このブログを検索

2017年11月8日水曜日

真珠貝と砂粒

以下、わたくしが知る限り(あるいは理解出来うる範囲での)、症状形成の最も明晰、簡潔なポール・バーハウによる説明である。

フロイトのよく知られた隠喩、砂粒のまわりに真珠を造る真珠貝…。砂粒とは現実界とテュケーの審級であり、この砂粒に対して防衛されなければならない。真珠は砂粒へのオートマン-反応であり、封筒あるいは容器、すなわち症状の可視的な外部である。内側には、元来のリアルな出発点が、「異物」として影響をもったまま居残っている。

フロイトはヒステリーの事例にて、「somatic compliance(身体からの反応 Somatisches Entgegenkommen)」ーー身体の何ものかが、いずれの症状の核のなかにも現前しているという事実ーーについて語っている。フロイト理論のより一般的用語では、この「Somatisches Entgegenkommen」とは、いわゆる「欲動の根」、あるいは「固着」点である。ラカンに従って、我々はこの固着点のなかに、対象a を位置づけることができる。症状形成の回路図を示せば次の通り。(ポール・バーハウ 2004, On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics, Paul Verhaeghe)


⋯⋯⋯⋯

まず、上の症状形成回路図の語彙群をフロイト・ラカンを中心に注釈引用する。


【第一段階:対象a、トラウマ的現実界、「過剰」】




◆トラウマ的現実界
経験された無力の(寄る辺なき)状況 Situation von Hilflosigkeit をトラウマ的 traumatische 状況と呼ぶ (フロイト『制止、症状、不安』1926年)

ーー乳幼児の《無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit)と依存性 Abhängigkeit》(同、フロイト)

現実界とは、トラウマの形式として……(言語によって)表象されえないものとして、現われる。 …le réel se soit présenté …sous la forme du trauma,… ne représente(ラカン、S11、12 Février 1964)

※参照:基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による)


◆過剰
心的無意識のうちには、欲動の蠢き Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。(フロイト『不気味なもの』1919)
欲動の蠢きは刺激・無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute。(ラカン、S10、14 Novembre l962)


【第二段階:境界表象・最初のシンボル・原症状=失敗する象徴化】




◆境界表象 S1
抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。

Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung(フロイト, フリース書簡、I January 1896,Draft K)
《欲動 Trieb》は、わたしたちにとって、心的なものと身体的なものとの境界概念 ein Grenzbegriff として、つまり肉体内部から生じて心に到達する心的代理 psychischer Repräsentanz として、肉体的なものとの関連の結果として心的なものに課された作業要求の尺度として立ち現われる。(フロイト『欲動および欲動の運命』1915)


◆最初のシンボル(シニフィアンの起源)
ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 la forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。(ラカン、S.17, 14 Janvier 1970)
「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(ラカン、S17、11 Février 1970)


◆原症状 
症状(原症状=サントーム)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps》(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME, AE.569、1975)
女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps (ミレール2011, L'Etre et L'Un)

※女性の享楽 jouissance féminine=身体の享楽 jouissance du corps (参照



◆「失敗する象徴化」については引用が長くなるので後述。


【第三段階:根本幻想内部での $ ◊ a ◊ Ⱥ の関係における妥協としての症状





◆妥協としての症状

妥協とは、フロイトが「誤った結びつき falsche Verknüpfung」や「根元的錯誤(最初の虚偽 proton pseudos」(『科学的心理学草稿』1895)などと呼んだものにかかわる。

より一般的に言えば、象徴界の症状形成自体が妥協である。

われわれがずっと以前から信じている比喩では、症状 Symptom をある異物 Fremdkörper とみなして、この異物は、それが埋没した組織の中で、たえず刺激現象や反応現象を起こしつづけていると考えた。もっとも症状形成 Symptombildung がなされると、好ましからぬ欲動の蠢き Triebregung にたいする防衛の闘い Abwehrkampf は終結してしまうこともある。われわれの見るかぎりでは、それはヒステリーの転換でいちばん可能なことだが、一般には異なった経過をとる。つまり、最初の抑圧作用についで、ながながと終りのない余波がつづき、欲動の蠢きTriebregung にたいする闘いは、症状にたいする闘いとなってつづくのである。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

