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2017年1月16日月曜日

すべての乳幼児にとって、母は「男」である

フロイトは、女性蔑視と受け取られかねないことを言っているのはひどく有名だろうが、まずそれにかかわる代表的な文を引用してみよう。

私はーー明言を躊躇うのではあるがーー、女性が考える正常な道徳観のレベルは、男性の考えるものとは異なっていると思わざるをえない。女性の超自我は、われわれが男性に期待するほど揺るぎなく、非個人的で、情動の源の影響を受けないものには決してならない。太古の昔から、女性は正義意識が男性に比べて薄いとか、生が持つ大いなる必然に従う心構えが弱い、といったいくつかの性格上の特質のために非難を浴びてきた。これは上述した超自我形成の変態のうちに充分な根拠を見出すであろう。われわれに両性の完全な平等と等価をおしつけようとしているフェミニストたちの反対にあったからといって、このような判断に迷う者はいないであろう……(フロイト『解剖学的な性の差別の心的帰結の二、三について』1925年)
我々は、少年にくらべ少女の性生活について少ししか知らない。しかしこの相違について恥じる必要はない。結局、成人の女性たちの性生活は、心理学にとって「暗黒大陸 dark continent」である。(フロイト『素人分析の問題 Die Frage der Laienanalyse』1926年)

ーー「聡明な」女性だったら、これを読んでフロイト嫌いになってもやむえない。わたくしは幸か不幸か男性なので、ときにはいまだフロイトを読んでいるのだが、フロイトのディスクールは、ヴィクトリア朝モラルの 超=強制倫理の支配する 、今からみればーー少なくとも一見一読ではーー「とんでも」言説が多いのは間違いない。それはラカンでさえもいくらかそうだろう。フェミニストたちが敵視するのもやむえない・・・

さて以下は心細いフロイト擁護文である。いやそのまえにまだ若い頃のジャック=アラン・ミレール(ラカンの娘婿)の文を引用しておく。

女は常に神秘であった、とフロイトは書いています。そして次のように 加えます。 「私は、 女性は男性と同じ超自我を持っていない、 そして彼女達は男よりもこの点ずっと自由で、 男の行動、 活動に見られるような限界が無い、 という印象を持っている。 」 女性解放主義者達のように、フロイトが女性に反対だった、と考えてはなりません。彼にとってこれは単に一つの事実なのです。大切なのはこの事実から、例えばいかに男はグループ、団体を作る傾向にあるか、首長になりたがるか、などなど、そして女には間違いなくこのような男性的習慣を越えた次元があるというのを説明することです。…(ジャック=アラン・ミレール、エル ピロポ El Piropo、1981)

この程度では、フェミニストたちは決して納得するはずがない・・・

前置きが長くなったが、以下本題である。


【無力な状況=外傷的状況】
……生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年 旧訳p.365、一部変更)

前期ラカンが,「欲望は承認欲望 désir de reconnaissance」、あるいは「承認されたい欲望 désir de faire reconnaître son désir」(E.151)と言ったのは、直接にはコジューヴ経由のヘーゲルが起源であるには相違ないが、とはいえ同時にフロイトの「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」とともに理解することもできる。そもそも「愛されたい要求」と「承認されたい欲望」とは、ほとんど等価である(参照)。

ところでフロイトは、原初の寄る辺なき状況を外傷的状況と呼んでいる。

経験された無力の(寄る辺なき)状況 Situation von Hilflosigkeit を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ (フロイト『制止、症状、不安』旧訳 p.372)

乳幼児の《無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeit》とは、誰もが否定できない状況であり、その原トラウマ的状況を否認しても何も始まらない。

《誰もがトラウマ化されている tout le monde est traumatisé》(ジャック=アラン・ミレール、2013-2014セミネールーー「一の徴」日記⑥

古典的フロイト批判のひとつは、フロイトは「すべて」を性化したというものだ。フロイトの『科学的心理草稿』1895 の叙述は忘れられてしまっている。この草稿には、性発達に先行した精神上の機能の起源をめぐる理論が詳述されているのだが。

