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2018年12月11日火曜日

人はみなナルシシストである

以下、「マザコンとナルコンの対決」のーー或る意味で徹底的なーー補足である。

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欲動 Trieb は、心的なもの Seelischem と身体的なもの Somatischem との「境界概念 Grenzbegriff」である。(フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)
欲動 Triebeは、心的生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』死後出版、1940年)

心は身体に対する防衛である



ナルシシズムは、心的なナルシシズムと身体的なナルシシズムがある。

心的なナルシシズムというのは、なによりもまず鏡のなかの自分をみてウットリするナルシスのことだ(ナルシスの神話)。

ギリシア神話は、鏡に写る自分自身の姿以外の何物も気に入らなかった若者、そして同じ名の美しい花に姿を変えられてしまった若者をナルキッソスNarzissusと呼んでいる。(フロイト『レオナルド・ダ・ビンチ』1910年)

他方、身体的ナルシシズムとは、たとえばお腹がへったら、他人のことなどどうでもよくなり自分のことだけにかまけるようになる、ということでこれは誰にでもある。

フロイトは苦痛、あるいは歯痛について次のように記している。

器質的な痛苦や不快に苦しめられている者が外界の事物に対して、それらが自分の苦痛と無関係なものであるかぎりは関心を失うというのは周知の事実であるし、また自明のことであるように思われる。これをさらに詳しく観察してみると、病気に苦しめられているかぎりは、彼はリピドー的関心を自分の愛の対象から引きあげ、愛することをやめているのがわかる。(……)W・ブッシュは歯痛に悩む詩人のことを、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している」と述べている。リビドーと自我への関心とがこの場合は同じ運命をもち、またしても互いに分かちがたいものになっている。周知の病人のエゴイズムなるものはこの両者をうちにふくんでいる。われわれが病人のエゴイズムを分かりきったものと考えているが、それは病気になればわれわれもまた同じように振舞うことを確信しているからである。激しく燃えあがっている恋心が、肉体上の障害のために追いはらわれ、完全な無関心が突然それにとってかわる有様は、喜劇にふさわしい好題目である。(フロイト『ナルシシズム入門』1914年)

ーーこれこそまずなによりもの身体的ナルシシズムである。あまり難しく考える必要はない。

フロイトには原ナルシシズム(一次ナルシシズム)と二次ナルシシズムという概念がある。これも基本的には「身体的なナルシシズム」と「心的なナルシシズム」のヴァリエーションである。原ナルシシズムについてはラカン派を中心にいささか難解に語られすぎているが、前提は「身体的なもの」にかかわる。


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以下、難解版への導入を始める。


【原ナルシシズム(一次ナルシシズム)と二次ナルシシズム】

人間は二つの根源的な性対象 ursprüngliche Sexualobjekte を持つ。すなわち、自分自身と世話してくれる女性 sich selbst und das pflegende Weib である。この二つは、対象選択 Objektwahlにおいて最終的に支配的となる dominierend すべての人間における原ナルシシズム (一次ナルシシズム primären Narzißmus) を前提にしている。(フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)

ーー上階には、自己愛 ・母への愛があり、その地階には原ナルシシズムがあるということを言っている。

自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)
われわれはナルシシズム理論について一つの重要な展開をなしうる。そもそもの始まりには、リビドーはエスのなかに蓄積され Libido im Es angehäuft、自我は形成途上であり弱体であった。エスはこのリビドーの一部分をエロス的対象備給 erotische Objektbesetzungen に送り、次に強化された自我はこの対象備給をわがものにし、自我をエスにとっての愛の対象 Liebesobjekt にしようとする。このように自我のナルシシズムNarzißmus des Ichs は二次的なもの sekundärerである。(フロイト『自我とエス』第4章、1923年)

ーー「自我のナルシシズムは二次的なもの」とは「二次ナルシシズム sekundärer Narzißmus 」(フロイト『新精神分析入門』1916年)という形で表現されている。

