2016年6月17日金曜日

欲望は〈他者〉の欲望ではない

欲望は享楽に対する防衛である、ーー正確には、《le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance[欲望は防衛、享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である].》(ラカン、E825)

倒錯とは、欲望に起こる不意の出来事ではない。すべての欲望は倒錯的である。享楽がけっしてその場ーーいわゆる象徴秩序が欲望をそこに置きたい場のなかにないという意味で。そしてこれが、ラカンが後に父の隠喩についてアイロニカルであった理由だ。彼は言う、父の隠喩もまた倒錯だ、と。彼は、父の隠喩をpère-version と書いた。…父へと向かう動き [vers le père]と。(JACQUES-ALAIN MILLER: THE OTHER WITHOUT OTHER、2013)

さて、簡潔な欲望の定義である。欲望は享楽に対する防衛であり、倒錯的なものである。これは、「三大欲望(睡眠欲、食欲、性欲)と欲求・要求・欲望の弁証法」にて曖昧に記した問いに対するひとつの答である。

ミレールの同じ論文からもうすこし引用しておこう。

……セミネールVI にて、ラカンは自らを方向性づけた。彼の後に引き続く教えにとって、ある意味で決定的な点にかかわる方向づけである。私はこの方向づけを、否定的な形式で言ってみよう。精神分析のラカニアンとして方向づけられた実践の実に根本的な言明である。すなわち、どんな「成熟 maturation」もない。無意識としての欲望の成熟はない。

フロイトにとって、果てしない仕事のなかでの残留物は、半永久的要素ーー無意識の欲望が、幻想のなかで付着したままの要素である。それは享楽を生み出す要素、或いはむしろ実体の問いである。そしてそれは、ファルスの意味作用の外部にあるもの、言わば去勢に関する違反である。

これらの要素・実体は享楽である。補充の享楽実体、ラカンは遥かのちに「剰余享楽 plus-de-jouir」として示してものだ。この剰余享楽は、準備されて既にここにある。セミネールの最後においては更ににもっとそうだ。そこでは「昇華 la sublimation」に向けて進んでいく。

我々を支配するこれらの新しい付属物とその装置すべては事実上、正しくラカニアンの意味で、昇華の対象である。それらは、付け加えられた対象である。そしてこれは正確に、ラカンによって導入された剰余享楽用語の価値である。

言い換えれば、我々はこのカテゴリーにおいて、身体から来る対象 objets qui viennent du corps をもつというだけではない。かつ身体にとって喪われた対象 perdus pour le corpsーー自然に、あるいは象徴界の効果を通しての喪失対象をもつというだけではない。それだけではなく種々の形式で、これらの原対象を反映した対象 objets qui répercutent les premiers objets をもつのだ。

問いとしてあるものは、これらの対象は完全に新しいものなのか、それとも「原初の対象a objets a primordiaux」のたんに再構築された形式なのかということである。(同ミレール、2013)(同ミレール、2013)

…………

さて次は美貌のラカン派女流分析家の第一人者コレット・ソレールColette Soler の見解をかかげよう。わたくしは2,3の短い論文を読んだだけで詳しいことは知らないが、たぶん彼女はミレールに近い年齢のラカンの直弟子ではないだろうか。

以下、インタヴュー記事からだが、問いがあり応答があるため、とても鮮明に彼女の見解が表明されている。





◆Interview with Colette Soler for the “Estado de Minas” newspaper September 10, 2013


ーー質問1、欲望は無意識の発見と精神分析の核心にあります。…欲望は最初の言葉です。でも、それは無意識と精神分析の最後の言葉なのでしょうか?

コレット・ソレール)シンプルなことです。精神分析の始まりにおいて、欲望は最初のものであり、フロイトの解釈の唯一の言葉だった。最後において、ラカンとともに、欲望は相変わらずある。でもそれは完全には唯一のものではない。

ーー質問2、精神分析、哲学、広告が基盤としているのは、欲望は欠如に向けられるという原則です。けれども欲望を享楽から、そして満足から分けることは可能なのでしょうか?

ソレール)享楽と満足はとても異なった概念です。享楽は身体を想定しています。満足は、この身体をもった主体の現象です。一般的に、享楽は満足しません。それは苦痛と関係さえします。不調和・不満足なのです。というのは、享楽は〈他者〉と繋がっていないから。〈他者〉から分離さえします。

欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽 [jouir]の欠如です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象」と呼んだもの、ラカンが欠如しているものとしての「対象a」と呼んだものです。それにもかかわらず、複合的ではあるけれど、享楽の欠如を楽しむことが可能です。それはラカンによって提供されたマゾヒズムの形式のひとつです。

ーー質問3、エディプス、無意識の欲望の原理、それは70年代にとても賛否両論の議論があったのですが、いまも通用するのですか? それは新しい家族の配置に釣り合うのでしょうか?