……『科学的心理草稿』における論旨は次の通り。すなわち、人間の発達の出発点は、原初の不快経験、苦痛 (Schmerz)である。それは内的欲求からもたらされる。空腹と渇きがこの状況の典型だ。フロイトはこの苦痛を、圧迫の量的増大として理解した。それは、知覚の保護膜を通した刺激の突破をもたらす。ちょうど、肉体的怪我の場合のように。

言い換えれば、原初の苦痛の条件は、トラウマと比較されている。この不快な条件に対する乳幼児の反応は、典型的なものであり、すべてのそれに引き続く間主体的関係の基礎を構成する。無力(寄る辺なさ Hilflosigkeit)な幼児は、泣き叫ぶことにより、〈他者〉に向かう。この〈他者〉は「特別な行動」を取らなければならない。その行動を通して、内的圧迫は解放される。

この初期状況において、幼児は、余儀なく、他者に向かって受動的-依存的ポジションのなかに陥ることになる。…フロイトにとって、この状況は、原トラウマ的経験を表している。(ポール・バーハウ2001,Paul Verhaeghe、BEYOND GENDER. From subject to drive、PDFより)

上のポール・バーハウの文にある「受動的ー依存的ポジション」とは、フロイトの『終りある分析と終りなき分析』には、「受動的あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung」という表現で出て来る。そして引き続き「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」という表現がなされている(後引用)。


【男性と女性=能動性と受動性】

フロイトにとって、女性性の拒否とは、受動的立場の拒否の意味である。かつまたフロイトにとっての「女性」とは、生物学的な女性のことでは(基本的には)ない。

たとえば『性欲論』註にはこうある。

「男性的 männlich」とか「女性的 weiblich」という概念の内容は通常の見解ではまったく曖昧なところはないように思われているが、学問的にはもっとも混乱しているものの一つであって、すくなくとも三つの方向に分けることができるということは、はっきりさせておく必要がある。

男性的とか女性的とかいうのは、あるときは能動性 Aktivität と受動性 Passivität の意味に、あるときは生物学的な意味に、また時には社会学的な意味にも用いられている。

これらの三つの意味のうち第一のものは、もっとも本質的なものであり、精神分析にとってもっとも利用価値のあるものである。右の本文中でリビドー Libido が男性的 männlich であるといわれたのは、この意味に対応しているのであって、というのは、たとえ受動的目標 passives Ziel を立てている場合でも、欲動は常に能動的なもの Trieb ist immer aktiv だからである。

男性的と女性的についての第二の生物学的意味はもっとも明瞭に規定すぐことのできるものである。ここでは男性的女性的とは精子あるいは卵子があるかどうかによって、またそこから生じる機能によって特徴づけられる。能動性とそれの副次的な現われ、すなわち、かなり強く発達した筋肉、攻撃性、相当強度なリビドー、などは概して生物学的な雄とつながってはいるが、しかし必然的に結合しているというわけではない。動物の種類によっては、このような性質がむしろ雌の方に備わっているようなものもあるからである。

第三の社会学的な意味の内容となるものは、現実に存在する男性および女性の個人を観察することによってえられる。その結果は人間にとっては、心理学的な意味でも生物学的な意味でも、純粋の男性または女性は見出されないということになる。個々の人間はすべてどちらかといえば、自らの生物学的な性特徴と異性の生物学的な特徴との混淆をしめしており、また能動性と受動性という心的な性格特徴が生物学的なものに依存しようと、それに依存しまいと同じように、この能動性と受動性との合一をしめしているのである。フロイト『性欲論三篇』1905年、旧訳p.76, 一部変更)

25年後にも繰り返している。

男性と女性 Männlichen und Weiblichen をはっきり区別できるのは、解剖学であって心理学ではない。心理学の分野では、男女の性別は曖昧で、せいぜいのところ能動性と受動性 Aktivität und Passivität の区別になってしまう。そして、無邪気にもわれわれは、能動性と男性的性格、受動性と女性的性格をそれぞれ同列に置くが、これは人間以外の動物の場合、けっして例外なしにあてはまるものではない。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年、旧訳p.465、一部変更)