愛 Liebe は欲動興奮(欲動蠢動 Triebregungen)の一部を器官快感 Organlust の獲得によって自体性愛的 autoerotischに満足させるという自我の能力に由来している。愛は根源的にはナルシズム的 narzißtisch である。(フロイト『欲動とその運命』1915年)
自体性愛Autoerotismus。…性的活動の最も著しい特徴は、この欲動は他の人andere Personen に向けられたものではなく、自らの身体 eigenen Körper から満足を得ることである。それは自体性愛的 autoerotischである。(フロイト『性欲論三篇』1905年)

ーーすなわち二次ナルシシズムとは自我のナルシシズムであり、原ナルシシズムは自体性愛である。

われわれは、女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択 Objektwahl に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである。geliebt zu werden dem Weib ein stärkeres Bedürfnis ist als zu lieben.(フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1916年)
・同性愛の対象選択 homosexuelle Objektwahl は本源的に、異性愛の対象選択に比べナルシシズムに接近している。

・われわれは、ナルシシズム的型対象選択への強いリビドー固着 starke Libidofixierung を、同性愛が現れる素因のなかに包含する。 (フロイト『精神分析入門』第26章 「Die Libidotheorie und der Narzißmus」1916年)

ーー「二次ナルシシズムの素因」つまり「原ナルシシズム」とは「強いリビドー固着」にかかわる、ということが言われている。後述するが、このリビドー固着が自体性愛の核心である。


(精神分析において)決定的な役割を演じたのは、ナルシシズム概念が導入されたことである。すなわち、自我自身がリビドーにもまつわりつかれている(備給されているbesetzt)こと、事実上、自我はリビドーのホームグラウンド ursprüngliche Heimstätte であり、自我は或る範囲で、リビドーの本拠地 Hauptquartier であることが判明したことである。

このナルシシズム的リビドー narzißtische Libido は、対象に向かうことによって対象リビドー Objektlibido ともなれば、ふたたびナルシシズム的リビドーの姿に戻ることもある。

ナルシシズムの概念が導入されたことにより、外傷神経症 traumatische Neurose、数多くの精神病に境界的な障害 Psychosen nahestehende Affektionen、および精神病自体の精神分析による把握が可能になった。(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第6章、1930年)
精神分析は、精神神経症 Psychoneurosen、しかもそのうちの「転移神経症Übertragungsneurosen」と呼ばれるグループ(ヒステリー と強迫神経症)を最初の対象とした。…他の神経症的疾患 neurotischen Affektionen (なかんずく、ナルシシズム精神神経症 narzißtischen Psychoneurosen、つまり精神分裂病 Schizophrenien)を徹底的に研究すれば、…原欲動 Urtriebeをまた別の違った形に分類する必要が生じると思われる。(フロイト『欲動とその運命』1915年)


ーー外傷神経症・精神分裂病・精神病(+境界症状)が、原ナルシシズムと近似した症状として語られている。


エスや超自我のなかにリビドーの振舞いの何ものかを言うのは困難である。リビドーについてわれわれが知りうるすべては、自我に関わる。自我のなかにすべての利用可能なリビドー量 Betrag von Libido が蓄積される。われわれはこれを絶対的な、原ナルシシズム(一次ナルシシズム primären Narzissmus)と呼ぶ。この原ナルシシズムは、自我がリビドーを以って対象表象 Vorstellungen von Objekten に備給 besetzenし、ナルシシズム的リビドー narzisstische Libido を対象リビドー Objektlibido に移行させるまで、続く。(フロイト『精神分析概説』第2章、死後出版1940年)

ーー「自我のなかのリビドーの蓄積」が「原ナルシシズム」にかかわる。

………………


【原ナルシシズム・自体性愛・自閉症的享楽・自ら享楽する身体】



丸括弧のなかの (-φ) という記号(去勢の記号)は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では投影されず ne se projette pas、心的エネルギーのなかに充当されない ne s'investit pas 何ものかである。

