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2016年4月17日日曜日

犬と人間(記号とシニフィアン)

犬が子どもを5匹また産んだ。わたくしは、母犬が子犬を世話している様子を見るのが好きだ。家族たちも好む。あの様子を好ましく眺めるのは、人間の原初の母子関係を想起するからか。

庭を駆け回るようになったら、1匹だけ残してあげてしまう。それでも家の飼犬は増えつづける。今すでに6匹いるので、今度の子犬たちはまた1匹残すべきなのか、それとも全部あげてしまうべきか(すべてあげてしまうのは、なんだか忍びない)。

子犬たちがお腹がへって泣き叫けべば、母犬はふつうは飛んでいく。そして子犬は、目がみえないにもかかわらず、母が近づいて横たわれば、這って母の乳房をさぐって吸いつく。

子犬が目が見えるようになるのは、2、3週間かかる。乳離れをするのは6週間ぐらいか。我が家の母犬は、ある時期からーーやや子犬が育ってきてからはーー、子犬が呼んでも、身体はすぐさま反応するにもかかわらず、またか、アタシ、もう疲れたよ、という風な仕草をし、飛んでいかなくなる。数歩、子犬のほうにゆっくり向かい、そこで立ち止まったり、行ったり来たりして、躊躇している。

わたくしはその振舞いを見ると微苦笑したくなる。人間の母もこうなんだろうな、と。オツカレサン! ま、テキトウに世話すべきかもな、と。

とはいえ、犬と人間とは異なる。

人間の赤子は、出産直後、1時間前後は目が開いているらしい。そのときの視力はひどく弱い。その後、目が閉じる。そして1週間前後のちに、目が開くようになる(例外はあるらしいが)。人間の子どもは、子犬たちより目が開くのは早い。これは一見奇妙な現象だ。というのは、子犬は6週間後ぐらいから歩きだし、身体的な成熟は人間よりずっとはやいのだから。

(もっとも犬と人間の時間は違う。犬の寿命はせいぜい12~15歳程度だ(人間の5分の1から6分の1程)。とすれば、犬の6週間とは、人間の36週間にあたるという見方はありうる。人間は1年後(50週間後)に歩き始めるのなら、一見の思い込みほどには違わない。)

ーーなどとイイカゲンなことを記していて、すこしネットを探って確認してみると、次のような図表に出会った。

佐々木動物医院

ーーこれによれば、犬の生後6週間目とは、人間の2歳前後にあたることになる。


話を戻せば、人間の赤子というのは、子犬たちのように、母犬が近づいて横たわれば、這って乳房を探す、ということはほとんどないはずだ。母が乳房を口元までもって行かないとダメではなかったか。このあたりも、人間は、本能の壊れた動物といわれる一因か。

初期ラカンは、ボルクのネオテニー(幼態成熟)説を援用して、「胎児化」による「発達の遅れの結果」としての「視知覚の早すぎる成熟」を語っているが、これは、人間は、動物たちの身体的な発達度にはひどく遅れをとっている反面、視知覚の発達ははやい、ということだ。

ラカンによって、「出生時の特異な未熟性 (prématuration spécifique de la naissance)」とか、「原初的不調和(une Discorde primordiale)」と言われ、それをまとまるようにして「寸断された身体(corps morcelé)」と言われるのも、まずは視知覚と身体の発達の不調和な存在ということだろう。

フロイトのいう「寄る辺なさ( Hilflosigkeit )」、つまり、無力感・無能性、あるいは、解釈者によって、「全体の統制がとれず欲動のざわめきに突き動かされる哀れな肉塊」と表現されるものは、まずは、この文脈にある。すなわち、人間の「本源的な欲動のアナーキー(l'anarchie de ses pulsions élémentaires)」である(参照)。

身体の未発達のなかでの「視知覚の早すぎる成熟」とは、世界が統制のとれていない「浮遊する情報群」のカオスとして現れることだ。

このカオスとは、「コスモス=分節化されたもの」/「カオス=分節化以前のもの」などとソシュール派によって対比されるカオスではない。ソシュールのいう「混沌たる塊」や「星雲」ではない。むしろ、体系化されることのない積極的な差異の情報群(シニフィアン)が無数におのれを主張しあい、《素肌のままであたりを闊歩するという野蛮さに徹している》風土である(参照)。

このなんとも始末におえない世界=カオスに直面している原主体(プレ主体)、「全体の統制がとれず欲動のざわめきに突き動かされる哀れな肉塊」にとって、あの野蛮さをなんとか統制するためには何かが必要だ。

人間にとって、「正常 」と呼ばれるためには、彼は「最低限の数」の縫合点を獲得しなければならない。(ラカン、セミネールIII)

この縫合点は、またS1 と呼ばれる。それは、S2(体系化されることのない積極的な差異の情報群)の「ポワン・ド・キャピトン(point du capiton) 」でもある。

