国連関係者は、「フランス部隊が獣姦に関与したとの複数の報告を受けたが、現時点で確認はできていない」と述べた。国連の声明は「極めて問題性の高いこれらの疑惑について、正確な件数や特質は現在も調査中だ」としている。(「中央アフリカ駐留フランス軍に新たな虐待疑惑、少女に獣姦強要か」AFP,2016.3.31)
ーーとあるが、これは欲望の次元の振舞いだろうか、それとも欲動、あるいは享楽の次元の振舞いだろうか。
砕かれたもぐらの将軍
首のない馬の腸のとぐろまく夜の陣地
姦淫された少女のほそい股が見せる焼かれた屋根
朝の沼での兵士と死んだ魚の婚礼
軍艦は砲塔からくもの巣をかぶり
火夫の歯や爪が刻む海へ傾く
死児の悦ぶ風景だ
しかし母親の愛はすばやい
死児の手にする惨劇の玩具をとりあげる(吉岡実「死児」)
或る別の部落へ行った。兵隊たちは馬を樹や垣根につなぐと、土造りの暗い家に入って、チャンチュウや卵を求めて飲む。或るものは、木のかげで博打をす る。豚の奇妙な屠殺方法に感心する。わたしは、暗いオンドルのかげに黒衣の少女をみた。老いた父へ粥をつくっている。わたしに対して、礼をとるのでもなけ れば、憎悪の眼を向けるでもなく、ただ粟粥をつくる少女に、この世のものとは思われぬ美を感じた。その帰り豪雨にあい、曠野をわたしたちは馬賊のように疾 走する。ときどき草の中の地に真紅の一むら吾亦紅が咲いていた。満人の少女と吾亦紅の花が、今日でも鮮やかにわたしの眼に見える。〔……〕反抗的でも従順 でもない彼ら満人たちにいつも、わたしたちはある種の恐れを抱いていたのではないだろうか。〔……〕彼らは今、誰に向って「陰惨な刑罰」を加えつつあるのか。
わたしの詩の中に、大変エロティックでかつグロテスクな双貌があるとしたら、人間への愛と不信をつねに感じているからである。(吉岡実『わたしの作詩法?』――小林一郎氏「吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈」から)
かつまた正義面している〈あなた〉は例外なのか。
あなたが義務という目的のために己の義務を果たしていると考えているとき、密かにわれわれは知っている、あなたはその義務をある個人的な倒錯した享楽のためにしていることを。法の私心のない(公平な)観点はでっち上げである。というのは私的な病理がその裏にあるのだから。例えば義務感にて、善のため、生徒を威嚇する教師は、密かに、生徒を威嚇することを享楽している。 (『ジジェク自身によるジジェク』)
義務こそが「最も淫らな強迫観念」……。ラカンのテーゼ、すなわち、〈善〉とは根源的・絶対的〈悪〉の仮面にすぎない、〈物自体 das Ding〉、つまり残虐で猥褻な〈物自体〉による「淫らな強迫観念」の仮面にすぎない、というテーゼは、そのように理解しなければならないのである。〈善〉の背後には根源的な〈悪〉があり、〈善〉とは「〈悪〉の別名」である。〈悪〉は特定の「病的な」位置をもたないのである。〈物自体 das Ding〉、が淫らな形でわれわれに取り巻き、事物の通常の進行を乱す外傷的な異物として機能しているおかげで、われわれは自身を統一し、特定の現世的対象への「病的な」愛着から逃れることができるのである。「善」は、この邪悪な〈物自体〉に対して一定の距離を保つための唯一の方法であり、その距離のおかげでわれわれは〈物自体〉に耐えられるのである。(ジジェク『斜めから見る』)
さらには、《どの享楽の断念も、断念することの享楽を生み出す》(ジジェク、2012)という側面さえある。上のジジェクの文は、この側面を含めての「最も淫らな強迫観念」である。
私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。先の引き合わない犯罪者のなかにもそれが働いているが、できすぎた模範患者が回復の最終段階で自殺する時、ひょっとしたら、と思う。再発の直前、本当に治った気がするのも、これかもしれない。私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年初出『徴候・記憶・外傷』所収)
粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを人間自身の方へ向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、――これらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、これこそ「良心の疚しさ」の起源である。(ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳)
ーーただし、ニーチェはこの見解をさらに反転させるかのようにして、次ぎのように言う、《わたしは君があらゆる悪をなしうることを信ずる。それゆえにわたしは君から善を期待するのだ》(ツァラトゥストラ)。
この文は、大いなる悪の器の人間こそが偉大な善をなしうる、とさえ読みうる。
ここでプラトンの『国家』(藤沢令夫訳)とニーチェの文を並記して掲げておこう。
アデイマントス)生まれつき不正を忌み嫌うような性質を神から授かっているか、あるいは知を得て不正から身を遠ざける人の場合は例外として、一般には、みずからすすんで正しい人間であろうとする者など一人もいないのだ、ただ勇気がなかったり、年を取っていたり、その他何らかの弱さをもっていたりするために、不正行為を非難するけれども、それは要するに、不正をはたらくだけの力が自分にないからなのだ(366D)
まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)