この理由で(-φ)とは、これ以上削減されない irréductible 形で、次の水準において深く充当(カセクシス=リビドー化)されたまま reste investi profondément である。

ーー自身の身体の水準において au niveau du corps propre

ーー原ナルシシズム(一次ナルシシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire

ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme

ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste

(ラカン、S10、05 Décembre 1962 )

ーー自身の身体、原ナルシシズム、自体性愛、自閉症的享楽が等置されていることに注意しよう。自閉症的享楽とは「身体の享楽」、「女性の享楽」、ファルス享楽の彼岸にある「他の享楽」のことであり、これこそラカンのサントーム(原症状)の反復強迫(自動的享楽)のことである。

自閉症的享楽としての身体自体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (ミレール、 LE LIEU ET LE LIEN 、2000)
・自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。

・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。(ミレール2011, L'être et l'un)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011)


身体の出来事とは、トラウマの出来事(心的なものの外部の出来事)のことである。

身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard …この身体の出来事は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation (ジャック=アラン・ミレール 、L'Être et l'Un 、2 février 2011)
症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

ーーこの症状とは原症状(サントーム)のこと。

サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (Miller, L'Être et l'Un、30 mars 2011)

とはいえ、これらのラカンジャーゴンは、すべて次のフロイトの表現にかかわる。

自体性愛Autoerotismus。…性的活動の最も著しい特徴は、この欲動は他の人andere Personen に向けられたものではなく、自らの身体 eigenen Körper から満足を得ることである。それは自体性愛的 autoerotischである。(フロイト『性欲論三篇』1905年)



【ルー・アンドレアス・サロメの原ナルシシズム 】

サロメは、フロイトを原ナルシズム概念創出に導いた。




鏡には奇妙なことがあるわ。鏡を見つめた時、すこし途方に暮れたわ。私が見るものだけがとってもはっきり見えるなんて。とっても限られ、とっても縁どられて。ひどく押しつけられて。残りのものは、最も親密なものでさえ、見えなくなってしまう。

das war eine sonderbare Angelegenheit mit unsern Spiegeln. Wenn ich da hineinzuschauen hatte, dann verdutzte mich gewissermaßen, so deutlich zu erschauen, daß ich nur das war, was ich da sah: so abgegrenzt, eingeklaftert: so gezwungen, beim Übrigen, sogar Nächstliegenden einfach aufzuhören. (ルー・アンドレアス・サロメ Lou Andreas-Salomé: Lebensrückblick
人が見つめるものは、見られ得ないものである。Ce qu’on regarde, c’est ce qui ne peut pas se voir(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン、S7、03 Février 1960)

ーー《対象a とは外密的である。l'objet(a) est extime》(ラカン、S16、26 Mars 1969)



【享楽=欲動=自体性愛】
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。

…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(ジャック=アラン・ミレール 、 L'Être et l 'Un - Année 2011 、25/05/2011)



【享楽=去勢=自体性愛】
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)
《自体性愛 auto-érotisme》という語の最も深い意味は、自身の欠如 manque de soiである。欠如しているのは、外部の世界 monde extérieur ではない。…欠如しているのは、自分自身 soi-même である。(ラカン、S10, 23 Janvier 1963
ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、己れの身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)

ーー原ナルシシズム(自体性愛)の原因は「去勢」だとされている。



【自体性愛=異物愛】
フロイトは性的現実を自体性愛的と呼んだ。だがラカンはこの命題に反対した。性的現実は興奮・小さな刺し傷との遭遇に関係する。「遭遇」が意味するのは、自体性愛的ではなく、ヘテロ的、異物的である。(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )
フロイトは、幼児が己れの身体 propre corps に見出す性的現実 réalité sexuelle において「自体性愛 autoérotisme」を強調した。…私は、これに不賛成 n'être pas d'accordである。…