これらから、フロイトにとって、「男性と女性 Männlichen und Weiblichen」とは「能動性と受動性 Aktivität und Passivität」として先ず捉えなければならないのが分かる。

ところで次の文を読んでみよう。

母親のもとにいる小児の最初の体験は、性的なものでも性的な色調をおびたものでも、もちろん受動的な性質 passiver Natur のものである。小児は母親によって授乳され、食物をあたえられて、体を当たってもらい、着せてもらい、なにをするのにも母親の指図をうける。小児のリビドーの一部はこのような経験に固執し、これに結びついて満足を享受するのだが、別の部分は能動性 Aktivitätに向かって方向転換を試みる。母親の胸においてはまず、乳を飲ませてもらっていたのが、能動的にaktive 吸う行為によってとってかえられる。

その他のいろいろな関係においても、小児は独立するということ、つまりいままでは自分がされてきたことを自分で実行してみるという成果に満足したり、自分の受動的体験 passiven Erlebnisse を遊戯のなかで能動的に反復 aktiver Wiederholung して満足を味わったり、または実際に母親を対象にしたて、それに対して自分は活動的な主体 tätiges Subjekt として行動したりする。(フロイト『女性の性愛について Uber die weibliche Sexualität』1931年、旧訳p.150 、一部変更)


この文は、すべての乳幼児とは受動的な立場(=女性的な立場)に置かれるということを言っている。そして母親(あるいは最初の世話人)は、乳幼児にとって能動的立場にある(場合によっては能動的というよりも、さらに全能的である)。

いわゆる「去勢されていない」全能の貪り喰う母、すなわちリアルな母について、ミレールはこう記している。

不満足な母というだけではなく、またあらゆる権力をもつ母。そして、ラカンの母のこの形象のおどろおどろしい側面は、彼女はあらゆる権力をもつのと同時に不満足であるということだ(ミレール “Phallus and Perversion”2009)

いずれにせよ原状況においては、すべての乳幼児にとって、母は「男性的=能動的存在」であるのは間違いない。そして場合によって「全能の権力者」でありうる。フロイトの「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」とはこの文脈のなかで捉えなくてはならない。すなわち女性を拒否するのではなく、受動的ポジションの拒否である。

本源的に抑圧されているものは、常に女性的なるものではないかと疑われる。(Freud, 25. Mai 1897,Draft M)

40年後、フロイトは次のように記している。

私は、「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」は人間の精神生活の非常に注目すべき要素を正しく記述するものではなかったろうかと最初から考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)

このようにしてフロイト・ラカン派などの注釈者たちによって、ミソジニーの起源が解き明かされる(参照:女性嫌悪 misogyny をめぐって)。

たとえば次の通り。

母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」

この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。((ポール・バーハウ1998、Paul Verhaeghe,Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE)

別の言い方をすれば、人間にとっての最初の「侵入者」は、母なのである。そして人は「侵入」されれば「侵入」し返す。

治療における患者の特性であるが、統合失調症患者を診なれてきた私は、統合失調症患者に比べて、外傷系の患者は、治療者に対して多少とも「侵入的」であると感じる。この侵入性はヒントの一つである。それは深夜の電話のこともあり、多数の手紙(一日数回に及ぶ!)のこともあり、私生活への関心、当惑させるような打ち明け話であることもある。たいていは無邪気な範囲のことであるが、意図的妨害と受け取られる程度になることもある。彼/彼女らが「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」となるのも当然であろうか。世話になった友人に対してストーキング的な電話をかけつづける例もあった。(中井久夫「トラウマと治療体験」『徴候・記憶・外傷』所収)

そしてミソジニーとは男にとっても女にとっても存在する。

「他の性 Autre sexs」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である。 (ミレール、Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm) 


