2016年4月25日月曜日

原抑圧・原固着・原刻印・サントーム

la passion du corps = l' Un de signifiant = Lettre = petit(a) --Lacan,S.22 pp.71-73

すなわち、身体のパッション=「一」のシニフィアン=文字=対象a。

un événement de corps = sinthome (JOYCE LE SYMPTOME,AE.569)

すなわち、身体の出来事=サントームである(参照)。

晩年のラカンの「文字 Lettre」理論とは、身体の上の欲動の「原固着」あるいは「刻印」を理解する彼なりの方法である。(ヴェルハーゲ、BEYOND GENDER. From subject to drive Paul Verhaeghe 2001)

サントームには、いくつかの意味があるが、そのひとつは、《それ以上縮小できない症状、あるいは原抑圧としてのサントーム[sinthome as an irreducible symptom or primal repression (Urverdrängung)]》(Post-Fantasmatic Sinthome Youngjin, Park、PDF

ーーYoungjin Parkの断言、《サントーム=原抑圧》の正否は当面保留するにしても、その観点は十分にありうるとわたくしは思う。

のちに引用するが、ジジェク、2012も、サントームを、《欲動を構成する最低限のリビドー的固着》としている。原固着はフロイトにとって原抑圧のことである。

ところで、誰がわれわれに「身体の出来事」を引き起こし、われわれの身体になにものかを刻印するのだろうか。それは母なる大他者の侵入による刻印であるだろう。

享楽は、侵入 irruption を通して、身体に起こる。この侵入は徴を獲得する。その徴は、大他者の介入を通して、身体の上に刻印される inscribed。(Paul Verhaeghe enjoyment and impossibility、2006ーー「三つの驚き」(ラカン、セミネールⅩⅦにおける「転回」))

この原固着は、原トラウマだとさえ言いうる。

Et c'est très exactement de façon corrélative à la forme première de l'entrée en jeu du langage, ce que j'appelle la marque, ce trait unaire et, si vous voulez bien, comme marqué pour la mort, si vous voulez lui donner son sens, observez bien que rien ne prend de sens que quand entre en jeu la mort.

C'est à partir de ce clivage, de cette séparation de la jouissance et du corps… désormais mortifié, jeu d'inscription, troupeau qu'on marque, comme le favori du trait unaire …c'est à partir de ce moment-là que la question se pose.(Lacan,XVII)

「一」の徴trait unaire の刻印 inscription とは、死の徴、死に向かう徴 marqué pour la mort である。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。[le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance ](S.XVII、参照

…………

……注目すべき点は、私たちが通常の知覚を獲得したり、シニフィアンを使用して言語的表象行うことができたりするようになるには、ばらばらの印象から一つのまとまったイメージへの移行と、イメージからシニフィアン的構造化への移行という二つの翻訳過程、二つの契機を経なければならないという論理だ。一般的にラカン理論では二番目の移行に相当する原抑圧、もしくは父性隠喩の作用による世界のファルス化という唯一の過程のみで心的装置の成立をかんがえる傾向にあるが、たとえば精神病を父の名の排除という機制だけで捉えることは、精神病者においても言語による構造化はなされているという事実をはっきりと捉えられなくなってしまう。心的装置の成立過程に二つの大きな契機があるとかんがえると、主体的構造の把握がより合理的に行われるように思われる。向井雅明『自閉症と身体』2010)

上にあるように、フロイトの「原抑圧」という用語の理解は、専門家のあいだのなかでさえ、いまだ曖昧なままである。だが、原抑圧もすくなくとも二段階ある。そしてそれは、前期のラカンのテキストがすでに示している。

以下、ラカンのテキストととものロレンツォ・キエーザの解説を掲げよう(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa 2007 PDF)。

ラカンにとって、言語は無意識に先行する。より具体的に言えば、言語は無意識の完全な構造化に先行する。というのは、どんな隠喩的置換もなしに個人において、原抑圧ーー最初の泣き叫び・音素・言葉の換喩的発声ーーが起こるから。Laplanche とは異なり、ラカンは、本源的なelementary シニフィアン を考えた。その原シニフィアンとは、たんに対立的カップルとしてのシニフィアンでありーー母の不在によって引き起こされたトラウマの原象徴化の試み、フロイトによって描写されたFort–Da(いないないバア)のようなものーー、充分に分節化された言語と共の、厳密な意味での抑圧の平行的可能性は、エディプスコンプレックスの崩壊によってのみ、引き続いてもたらされる。(…)

