容が同心円の中心にある。対人関係や前後の事情によって「誰が?」「どこへ?」「何が?」「どのように?」が明確にされていない時にのみ、これを明言する。(中井久夫「一つの日本語観」『記憶の肖像』所収)
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主体的な総括機能或いは統一機能の表現の代表的なものを印欧語に求めるならば、A is Bに於ける“is”であって所謂繋辞copulaである。copulaは即ち繋ぐことの表現である。印欧語に於いては、その言語の構造上、総括機能の表現は、一般に概念表現の語の中間に位して、これを統合する。従ってこれを象徴的に、A-Bの形によって表すのであって、copulaが繋辞と呼ばれる所以である。右のような総括方式における統一形式を私は仮に天秤型統一形式と呼んでいる。この様な形式に対して、国語はその構造上、統一機能の表現は、統一され総括される語の最後に来るのが普通である。
花咲くか。
といった場合、主体の表現である疑問の「か」は最後に来て、「花咲く」という客体的事実を包む且つ統一しているのである。この形式を仮に図をもって示すならば、
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の如き形式を以て示すことが出来る。この統一形式は、これを風呂敷型統一形式と呼ぶことが出来ると思う。(時枝誠記『国語学原論』)
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時枝は印欧語の繋辞について指摘している。
ラカンに戻ろう。
ラカンに戻ろう。
存在論と繋辞
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存在論 ontologieは言語における繋辞 copuleの使用を強調する。繋辞をシニフィアンとして切り離すことによって。…「あるêtre」という動詞に囚われることはS'arrêter au verbe être…ひどく危険だよ。(Lacan, S20, 09 Janvier 1973)
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もし「あるêtre」という動詞がなかったら、「存在」などというものは全くなかったのだが。s'il n'y avait pas le verbe être, il n'y aurait pas d'être du tout. (Lacan, S21, 15 Janvier 1974)
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ここでラカンはS1-S2、最も代表的な列のひとつであれば、主語-述語を繋ぐ「-」という繋辞が存在論の起源だと言っている。繋辞とは事実上ファルスである。
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横棒の機能はファルスと関係ないわけではない。la fonction de la barre n'est pas sans rapport avec le phallus. (Lacan, S20, 16 Janvier 1973)
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ファルスは繋辞 le phallus c'est une copule である。そして、繋辞は大他者と関係がある la copule c'est un rapport à l'Autre。これは、斜線を引かれたA[grand A barré](Ⱥ)の論理と反対である。(ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え」Le dernier enseignement de LacanーーLE LIEU ET LE LIEN 6 juin 2001)
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バルトや時枝の風呂敷等にて見てきたように、繋辞機能が曖昧な日本語においては、厳密なファルスはない。したがってエディプス的父の名は存在しなくても当たり前である。日本語の特性上、そうなのである。
ラカンは「父の名」の仮象性を指摘し、「大他者は大他者はない」、あるいは「大他者は存在しない」とした。
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1959年4月8日、ラカンは「欲望とその解釈」と名付けられたセミネール6 で、《大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と言った。これは、S(Ⱥ) の論理的形式を示している。ラカンは引き続き次のように言っている、 《これは…、精神分析の大いなる秘密である。c'est, si je puis dire, le grand secret de la psychanalyse》と。(ジャック=アラン・ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013年)
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大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ)(ラカン、 S24, 08 Mars 1977)
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これは一神教的神の仮象性にもかかわる。かつまた存在論的形而上学批判でもある。
若き柄谷はすでに「繋辞」の機能と西洋の形而上学を繋げている。
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be動詞は論理学と存在論を自然かつ自明なものとしている。たとえば、“The dog runs”は“The dog is running.”に変形可能であるが、その結果あらゆる出来事や活動に“存在”が介在することになるし、またそのisは繋辞として“The dog is an animal.”というのと同じ論理的判断になってしまうのである。論理学と存在論は、いわば文法的な習性として、西洋の形而上学を不可避的なものにしてきたといってよい。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)