自らの身体の興奮との遭遇は、まったく自体性愛的ではない。身体の興奮は、ヘテロ的である。la rencontre avec leur propre érection n'est pas du tout autoérotique. Elle est tout ce qu'il y a de plus hétéro. (LACAN CONFÉRENCE À GENÈVE SUR LE SYMPTÔME、1975)

ーーこの発言後、ラカンは症例ハンスをめぐって語り、「自体性愛 autoérotisme」に反対する理由を、「異物 (異者étrangère)」という語によって説明している。要するに、上の文に現れる「ヘテロ的 hétéro」とは、「異性の」という意味ではなく、「異物の」という意味である。

一般的に、幼児のセクシャリティは厳密に自体性愛的だと言われる。だが、私の観点からは、これはフロイトとその幼児性愛の誤った読解である。

…幼児は部分欲動から来る興奮を外的から来る何か、ラカンが文字「a」にて示したものとして経験する。幼児はこの欲動を統御できない。この欲動を、全体としての身体自体に帰するものとして経験することさえできない。唯一、母(母なる大他者)の反応を通してのみ、子どもは、心理的には、自分の身体にアクセス可能なのである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Sexuality in the Formation of the Subject、2005年)


【異物=内界にある自我の異郷】
通常、抑圧された欲動興奮 verdrängende Triebregung は分離 isoliert されたままでいる。これは、抑圧作用は自我の強さを示すものであるとともに、自我の無力さOhnmachtの証明であり、エスの欲動興奮 Triebregung des Es は影響を受けないことを証明するものである。…この欲動興奮は、いわば治外法権 Exterritorialität にある。……

われわれがずっと以前から信じている比喩では、症状をある異物 Fremdkörper とみなして、この異物としての症状 Symptom als einen Fremdkörper は、埋没した組織の中で、たえず刺激現象や反応現象を起こしつづけていると考えた。もっとも症状形成 Symptombildung によって、好ましからぬ欲動興奮 Triebregung にたいする防衛の闘い Abwehrkampf は終結してしまうこともある。われわれの見るかぎりでは、それはヒステリー的転換でいちばん可能なことだが、一般には異なった経過をとる。つまり、最初の抑圧作用 Akt der Verdrängung についで、ながながと終りのない余波がつづき、欲動興奮にたいする闘いは、症状にたいする闘いとなってつづくのである。

この二次的な防衛闘争 sekundäre Abwehrkampf においては、…自我は、症状の異郷性 Fremdheitと孤立性 Isolierung を取り除こうとするものと考えられる。daß das Ich auch versucht, die Fremdheit und Isolierung des Symptoms aufzuheben


…症状によって代理されるのは、内界にある自我の異郷 ichfremde 部分である。…ichfremde Stück der Innenwelt statt, das durch das Symptom repräsentiert wird (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)

ーーここにはフロイト理論の核心のひとつがある。いや、フロイト・ラカン派精神分析の核心が。



【異物=母による「身体の上への刻印」】
骨(骨象)、文字対象a [« osbjet », la lettre petit a]( Lacan, S23、11 Mai 1976)
後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸』2001年)

ーー「身体の上への刻印」(身体の上に突き刺さった骨)とは、幼児の欲動興奮(欲動蠢動 Triebregungen)という奔馬を飼い馴らすための最初の鞍《母なるシニフィアン signifiant maternel》《原シニフィアン premier signifiant》(ラカン、S5)と等価である。

(フロイトによる)モノは母である das Ding, qui est la mère,(ラカン、 S7、16 Décembre 1959)
私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン、S7、03 Février 1960)

ーー《対象a とは外密である。l'objet(a) est extime》(ラカン、S16、26 Mars 1969)

外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである。…外密はフロイトの 「不気味なものUnheimlich 」である。(ジャック=アラン・ミレール 、Jacques-Alain Miller、Extimité、13 novembre 1985)

ーー「異物 Fremdkörper」=《異者としての身体 un corps qui nous est étranger 》(S23, 11 Mai 1976)

