2016年4月18日月曜日

人間に「死の欲動」があるのは、言語を使うせいじゃないか?

人間は、せいぜいのところ他人の攻撃を受けた場合に限って自衛本能が働く、他人の愛に餓えた柔和な動物なのではなく、人間が持って生まれた欲動にはずいぶん多量の攻撃本能も含まれていると言っていいということである。

したがって、われわれにとって隣人は、たんにわれわれの助手や性的対象たりうる存在であるばかりでなく、われわれを誘惑して、自分の攻撃本能を満足させ、相手の労働力をただで利用し、相手を貶め・苦しめ・虐待し・殺害するようにさせる存在でもあるのだ。

「人間は人間にとって狼である」(Homo homini lupus)といわれるが、人生および歴史においてあらゆる経験をしたあとでは、この格言を否定する勇気のある人はまずいないだろう。通例この残忍な攻撃本能は、挑発されるのを待ちうけているか、あるいは、もっと穏やかな方法でも手に入るような目的を持つある別の意図のために奉仕する。けれども、ふだんは阻止力として働いている反対の心理エネルギーが不在だというような有利な条件に恵まれると、この攻撃本能は、自発的にも表面にあらわれ、自分自身が属する種族の存続する意に介しない野獣としての人間の本性を暴露する。

民族大移動、フン族――ジンギス・カーンおよびティームールにひきいられたモンゴル人――の侵入、信心深い十字軍戦士たちによるエルサレムの征服などに伴って起こった数々の残虐事件を、いや、さらに最近の世界大戦中」の身の毛もよだつ事件までを想起するならば、こういう考え方を正しいとする見方にたいし、一言半句でも抗弁できる人はあるまい。(フロイト『文化への不満』)

で、どうして人間はこういうことが起るのだろう?
動物は同類のあいだでは起らないのに。
たとえば降参のポーズというシグナルを出せば、攻撃性はとまる。

(動物は)攻撃本能が適当なシグナルによって解除され、同類の無用な殺し合いが避けられるのに対し、攻撃欲動は見境なしに発動され、恐るべきジェノサイドを現出する。人間の歴史はまさしく血塗られた歴史であり、いかなる社会的規制も、より大きな暴力をもたらしこそすれ、永続的に平和を築くことができなかったというのは、周知の事実である。(浅田彰『構造と力』)
動物にはアウシュビッツもコソボもない。生物学の要素は心理学に転換され得ないし、逆も真である。欲動はこの二つの領域のあいだの中間地帯に現れ、境界線の不可能な越境の効果である。欲動にしばしば伴う怒りも攻撃性も、動物には馴染みのない不能と無力の表現である。動物には本能はあるが、欲動はない。(ヴェルハーゲ,1998)
類人猿は手の届かない対象に直面するとき、何度かそれを掴もうと試みた後にそれを放棄して、より穏当な対象に転ずる(例えば、より魅力の劣る性的パートナー)。他方、人間は、不可能な対象に釘づけになったままで努力をしつこく繰り返す。(ジジェク、2012)

《どうだろう、人間が動物を凌駕するのは暴力の能力の点においてである理由が、まさに言語を使うせいだったら?》(ジジェク、2012)

もう半歩だけ足を進めれば、人間に「死の欲動」があるのは、言語を使うせいじゃないか、と言うことさえできそうだ。なぜ誰もいまだそう言わないのだろう?

我々は動物がけっしてしないことをするように見える。我々は、我々がそうあるべきだと思っている標準、絶対的な標準、規範、水準に照らし合わせて、享楽を判断している。標準や基準は、動物界にはない。標準などは言語によってのみ可能となる。言い換えれば、言語は、我々が得ている享楽が標準には達していない、基準に達していない、そうあるべきものではない、と思わせるのだ。

言語は、我々に「言う」ことを可能にする、我々が種々の方法で得ている満足は取るに足りないもので、別の満足、より良い満足、決して我々を裏切らない満足、決して期待外れに終わらず、失望させない満足があると。我々はかつて一度でもそのような期待通りの満足を経験することができただろうか? 大抵の人にとっては、おそらく「否」だろう。だが、そのことは信じることを止めはしない、きっとそのような満足があるに違いない、何かより良いものがあるに違いない、と。たぶん我々は、ある他の集団ーーユダヤ人、アフリカ系アメリカ人、ゲイ、女性ーーにその徴を見ると考えるかもしれない。そして憎悪したり羨望したりする。たぶん、我々はある集団にそれを投影するのだ。というのは、我々はそれが存在すると信じていたいのだから(私はここでレイシズムやセクシズムなどの全ての局面を、このひどく単純化した形式で説明するつもりは毛頭ないことを断っておく)。

いずれにせよ、我々は、何かより良いものがあるに違いないと思い、何かより良いものがあるに違いないと言い、何かより良いものがあるに違いないと信じる。そのように何度もくり返しして言うのだ、我々自身に、あるいは友人に、さらには分析家に。そうすることによって、我々はこの他の満足、この〈他者〉の享楽に一貫性を与える。結局、それにとても大きな一貫性を与えることそのものが、我々が実際に得ている享楽はひどく不十分なものに見えてしまうことに導く。そのため、我々のもつ僅かな享楽は、更に先細りになってしまう、我々がひどく重要だと思い込んでいる享楽の理想との比較によって、いっそう色褪せてしまうのだ。そして我々はその享楽を決して諦め切れない。(Bruce Fink“Knowledge and Jouissance”2002)