そもそもフロイトの《エディプスコンプレックス自体が症状である Le complexe d’OEdipe, comme tel, est un symptôme》(ラカン、S23、18 Novembre 1975)、すなわちあの理論自体が、欲動の現実界の穴を覆うフロイトのイマジネールな構築物である。であるなら、ラカンが死ぬまで継続しようとしたセミネールも彼の症状である。

(ラカンの晩年のサントーム概念自体、ここで後に記される意味合い以外に、象徴界・想像界・現実界を縫合する「父の機能」の意味があるが、この概念自体、フロイトのエディプス理論の「よりすぐれた」変奏にすぎない、《最後のラカンにおいて、父の名はサントームと定義されている défini le Nom-du-Père comme un sinthome》(ミレール、2013、L'Autre sans Autre、PDF))

精神分析の実践は、正しい満足を見出すために、症状を取り除くことを手助けすることではない。目標は、享楽の不可能性の上に、別の種類の症状を設置することである。フロイトのエディプス・コンプレクスの終着点の代りに(父との同一化)、ラカンは精神分析の実践の最終的なゴールを症状との同一化とした。(ポール・バーハウ2009、(PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains)

《人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.》(Lacan,S23, 13 Avril 1976)

◆根本幻想

そして根本幻想 le fantasme fondamental とは、《窓の枠組みの上に位置づけられた絵 un tableau qui vient se placer dans l'encadrement d'une fenêtre》であり、この《馬鹿げたテクニック Technique absurde》は、人が《窓から見えるものを見ない ne pas voir ce qui se voit par la fenêtre》(Lacan, S10)ようにすること、すなわち大他者のなかの穴 Ⱥ を見ないことにある。

そして$ ◊ a ◊ Ⱥ とは次のように書き換えうる。



⋯⋯⋯⋯

次に、冒頭のボール・バーハウの文に出現する語彙群をめぐる引用をする。


◆真珠貝と砂粒
さてここで、咳や嗄れ声の発作に対して見出したさまざまな決定因を総括してみたい。最下部には器質的に条件づけられた真実の咳の刺激があることが推定され、それはあたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒 Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet のようなものである。

この刺激は固着 しうる fixierbar が、それはその刺激がある身体領域と関係するからであり、その身体領域がこの少女の場合ある性感帯としての意味をもっているからなのである。したがってこの領域は興奮したリビドーを表現するのに適しており、おそらくは最初の心的変装 psychische Umkleidung、すなわち病気の父親に対するイミテーションの同情、そして「カタル」のために惹き起こされた自己叱責によって固着させられる fixiert のである。(フロイト 症例ドラ、『あるヒステリー患者の分析の断片』Bruchstück einer Hysterie-Analyse,1905)
…現勢神経症は(…)精神神経症に、必要不可欠な「身体側からの反応 somatische Entgegenkommen」を提供する。現勢神経症は刺激性の(興奮を与える)素材を提供する。そしてその素材は「心的に選択された、心的外被 psychisch ausgewählt und umkleidet」を与えられる。従って一般的に言えば、精神神経症の症状の核ーー真珠貝の核の砂粒 das Sandkorn im Zentrum der Perleーーは身体-性的な発露から成り立っている。(フロイト『自慰論 Zur Onanie-Diskussion』1912)


◆オートマン/テュケー

オートマン/テュケー(αύτόματον [ automaton ]/τύχη [ tuché ])とは、シニフィアンのネットワーク réseau de signifiants」/「現実界との出会い rencontre du réel」である(S11)。

テュケーの機能、出会いとしての現実界の機能ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね」としての「現前」« présence » comme « rencontre manquée » である。このような出会いが、精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマという形で出現してきた。そんな形で出てきたこと自体、われわれの注意を引くのに十分であろう。(ラカン、S11、12 Février 1964)


