2016年4月16日土曜日

”魂のこと”をする

女が欲するものは神が欲するものだ。[ Ce que femme veut, Dieu le veut.] (Alfred de Musset, Le Fils du Titien, 1838)

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「大他者の(ひとつの)大他者はある」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。[La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».](ラカン、セミネール23、 サントーム)

◆JS BACH: Mass in B minor - Cum sancto spiritu(ロ短調ミサ、聖霊とともに)




ーーいやあ、実に美しい花咲く乙女たちがたくさんいる。肌がひどくつやつやして見えるのは気のせいか。日本人合唱団の映像をすこし探してみたのだけど、こんないい女たちの合唱団は見当たらないね、たまたまそうなのかどうかは判然としないが。

以前、Yurii Bashmet指揮の桐朋オーケストラの花咲く乙女たちーーこれは美女揃いだったーーの武満徹の「他人の顔」の演奏に行き当たったのだが、それはいま見当たらない。そもそもあれはセミプロの弦楽奏者たちの集団だ。

たとえば、2013年武蔵野音楽大学管弦楽団合唱団の面々。どうしてこんな風なーーいかにも肩をいからした窮屈そうな(おつうじが悪そうな?)ーー姿態・顔貌で歌ってるんだろ(キムチというのは便秘に効くんじゃないかね、日本女性のみなさん!)





ーーーいやいや、よく見れば三四人は韓国の合唱団にまけない美女がいる。


吉行淳之介がエッセイで、彼自身だったか友人だったかかが、女子大の階段教室で講義をしていると、百人の女性器に向かって話しをしているようで居心地が悪くなるとかいうようなことを書いていたが(記憶で記しており、ネット上にはそれらしきものは見当たらない。数日前引用した金子光晴との対談はその代りに見つけたものだ)、ーーーわたくしにはあの韓国の若い女性たちの合唱ーー男たちにかんしては失礼するーーは、全然そんな感じはしない。百人の魂に直面しているかのようだ・・・

人間のあり方を総合的にとらえて自分を磨いていくことを”魂のこと”をするというふうにいいたいと思います。神なしでも”魂のこと”をする場所を作る”新しい人”の決意で小説は閉じられるわけですが、僕にとっては”神なしでも”の部分が重要です。僕はずっと”信仰を持たない者の祈り”ということをいってきましたが、それは信仰を持つ可能性があるという意味を含んでいたわけですね。『宙返り』を書いて、そういう気持ちから切り離されて、本当に自由になった気がします。(大江健三郎、ダヴィンチ)

しかし魂と女性器とはどうちがうのだろう?

谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ(老子「玄牝の門」 福永光司氏による書き下し)

……悦びの声が湧き出ちまうよ、「聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな」!





ーーこれも悪くないが(?)、バッハの合唱やるのは、こういったオネエサンたちが多いのだ・・・

聖歌を唱う者にとって、聴衆のための演奏など思いもよらぬことであった。彼らが唱うとき、彼らを通して神の声が唱う。あるいはそれは天使の声であるかもしれない。しかしそこに集う者たちは聴くためだけではなく秘儀をとりおこなうために来ているのだ。音楽は信徒に語りかけるのではない。彼らに代わって唱われるのであり、しかも聖歌は誰もそれを聴く人間がいなかったとしてもまったく変わることはないはずだ。それは物理的な顕現でしかない。仮りに音楽が聴く者に外部から触れるとしても、そのほんとうの源は聴く者の内部にある。聖歌は音響に姿を変えた祈りとなるのだ。(ミシェル・シュネデール)

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セミネールXX の決定的な箇所で、ラカンは苛立ちをもって語っている。神の仮説 l'hypothèse Dieu 宣言、すなわち、《誰かが何かを言う限り、神の仮説はそこにあるだろう》、かつまた《不可能なことだ、即座に、大他者の形式のなかに神を存在させる faire subsister ことなく何かを言うのは》ーーこれは容易に、ラカンに従う者たちに確信させてしまう、ラカンは神を信じている、と。《自ずと、君たちすべては、私が神を信じている、と確信してしまうんだろうな、(が)私は、女性の享楽を信じているんだよ…》とある。

・Aussi longtemps que se dira quelque chose, « l'hypothèse Dieu » sera là P.55

・il est impossible de dire quoi que ce soit sans aussitôt le faire subsister, ne serait-ce que sous cette forme de l'Autre. P.56

・naturellement vous allez être tous convaincus que je crois en Dieu : je crois à la jouissance P.77

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ひとり艶然と輝く韓国系米人のサラ・チャン(Sarah Chang、[장영주])。

◆Bach. Concierto para 4 pianos BWV 1065. Martha Argerich, Kissin, Levine, Pletnev (HD)