このブルース・フィンクの文は、2001年に次ぎのミレールの文を読んで(翻訳して)、それを前提にして書いているはずだ。

本源的なアタッチメントは、身体の上に言語の痕跡を刻印することである。根本的出来事・情動の痕跡化の原理は、誘惑ではない。去勢の脅かしでもなく、愛の喪失でもない。両親の性交の目撃でもなく、エディプスでもない。そうではなく、言語との関係である。(……)

情動の痕跡を生みだす出来事の総合的定義は、フロイトがトラウマと呼んだものである。トラウマ化とは、それが快原理の失敗した効果によって生みだされる限りで、快原理の規範に従って消し去りえない要素である。すなわち、トラウマは、快原理の統制の失敗を引き起こす。情動の痕跡の根本的出来事は、次のようなものだ…それは、身体のなか、精神のなかに、興奮の過剰を持続させるもの・再吸収されえないもの。我々は、ここで、トラウマ的出来事の総合的定義を得る。それは、言存在 parlêtre のその後の人生において痕跡を残すものである。 (Miller, J.-A. (2001). The symptom and the body event (Trans. B. Fulks).)

ミレールはここで何を言っているのか。まずミレールが言語といっているのは、いわゆる後期ラカンの次の内容にかかわる。

la passion du corps = l' Un de signifiant = Lettre = petit(a) --S.22 pp.71-73

すなわち、身体のパッション=「一」のシニフィアン=文字=対象a

ここではまず、「一」のシニフィアンと文字に注目しておこう。

無意識は、母のララングからやって来る情動を扱う方法として、捉えうる。ララングはstocheion原要素:S.20)、知のアルファベットの原文字を含んでいる。…分析は、分析主体(被分析者)の言っていることを超えて、これらの文字を読むことを目標にしなければならない。(P. Verhaeghe,Mind your Body 2001)
ひとつきりのシニフィアンS₁」としての要素現象…そこで取り出されているのは無意味のシニフィアンであり、そこに刻まれている各主体の享楽のモードである。ミレールがいうように、現代ラカン派にとって、「症状を読む」こととは、症状の意味を聞き取る=理解することではなく、むしろ症状の無意味を読むことにほかならない。(松本卓也『人はみな妄想する』)

そしてミレールの文の「根本的出来事・情動の痕跡化の原理」や「情動の痕跡の根本的出来事」とは、おそらく次ぎのラカンの言明にかかわる。

un événement de corps = sinthome (JOYCE LE SYMPTOME,AE.569)

すなわち、身体の出来事=サントームである。

どうだろう、ラカンの Y a d'l'Un を、(いくつかの「一」の上に)欲動を構成する最低限のリビドー的固着の式として読むのなら? プレ出来事的な「一」のない多数性から欲動の出現の瞬間として、である。そうであるなら、この「一」は、サントーム、「享楽の原子」、言語と享楽の最低限の統合である。享楽に浸透された記号の一単位(我々が強迫的に反復するチック〔痙攣〕のようなもの)である。そのような「一」は、享楽の微粒子、最も微細で本源的な袋 packages ではないか?(ジジェク、2012)  

サントームとは、  Y a d'l'Un (「一」のようなものがある)ではないか、とジジェクは言っている。そしてそれは「享楽の原子」であり、「身体の出来事 un événement de corps」 としてよいだろう。

※参照:「Y a d'l'Un〈一〉が有る」と「il y a du non‐rapport (sexuel)(性の)無-関係は有る」


ミレールの言っていることに戻れば、言存在 parlêtre にとって、言語への従属化はトラウマ的だということだ。そしてシニフィアンは、享楽と身体を結びつける。すなわち、情動を運ぶ痕跡は、現実界のなかのリビドーの固着と身体的へと享楽の局地化を構成する。

シニフィアンは、徴示する効果を持つだけではなく、身体に情動の効果を生む。我々は、「情動」という用語にあらゆる一般性を授けねばならない。それは、混乱させるもの、身体に痕跡を作るものである。情動の効果はまた、症状の効果・享楽の効果を含んでいる。そして主体の効果さえもある。だが、それは身体のなかに位置づけられる主体の効果であり、ただの(シニフィアン)論理の純粋効果としてではない。(ミレール、2001)

さて、「情動」という言葉に反応して、ニーチェを引用しよう。

権力への意志が原始的な情動(Affekte)形式であり、その他の欲動(Affekte)は単にその発現形態であること、――(……)「権力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)

フロイトの『マゾヒズムの経済的問題』1924には、タナトス(死の欲動)概念を説明するなかで、ニーチェの「権力への意志」概念に触れて、《破壊欲動とか征服欲動とか権力への意志》(Destruktionstrieb, Bemächtigungstrieb, Wille zur Macht)と三つを並列的に置いている。


ーーで、人間に「死の欲動」があるのは、言語を使うせいじゃないかい?


ヘーゲルが何度も繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。もっとパセティックな言い方をするなら、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが次のように言うのを好んだように。つまり、私は話しているのではない。私は言語によって話されている、と。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。すなわち、主体が「聖餐式における全質変化 transubstantiation」のために支払わなければならない代価。ダイレクトな動物的生の代理人であることから、パッションの生気から引き離された話す主体への移行である。(ジジェク、2012)