◆封筒あるいは容器、すなわち症状の可視的な外部

上に引用したフロイト自慰論の「心的に選択された、心的外被 psychisch ausgewählt und umkleidet」という表現以外に、

・《心的被覆 psychischen Umkleidungen》(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題】1924)

・《症状の形式的封筒  l'enveloppe formelle du symptôme 》(ラカン、E66、1966)



◆異物
心的トラウマ、ないしその記憶は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入 Eindringen から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』1895年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状、das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

《われわれにとって異者である身体 un corps qui nous est étranger 》(ラカン、S23、11 Mai 1976)との表現は、フロイトの「異物Fremdkörper」と等価である(異物の仏訳は"corps étranger"[参照] )



◆身体側からの反応 Somatisches Entgegenkommen

ーー真珠と砂粒の項を見よ



◆欲動の根
たとえ分析治療が成功したとしても、その結果治癒した患者を、その後に起こってくる別の神経症、いやそれどころか前の病気と同じ欲動の根 Triebwurzel から生じてくる神経症、つまり以前の疾患の再発に苦しむことからさえも患者を守ってあげることが困難であることがこれで明らかになった。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)


◆固着
実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisseが、欲動の固着 Fixierungen der Libido 点を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』第23章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1916-1917)

◆サントーム=原固着
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」Unと「享楽」jouissanceとの関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours)

ーーラカンには後年、 「一のようなものがある Y'a d'l'Un」 という表現があるが、これはサントームのことである。《サントーム le Sinthome……それは Yadlun と等価である》(Jacques-Alain Miller Première séance du Cours、2011)

「一の徴 trait unaire」と 「一のようなものがある Y'a d'l'Un」とのあいだの相違は、ラカン派内で議論があるが、ここでは割愛。


最後に上で後述するとした【失敗する象徴化】である。

ここで症状形成の第一段階と第二段階の間の図の矢印が「⇔」になっていることに注目して以下の文を読もう。




◆残存現象=対象a
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な特徴 Zug を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。

リビドー発達についてわれわれが初期に用いた記述の仕方によれば、最初の口唇期 orale Phase は次の加虐的肛門 sadistisch-analen 期にとってかわり、これはまた男根性器 phallisch-genitalen Platz 期にとってかわるといわれていたのであるが、その後の研究はこれに矛盾するものではなく、それに訂正をつけ加えて、これらの移行は突然にではなく徐々に行われるもので、したがっていつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残存物 Reste が保たれていることもありうるとしている。

精神分析とはまったく別種の領域においても、これと同一の現象が観察される。とっくに克服されたと称されている人類の誤信や迷信にしても、どれ一つとして今日われわれのあいだ、文明諸国の比較的下層階級とか、いや、文明社会の最上層においてさえもその残存物Reste が存続しつづけていないものはない。一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

フロイトは《原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich》としているが、この残存現象として居残った対象aが、欲動の蠢きの遺留物であり、始末に負えない「異物」としての機能を果たす。

この(a) 、小さな(a) は、大他者の場処への主体の生誕のこの全作用のなかで還元されえないままであるものである。そしてそこから、その機能を果たすようになる。c'est (a) : petit(a) est ce qui reste d'irréductible dans cette opération totale d'avènement du sujet au lieu de l'Autre, et c'est de là qu'il va prendre sa fonction (ラカン、S10、6 Mars l963)

どんな機能かといえば、この《欲動の蠢きは刺激・無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけ》(S10)であり、究極的には原マゾヒズムと合流する。

⋯⋯⋯⋯

さて、理論的には上のようだとして、具体的に真珠貝と砂粒とは何だろうか。

ポール・バーハウは、ドラの事例において、神経性の咳と嗄れ声が真珠貝(象徴界の症状)、口唇享楽(口唇欲動)が砂粒(現実界の症状)としている。

R.S.I. (1974-1975)のセミネール22にて、ラカンは症状の現実界部分、あるいは「文字lettre」の概念を通した対象a を明示した。この文字は、欲動に関連したシニフィアンの核、現実界の享楽を固着している実体 substance である。

