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2018年5月27日日曜日

女性は存在自体がフェティシストである

根本幻想 le fantasme fondamental とは、《窓の枠組みの上に位置づけられた絵 un tableau qui vient se placer dans l'encadrement d'une fenêtre》であり、この《馬鹿げたテクニック Technique absurde》は、人が《窓から見えるものを見ない ne pas voir ce qui se voit par la fenêtre》(Lacan, S10)ようにすること、すなわち大他者のなかの穴 Ⱥ を見ないことにある。

絵  tableauとは、ラカン用語においては対象aのことでもある。

主体の眼差しは、常に-既に、知覚された対象自体にシミとして書き込まれている。シミ、すなわち「対象以上の対象」(対象a)に。その盲点から対象自体が主体を眼差し返す。《確かに絵は、私の目のなかにある。だが私自身、この私もまた、絵のなかにある。le tableau, certes est dans mon oeil, mais moi je suis dans le tableau. 》 (ラカン、S11) (ジジェク、パララックス・ヴュ―、私訳)

したがって、ラカンの幻想の式 $ ◊ a とはより厳密に記せば、$ ◊ a ◊ Ⱥ である(ポール・バーハウ2004による注釈:[参照])。

バーハウは以前には(1998)、次のようにも記している。



−φとは、母のペニスの欠如(母のファルス)のことである。

足は、不当にも欠けている女性のペニスを代替する。Der Fuß ersetzt den schwer vermißten Penis des Weibes. (フロイト『性欲論』1905)
フェティッシュは女性のファルス(母のファルス)の代理物である。der Fetisch ist der Ersatz für den Phallus des Weibes (der Mutter) フロイト『フェティシズム』1927)

したがって a/ −φ の上辺の「a」は、基本的にはフェティッシュのことである。

ある時期のラカンは、これを「ファルス」と言っている。

母のペニスの欠如は、ファルスの性質が現われる場所である。sur ce manque du pénis de la mère où se révèle la nature du phallus(ラカン「科学と真理」1965、E877)

ここでラカンが言っている「ファルス」とは、なによりもまず「想像的ファルス phallus imaginaire」のことである。

(象徴的ファルスとは異なった)他のファルスは、母の想像的ファルスである。un autre phallus c'est le phallus imaginaire de la mère. (ラカン、S4、22 Mai 1957)

想像的ファルスとはフェティッシュのことである。 人はフェティッシュが必要なのである。それを「人はみな穴埋めする」とも呼ぶ。人はみな、欲望する存在であれば、フェティシストである。 

欲望の原因としてのフェティッシュ le fétiche cause le désir ⋯⋯⋯

フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (Lacan, S10、16 janvier l963)

ーー究極的には「言語自体がフェティッシュである」という観点もあるが、それについてはここでは触れない(参照)。

前期ラカンは、男のリーベ(愛+欲望)の《フェティッシュ形式 la forme fétichiste》 /女のリーベ(愛+欲望)の《被愛マニア形式 la forme érotomaniaque》(Lacan, E733)と言った。

だが、女性の《被愛マニア形式 la forme érotomaniaque》とは、女性が自らフェティッシュ(他者の欲望のシニフィアン)に仮装することであり(参照:「女性の仮装 la mascarade féminine」)、女性とは(基本的に)存在自体がフェティシストなのである(他方、男性は、フェティッシュという「欲望の原因/対象」に衝き動かされる)。

すなわち、《男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」である》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)。

女性と対象a(フェティッシュ)とのかかわりについては、女流ラカン派臨床家の Florencia Farìasがつぎのように記している。

彼女は、パートナーの幻想が彼女に要求する対象であることを見せかける。見せかけることとは、欲望の対象であることに戯れることである。彼女はこの場に魅惑され、女性のポジション内部で、享楽する jouisse。しかし彼女は、この状況から抜け出さねばならない。というのは、彼女はいつまでも、対象a(欲望の対象–原因)の化身ではありえないから。彼女が「a」のまま reste là comme a・対象のままcomme objet なら、ある種のマゾヒスティックポジションに縛りつけられたままだ elle reste enchainée dans une sorte de position masochiste と言うのは、誇張ではない。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、PDF

女性が対象aのままなら、《ある種のマゾヒスティックポジションに縛りつけられたまま》とあるが、ドゥルーズが既に言っているように、《本源的な意味でのフェティシズムなきマゾヒズムはない Il n’y a pas de masochisme sans fétichisme au sens premier》(ドゥルーズ 、マゾッホ論、1967)

女性はなぜそうなのか。しばしば語られてきた最も基本的説明はこうである。

①男女とも最初の愛の対象は女である。つまり最初に育児してくれる母=女である。

②男児は最初の愛のジェンダーを維持できる。つまり母を他の女に変えるだけでよい。

③女児は愛の対象のジェンダーを取り替える必要がある。その結果、母が彼女を愛したように、男が彼女を愛することを願う。

ーーここに女性が他者の欲望の対象となるメカニズムがまずある。

もうひとつの重要な説明は、次のジジェク文にある。

ラカンの定式において、フェティシストの対象は、−φ (去勢)の上の「a」である。すなわち去勢の裂け目を埋め合わせる対象a である(a/−φ)。(⋯⋯)

(何の不思議でもない、女たちが男たちよりももっと覆わなければならないのは。隠されるものは、ペニスの欠如である…)。(ジジェク『パララックス・ヴュ―』2006)
ジャック=アラン・ミレールによって提案された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、《我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ。Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien》(Miller, Des semblants dans la relation entre les sexes、1997)

これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは見せかけと同様に空虚を隠蔽する、見せかけが無のヴェールであるように。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012, 私訳)

ジャック=アラン・ミレールは、女性性と無をめぐって、次のように記している。

我々は、「無 le rien」と本質的な関係性を享受する主体を、女たち femmes と呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女たちである主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している。 (Jacques-Alain Miller, "Des semblants dans la relation entre les sexes", 1997)

ーーなぜ《女たちである主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している》のかは、もはや繰り返さない(参照:男は、ファルスを持った女である)。

ここでラカン自身からも引用しておこう。

女は、見せかけ semblant に関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、S18, 20 Janvier 1971)


さて冒頭の話に戻れば、幻想の式「$ ◊ a ◊ Ⱥ 」とは、次のように図示できる。



後年のラカンは、象徴界は穴と言っている。

・現実界 [ le réel ] は外立 [ ex-sistence]
・象徴界[ le symbolique ] は穴 [ trou ]
・想像界 [ l'imaginaire ] は一貫性 [ consistance ](ラカン、S22)

想像的ファルス(フェティッシュとしての「対象a」)によって、象徴界の穴Ⱥを塞ぐことにより、主体$は欲望することができる。

穴とは「性関係はない」ことでもある。

穴、それは非関係・性を構成する非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport, le non-rapport constitutif du sexue(ラカン、S22, 17 Décembre 1974)
我々はみな現実界のなかの穴を塞ぐ(穴埋めする)ために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」をつくる。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974 )

ところで対象aとは、穴埋めとしての対象a(見せかけとしての対象a)と穴自体としての対象aがある。

見せかけsemblantとしての対象aは、セミネール20「アンコール」にて次のように示されている。


他方、ラカンは次のように穴としての対象aを語っている。

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S18, 27 Novembre 1968)

この内容は、すでにセミネール11にも表れている。

我々は、欲動が接近する対象について、あまりにもしばしば混同している。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)


ゆえに、穴としての原対象aを塞ぐ想像的対象a(見せかけとしての対象a)があるということになる。

すなわち「i(a)/a」である。 これが上にバーハウ、あるいはジジェクが記している「a/−φ」のことである。

したがって、さきほど掲げた図の中心にある「a」とは、この両方の「a」を示している。



ーーこの図は、こうやって赤く塗ってみると、なにかに似ている気がするが、気のせいであろう・・・





多くの学者が指摘しているが、西洋の究極の性のシンボル、ハートは、ヴァギナを表したものにほかならない。確かに生殖器が興奮し、自分の意志で陰唇が開いた状態にあるとき、ヴァギナの見える部分の輪郭は紛れもなくハートの形をしている。(キャサリン・ブラックリッジ『ヴァギナ 女性器の文化史 』)

・・・なにはともあれ、いま記した内容が、ジジェクが次のように言っていることである。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 vide をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016, pdf)

※参照:欠如と穴(簡略版)