ソレール)いいえ、フロイトが私たちに提供したエディプスはもはや通用しません。それは、ラカンが言ったように たんなる “hystoriole” です。言ってしまえば、精神分析の「ファミリーロマンス」だった。

最初期のラカンは、アンチエディプスではなくエディプスの彼方を提唱しました。つまりエディプスに異議を申し立てるのではなく再考しようとした。それは、決定的な問いを犠牲にしないでなされました。つまり話す主体にとってのエディプスの機能を知るという問いです。リビドーの方向づけの原理として、それに伴った可能なる社会的絆の原理としてのエディプスの機能です。

というのは、次のことを理解するのは必要不可欠なことだからです。すなわち、定義上、欲望は構造的欠如を基盤としており、言語の効果です。それゆえ欲望は享楽に向けられる。欲望は享楽を目指すのです。欲望は享楽を繋ぎとめる、享楽を抑制しないままで、です。私たちは、欲望/享楽の二項対立をお終いにしなければなりません。確かに、欲望しないままで享楽することは可能であり、享楽なしで欲望することさえ可能です。もしそれが単純な欠如の享楽はでないなら。けれどもすべての欲望は、欠如の穴埋めに向かうのです。

「性関係はない」というとてももしばしば繰り返される主張の見解において、実に私たちは、父の機能の普遍性への挑戦を観察することができます。それが性的欲望の方向づけに言及している限りで。

これは、ラカン自身が生み出した父の隠喩への挑戦です。(…)この隠喩にて、ラカンははっきりと「父」からシニフィアンを作りました。大他者のなかにある一つのシニフィアンは、大他者のシニフィアン、大他者の法のシニフィアンだった。けれどもラカンはすばやく正反対の結論を言い放ちました、「大他者の大他者はない」と。大他者は斜線が引かれており、享楽の問いには応答しません。

一方で、各人にとって、自らの欲望の通路を取り仕切るものを知る問いがあります。それは父のモデルでありうる。けれども、それは他の可能な解決法のなかのひとつに過ぎません。他方で、父の機能は症状のひとつのヴァージョンだという定式があります。すなわち père-version(父のヴァージョン=倒錯)。

もっと一般的に言えば、幻想はモンタージュであり、それを通して、欲望は対象a を分節化します。その分節化は、父の機能のモデルを必らずしも通さずになされます。そして欲望に適用される換喩は、欠如の換喩であると同程度に剰余享楽の換喩です。

この点において、ラカンは、彼のエディプスの彼方の考え方を以って、感動的な仕方にて世紀の進化の先鞭をつけました。精神分析に、現在の社会の状態を考える最初の概念的道具を提供したのです。

(……)

ーー質問6、ラカンは欲望の様相への病理に言及しています。ヒステリーの不満足な欲望、強迫神経症の不可能な欲望、恐怖症の警告された欲望、倒錯のマゾヒスティックな欲望。すべての人間は、欲望によって病んでいるのでしょうか? 欲望にかんして精神病のポジションはどうなのでしょう?

ソレール)欲望は、それがどんな形式であれ、病理ではありません。主体が欲望について不平を言っていてさえ、病理ではない。それは私たちに想定させてくれます、欲望の形式は、多かれ少なかれ、社会的言説の規範に従っていることを。すなわち、欲望自体は、その多寡はあれ、私たちが「標準」と呼ぶもの、ラカンが「人間の規範 (Norme-mâle)」と呼ぶものーー言説によって構築され、言わば欲望あるいは標準的享楽を捏造することを目指された規範ーーに関わる反対物なのです。(…)

精神病における欲望の問題は別の話です。それはいかに誤った(身丈に合わない)教義が臨床的事実の無視に導くかを示すよい例です。

父は去勢不安にて欲望を生みだすために必要不可欠であるという前提から始めて、私たちは他の分析家が、精神病は欲望を締め出すという結論してしまうのを見ます。けれども、精神病の最も顕著な人物像を観察すれば、彼らが欲望を欠如させているなどということがどうやって支持しうるというのでしょう? むしろ、欲望概念を再検討することが必要不可欠です。(…)

ーー質問7、あなたが欲望概念の再検討を促すなら、欲望は去勢の効果だけではなく、話す主体の原因、言葉それ自体さえの原因だということなのでしょうか?

ソレール)そうです。欲望の原因を生みだすのは言語です。「父」ではありません。父の機能は別物です。それは欲望と享楽のひとつのヴァージョンを表します。この理由で、ラカンは “père-version”、父のヴァージョンと言いました。

ーー質問8、現代の世界は欲望に苦しんでいるのでしょうか、それとも享楽の障害に苦しんでいるのでしょうか? 「すべては可能だ。すべては許される」。21世紀において、これは欲望の終焉ということなのでしょうか?