対照的に、シニフィアンは、言語的価値を獲得した或る文字である。シニフィアンの場合、欲動の現実界は、すでに象徴界に浸透されている。すなわち、記号化されている。この論拠内で、ラカンは「文字」、あるいは対象a を、主人のシニフィアンS1 と等価とする。それは次の条件においてである。すなわち、このS1 はS2 (他の諸シニフィアンの一群)から隔離されたものとして理解されるという条件において。「文字」S1 は、S2 とつながった時にのみ、ひとつのシニフィアンに変換される。

この「文字」の考え方を以て、ラカンは、現実界と象徴界とのあいだの境界は、弱い境界だという事実を強調しようとしている。すなわち、現実界が象徴界によって植民地化されるということは、常に可能である。たとえば、諸シニフィアンの連鎖は、ドラの口唇享楽に侵入した。つまり、欲動の現実界は、神経性の咳 tussis nervosa と嗄れ声 hoarseness の症状を通して、記号化された。フロイトによって分析された症状の全ては、象徴界の表象代理部分であり、欲動の現実界は、ほとんど変わらぬままの姿で後に患者のもとに回帰した。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq, 2002)

ーーセミネール22だけでなく、セミネール23にも《文字対象a (lettre petit a)⋯文字としての徴付けられるもの(marquer que la lettre)⋯「一の徴 trait unaire」、すなわちフロイトの einziger Zug に由来するもの》という表現がある。

この「文字」が、ミレールが「ひとつきりのシニフィアン le signifiant tout seul」 、あるいは最近では「ひとつきりの一 l’Un-tout-seul」と呼ぶものであり、ラカン自身の表現なら、 「一のシニフィアン  le signifiant « un »」、「一のようなものがある  y'a d'l'Un」と等価のものである。

そして上に引用したように、《サントーム le Sinthome……それは Yadlun と等価である》( Miller Première séance du Cours、2011)であり、かつまたS(Ⱥ)、すなわち原固着のシニフィアンとも等価である(参照)。

そしてミレール派の Pierre-Gilles Guéguen は次のように言っている。

サントームの身体 Le corps du sinthome、肉の身体…それは常に自閉症的享楽 jouissance autiste・非共有的享楽を示す。(Pierre-Gilles Guéguen, 2016)

バーハウの解釈においては、これらは純化された症状としての対象aにかかわる。

純化された症状とは、象徴的成分から裸にされたもの、すなわち言語によって構成された無意識の外部にex-sist(外立)するものであり、対象aあるいは純粋な形での欲動である。(同上、ポール・バーハウほか、2002)

ドラの二重の症状についてもう少し引用しておこう。

ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因性の代表象 representation――抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動ということになる。

この二重の構造の視点のもとでは、すべての症状は二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換性の症状は、症状の形式的な外被に帰着する。すなわち、「それらの症状は欲動の現実界に象徴的な形式が与えられたもの」(Lacan, “De nos antécédents”, in Ecrits)ということになる。このように考えれば、症状とは享楽の現実界的核心のまわりに作り上げられた象徴的な構造物ということになる。フロイトの言葉なら、それは、「あたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなもの」。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq,2002)

⋯⋯⋯⋯

症状のない主体はない。これがラカン派のテーゼである。学問、芸術等も、現実界の症状(砂粒)を昇華した象徴界の症状(真珠)である。美しい真珠もあるし、歪んだ真珠もあるだろう。アコヤ貝から採れるような小粒な真珠があり、白蝶貝から採れる大粒の真珠、稀には黒真珠もあろう。これらの袋真珠ではなく、何の価値もない筋肉真珠である場合もあろう(ドラの嗄れ声のように)。

だが美しい真珠を生み出す症状をもっている作家や芸術家に出会ったときにでさえ、この人物の現実界の症状(砂粒)は何だろうか? と思いを馳せてみるのも一興である。もちろん自らの砂粒を先に問うのが肝要ではある。

もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番ーー「不気味な仮面と反復強迫」)