トラウマ、ないしその記憶は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)



【原去勢=喪われた子宮内生活】
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。このコンプレクスのこれらすべての根源を容認したうえで、私はしかし、去勢コンプレクスという名称はペニスの喪失と結びついた興奮や影響にかぎるべきであると主張した。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年第10章)
乳児にいちばん強烈な印象を与えるものは、自分を興奮源泉 Erregungsquellen のうちのある種のものは ーーそれが自分自身の身体器官に他ならないということが分かるのはもっとあとのことであ るーーいつでも自分に感覚 Empfindungen を供給してくれるのに、ほかのものーーその中でも自分がいちばん欲しい母の乳房 Mutterbrust――はときおり自分を離れてしまい、助けを求めて泣き叫ばなければ自分のところにやってこないという事実であるに違いない。ここにはじめて、自我にたいして 「対象 Objekt」が、自我の「そと außerhalb」にあり、自我のほうで特別の行動を取らなければ現われてこないものとして登場する。(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第1章、1930年)



【リビドー固着=母の徴】
誘惑者 Verführerin はいつも母である。…幼児は身体を清潔にしようとする母の世話によって必ず刺激をうける。おそらく女児の性器に最初の快感覚 Lustempfindungen を目覚めさせるのさえ事実上は母である。(フロイト『新精神分析入門』1933年)
母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者Verführerin」になる。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

この原誘惑者による身体の上への刻印が、リビドー固着である。

精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字-固着 lettre-fixion、文字-非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレール、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)
「一」Unと「享楽」jouissanceとの結びつき connexion (サントーム)が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、L'être et l'un、IX. Direction de la cure、2011年)


以上、原ナルシシズム、すなわち「人はみなナルシシストである」とは「人はみな原マザーコンプレクス」だということである。通常に言われるマザコンとは「二次マザーコンプレクス」にすぎない。

〈母 Mère〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」であり⋯⋯⋯「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)


母の徴の残存物が、異物としてエスの核に居残っていること。これが欲動理論の核心である。




エスの内容の一部分は、エゴに取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、正規の無意識としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』、1938年)
人の発達史 Entwicklungsgeschichte der Person と人の心的装置 ihres psychischen Apparatesにおいて、…原初はすべてがエスであった Ursprünglich war ja alles Esのであり、自我Ichは、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態 vorbewussten Zustand に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核 dessen schwer zugänglicher Kern として置き残された 。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…

いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残存物 Reste が保たれていることもありうる。…一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

先ほどの「ボロメオの環」変奏図のマテームを書き直そう。



ーーこれは簡略化であり、ここまで記してきた内容を前提としなくてはないらない。さらに補足として以下の文を掲げる。

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
我々はみな現実界のなかの穴を塞ぐ(栓する)[combler le trou dans le Réel]ために何かを発明する。現実界は …「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」をつくる。(ラカン、S21、19 Février 1974)
ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために「置き残される(居残る)」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ, BEYOND GENDER From subject to drive by Paul Verhaeghe、2001)
『心理学草稿』1895年以降、フロイトは欲動を「心的なもの」と「身体的なもの」とのあいだの境界にあるものとして捉えた。つまり「身体の欲動エネルギーの割り当てportion」ーー限定された代理表象に結びつくことによって放出へと準備されたエネルギーの部分--と、心的に飼い馴らされていないエネルギーの「代理表象されない過剰」とのあいだの閾にあるものとして。

最も決定的な考え方、フロイトの全展望においてあまりにも基礎的なものゆえに、逆に滅多に語られない考え方とは、身体的興奮とその心的代理との水準のあいだの「不可避かつ矯正不能の分裂 disjunction」 である。

