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2018年12月9日日曜日

マザコンとナルコンの対決

ああ、男はみなマザコンだよ、その強度の差はあれね。

で、女ってのはなんなんだい? 「正常」ってわけかい? 女ってのはナルコンだよ、ナルシシズムコンプレクス(観念複合)だよ、ほとんどの場合ね。

マザコンとナルコンの対決なだけさ。

ラカンがセミネール10で示しているトーラス円図が何種類もあるけれど、そのなかの男女関係にかかわるものを抜き出せば次の図がある。




最後の右側の円の大他者とは、もともとは母。

全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母 mère qui dit, - mère à qui l'on demande, - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.(ラカン、S17、11 Février 1970)

この大他者の場に女が入るのが第一番目の図。標準的な女は「母との同一化」をするからな。

母との同一化とは、母の場に自らを置き、①母が彼女を愛したように自らを愛する。②母が父から愛されたように父から愛される、ということ。③のちに父は男に変換される(場合が多い)。

女性の母との同一化 Mutteridentifizierung は二つの相に区別されうる。つまり、①前エディプス期 präödipale の相、すなわち母への愛着 zärtlichen Bindung an die Mutterと母をモデルとすること。そして、②エディプスコンプレックス Ödipuskomplex から来る後の相、すなわち、母から逃れ去ろうとして、母の場に父を置こうと試みること。(フロイト『続・精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」、1933年)
女児の人形遊び Spieles mit Puppen、これは女性性 Weiblichkeit の表現ではない。人形遊びとは、母との同一化 Mutteridentifizierung によって受動性を能動性に代替する Ersetzung der Passivität durch Aktivität 意図を持っている。女児は母を演じているのである spielte die Mutter。そして人形は彼女自身である Puppe war sie selbst。(フロイト『続・精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」1933年)

母との同一化は、原初の母子関係に必ずあるマザコンから逃れる方法なのさ。

母との同一化は、母との結びつきの代替となりうる。Die Mutteridentifizierung kann nun die Mutterbindung ablösen(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

で、おめでとう、マザコンさらば! ということになる。

二個の者が same space ヲ occupy スル訳には行かぬ。甲が乙を追い払うか、乙が甲をはき除ける二法あるのみぢや。甲でも乙でも構はぬ強い方が勝つのぢや。理も非も入らぬ。えらい方が勝つのぢや。上品も下品も入らぬ図々敷方が勝つのぢや。賢も不肖も入らぬ。人を馬鹿にする方が勝つのぢや。礼も無礼も入らぬ。鉄面皮なのが勝つのじや。人情も冷酷もない動かぬのが勝つのぢや。(夏目漱石「断片」 明治38−39年)

男には基本的にはこれはおこらない。だからマザコンのままなのさ、その多寡はあれ。

男性の場合、栄養の供給や身体の世話などの影響によって、母が最初の愛の対象 ersten Liebesobjekt となり、これは、母に本質的に似ているものとか、彼女に由来するものなどによって置き換えられるようになるまでは、この状態がつづく。

女性の場合にも、母は最初の対象 erste Objekt であるにちがいない。対象選択 Objektwahl の根本条件は、すべての小児にとって同一なのである。しかし、発達の終りごろには、男性である父が愛の対象となるべきであって、というのは、女性の性の変換には、その対象の性の変換が対応しなくてはならないのである。(フロイト『女性の性愛』1931年)

もっともかつては父が機能していたから、いくらかマザコン度はすくなかったさ。でもフェミニストたちの家父長制打倒!というスローガンのもと、父は蒸発しちゃったからな。いっそうマザコン男が跳梁跋扈するようになったのさ、21世紀は。

父の隠喩は、母を女に移行する La métaphore paternelle transforme la mère en femme。(LES TROIS PERES ou la fonction paternelle
エディプスコンプレックスにおける父の機能 La fonction du père とは、他のシニフィアンの代わりを務めるシニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel である。……「父」はその代理シニフィアンであるle père est un signifiant substitué à un autre signifiant。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)


フロイト的に言えばこうだ。

父との同一化、つまり自らを父の場に置くこと。Identifizierung mit dem Vater, an dessen Stelle er sich dabei setzte. (フロイト『モーセと一神教』1939年)

