中井久夫の「秘密結社員みたいに、こっそり」『二十一世紀に希望を持つための読書案内』(筑摩書房、2000年12月)への寄稿ーー少年少女のために書くように依頼されたとの註があるーーにはこうある。
……ただ、うっかりすると知識欲は権力欲の手段になりさがってしまう。権力欲はサルやその他の動物にも立派にある。知識欲は動物にはないとはいわないけれど、人間が人間であるもとはこちらだろう。ただ、新しいだけ知識はひ弱く、権力欲は古いだけしぶとい。基本的な三大欲望という睡眠欲、食欲、性欲だって、権力欲の手段になりさがることが少なくない。
そうなると何がどう変わるか。三大欲望は満たされるとおのずとそれ以上求めなくなり、おだやかな満ち足りた感じに変わる。ところが権力欲だけは満たされれば満たされるほど渇く。そしてその手段になった他の欲望は楽しさ、満足感がみごとに消え失せる。
仙人になれというのではない。けれども、知的好奇心は、勉強や学問が権力欲の手段となると同時に見事に消え失せる。知識をふやそうとしても、楽しさも満足感もないのだから、炎天下のアスファルトの道を歩くように辛いだけになって心身の健康をこわしかねない。知的好奇心だけは「よい学校」に入る手段にしてしまわないことだ。でないと、かりに「よい学校」に入っても面白くもなんともない。教授になっても多分そうだろう。(中井久夫「秘密結社員みたいに、こっそり」)
これはとても示唆あふれる文章であり、いちゃもんをつけるつもりは毛頭ない(わたくしがこう記すのは、後ほどいささかの異議を呈する前奏であるにしろ)。
まず中井久夫に敬意を表するために、権力欲についての叙述を別のエッセイから抜き出すことにする。
非常に多くのものが権力欲の道具になりうる。教育も治療も介護も布教もーー。(……)個人、家庭から国家、国際社会まで、人類は権力欲をコントロールする道筋を見いだしているとはいいがたい。差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。(中井久夫「いじめの政治学」初出1997『アリアドネからの糸』所収)
このエッセイはその名の通り「いじめ」をめぐるものだが、次のような叙述もある。
いじめられる者がいかにいじめられるに値するかというPR作戦(……)。些細な身体的特徴や癖からはじまって、いわれのない穢れや美醜や何ということはない行動は一寸した癖が問題になる。これは周囲の差別意識に訴える力がある。何の意味であっても「自分より下」の者がいることはリーダーになりたくてなれない人間の権力への飢餓感を多少軽くする。(同「いじめの政治学」)
いやあ、すばらしい! 文句を言うのはやめることにする・・・
かわりにプルーストを引用しよう。
プログラムのだし物の一つは私にとってこの上もなく堪えがたいものになった。ラシェルや彼女の何人もの友人がきらっている一人の若い女が、番組の一つにあてられた古いいくつかのシャンソンでデビューすることになっていたが、彼女はこのデビューに自分の将来の望、一家の望のすべてを賭けていたのであった。この若い女は、ひどく突きだした、こっけいなまでのお尻と、きれいだがほそすぎる声とをもっていて、そのほそい声は感動の高まりによってさらによわよわしくなり、お尻のたくましい肉づきと対照をきわだたせるのであった。ラシェルは客席に男女それぞれ何人かの友人たちを配置しておいた、その友人たちの役目は、内気だとわかっているこの初登場者をやじって狼狽させ、頭を混乱させて完全な敗北にみちびき、今後支配人に契約させなくする、ということなのだ。この不幸な女の最初の歌声がきこえると、たちまちそのために動員されていた客席のなかの数人の男が、笑いながら彼女の臀部を指さしはじめ、陰謀の仲間である女たちは声を高くして笑った、するとかぼそく澄んだ歌声の一つ一つが、計画された哄笑を増してゆき、場内が騒然となりそうだった。不幸な女は、メーキャップの下に苦痛の汗を流しながら、ひととき反撃を試みた、ついで参会者の上に、悲嘆に暮れた、憤慨に堪えないようなまなざしを投げたが、それはかえって嘲笑を倍加することにしかならなかった。模倣の本能と、気が利いて勇敢にふるまいたいという欲望とが、きれい女優たちまで仲間にひきいれた。それらの女優たちは陰謀をきかされていなかったのに、いじわるな共謀の目くばせを他の連中に投げかけ、身をよじらせて爆笑をあげるので、とうとう二番目のシャンソンのおわりで、プログラムにはまだ五曲あがっていたのだが、舞台監督は幕をおろさせてしまった。(プルースト『ゲルマントのほう 一』井上究一郎訳)
さて、じつは「睡眠欲、食欲、性欲」はーーすくなくとも前者ふたつはーー、はたして「欲望」だろうか、という問いを発しようとしたのだが、よく知られているように? ラカン派的には「欲望」ではない。フロイト的にもそうではない。もっともラカンの欲望とフロイトの欲望とは異なる・・・、などいささかどうでもよくなった。たんに言葉の定義の問題であり、その基本的相違の説明は、ここにある→The Cahiers pour l’Analyse
問題は、このThe Cahiers pour l’Analyseの記述さえ、あまたの異議があることである・・・はっきり言って、現在のラカン派的観点からは間違っている箇所が多い・・・
わたくしが「間違っている」といっても致し方ないが、このそれなりに権威があるだろう Cahiers の叙述、たとえば次の文は象徴的去勢を父の機能にナイーヴに結び付けてしまっているように読める(すくなくともまったく説明が足りない)。
The essential stage in the dialectic of desire (and of human development in general) takes place when, through entrance into the symbolic order of language and social convention, i.e., through ‘symbolic castration’, the child submits to what Lacan calls the ‘paternal law’ – the symbolic father’s ‘no!’ to union with the (m)other.(The Cahiers pour l’Analyse)