ソレール)あなたは、資本主義によって提供される剰余享楽は満足をもたらすと想定しているように見えます。それは間違っています。現実では何が起っているのか見てみなさい。全ては許される。そして欲望から、私たちは権利を生んだ。全ては可能だ。私たちはそれを試みた。そして、この豊かな土地において、欲望の不満足から生じる怒号は、享楽の増大に比して上昇しています。

ーー質問9、ラカンの教えの最後は、いまだ次の主張を許容するのでしょうか、つまり「欲望は〈他者〉の欲望」を? ラカンの最後の教えの帰結は何なのか。リアルな無意識の位置は欲望についてなにかを変化させたのでしょうか?

ソレール)「欲望は〈他者〉の欲望」が意味したのは、欲求との相違において、欲望は、言語作用の効果だということです。それが現実界を空洞化し穴をあける。この意味で、言語の場所としての〈他者〉は、欲望の条件です。(…)そしてラカンが言ったように、私はひとりの〈他者〉として欲望する。というのは、言語が組み入れられているから。けれども、私たちが各々の話し手の欲望を道案内するもの、精神分析家に関心をもたらす唯一のものについて話すなら、欲望は〈他者〉の欲望ではありません。それは、私があなたの二番目の質問の答えのなかで言ったように。

欲望の概念と構造のなかにある欲望の場は、ラカンの教えにおいて絶え間ず変貌しています。そしてそれは、どの段階においても、すべての分析的概念の構造を変更しています。隠喩に疑念を投げかけることは、そこにある何かを変化させることでした。対象の概念を提案することは、別の一歩でした。

リアルな無意識、ララングへの言及、そしてサントームによるボロメオ結びへの言及は、そうです、さらに別の一歩です。(…)

この最後の質問の応答にて、彼女は決定的なことーー巷間に流通する旧来の通念とは正反対なことーーを言っている、≪精神分析家に関心をもたらす唯一のものについて話すなら、欲望は〈他者〉の欲望ではありません≫と。

なおかつ彼女は、≪欲望に適用される換喩は、欠如の換喩であると同程度に剰余享楽の換喩≫とも言っている。この前者の欲望は欠如の換喩とは、前期ラカンの定義のひとつであるが、後者の「欲望は剰余享楽の換喩」との言明がコレット・ソレールの言いたいことの核心だろう。

このソレールの「欲望は剰余享楽の換喩」という表現と最初に掲げたミレールの≪我々は、身体から来る対象をもつというだけではない。そして身体にとって喪われた対象ーー自然に、あるいは象徴界の影響を通しての喪失対象をもつというだけではない。それだけではなく、種々の形式で、これらの最初の対象を反映した対象をもつ≫という文における「種々の形式で、これらの最初の対象を反映した対象をもつ」という表現を、わたくしは同時に読みたい。つまりミレールも剰余享楽の換喩に近いことを言っている、と。

ところでコレット・ソレールは、存在欠如をめぐって別の場で次のように言っている。

ラカンは最初には「存在欠如(le manque-à-être)」について語った。(でもその後の)対象a は「享楽の欠如」であり、「存在の欠如」ではない。(Colette Soler at Après-Coup in NYC. May 11,12, 2012、PDF)

ミレールからもつけ加えておこう。

私はラカンの教えによって訓練された。存在欠如としての主体、つまり非実体的な主体を発現するようにと。この考え方は精神分析の実践において根源的意味を持っていた。だがラカンの最後の教えにおいて…存在欠如としての主体の目標はしだいに薄れ、消滅してゆく…(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller

ところでセミネール17において、ラカンは《知としてわれわれ分析家に関心をもたらす全ては、trait unaireに起源がある》[c'est que c'est du trait unaire que prend son origine tout ce qui nous intéresse, nous analystes, comme savoir]と言っている。

かつまた、trait unaireは、《享楽の侵入の記念物(commémore une irruption de la jouissance)≫ ともある(参照:S1(主人のシニフィアン)≒trait unaire(一つの特徴))。

さらにはこうもある。

C'est à savoir par exemple que le trait unaire… pour autant qu'on peut s'en contenter, on peut essayer de s'interroger sur le fonctionnement du signifiant-Maître (S.17)

結局、このtrait unaire(一の徴)は、後期ラカンの≪la passion du corps = l' Un de signifiant = Lettre = petit(a) ≫(S.22 pp.71-73)、つまり、身体のパッション=「一」のシニフィアン=文字=対象aとおそらく等価であり、なおかつサントームのことであるだろう(参照:原抑圧・原固着・原刻印・サントーム)。

un événement de corps = sinthome (JOYCE LE SYMPTOME,AE.569)

※享楽の侵入をめぐってのいくらかは、「享楽の「侵入」」を見よ。


…………

コレット・ソレールの上のインタヴュー記事は、彼女の評判高い著書 "l'inconscient reinvente"の紹介としてもある。

2015/03/24 に公開されて、それなりの視聴回数が示されている映像があるのでーーわたくしはいま垣間見ただけだがーー貼り付けておこう。

◆Colette Soler Lacan l'inconscient reinvente