この「クッションの綴じ目(point du capiton)」という比喩は、何だったか。クッションとは、袋状にしたカバーのなかに羽毛や綿などを詰めたものだ。だが、そのままではすぐに中身が偏ってしまう。この野蛮さを統制する何かがなかったら「始末におえない」。だから人は、「クッションの綴じ目」、すなわちクッションの中央にカバーの表から裏まで糸を通し、糸が抜けてしまわないように、たとえば、ボタンをつける。それが縫合点であり、S1 だ。

ある時期からのラカンにとってはーーセミネールⅤ以前の「大他者の大他者はある」のラカンから、セミネールⅥ以降の「大他者の大他者はいない」のラカンにとっては(参照)ーー、それは「父の名」(父の諸名)とも呼ばれる。

父の名(複数の父の名) 、それは、何かの物を名付けるという点での最初の諸名のことだ […c'est ça les Noms-du-père, les noms premiers en tant que ils nomment quelque chose](ラカン、セミネール22,.R.S.I., 3/11/75)

ここでの「何かの物を名付ける」とは具体的にどういう意味か。

ラカン曰く、人が「昼と夜」と言えるようになる前には、昼と夜はない。 ただ光のヴァリエーションがあるだけだ、と。

世界に「昼と夜」というシニフィアンが導入されたとき、何か全く完全に新しいものがうまれる。 (ミレール、The Axiom of the Fantasm、 Jacques-Alain Miller、2013)

このようにして、何かを名付けことも、世界の縫合点・クッションの綴じ目の機能をもつ。もちろん、幼児が自らを「ボク、アタシ」や自分の固有名で呼ぶことも名付けである。すなわち、これがS1 である。

S1、最初のシニフィアン、フロイトの境界語表象、原シンボル、原症状とさえいえるが、それは、主人のシニフィアンであり、欠如を埋め、欠如を覆う過程で支えの役割をする。最善かつ最短の例は、シニフィアン「私」である。それは己のアイデンティティの錯覚を与えてくれる。(ヴェルハーゲ、1998)
「私」を徴示(シニフィアン)するシニフィアン(まさに言表行為の主体)は、シニフィエのないシニフィアンである。ラカンによるこの例外的シニフィアンの名は主人のシニフィアン(S1)であり、「普通の」諸シニフィアンの連鎖S2sと対立する。(ジジェク、Less than nothing、2012)

ラカンは、セミネールⅩⅦの冒頭から次ぎのようなことを記している。

主体の発生以前に、世界には既に S2(シニフィアン装置 batterie des signifiants)が存在している。S2 に介入するものとしての S1 (主人のシニフィアン)は、しばらく後に、人と世界のゲームに参入するが、そのS1 は、主体のポジションの目安となる。この S1 の導入とは、構造的作動因子 un opérateur structural としての「父の機能」 la fonction du père のことだ。S1とS2 との間の弁証法的交換において、反復が動き始めた瞬間、主体は分割された主体 $ (le sujet comme divisé )となる。

犬たち、動物たちにはシニフィアンはない。記号しかない。これが、欲動/本能の対立としての、人間/動物のありようだ(参照)。

《まずいっておくが、シニフィアンは記号ではない。われわれが取り組もうとしているのはこの区別に厳密な定義を与えることである》(ラカン)

シニフィアンは記号とは逆に、誰かに何かを表象するものではなく、主体をもうひとつのシニフィアンに対して表象するものである。私の犬はご存知のように、私の印、記号を探し、そして話す。なぜこの犬は話す時に言語を使わないのであろう。それは、私はこの犬にとって記号を与えるもので、シニフィアンを与えることはできないからである。前言語的に存在し得るパロールと言語の違いはまさにこのシニフィアンの機能の出現にかかっているのである。(ラカン、セミネールⅨ「同一化」)

ほかにもこのセミネールには、次ぎのような説明がある。

私の取り巻きの中に、サドに敬意を表してジュスティーヌと名付けた一匹の雌犬がいる。(とはいっても、私がその犬をいじめるわけではない。)この犬は間違いなく話をするのである。この犬が言葉を持っているのは疑い入れない。だが、それだからと言ってこの犬が完全に言語を持っているということにはならない。言語に対して人間的な関係をもつことなしに、パロールを持っているということに関する問いをもとに、前言語的なものについての問題を取り扱うことができる。……(以下、略ーー参照:ラカン派の「記号」と「シニフィアン」

わたくしの飼犬のボクサー ーーラカンのジェスティーヌはボクサーであるーーは、老齢で死んでしまった。ボクサーやブルドックというのは、一般の犬の平均寿命に比して、ひどく短命だ(10歳程度)。病気も多い。亜熱帯気候の当地ではとくに酷だ(わたくしはそれを最近知った)。いまは、その子どもであるブルドックとの雑種犬しかいない。