だが、それは現在のラカン派観点からは受け入れがたい(参照:第一次象徴的去勢/第二次象徴的去勢)。
父性隠喩が成立する以前に、言語(非統合的 nonsyntagmatic 換喩としての)は既に幼児の要求を疎外している。(……)
幼児が、最初の音素を形成し、自らの要求を伝え始めるとき、疑いもなく、ある抑圧が既に起こる。彼の要求することは、定義上、言語のなかに疎外される。…その要求は、必ず誤解釈される。したがって、常に増え続ける欲求不満に陥るよう運命づけられている。(ロレンツォ・キエーザ 『主体性と他者性』Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness、2007)
この文が言っていることは、父性隠喩や父の機能とは関係なしに象徴的去勢は言語を使用した瞬間に起こる、ということだ。
だが、そんなたぐいのことをより「理論的に」説明するためには、えんえんと書かねばならない。とすれば誰も読まなくなる。
そのうち簡潔に説明した文を見出したら、引用することにしよう。いまはきわめて標準的な旧来からのラカン派の観点のみを提示しておく。
◆アラン・シェリダン訳Ecritsの序文(セミネールXI英訳にも収録)より。
「欲望 desire」(desir,
Wunsch, Begierde, Lust)
フロイトの標準版 The Standard Editionでは、フロイトの「Wunsch」を「願望 wish」という、ドイツ語に非常にあう英語に訳している。この仏語訳としては、「voeu」の方が、現在フランス語で使われることは少ないが、「Wunsch」や「wish」に近い。しかし、フロイトの仏訳者は「voeu」よりむしろ「desir」を常に用いている。また、「Wunsch」「wish」と「desir」の決定的な違いは、ドイツ語と英語(「Wunsch」「wish」)は、個人の独自の望むという行為に限定されているのに対して、フランス語(「desir」)は、持続的な力へのかかわりがずっと強い。ラカンが入念に作り上げ、彼の精神分析理論の中核に位置させた含蓄――なぜ私は「欲望 desire」によって、「欲望 desir」を作り上げるのか――が、それである。さらにいえば、ラカンは「欲望 desire」の概念を「欲求 need(besoin)」と「要求 demand(demande)」と、以下のように関連付けている。
ヒトの個人は、ある対象で満足させられる生物学的欲求を持つ特定の器官から出発する。言語の習得はこれらの欲求 besoinにどのような影響をおよぼすだろうか? すべての発話 parole は要求 demande である。なぜなら、発話はその発話の宛先となる大文字の他者と、組織立てられた表現=公式化 formulation のなかに運び込まれるその諸シニフィアンを事前に前提しているからである。同様にして、大文字の他者から来るものは、欲求の個別の満足のようにではなく、むしろ訴え appeal、贈り物 gift、愛のしるし token of love に対する返答として扱われる。欲求とそれを伝える要求のあいだに十全性 adequetion はない。実際、それら2つのあいだのギャップは、欲求のようにすぐに特定の欲望を構成するのと、要求のように絶対的に欲望を構成するのとの違いである。欲望(基本的に単独で)は、象徴的表現=はっきりいうこと articulation の持続的効果である。それは食欲のような何かを満たすための欲 appetite ではない。欲望は、本質的にエキセントリックであり、飽くこと、つまり満足することをしらない。ラカンが欲望を、欲望を満たすように見える対象ではなく、欲望を引き起こす対象と等置したのはこのためである。
乳幼児はおそらく、最初の内的欲動を周辺的な何かとして経験する。どんな場合でも、それは〈他者〉の現前を通してのみ消滅する。〈他者〉の不在は、内的緊張の継続の原因と見なされる。しかし、この〈他者〉が現前して、言葉と行動で応答してさえ、この応答は決して充分ではありえない。というのは、〈他者〉は継続的に子どもの泣き叫びを解釈せねばならず、この解釈と緊張とのあいだの完全な一致は決してありえないから。この点において、我々はアイデンティティ形成の中心的要素に遭遇する。すなわち、欠如・欲動の緊張への十全な応答の不可能…。要求ーーそれを通して子どもが欲求を表現する要求は、残滓が居残ったままだ。その意味は、〈他者〉の要求解釈は決して元来の欲求と一致しないということである。〈他者〉の不十分性は、内的にうまくいかないことの責めを負わされる、常に最初のものであるように見える。(Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics、2004)
もし他人がわれわれの望みに応えてくれたとしたら、彼はそれによってわれわれにたいしてある一定の態度表明をしたことになる。したがって、ある物にたいするわれわれの要求の最終目標は、その物と結びついた欲求の満足ではなくて、われわれにたいする他者の態度を確かめることなのである。たとえば子どもにミルクをやるとき、ミルクは彼女の愛情の証になる。(ジジェク『斜めから見る』)
すなわち乳幼児は、空腹感のため、母乳が飲みたい(欲求)。そして泣き叫ぶ(要求)。母がやってきて乳を与える(欲求の満足)。この過程は、しかし要求の弁証法によって、母の愛情の証をもとめる欲望に変質していく。
だが、これらの説明でさえ、現在のラカン派観点からは十分ではないのだ・・・とはいえ、基本的な部分では間違いはないはずだ。
さて、ここではとてもシンプルな問いのみを放っておこうーー、動物には「欲望」があるのだろうか、と。
さて、ここではとてもシンプルな問いのみを放っておこうーー、動物には「欲望」があるのだろうか、と。