つねに残余・回収不能の残り物がある。一連の欲動代理 Triebrepräsentanzen のなかに相応しい登録を受けとることに失敗した身体のエネルギーの割り当てがある。心的拘束の過程は、拘束されないエネルギーの身体的蓄積を枯渇させることにけっして成功しない。この点において、ラカンの現実界概念が、フロイトのメタ心理学理論の鎧へ接木される。想像化あるいは象徴化不可能というこのラカンの現実界は、フロイトの欲動概念における生(ナマ raw)の力あるいは衝迫 Drangの相似形である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN, 2001)

⋯⋯⋯⋯

※付記

以下、フロイトにおける用語使用例をいくつか掲げておく。

【トラウマ】
われわれは「外傷的(トラウマ的 traumatisch)」という語を次の経験に用いる。すなわち「外傷的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、トラウマへの固着、無意識への固着 1916年)
経験された無力な状況(寄る辺なき状況 Situation von Hilflosigkeit )をトラウマ的 traumatische 状況と呼ぶ 。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
・われわれの研究が示すのは、神経症の現象 Phänomene(症状 Symptome)は、或る経験Erlebnissenと印象 Eindrücken の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traumen」と見なす。…

・トラウマは、自身の身体への経験 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungenである 。

・問題となる経験は、性的性質と攻撃的性質 sexueller und aggressiver Natur の印象に関係する。そしてまた疑いなく、初期の自我への傷 Schädigungen des Ichs である(ナルシシズム的屈辱 narzißtische Kränkungen)。

・これらは⋯⋯⋯トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約される。

そして(この固着と反復強迫は)、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。…(フロイト『モーセと一神教』1939年)


【固着】
母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母 への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への従属 Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版 1940 年)
幼児期に「現在は忘却されている過剰な母との結びつき übermäßiger, heute vergessener Mutterbindung 」を送った男は、生涯を通じて、彼を依存 abhängig させてくれ、世話をし支えてくれる nähren und erhalten 妻を求め続ける。(フロイト『モーセと一神教』1939年)

ーー「母へのエロス的固着」とは「原マザーコンプレクス」と言い換えうる。

リビドーは、固着Fixierung によって、退行 Regression の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残るzurückgelassen)のである。

実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」1916年)

ーー「幼児期の純粋な出来事的経験」、これこそラカンによるサントームの定義「身体の出来事」である。



【マザーコンプレクスと娼婦愛】
男児は、母が性交を、彼自身とではなく父とすることを許さない。彼は、それを(娼婦と同様な)不貞な行為と見なす。……

こうして我々は心的発達の断片への洞察を得た。…娼婦愛 Dirnenliebe…娼婦のような対象を選択する愛の条件 Liebesbedingung は、直接的にマザーコンプレックス Mutterkomplex に由来するのである。……

ある種の男性の愛の型…それは思春期において形成された幻想への固着にある。それが結局、後の実際の生活に出現するための隘路を見出すのである。……

(娼婦の)救出モチーフ Rettungsmotiv は、…マザーコンプレクス、より正確には親コンプレクス Mutter- oder, richtiger gesagt, des Elternkomplexe の独立した派生物である。(フロイト『男性における対象選択のある特殊な型について Uber einen besonderen Typus der Objektwahl beim Manne』1910年)

ーー娼婦愛とは、わたくしにとってなによりもまず吉行淳之介を想い起させる。


さて、こられのことはラカン派で最も多用されるトーラス円図を眺めただけでは見えてこない。




ボロメオの環には多くの人が抵抗があるだろうから、さきほど図示した図の下部をカットして示せば、こうしてトーラス円状にしてはじめて見えてくるものがある。


たとえばラカンのいう母なる超自我と父なる超自我(自我理想)が見えてくる。

母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…母なる超自我に属する全ては、母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S5, 02 Juillet 1958)

 フロイト的には、母なる超自我とは「偉大な母なる神」である。

「偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯⋯だが母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』)。


もっとも厳密にいえば、ラカンが示した自我のポジションは上の図とは異なる。







ラカンが示した内容を他のマテーム内実も含めて代入すれば次のようになる。