で現在、父と同一化しようがなくなっちまったのさ。

単純な場合、男児では次のように形成されてゆく。非常に幼い時期に、母にたいする対象備給 Mutter eine Objektbesetzung がはじまり、対象備給は哺乳を出発点とし、依存型 Anlehnungstypus の対象選択の原型を示す一方、男児は同一化 Identifizierung によって父をわがものとする。この二つの関係はしばらく並存するが、のちに母への性的願望 sexuellen Wünsche がつよくなって、父がこの願望の妨害者であることをみとめるにおよんで、エディプス・コンプレクスを生ずる。ここで父との同一化 Vateridentifizierung は、敵意の調子をおびるようになる、母にたいする父の位置を占めるために、父を除外したいという願望にかわる。そののち、父との関係はアンビヴァレントになる。最初から同一化の中にふくまれるアンビヴァレントは顕著になったようにみえる。この父にたいするアンビヴァレントな態度と母を単なる愛情の対象として得ようとする努力が、男児のもつ単純で積極的なエディプス・コンプレクスの内容になるのである。

エディプス・コンプレクスが崩壊するときには、母の対象備給 Objektbesetzung der Mutter が放棄(止揚 aufgegeben)されなければならない。そしてそうなるためには二通りの道がありうる。すなわち、母との同一化 Identifizierung mit der Mutter か父との同一化の強化 Verstärkung der Vateridentifizierung のいずれかである。後者の結末を、われわれはふつう正常なものとみなしている。これは、母にたいする愛情の関係をある程度までたもつことをゆるす。(フロイト『自我とエス』1923年)

ーーいやあ、この文、オレ嫌いだけど、ま、しょうがないや、父との同一化を示すためには。

さっき掲げたラカンのセミネール10の三つのトーラス円図を組み合せれば、こうだ。





(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)

で、-φ の上の φ とは、《フェティッシュとしての見せかけ [semblant comme le fétiche]》(ミレール 、la Logique de la cure 、1993)

フェティッシュとしての見せかけφとは、ラカン派で基本的に使用されるマテームであるなら、見せかけとしてのa。

つまりこういうこと。



さきほど引用したフロイトの男女の発達段階的相をこのマテームを使ってトーラス円図で示せば、次のようになる。




ああ、存在自体がフェティシスト(a = 見せかけ φ ーーの女!

女は、見せかけ semblant に関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、S18, 20 Janvier 1971)

これが男性の愛の《フェティッシュ形式 la forme fétichiste》 /女性の愛の《被愛マニア形式 la forme érotomaniaque》(ラカン、E733、1960年)ってことだよ。で被愛マニアの実践として、女性の仮装性がある。

女性が自分を見せびらかし s'exhibe、自分を欲望の対象 objet du désir として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルス ϕαλλός [ phallos ] と同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス ϕαλλός désiré、他者の欲望のシニフィアン signifiant du désir de l'autre として位置づける。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装性 mascarade féminine と呼ぶことのできるものの彼方 au-delà に位置づけるが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからである。この同一化は、女性性 féminité ともっとも密接に結びついている。(ラカン、S5、23 Avril 1958)

「女性は関係性を大切にする」という表層的で雑なラカン注釈がフェミニストたちに好まれて巷間に流通しているが、その真の意味は、女性は自ら想像的ファルスとなって関係性を求めるということで、女は存在自体がフェティシストってことだよ(参照)。

これが被愛マニアや女性の仮装性の第一の意味。

女の最大の技巧は仮装 Luege であり、女の最大の関心事は見せかけ Schein と美しさ Schoenheit である。(ニーチェ『善悪の彼岸』232番、1886年)

ーーいやあ、これでぜんぜん悪くはないさ。

女は仮面であるからこそ、男の欲望 Verlangen des Mannes を最も強く刺激するのである。(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』第1部405番、1878年)
男を女へと結びつける魅力について想像してみると、「擬装した人 travesti」として現れる方が好ましいのは広く認められている。仮面 masques の介入をとおしてこそ、男と女はもっとも激しく、もっとも燃え上がって la plus aiguë, la plus brûlante 出会うことができる。(ラカンS11、11 mars 1964)

ーーああ、愛すべき女たち!

女のほうが完全に勝っているのを認めるのに吝かではないさ。おまんこの吸引力があるからな、抵抗しようがないさ。





でも大切なのは、男たちのマザコンをバカにするんじゃなくて、自らのナルコンぶりをまず自覚することだよ、わかるかい?

他人のなすあらゆる行為に際して自らつぎのように問うて見る習慣を持て。「この人はなにをこの行為の目的としているか」と。ただしまず君自身から始め、第一番に自分を取調べるがいい。(マルクス・アウレーリウス『自省録』神谷美恵子訳)


ーーああおバカなこと書いちまったな、ま、いいか。日曜日だからな。

でもどうみたって男は勝ち目がないや、こういうことされたら。





※補足→ 人はみなナルシシストである