人間にとっての最初の侵入者、母による幼児の世話による刺激とその箇所(徴付け)は、《享楽の侵入の記念物 commémore une irruption de la jouissance》(Lacan,S.17)とされる。

フロイトはこの母を誘惑者と呼んでいる。

誘惑者はいつも母である。…幼児は身体を清潔にしようとする母の世話によって必ず刺激をうける。おそらく女児の性器に最初の快感覚を目覚めさせるのさえ事実上は母である。(フロイト『新精神分析入門』1933)

結局、母による徴付けとはフロイト概念の「欲動の固着」、あるいは「リビドーの固着」にかかわる。そしてこれが後期ラカンのサントーム(原症状)である。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」と「享楽」との関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours)

さてこれでフロイト擁護になりうるだろうか。最初に記したように実に心細い擁護である・・・

一方の男が、女性の欠点と厄介な性質について不平をこぼす。すると相手はこう答える、『そうは言っても、女はその種のものとしては最高さ』。(フロイト 『素人分析の問題Die Frage der Laienanalyse』1927年) 

ーーいやあ、こんな文を引用してもフェミニストのおねえさんたちが許してくれるはずはない・・・


知性が欲動生活に比べて無力だということをいくら強調しようと、またそれがいかに正しいことであろうと――この知性の弱さは一種独特のものなのだ。なるほど、知性の声は弱々しい。けれども、この知性の声は、聞き入れられるまではつぶやきを止めないのであり、しかも、何度か黙殺されたあと、結局は聞き入れられるのである。これは、われわれが人類の将来について楽観的でありうる数少ない理由の一つであるが、このこと自体も少なからぬ意味を持っている。なぜなら、これを手がかりに、われわれはそのほかにもいろいろの希望を持ちうるのだから。なるほど、知性の優位は遠い遠い未来にしか実現しないであろうが、しかしそれも、無限の未来のことというわけではないらしい。(フロイト『ある幻想の未来』1927年)

なにいってんだろ? フロイトは。21世紀になってフロイト・ラカン派はもはやつぶやきをやめつつあるんじゃなかろうか、すくなくとも「女性論」をめぐっては。

精神分析は入り口に「女性というものを探し求めないものはここに入るべからず」と掲げる必要はありません。というのも、そこに入ったら幾何学者でもそれを探しもとめるのです。(ミレール「もう一人のラカン」)

ーーであるにもかかわらず。

…………

と、ここまで記して想い起したが、いままでの叙述にいささか反することをここに記しておこう。

フロイトが気づいていなかったことは、最も避けられることはまた、最も欲望されるということである。不安の彼方には、受動的ポジションへの欲望がある。他の人物、他のモノに服従する欲望である。そのなかに消滅する欲望。……(Paul Verhaeghe 1998、THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE )

 もっともフロイトはまったく気づいていなかったとは言い難い。バーハウは後に(2004)、フロイトの『三つの小箱』を引用して、ここにフロイトによる受動性への欲望の認知の痕跡がある、という意味に取れることを言っている。

ここに描かれている三人の女たちは、生む女、性的対象としての女、破壊者としての女であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係なのだ。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身と、男が母の像を標準として選ぶ愛人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』)

この『三つの小箱』は、ドゥルーズもそのマゾッホ論で援用している。

マゾッホによる三人の女性は、母性的なるものの基本的イメージに符号している。すなわちまず原始的で、子宮としてあり古代ギリシャの娼妓を思わせる 母親、不潔な下水溝や沼沢地を思わせる母親がある。―――それから、愛を与える女のイメージとしてのエディプス的な母親、つまりあるいは犠牲者として、あ るいは共犯者としてサディストの父親と関係を結ぶことになろう女がある。―――だがその中間に、口唇的な母親がいる。ロシアの草原を思わせ、豊かな滋養を さずけ、死をもたらす母親である。(……)滋養をさずけ、しかも無言であることによって、彼女は他を圧する……。彼女は最終的な勝利者となる。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳)