2016年6月19日日曜日

他者に愛されたいという欲望(承認欲望)

欲望とは、常に-既に「欲望の欲望/欲望への欲望」である。すなわち「大他者の欲望」のすべてのヴァリエーションは次の通り。

・私は私の他者が欲望するものを欲望する。
・私は私の他者によって欲望されたい。
・私の欲望は、大他者ーー私が組み込まれた象徴領野ーーによって構造化されている。
・私の欲望は、リアルな他の物 autre chose の深淵によって支えられている。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、私訳)

…………

たとえば、ニーチェが次のように書くとき、ニーチェの欲望は大他者の欲望だろうか。

この書物はごく少数の人たちのものである。おそらく彼らのうちのただひとりすらまだ生きてはいないであろう。それは、私のツァラトゥストラを理解する人たちであるかもしれない。今日すでに聞く耳をもっている者どもと、どうした私がおのれを取りちがえるはずがあろうか? ――やっと明後日が私のものである。父亡きのちに産みおとされる者もいく人かはいる。

人が私を理解し、しかも必然性をもって理解する諸条件、――私はそれを知りすぎるほどしっている。人は、私の真剣さに、私の激情にだけでも耐えるために、精神的な事柄において冷酷なまでに正直でなければならない。人は、山頂で生活することに、――政治や民族的我欲の憐れむべき当今の饒舌を、おのれの足下にながめることに、熟達していなければならない。人は無関心となってしまっていなければならない、はたして真理は有用であるのか、はたして真理は誰かに宿業となるのかとけっして問うてはならない・・・今日誰ひとりとしてそれへの気力をもちあわせていない問いに対する強さからの偏愛、禁ぜられたものへの気力、迷路へと予定されている運命。七つの孤独からの或る体験。新しい音楽を聞きわくる新しい耳、最遠方をも見うる新しい眼。これまで沈黙しつづけてきた真理に対する一つの新しい良心。そして大規模な経済への意志、すなわち、この意志の力を、この意志の感激を手もとに保有しておくということ・・・おのれに対する畏敬、おのれへの愛、おのれへの絶対的自由・・・

いざよし! このような者のみが私の読者、私の正しい読者、私の予定されている読者である。残余の者どもになんのかかわありがあろうか? ――残余の者どもはたんに人類であるにすぎない。――人は人類を、力によって、魂の高さによって、凌駕していなければならない、――軽蔑によって・・・(ニーチェ「反キリスト」序言 原佑訳)

ここではこの文を文字通り読むだけにするが、それでもたちまち、たとえば「ごく少数の人たち」「私の予定されている読者」という表現があるように、ごく少数の人たちに欲望されたいという欲望、もしその少数の人がその当時ひとりもいなくても、未来の大他者の欲望ーー未来の大他者に承認されたい欲望ーーが記されている。

さらにまた次の文を読んでみよう。

自己認識と行動にかかわる固有の劇場性。どんな行動あるいは動機も直接には自分自身ではなく、その行動や動機に対する他者の反応の光の下で判断されなければならない。すなわち、彼が彼自身を理解するのは、彼がその行動のなかで纏っている仮面の光のなかで己れの振舞いを絶え間ず観察することによってである。(Allen Speight, Hegel, Literature and the Problem of Agency,2001)
ラカンが「大他者」と呼ぶものは、社会的規則と外観の代理人である。それは、我々のなす全てのことに劇場性の最低限の様相を授ける。すなわち、我々がいかに情熱的に行動しようと、我々の欲望はつねに大他者の欲望である。それは大他者(可能なる欲望にとっての台本を提供する象徴的織物)によって仲介されている。我々は直接には我々自身ではない。我々は自分自身の役割を演じている。我々は我々であることの虚構を模倣している。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

ニーチェの文章にはこの劇場性・仮面性がふんだんにある。上の文もそうだが、最晩年の『この人を見よ』などでは、実にふんだんにフモールあふれるニーチェの劇場的側面が表現されている(参照:この「私」に何の価値があるのでしょう?)。

いまはその話に深入りしないが、ジジェクの説明にあるように、この仮面性も大他者の欲望であり、かつまた承認欲望の変奏である。承認欲望とは、「他者に欲望されたいという欲望」、あるいは「他者に愛されたいという欲望」と言い換えることができる。

初期ラカンが,「欲望は承認欲望 désir de reconnaissance」、あるいは「承認されたい欲望 désir de faire reconnaître son désir.E.151」といったのは、よく知られているようにコジューヴ経由のヘーゲルからだった。

欲望は剰余享楽の換喩である」等で記したのは、この承認欲望から逃れる欲望がある、あるいはそういう観点があるということだけであり、古典的ラカンの「欲望は大他者の欲望」、あるいは「欲望は承認欲望」ということが捨てさられたわけではけっしてない。

われわれのやっていることのほとんどは承認欲望である。どんな他者に欲望されたいのかの相違があるだけだ(想像的他者、象徴的他者…)。そして他者とは、実は〈他〉l'Autre であり、生身の人物でなくてもよい。神、イデオロギー、理念等も他者である。

日本では「承認欲求」という用語で、批判的に語られることが多い承認欲だが、ナイーヴに批判するのは馬鹿げている。もっともそれを「意識的承認欲望」(さらにイマジネールな)と言い換えれば、大人げない振舞いだとする観点もあろうが、さて、はたして誰が「無意識的承認欲望」から免れているというのか。

もし承認欲を批判するなら、想像的他者ーー「私に似た」他の人々、競争や相互承認といった鏡像的関係を結ぶ私の同類たちーーへの承認欲求に(おおむね)焦点を当てなければならない。

ラカンの思考においての決定的な「かなめ」は、人びとは、オリジナルな、あるいは固有のアイデンティティを持っていない、ということだ。逆に、ラカンにとって、アイデンティティの臍は、内なる欠如あるいは空虚によって構成されている。人間の主体性は、 manque à être(存在欠如)によって、根本的に徴づけられているとラカンは言う(LA DIRECTION DE LA CURE ,1958)。これが意味するのは、非同一的かつ掴みえない(ラカン用語では「現実界」の)「欠如」が、人びと自身の持っているすべての表象をかき乱すということであり、結果として「分裂(分割)された」アイデンティティをもたらす。

一方で、我々の存在の核に、この捻じ曲がりを生む空虚がある。その空虚は、すべて身体的な欲動にかかわる。他方で、我々は自己表象をもっている。それはラカンが「象徴秩序」と呼ぶものを基盤にしている(象徴秩序とは、すべての典型的な文化生産物から成り立っている。言語、慣習、社会構造などだ)。その「象徴秩序」を基盤とした表象は、「manque à être(存在欠如)」を決して充分には掴み取ったり覆ったりしえない。

ラカンは言う、「manque à être(存在欠如)」は実際は「want to be (ありたい)」として機能する、と。

言い換えれば、内部の欠如は、主体の欲望を駆り立ててdrives、補完物を求めるよう促す。人間は、典型的には、他者のほうに向くことによって、この欠如に打ち勝とうと目指す。人は、他者に呼びかけ、それによって暗黙に想定するのだ、他者への弁証法的関係において、存在の贈物が達成されうると。「欲望は…「ありたい want-to-be」に光をもたらす。〈他者〉からの補完物を受け取るための呼びかけとともに」(Lacan, 1958)。

この考え方の内部では、承認されたいという欲望は最も根本的になものである。というのは、その承認欲望は、より大きな主体性達成を獲得するための手段として機能するから。間主体(間主観)的な承認が言い表しているのは、他者の欲望が主体のところにやって来て、主体を他者と結びつけ、そうして主体を社会関係の構造に組み入れるということである。他者の承認は、主体のアイデンティティ欠如を、部分的に埋め合わせる。この社会関係の手段によって、主体は少なくとも、他者との関係のなかで、私は誰なのかという思いを展開しうる。(PROFESSIONAL BURNOUT IN THE MIRROR A Qualitative Study From a Lacanian Perspective(Stijn Vanheule,  Paul Verhaeghe、2005)より(PDF,私訳)。

※この文は、ここでの文脈から離れて言えば、「身体の欲動」が肝要なのだが、ーーたとえば前回引用したコレット・ソレールの《ラカンは最初には「存在欠如(le manque-à-être)」について語った。(でもその後の)対象a は「享楽の欠如」であり、「存在の欠如」ではない≫にかかわってーー、いまはその話に入らないまま、《承認されたいという欲望は最も根本的になもの≫にのみ注目しておこう。

…………

ところで、ラカンの観点からは、ヒステリーの言説とは、欲望の言説である。

ふつうのヒステリーは症状はない。ヒステリーとは話す主体の本質的な性質である。ヒステリーの言説とは、特別な発話関係というよりは、発話の最も初歩的なモードである。思い切って言ってしまえば、話す主体はヒステリカルそのものだ。(GÉRARD WAJEMAN 「The hysteric's discourse 」ーー「シェイクスピア、ロラン・バルト、デモ(ヒステリーの言説)」)

そして、話す主体がすべてヒステリー的であるならば、発話行為そのものが承認欲望にかかわる。

パラノイア的主体とみえないでもないラカンは、最晩年、こう言っている。

私は完全なヒステリーだよ、症状のないヒステリーだな…[ je suis un hystérique parfait, c'est-à-dire sans symptôme](Le séminaire ⅩⅩⅣ)

…………

以下、ロレンツォ・キエーザ、2007から引用するが、大他者とか〈他者〉、あるいは大文字の他者と訳されることの多い l'Autre をすべて「他者」とした。

ラカンが、根本幻想のなかの他者の欲望といったとき、それはいまだ承認への欲望である。承認欲望を追放したとするのは間違っている。(……)

ラカンが、「欲望は、欠如としての他者の欲望の欲望である」と言ったとき、この同じ欲望が同時にまた、根本幻想における「無意識の承認欲望」であることを必ずしも排除しない。すなわち、幻想の複合的特性ーーそこでは逆説的に、欠如が表象されるーーのせいで、無意識の欲望は、欠如への欲望であると同時に、この欠如を縫合 suture する欲望でもあるから。

欠如が幻想のなかで縫合される限り、欠如としての他者の欲望としての主体の欲望は、(幻想化された)承認欲望ーーつまり「他者に欲望されたいという欲望」、よりよく言えば、「他者に愛されたいという欲望」ーーのままである。主体の根本幻想は欠如を縫合する、$(分割された主体)が同時に(主体の幻想のなかで)他者の欲望の対象a である限りで。

要約しよう。幻想のレヴェルにおいて、主体の欲望は他者の欲望であり、逆に、他者の欲望は主体の欲望である。したがって (1)主体の欲望は他者の欲望の対象a である。より重要なのは、 (2)主体の欲望は究極的に他者の欲望の対象a になる欲望である。

対照的に、純粋欲望は、他者のなかーー無意識の承認の幻想的ヴェールの彼方に横たわる他者のリアルな他者性のなかーーで「欲望するもの(le désirant) 」を欲望する。

これらすべては、次のように言うことで再形式化されうる。すなわち、欠如としての他者の欲望への欲望としての「主体の他者の欲望」は、「欲望を再生産する欲望」としての「他者への欲望」以外の何ものでもない。すなわち、人は、幻想の式 $ ◊ a(ここでの a は、「飼い馴らされた」欠如としての他者の欲望を表す)における欲望を再生産し続ける限りにおいてのみ、欠如としての他者の欲望を欲望し続けることができる。

幻想の彼方にある「生の欠如」として考えられる他者の欲望に遭遇しようとするどんな直接的試みも、不安を解き放つ。我々が見てきたように、これは逆説的に欲望の終りをもたらす。 (ロレンツォ・キエーザ 『主体性と他者性』Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness、2007)

一般的にはこのように言われてきた。

「生の欠如」とは「穴」のことである(参照:欠如 manqué から穴 trou へ(大他者の応答 réponse de l'Autre から現実界の応答 réponse du réel へ))。

この穴に遭遇するとき、原不安に襲われる。そしてロレンツォの言うように欲望の解消があり、欲望は欲動に移行する、と。

ラカン自身もすくなくともある時期まではそう言っている。

その作用において精神分析主体を支えてきた欲望が解消されてしまうと、彼は最後にはもはや欲望の選択、すなわち欲望の残余を格上げしたいとは望まなくなる。この残余とは、彼の分割を決定づけているものであり、彼の幻想を失墜させ、主体である彼の地位を解任する。(Lacan , Proposition du 9 octobre 1967 sur le psychanalyste de l'Ecole. Autres écrits)
「主体の解任」は、欲望から欲動へと領域を変える。欲望は、歴史的-ヒステリー的であり、主体化されている。常に、そして定義上、不満足なもの、換喩的 metonymical であり、ひとつの対象から別の対象へと移行する。というのは、私は実際には、私が欲するものを欲望していないからだ。

私が実際に欲望するのは、欲望自体を持続させるため、その満足のおぞましい瞬間を延期するためである。他方、欲動は、ある種の緩慢な満足を含んでいる。それは常にその道を見出す。欲動は、非-主体化的である(無頭的 acephal)。(ジジェク、From desire to drive、1996ーー主体の解任 destitution subjective/幻想の横断 traversée du fantasme/徹底操作 durcharbeiten
対象a との主体の関係の位置づけ後、根本幻想の経験は欲動になる。après ce repérage du sujet par rapport au (a), cette expérience du fantasme fondamental devient la pulsion(S.11)

ほかにも、セミネール14には、désêtre 非在、désirpas 不欲望、dés-espoir 欲亡等の新造語も出現するが、これらはすべて欲望の袋小路 impassé du désir にかかわる。

というわけで、このとき「欲望は〈他者〉の欲望ではない」にて引用したコレット・ソレールの《私たちは、欲望/享楽の二項対立をお終いにしなければなりません≫という言明をどうやって処理したらいいのかは、わたくしには曖昧なままである。

…象徴的ファルスの機 能が消去され、欲望の価値が下がるということが、ラカンの〔理論〕構築において起こる。ラカン理論の綿密な練り上げのすべての期間において、ラカンは欲望における生きた機能を支えようとした。しかし、ひとたび欲動を欲望から区別すると、欲望の価値の引き下げがおこり…享楽を生産する失われた対象に関係した活動としての欲動が本 質的なものになり、二次的に幻想が本質的なものになる。(ジャック=アラン・ミレール「セミネールDonc」1994年)

ミレールは、2011年のセミネールでも、同様に「欲望のデフレune déflation du désir」を語り、《承認から原因へと移行したとき、ラカンはまた精神分析の適用の要点を、欲望から享楽へと移行した》と言っている。(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller )