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2017年10月22日日曜日

享楽という原マゾヒズム

フロイトのマゾヒズムとサディズムの思考をいくらか追っていくと、起源にあるのは原マゾヒズムであり、つまり「原マゾヒズム(一次的マゾヒズム) → サディズム → 二次的マゾヒズム」と言っているように見える。

もっとも後年まで、《原サディズム Ursadismusーーはマゾヒズム Masochismus と一致する》(『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)という形で、原サディズムという言葉を使ってはいるが。

たとえば、1933年(77歳)のフロイトは次のように言っている。

マゾヒズムはサディズムより古い。der Masochismus älter ist als der Sadismus (フロイト 1933、『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」)

ーーすなわち自己破壊欲動は、他者攻撃欲動よりも先にある。そして、

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露だろうか!

es sieht wirklich so aus, als müßten wir anderes und andere zerstören, um uns nicht selbst zu zerstören, um uns vor der Tendenz zur Selbstdestruktion zu bewahren. Gewiß eine traurige Eröffnung für den Ethiker!(同上)

この考え方を受け入れるなら、フロイトが攻撃欲動というとき、先にあるのは自己攻撃欲動なのである。

攻撃欲動 Aggressionstrieb は、われわれがエロスと並ぶ二大宇宙原理の一つと認めたあの死の欲動 Todestriebes から出たもので、かつその主要代表者である。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)

ここで挿入的に、ラカンの考え方をいくらか見てみよう。ラカンの核心概念「享楽」とは(究極的には)原マゾヒズムのことであるようにみえる。

真理における唯一の問い、フロイトによって名付けられたもの、「死の本能 instinct de mort」、「享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance」 …全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。(ラカン、S13, 08 Juin 1966)

ラカンは、フロイトが書いていないことまで書いていると言っている、《FREUD écrit :   « La jouissance est masochiste dans son fond »》(S16, 15  Janvier  1969)   。とはいえこの「享楽」を「死の欲動」に置きかえれば、フロイトはほぼそう言っている。

あるいは、《死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance 》(ラカン、S.17、26 Novembre 1969)とは、ラカンが享楽をどう考えたかを知るためのひとつの核心である。

さらには、

享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, フロイトはこれを発見した。すぐさまというわけにはいかなかったが。il l'a découvert, il l'avait pas tout de suite prévu.(ラカン、S23, 10 Février 1976)

たしかにすぐさまというわけにはいかなかった。1919年(フロイト63歳)においてもまだ次のように言っている。

マゾヒズムは、原欲動の顕れ primäre Triebäußerung ではなく、サディズム起源のものが、自我へと転回、すなわち、退行によって、対象から自我へと方向転換したのである。

…daß der Masochismus keine primäre Triebäußerung ist, sondern aus einer Rückwendung des Sadismus gegen die eigene Person, also durch Regression vom Objekt aufs Ich entsteht. (フロイト『子供が打たれる』1919年)

だが一年後に次の叙述が現われる。

自分自身の自我にたいする欲動の方向転換とみられたマゾヒズムは、実は、以前の段階へ戻ること、つまり退行である。当時、マゾヒズムについて行なった叙述は、ある点からみれば、あまりにも狭いものとして修正される必要があろう。すなわち、マゾヒズムは、私がそのころ論難しようと思ったことであるが、原初的な primärer ものでありうる。

Der Masochismus, die Wendung des Triebes gegen das eigene Ich, wäre dann in Wirklichkeit eine Rückkehr zu einer früheren Phase desselben, eine Regression. In einem Punkte bedürfte die damals vom Masochismus gegebene Darstellung einer Berichtigung als allzu ausschließlich; der Masochismus könnte auch, was ich dort bestreiten wollte, ein primärer sein.(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

