2016年4月15日金曜日

ボクはヴァイブレーターか

人間が作ったものと自然が作ったものの差異はなにかという問いは、それ自体歴史的である。実際この問いが生じるのは、またテクネーの意味が問われるのは、 きまってテクノロジーが飛躍的に発展するときである。(……)サンボリストたちの問題意識は、19世紀のテクノロジーに密接に関係するのである。今日において、構造主義は、いうまでもなく、コンピューター・サイエンスの所産である。逆に、現代のテクノロジーに無関係にみえるような哲学者の言説においても、 本質的にこの関係が存する。たとえば、ジャック・デリダがアルシエクリチェールについて語るとき、分子生物学が遺伝子をエクリチュールとしてみているという事実の上である。(柄谷行人『隠喩としての建築』1983)

今日において、草食系男子繁殖は、いうまでもなく、インターネット普及の所産である。逆に、現代のテクノロジーに無関係に見える性行為自体においても、本質的にこの関係が存する。たとえば、ジャック=アラン・ミレールが精神分析の変貌について語るとき、ポルノグラフィや性具の氾濫が、男女の性関係の構造をすくなくとも表層的には変えたという事実の上である。

このことは何を意味するのだろうか。第一に、われわれはもはや伝統的な用語によって語るべきではなく、すくなくとも現代のテクノロジーの達成を前提としておかねばならない。さもなければ、それはわれわれを伝統的な思考の圏内に閉じこめてしまうだろう。だが、同時に、われわれは歴史的な過去に遡行しなければならない。それは、現代のテクノロジーが与えている「問題」が、そのなかで解かれるべきものであるどころか、一つの反復的な症候にすぎないことを知っておくべきだからだ。さらに、もっと重要なことは、われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくことである。(同、柄谷行人、1983)

このことは何かを意味するのだろうか。第一に、われわれはもはや男/女を、能動/受動の対比で語るべきでなく、すくなくとも現代のこけしテクノロジーの達成を前提としておかねばならない。さもなければ、伝統的な男女関係の思考の圏内に閉じこめられてしまうだろう。だが、同時に、われわれは解剖学的肉体構造の普遍性を忘却してはならない。すなわち、女性器は常に便器になりうるが、男性器はなりえない。

伊藤比呂美の「きっと便器なんだろう」にはこうある。

あたしは便器か
いつから
知りたくは、なかったんだが
疑ってしまった口に出して
聞いてしまったあきらかにして
しまわなければならなくなった


男は便器にはなりえない。では、ボクはヴァイブレーターか。いや能動的なヴァギナに遭遇すれば、ファルスのヴァイブレータ機能の故障さえしばしば起こる。我々は phallus に fallibility(ペテン)の音調を聞き取らねばならない。それは、場合によっては、旧式張り形にさえ劣る不如意棒なのである。さらに、もっと重要なことは、性具やインターネット上のポルノグラフィの氾濫以前に、過去の集団的規範が消滅しているということだ。それが男と女との関係を決定づけたのだが。これらの規範は特定の地域と時代に形成されたとはいえ、それを超えて、より根本的な規範があった。快楽の分配を決定づけ制限した規範である。これもまた掘り崩された。そして、完全な快楽への道が開かれた。しかも全的な享楽がほとんど義務である点にまで到っている。唯一の限界は、金銭的なものだ。

この救済のメッセージへの応答は、意外なことに困惑を与えられるものだ。すなわち、快楽の増大の代わりに、セックスへの興味の低減があるようにみえる。長いあいだ待ち望まれていた厳格な規範の消滅は、全く新しい現象をもたらしている。一方で、従来ではありえなかったような規範が急速に増大しつつある。未婚カップルへの抑圧的規範、いわゆる「相互理解」、あるいは「オトモダチ」の強制である。かつまたセクシュアル・ハラスメントやストーカー行為を禁止する規範。他方で、増え続ける怖れと攻撃性への保守的な反応がある。寛容を強要する社会における逆説的な不寛容とは、嫌がらせを受けない権利、他者から安全な距離を保つ権利の固執である、そこにはヘーゲルの《悪は、まわりじゅうに悪を見出す眼差しそのものの中にある》の機制さえ働いている。この帰結として、人は「逃走」へと向かう。この傾向を促す力は、若い男たちにより多く作用しているようにみえる。ここでは二人のフェミニストの見解を示しておこう。