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以上、繋辞機能が曖昧な日本語には、西洋的な主体や神だけでなく存在論もないということになる。したがって、たとえば一神教的神の真の信者になるためには、日本語の使用をおやめになることをおおすすめする。最低限、汝−汝という相互篏入性が覿面なーーアタシの囀りをアナタたち見て!ーーツイッター装置での発言をおやめにならなかったら、徹底的な似非信者のままで終わるだろう。神への愛とは、汝たちに背を向けることから始まる。
(グールドは)演奏家、作曲家、聴衆が分れていない黄金時代を夢みた。
グレゴリア聖歌を唱う者にとって、聴衆のための演奏など思いもよらぬことであった。彼らが唱うとき、彼らを通して神の声が唱う。あるいはそれは天使の声であるかもしれない。しかしそこに集う者たちは聴くためだけではなく秘儀をとりおこなうために来ているのだ。音楽は信徒に語りかけるのではない。彼らに代わって唱われるのであり、しかも聖歌は誰もそれを聴く人間がいなかったとしてもまったく変わることはないはずだ。それは物理的な顕現でしかない。仮りに音楽が聴く者に外部から触れるとしても、そのほんとうの源は聴く者の内部にある。聖歌は音響に姿を変えた祈りとなるのだ。(ミシェル・シュネデール『グールド 孤独のアリア』)
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以下、補足的にこう付け加えておこう。
柄谷行人は「日本精神分析再考(講演)(2008)」にて、ラカンの日本語論に触れながら、今までは《個人において集団的なものがどのように伝わるのか。それに関しては、どうもはっきり》しなかった、とした後、次ぎのようにいっている。 |
ところが、ラカンはそのような問題をクリアしたと思います。それは彼が無意識の問題を根本的に言語から考えようとしたからです。言語は集団的なものです。だから、個人は言語の習得を通して、集団的な経験を継承するということができる。つまり、言語の経験から出発すれば、集団心理学と個人心理学の関係という厄介な問題を免れるのです。ラカンは、人が言語を習得することを、ある決定的な飛躍として、つまり、「象徴界」に入ることとしてとらえました。その場合、言語が集団的な経験であり、過去から連綿と受け継がれているとすれば、個人に、集団的なものが存在するということができます。
このことは、たとえば、日本人あるいは日本文化の特性を見ようとする場合、それを意識あるいは観念のレベルではなく、言語的なレベルで見ればよい、ということを示唆します。(柄谷行人「日本精神分析再考(講演)(2008)」)
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「無意識の問題を根本的に言語から考えようとした」とはいくらか違うが、ーーラカンには前期の「言語のように構造化された無意識」とは別に後期には「言語によって構造化されていない身体的-トラウマ的無意識」があるーー、「集団的な経験を継承する」という意味での象徴的無意識はほぼこれでよい。「ほぼ」としたのは歴史的トラウマの記憶ーー非意味の身体的刻印ーーは、言語と同様に集団的無意識として少なくとも100年近くは継承されるだろうから。
もう一度ラカンをひこう。
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私が「メタランゲージはない」と言ったとき、「言語は存在しない」と言うためである。il n'y a pas de métalangage, c'est pour dire que le langage, ça n'existe pas. (ラカン、S25, 15 Novembre 1977)
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象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(ラカン、S25, 10 Janvier 1978)
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言語は父の名である。C'est le langage qui est le Nom-du-Père(ジャック=アラン・ミレール、tL'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthiques, séminaire 96/97)
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以上により、「象徴界は存在しない」、「父の名は存在しない」となるが、これは象徴界は仮象にすぎないという意味である。
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見せかけ(仮象)はシニフィアン自体のことである Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (ラカン、S18, 13 Janvier 1971)
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別に仮象でも何ら悪いことはない。ただそれを真理と錯覚してはならないだけである。
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真理とは錯覚である die Wahrheiten sind Illusionen。人が錯覚であることを忘れてしまった錯覚である。 真理とは、擦り切れて感覚的力が干上がった隠喩Metaphernである。使い古されて肖像が消え、もはや貨幣としてではなく、金属として見なされるようになってしまった貨幣である。(ニーチェ『道徳外の意味における真理と虚偽について』1873年)
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わたしにとって今や「仮象」とは何であろうか! 何かある本質の対立物では決してない。Was ist mir jetzt »Schein«! Wahrlich nicht der Gegensatz irgendeines Wesens(ニーチェ『悦ばしき知』1882年)
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「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)
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