だが、決定的なのは1924年(フロイト68歳)の二つの記述である。

◆『マゾヒズムの経済論的問題』1924年

マゾヒズムは三つの形態で観察される。①性興奮に課された条件として、②女性的本質の表現として、③生活態度の規範として。したがって我々は、性愛的マゾヒズム、女性的マゾヒズム、道徳的マゾヒズム erogenen, femininen und moralischen を識別する。第一の性愛的マゾヒズム、すなわち苦痛のなかの快 Schmerzlustは、他の二つのマゾヒズムの根である。(⋯⋯)

もしわれわれが若干の不正確さを気にかけなければ、有機体内で作用する死の欲動 Todestrieb ーー原サディズム Ursadismusーーはマゾヒズム Masochismus と一致するといってさしつかえない。その大部分が外界の諸対象の上に移され終わったのち、その残余として内部には本来の eigentliche、性愛的マゾヒズム erogene Masochismus が残る。それは一方ではリピドーの一構成要素となり、他方では依然として自分自身を対象とする。

ゆえにこのマゾヒズムは、生命にとってきわめて重要な死の欲動とエロスとの合金化Legierung von Todestrieb und Eros が行なわれたあの形成過程の証人であり、名残なのである。ある種の状況下では、外部に向け換えられ投射されたサディズムあるいは破壊欲動 projizierte Sadismus oder Destruktionstrieb がふたたび取り入れられ introjiziert 内部に向け換えられうるのであって、このような方法で以前の状況へ退行する regrediert と聞かされても驚くには当たらない。これが起これば、二次的マゾヒズム sekundären Masochismus が生み出され、原初的 ursprünglichen マゾヒズムに合流する。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』Das ökonomische Problem des Masochismus 、1924年)

ーーラカンは、セミネール10(「不安」)で、上にあるフロイトの三つの区分、性愛的マゾヒズム、女性的マゾヒズム、道徳的マゾヒズム erogenen, femininen und moralischen はあまり意味がないと言いつつ、次のように言い直している。《倒錯者のマゾヒズム、道徳的マゾヒズム、女性的マゾヒズム du masochisme du pervers, - du masochisme moral, - du masochisme féminin》。


◆『性欲論三篇』1905年における1924年の註

後に、心的装置の構造、そこで作用する欲動の種類についての確とした仮定に支えられた考究の結果、マゾヒズムについての私の判断は大幅に変化した。私は原初の primärenーー性愛 erogenen に起源をもつーーマゾヒズムを認め、そこから後に二つのマゾヒズム、すなわち女性的マゾヒズムと道徳的マゾヒズム der feminine und der moralische Masochismusが発展してくる、と考えるようになった。実生活において使い果たされなかったサディズムが方向転換して己自身に向かうときに、二次的マゾヒズム sekundärer Masochismus が生じ、これが原マゾヒズムに合流するのである。Durch Rückwendung des im Leben unverbrauchten Sadismus gegen die eigene Person entsteht ein sekundärer Masochismus, der sich zum primären hinzuaddiert.
(フロイト『性欲論三篇』1905年における1924年の註)

⋯⋯⋯⋯

以上のことは、わたくしも最近になってようやく気づいたのだが、上のフロイトの思考発展を受け入れるなら、たとえば柄谷行人と浅田彰が次のように語った内容は、二次的マゾヒズムであって、一次的マゾヒズム(原マゾヒズム)ではない、ということになる。

柄谷)文化に対して自然を回復せよというロマン派と、それを成熟によって乗り越えよというロマン派がいて、それらは現在をくりかえされている。後期フロイトはそのような枠組を脱構築する形で考えたと思います。文化あるいは超自我とは、死の衝動そのものが自分に向かったものだという、これはすごく大きな転回だと思う。彼はある意味で、逃げ道を絶ってしまった。

浅田)ニーチェが言っていたのもそういうことなんじゃないか。力が自由に展開されるとき、それが自分自身に回帰して、自分自身を律するようになる。ドゥルーズやフーコーがニーチェから取り出したのもそういう見方なんで、それがさっきストア派的と言っていた姿勢にも結びつくわけでしょ。(「「悪い年」を超えて」『批評空間』1996 Ⅱ-9 坂本龍一 浅田彰 柄谷行人 座談会)