現在の真の社会的危機は、男のアイデンティティである、――すなわち男であるというのはどんな意味かという問い。女性たちは多少の差はあるにしろ、男性の領域に侵入している、女性のアイディンティティを失うことなしに社会生活における「男性的」役割を果たしている。他方、男性の女性の「親密さ」への領域への侵出は、はるかにトラウマ的な様相を呈している。(Élisabeth Badinter
男たちはセックス戦争において新しい静かな犠牲者だ。彼らは、抗議の泣き言を洩らすこともできず、継続的に、女たちの貶められ、侮辱されている。(Doris Lessing 「Lay off men, Lessing tells feminists

だが、これ自体は(少なくとも性関係においては)たいした問題ではない。この実存的な恐怖にもかかわらず、どの「標準的な」男も、否応なしに女へと駆り立てられる。焼けつくような燈火へ向かう蛾のように、男は欲動に駆り立てられる。それは、萩原朔太郎の「青猫」序文にあるごとく。

燈火の周圍にむらがる蛾のやうに
ある花やかにしてふしぎなる情緒の幻像にあざむかれ
そが見えざる實在の本質に觸れようとして
むなしくかすてらの脆い翼をばたばたさせる
私はあはれな空想兒
かなしい蛾蟲の運命である。

とはいえ、男と女の性的役割の転倒の増大は、次ぎのような現象を起こしつつあるには相違ない。草食系男子の繁殖とはその典型的な社会症状であるだろう。

なにが起こるだろう、ごくふつうの男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろう。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出す。すなわち性的な役割がシンプルに転倒してしまった症例だ。男たちが、酷使されている、さらには虐待されて物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らす。男たちは、女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム“ニンフォマニア(色情狂)”まで創り出している。これは究極的にはVagina dentata(「有歯膣」)の神話の言い換えだ。 (Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  Paul Verhaeghe、1998、私訳)

男たちの欲望の構造は、奇妙な形式をもっているのだ。プルーストならこう言う。

若い娘たちの若い人妻たちの、みんなそれぞれにちがった顔、それらがわれわれにますます魅力を増し、もう一度めぐりあいたいという狂おしい欲望をつのらせるのは、それらが最後のどたん場でするりと身をかわしたからでしかない、といった場合が、われわれの回想のなかに、さらにはわれわれの忘却のなかに、いかに多いことだろう。(プルースト『ゲルマントのほう 二』)

女たちの欲望の構造は男とはやや異なる(もっともその女たちの欲望の構造が男性化しているという観点は上に掲げたようにありうる)。男女の性愛の構造差は、同性愛において端的にあらわれる。ここでもまたポール・ヴェルハーゲの前掲書から掲げておこう。

女を演じる男の服装倒錯者は、理想的な女という男の幻想をベースにそうする。つまり他の男にとっての理想を。強調はいわゆるスーパーフェミニン的な面だ。言い換えれば、肉体的面である。女たちにとっては、事態はもう少し複雑だ。他の女を誘惑する女は、理想の男を具象しはしない。もしそうするなら、僅かな程度だ。彼女はむしろ外見を超えた何かを体現する。理想的な関係とか理想的な愛とかいった何か。この理由で、服装倒錯は必要ない。相違は、同性愛の場合、いっそう顕著だ。男性の同性愛にとって、「性交 scoring」が肝心だ。女性同士のパートナーの場合、「巣ごもり nesting」が優勢である。([ポール・ヴェルハーゲ、1998)

よりいっそう普遍的な観点から言えば、ジジェクの見解が説得的である。

……男と女を即座に対照させるのは、間違っている。あたかも、男は対象を直ちに欲望し、他方、女の欲望は、「欲望することの欲望」、〈他者〉の欲望への欲望とするのは。(…)

真実はこうだ。男は自分の幻想の枠組みにぴったり合う女を直ちに欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底して一人の男のなかに疎外する。彼女の欲望は、男に欲望される対象になることだ。すなわち、男の幻想の枠組みにぴったり合致することであり、この理由で、女は自身を、他者の眼を通して見ようとする。「他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?」という問いに絶えまなく思い悩まされている。

しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ない。というのは、彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、裂け目自体、パートナーからの距離自体なのだから。その裂け目自体に、女性の享楽の場所がある。(ジジェク,LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

この文は、まさに巷間に流通する名言、「男性の恋愛は名前をつけて保存、女性の恋愛は上書き保存」の詳述化である。