父性隠喩の出現以前に、言語は(非統合的 nonsyntagmatic 換喩として)既に子どもの要求を疎外するーーしたがって、また何らかの形で抑圧されるーー。しかし、無意識も自己意識もいまだ完全には構造化されていない。原抑圧は、エディプスコンプレックスの崩壊を通してのみ、遡及的(事後的)に、実質上抑圧される。

(……)結局、我々は認めなければならない、ラカンは我々に二つの異なった原抑圧概念を提供していることを。広義に言えば、原抑圧は、原初のフリュストラシオン(欲求不満)ーー「エディプスコンプレックスの三つの時」Les trois temps du complexe d'Oedipe の最初の段階の始まりーーの帰結である。《原抑圧は、欲求が要求のなかに分節化された時の、欲望の疎外に相当する》(E690:摘要)。

明瞭化のために、我々はこの種の原抑圧を刻印 inscription と呼びうる。他方、厳密な意味での原抑圧は、無意識の遡及的形成に相当する。それは(意識的エゴの統合に随伴して)、エディプスコンプレックスの第三の段階の最後に、父性隠喩によって制定される。この意味で、原抑圧は、トラウマ的原シニフィアン「母の欲望」の抑圧と、根本幻想の形成化に相当する。

ここで、ロレンツォ・キエーザとほぼ同様な見解のふたりの論者の見解を掲げておこう。

原抑圧は、まず何よりも「原固着」である。ある素材がその原初の刻印のなかに取り残されている。 それは決して言語表象に翻訳されえない。この素材は「過剰度の興奮」に関わる。すなわち、欲動、Trieb または Triebhaft である。ラカンは「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」として欲動を解釈した。これに基づいて、フロイトは、システム無意識 system Ucs(Ubw) 概念を開発した。このシステムは、「後期抑圧」の素材、力動的・抑圧された無意識のなかの素材に対して誘引力を行使する。(ヴェルハーゲ、2001(Mind your Body & Lacan´s Answer to a Classical Deadlock. In: P. Verhaeghe、原文ーー話す存在 l'être parlant / 話す身体 corps parlant)
原抑圧とは、何かの内容を無意識のなかに抑圧することではない。そうではなく、無意識を構成する抑圧、無意識のまさに空間を創出すること、システム意識/前意識system cs/pcs と無意識usc とのあいだの間隙を作り出すことである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

…………

以下、参考のために、ヴェルハーゲ、ジジェク、ロレンツォの別の文脈での解説を掲げておこう(短く抜き出しただけなので、詳細はリンク先を参照のこと)。

原無意識はフロイトの我々の存在の中核あるいは臍であり、決して(言語で)表象されえず、固着の過程を通して隔離されたままであり、背後に居残ったままのもの a staying behind である。これがフロイトが呼ぶところの原抑圧である。このフロイトの臍が、ラカンの欲動の現実界、対象aだ。(Paul Verhaeghe, Beyond Gender. From Subject to Drive,2001,私訳ーー「S1(主人のシニフィアン)≒trait unaire(一つの特徴)」)
ラカンによれば、〈母の欲望〉を構成する「原-諸シニフィアン」は、イメージの領域における(子どもの)欲求の代表象以外の何ものでもない。同じ理由で、これらの想像的諸シニフィアン/諸記号は、刻印としての原抑圧を徴づける。すなわち、子どもが、要求のなかで、彼の欲求を表明 articulate し、要求が想像的シニフィアンを創造すれば、子どもは抑圧をこうむる。

ここから、我々は結論づけることができる。フロイトとは異なり、ラカンにとって、すべての「表象代理」Vorstellungsrepräsentanz は、それ自体、原無意識 proto-unconscious のなかに、必然的に抑圧/刻印される。いったん無意識が、父の隠喩の作用によって、自己意識から正しく区別されたら、そのような表象代理の絶え間ない刻印が続いてゆく。この理由で、我々は言うことだできる、ラカンにとって、正当な原抑圧が起こった後、すべてのシニフィアンは二重に刻印される、と(意識的な通時的鎖 diachronic chain と無意識的な共時的鎖 synchronic chains のなかに)。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa 2007 PDFーー「ラカン派の「母の欲望」désir de la mèreをめぐる」)
……ここにはカントからヘーゲルへの移行の鍵となる帰結がある。すなわち、内容と形式とのあいだの裂け目は、内容自体のなかに投影される(反映し返される reflected back into)。それは内容が全てではない not all ことの表示としてである。何かが内容から抑圧され/締め出されているのだ。形式自体を確立するこの締め出しが、「原抑圧」 (Ur‐Verdrängung)である。そして如何にすべての抑圧された内容を引き出しても、この原抑圧はしつこく存在し続ける。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012より私訳ーー「セックス戦争における最大の犠牲者たち」)


…………

そもそもラカンがセミネールⅩⅩ(アンコール)に次ぎのように記したのはなんだろう?(参照

l'essaim. S1 (S1 (S1 (S1 (S1 → S2) ) ) )


このS1は、後期ラカン版の原抑圧(原固着)、あるいは「父の名=S1」を示しているのではなかったか?

S1 はシニフィアン〈一〉から来る、その格言「〈一〉のようなものがある」(Y a de l'Un)にて。 これに基づいた S1 はどんなシニフィアンでもいい。こういうわけで、彼の言葉遊び S1、 essaim(ミツバチの群)がある。問題はシニフィアンの特質ではなくその機能である。一つ の袋(envelope 封筒)を与え、そのなかで全てのシニフィアンの鎖が存続できるようにするのだ(S.20)。 (Paul Verhaeghe,Enjoyment and Impossibility、2006,私訳)
どうだろう、ラカンの Y a d'l'Un を、(いくつかの「一」の上に)欲動を構成する最低限のリビドー的固着の式として読むのなら? プレ出来事的な「一」のない多数性から欲動の出現の瞬間として、である。そうであるなら、この「一」は、サントーム、「享楽の原子」、言語と享楽の最低限の統合である。享楽に浸透された記号の一単位(我々が強迫的に反復するチック〔痙攣〕のようなもの)である。そのような「一」は、享楽の微粒子、最も微細で本源的な袋 packages ではないか?(ジジェク、2012)

この後期ラカンの痕跡は、すでにセミネールⅢ(精神病)にある。

精神病者は、もし諸シニフィアンのシニフィアン signifier of signifiers (父の名)が排除され ているなら、いかに意味作用あるいは意味されるものを生み出すのだろうか? 私は、精神病にて《S2s はそれら自身のあいだに関係をもつ》(B. Fink, The Lacanian Subject [1995]) について十分に議論されていないと信じている。

もし、精神病にて、S2s のあいだの関係が、言語のリアル(文字)の領野を超えてゆくのなら、 もし、精神病者がしばしば潜在的(非発病)で、その主体は意味作用の生産をなんとかや っているのなら、ある数のシニフィアンーーS2s を越えたものでありながら正当な S1 の地 位を獲得していないいくつかのシニフィアンの手段によってのみ、そうし得る。

これは次のラカンの言明を説明するだろう、《人間にとって、「正常 normal」と呼ばれるため には、彼は「最低限の数」の縫合点 “a minimal number” of quilting points を獲得しなけ ればならない》(The Seminar Book III, pp. 268‒269)。

言い換えれば、精神病者は縫合点がないわけではない……精神病者は、原初の(そして 質的にはより重要な)縫合点、父性隠喩によって生み出された縫合点を排除している。と はいえ、それにもかかわらず、精神病者は(量的に不十分な数の)他の縫合点を持ってい る。それは定義上、S2 の地位におとしめることはできないものだ。もしこれがそうでなかっ たら、彼はシンプルに「完全な狂人」だろう、彼は我々の言語を話さない…… (ロレンツォ,2007---精神病、あるいは「父の名の周囲のシニフィアンたちがどんどん自力で歌い出す」症状)

…………

※附記

われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心理的(表象的)な代理 (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識の中に入り込むのを拒否するという、第一期の抑圧を仮定する根拠がある。これと同時に定着 Fixierung が行われる。というのは、その代表はそれ以後不変のまま存続し、これに欲動が結びつくのである。(……

抑圧の第二階段、つまり本来の抑圧 Verdrängung は、抑圧された代表の心理的な派生物に関連するか、さもなくば、起源は別だがその代表と結びついてしまうような関係にある思考傾向に関連している。

こういう関係からこの表象は原抑圧をうけたものと同じ運命をたどる。したがって本来の抑圧とは後期抑圧 Nachdrängung である。それはともかく、意識から抑圧されたものに作用する反撥だけを取り上げるのは正しくない。同じように原抑圧を受けたものが、それと関連する可能性のあるすべてのものにおよぼす引力をも考慮しなければならない。かりにこの力が協働しなかったり、意識によって反撥されたものを受け入れる用意のある前もって抑圧されたものが存在しなかったなら、抑圧傾向はおそらくその意図をはたさないであろう。

精神分析は、精神神経症における抑圧の働きを理解するのに重要な、別のものをわれわれにしめすことができる。

たとえば、欲動の代表 Triebrepräsentanz が抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展することなどである。

それはいわば暗闇の中にはびこり、極端な表現形式を見つけ、もしそれが神経症者の心の中に植えつけられて育つと、患者にとって異物とみられざるをえないばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärke という幻像によって患者をおびやかすのである。

人をあざむくこの欲動の強さ Triebstärke は、空想の中で制止されずに発展した結果であり、たびかさねて満足が拒絶された結果である。この後者の結果が抑圧と結びついていることは、われわれが抑圧の本来の意味をどこに求めるべきかを暗示している。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung,1915

フロイトは後年、『制止、症状、不安』(1926)にて、「後期抑圧」(後の大半の抑圧 Mehrzahl aller späteren)と「最初期の抑圧 (frühesten Verdrängungen )」とを比較して、第二の場合(原抑圧)は現実神経症 Aktualneuros の原因、第一の場合(後期抑圧)は精神神経症 Psychoneuros の特徴としている。

daß der zweite Fall in der Ätiologie der Aktualneurosen verwirklicht ist, der erste für die der Psychoneurosen charakteristisch bleibt.

ーー精神神経症とは「抑圧」による病理、現実神経症とは「原抑圧」による病理といってよいのではないか。

そして、このフロイト的観点からは、どの精神神経症にも、その根には、現実神経症がある。

精神神経症と現実神経症は、互いに排他的なものとは見なされえない。(……)精神神経症は現実神経症なしではほとんど出現しない。しかし「後者は前者なしで現れるうる」(フロイト『自己を語る』1925)。これは、現実神経症的病理が単独での研究領域であることを正当化してくれる。さらにもっとそうでありうるのは、フロイトは、現実神経症を精神神経症の最初の段階の臍と見なしているからだ。(“ACTUAL NEUROSIS AS THE UNDERLYING PSYCHIC STRUCTURE OF PANIC DISORDER, SOMATIZATION, AND SOMATOFORM DISORDER:” BY PAUL VERHAEGHE, STIJN VANHEULE, AND ANN DE RICK、2007ーー神経症と精神病、正常と異常の区別の曖昧化(中井久夫)

ようは、神経症の症状とは二重構造になっている。

フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動、他方にはプシケ(個人を動かす原動力としての心理的機構:引用者)である。ラカン派のタームでは、現実界と象徴界ということになる。これは、フロイトの最初のケーススタディであるドラの症例においてはっきりと現れている。この研究では、防衛理論についてはなにも言い添えていない。というのはすでに精神神経症psychoneurosisにかかわる以前の二つの論文で詳論されているからだ。このケーススタディの核心は、二重の構造にあると言うことができ、フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動にかかわる要素、――フロイトが“Somatisches Entgegenkommen”と呼んだものーーだ。のちに『性欲論三篇』にて、「欲動の固着」と呼ばれるようになったものだ。この観点からは、ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因性の代表象representation――抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動ということになる。

この二重の構造の視点のもとでは、すべての症状は二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換性の症状は、症状の形式的な外被に帰着する。すなわち、「それらの症状は欲動の現実界に象徴的な形式が与えられたもの」(Lacan, “De nos antécédents”, in Ecrits)ということになる。このように考えれば、症状とは享楽の現実界的核心のまわりに作り上げられた象徴的な構造物ということになる。フロイトの言葉なら、それは、「あたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなもの」(『あるヒステリー患者の分析の断片』:人文書院旧訳より抜き出している:引用者)。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq

※より詳しくは、忘れ去られたフロイトの現実神経症(現勢神経症)概念を見よ、


Somatisches Entgegenkommenーー「身体側からの対応」とフロイト旧訳では訳されているが、英訳ではsomatic complianceであり、これは「(流動する)身体 soma の服従」とでもできるだろうーー この語は「欲動の固着」のことでもある。これが晩年のラカンの「身体の出来事 un événement de corps」でなくてなんだろう。すなわち、Somatisches Entgegenkommen は、明らかに原抑圧=サントームにかかわる。