⋯⋯⋯⋯

なぜ原マゾヒズムが始原なのか。生物学的な思弁のなかでフロイトは《有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった》(『快原理の彼岸』)とはある。あるいは受動ー能動の用語で説明されることもあるが、わたくしはいまだ十分には納得できていない。

受動的立場 passive Einstellung は…やっきになって抑圧されるものであるenergisch verdrängt(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
容易に観察されるのは、性愛の領域ばかりではなく、心的体験の領域においてはすべて、受動的にうけとられた印象が小児には能動的な反応を起こす傾向を生みだす、ということである。以前に自分がされたりさせられたりしたことを自分でやってみようとするのである。それは、小児に課された外界を征服しようとする仕事の一部であって、苦痛な内容をもっているために小児がそれを避けるきっかけをもつこともできたであろうような印象を反復しようと努める、というところまでも導いてゆくかもしれないものである。

小児たちの遊戯もまた、受動的な体験 passives Erlebnis を能動的な行為 aktive Handlung によって補い、いわばそれをこのような仕方で解消しようとする意図に役立つようになっている。医者がいやがる子供の口をあけて咽喉をみたとすると、家に帰ってから子供は医者の役割を演じ、自分が医者に対してそうだったように自分に無力な幼い兄弟をつかまえて、暴力的な処置をくりかえすのである。受動的なことに反抗し能動的役割 aktiven Rolle を好むということが、この場合は明白である。(フロイト『女性の性愛について』1931年)

原初の母子関係において、幼児はマゾヒスト的立場に置かれていることは確かだろう(参照)。

フロイトが気づいていなかったことは、最も避けられることはまた、最も欲望されるということである。不安の彼方には、受動的ポジションへの欲望がある。他の人物、他のモノに服従する欲望である。そのなかに消滅する欲望……。(ポール・バーハウ1988, Paul Verhaeghe 、THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE )

ーー《他者の欲望の対象として自分自身を認めたら、常にマゾヒスト的だよ⋯⋯que se reconnaître comme objet de son désir, …c'est toujours masochiste. 》(ラカン、S10,l6 janvier l963)

このラカンは、いくらかフロイトの原マゾヒズムの定義(自己破壊欲動)とは異なるが、幼児は誰もが「母なる大他者」の欲望の対象であるには相違ない。

…生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

 究極の「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」とは、母なる大他者と融合したい欲求あるいは欲動であるだろう。

母親への依存性 Mutterabhängigkeit(受動性)のなかに…パラノイア Paranoia にかかる萌芽が見出される。というのは、驚くことのように見えるが、母に殺されてしまう(食われてしまう?)というのはたぶん、きまっておそわれる不安であるように思われる。Denn dies scheint die überraschende, aber regelmäßig angetroffene Angst, von der Mutter umgebracht (aufgefressen?) zu werden, wohl zu sein.(フロイト『女性の性愛』1931年)

母なる大他者ーーフロイトのいう 《偉大な母なる神 große Muttergottheit》(『モーセと一神教』1939)ーーに貪り喰われるのが、究極の願いだったらどうだろう?

精神分析家は益々、ひどく重要な何ものかにかかわるようになっている。すなわち「母の役割 le rôle de la mère」に。…母の役割とは、「母の惚れ込み le « béguin » de la mère」である。

これは絶対的な重要性をもっている。というのは「母の惚れ込み」は、寛大に取り扱いうるものではないから。そう、黙ってやり過ごしうるものではない。それは常にダメージを引き起こすdégâts。そうではなかろうか?

巨大な鰐 Un grand crocodile のようなもんだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざすle refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である(ラカン、S17, 11 Mars 1970)

死の枕元にあったとされる最後のフロイトの草稿をも掲げよう。

母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者 Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版、1940、私訳)

ーーこの文は1926年に現れた《愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden》とともに読むことができる。

だが次の文はどうか? エスの目的には、《己を生きたままにすること、不安の手段により危険から己を保護すること》はない、と言っている。

エスの力能 (権力 Macht) は、個々の有機体的生の真の意図 Einzelwesens を表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすること、不安の手段により危険から己を保護すること、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。Eine Absicht, sich am Leben zu erhalten und sich durch die Angst vor Gefahren zu schützen, kann dem Es nicht zugeschrieben werden. Dies ist die Aufgabe des Ichs…(フロイト『精神分析概説』草稿、1940年)

⋯⋯⋯⋯

※付記

ニーチェ『ツァラトゥストラ』のグランフィナーレから引用してみよう。

おお、人間よ、心して聞け!
深い真夜中は何を語る?
「わたしは眠った、わたしは眠ったーー、
深い夢からわたしは目ざめた。--
世界は深い、
昼が考えたより深い。
世界の痛みは深いーー、
享楽 Lustーーそれは心の悩みよりもいっそう深い。
痛みは言う、去れ、と。
しかし、すべての享楽 Lust は永遠を欲するーー
ーー深い、深い永遠を欲する!「酔歌」

Oh Mensch! Gieb Acht!
Was spricht die tiefe Mitternacht?
»Ich schlief, ich schlief –,
»Aus tiefem Traum bin ich erwacht: –
»Die Welt ist tief,
»Und tiefer als der Tag gedacht.
»Tief ist ihr Weh –,
»Lust – tiefer noch als Herzeleid:
»Weh spricht: Vergeh!
»Doch alle Lust will Ewigkeit
»will tiefe, tiefe Ewigkeit!«

ーー手塚富雄訳だが、「悦び lust」を「享楽」に変更した。

ここでのニーチェの「悦び(享楽 Lust)」とは、フロイトの《苦痛のなかの快 Schmerzlust》(『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)とほとんど等価である。

そしてラカンはこの《苦痛のなかの快 Schmerzlust》をなによりもまず「享楽」(jouisssance = déplaisir)とした。

享楽が欲しないものがあろうか。享楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。享楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が享楽のなかに環をなしてめぐっている。――

- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ「酔歌」)

※現代ラカン派解釈におけるニーチェの永遠回帰をめぐっては、「ララングとサントーム」を見よ。

ニーチェによって獲得された自己省察(内観 Introspektion)の度合いは、いまだかつて誰によっても獲得されていない。今後もおそらく誰にも再び到達され得ないだろう。

Eine solche Introspektion wie bei Nietzsche wurde bei keinem Menschen vorher erreicht und dürfte wahrscheinlich auch nicht mehr erreicht werden.(フロイト、於ウィーン精神分析協会会議 1908年 Wiener Psychoanalytischen Vereinigung)

⋯⋯⋯⋯

最後にラカンの享楽をめぐる二つの語彙とクロソウスキーのニーチェ論の文を並べてみよう。

まずラカンによる「享楽への意志 volonté de jouissance」と「享楽回帰 retour de la jouissance」。

大他者の享楽の対象になること être l'objet d'une jouissance de l'Autre、すなわち享楽への意志 volonté de jouissance が、マゾヒスト masochiste の幻想 fantasmeである。(ラカン、S10, 6 Mars l963)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

そしてクロソウスキー解釈によるニーチェの「権力への意志 volonté de puissance」と「永遠回帰 Éternel Retour」。

・永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retour は権力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。

・しかし権力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)

ラカンの「享楽回帰」・「享楽への意志」は、死の欲動という原マゾヒズム(苦痛のなかの快)である。他方、ニーチェの「永遠回帰」・「権力への意志」は、至高の欲動である。

ここで先ほど引用した「酔歌」の次の文を加えて読むと、ふたりはほとんど同じことを言っているようにみえる。

享楽 lust は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。享楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が享楽のなかに環をなしてめぐっている。(ニーチェ「酔歌」『ツァラトゥストラ』)