…………
欲望/欲動(享楽)の問いは、本来、こういった点にあるので、その起源としては何も精神分析臨床のみの問いではない。
欲望は享楽に対する防衛である、ーー正確には、《le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance[欲望は防衛、享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である].》(ラカン、E825)ーーのであり、《欲望とは、ある種の屈服、ある種の妥協形成物、換喩的置換、退却、手に負えない欲動に対する防衛》(ジジェク、1991)である。これを外してしまっては、精神分析やらなにやらもあったものではない。
これは若き浅田彰がすでに明確に指摘している。
《動物にはアウシュビッツもコソボもない。生物学の要素は心理学に転換され得ないし、逆も真である。欲動はこの二つの領域のあいだの中間地帯に現れ、境界線の不可能な越境の効果である。欲動にしばしば伴う怒りも攻撃性も、動物には馴染みのない不能と無力の表現である。動物には本能はあるが、欲動はない。》(ヴェルハーゲ,1998)
……シューラーが人間を「おのれの衝動不満足が衝動満足を超過してたえず過剰であるような(精神的)存在者」と呼んでいるの葉興味深い。(……)
ここで衝動と呼んだものは正確に言うと何なのか。ここの問いに答えるためには、人間学と遠からぬ所から出発し、遥か先まで到達した精神分析に目を移したほうがいいだろう。そこでは、有機体と人間との対比、Instinkt / Trieb ないし instinct / pulsion の対比に集約される。最近の慣例に従って、これに本能/欲動という訳語をあてよう。
本能という語は、有機体を生のサンスにかなった行動に導くガイドとして機能する内的な情報機構を指し示している。これに対し、過剰なサンスを孕むことによって錯乱してしまった本能が欲動である。例えば、性本能が種の保存のために、「正しい」相手に対する、時宜にかなった、「正しい」性行動を導くのに対し、性欲動は時と場所を選ばずありとあらゆる対象に向かって炸裂する。フロイトが喝破した通り、本来、人間は多形倒錯なのである。「正しい」異性愛のパターンが社会制度として課されねばならないのは、まさにこのためである。また、攻撃本能が適当なシグナルによって解除され、同類の無用な殺し合いが避けられるのに対し、攻撃欲動は見境なしに発動され、恐るべきジェノサイドを現出する。人間の歴史はまさしく血塗られた歴史であり、いかなる社会的規制も、より大きな暴力をもたらしこそすれ、永続的に平和を築くことができなかったというのは、周知の事実である。(浅田彰『構造と力』P.34,1983ーー 「動物と人間(本能と欲動)」)
浅田彰はほかにも、ラカンのセミネールⅠから人間の「本源的な欲動のアナーキー」(同、構造と力、 P.137)というフレーズを抜き出している。
これは原文では、“ l'anarchie de ses pulsions élémentaires”であり、岩波訳の『フロイトの技法論)』(セミネールⅠ)では、いささか気の抜けたような訳文になっている、「要素的欲動という無政府状態」(岩波下巻 1991年 P.13)、あるいはその後の保科正章氏訳では、「(人間の)基本的欲動の無政府状態」 と。
Trieb、欲動、衝動。何かが主体を駆り立てる、彼自身がそこに行くのに欲しないところにまで。そこでは彼はすべての統御を喪失する。
〈あなた〉にはこの経験がないか? いや誰でもあるはずだ。
欲動 Drive は主体を彼自身の限界を超えて駆り立てる drives。たんに欲望の問題である限り、人生は薔薇の寝床、笑と涙、とりわけ会話である。これは人生の道のりの安全な側だ! 欲望を超えて他の人間に向かうとき、私は享楽に魅惑され・吐き気をもよおす。(ヴェルハーゲ、THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE,1998)
〈あなた〉にはこの経験がないか? いや誰でもあるはずだ。
2001年9月11日後の数日間、われわれの視線が世界貿易センタービルに激突する飛行機のイメージに釘づけになっていたとき、誰もが「反復強迫」がなんであり、快楽原則を越えた享楽がなんであるかをむりやり経験させられた。そのイメージを何度も何度も見たくなり、同じショットがむかつくほど反復され、そこから得るグロテスクな満足感は純粋の域に達した享楽だった。(ジジェク『 〈現実界〉の砂漠へようこそ』)
もっとずっと過去にもで遡ったっていい。
いつかぼくはある話を聞いたことがあって、それを信じているのだよ。それによると、アグライオンの子レオンティオスがペイライエウスから、北の城壁の外側に沿ってやって来る途中、処刑吏のそばに屍体が横たわっているのに気づき、見たいという欲望にとらえられると同時に、他方では嫌惡の気持がはたらいて、身をひるがそうとした。そしてしばらくは、そうやって心の中で闘いながら顔をおおっていたが、ついに欲望に打ち負かされて、目をかっと見開き、屍体のところへ駆け寄ってこう叫んだというのだ。「さあお前たち、呪われたやつらめ、この美しい観物を堪能するまで味わうがよい!」(プラトン『国家』439c)
これれを収斂したような文が、フロイトの『文化への不満』(文化の中の居心地の悪さ)にある。
人間は、せいぜいのところ他人の攻撃を受けた場合に限って自衛本能が働く、他人の愛に餓えた柔和な動物なのではなく、人間が持って生まれた欲動にはずいぶん多量の攻撃本能も含まれていると言っていいということである。
したがって、われわれにとって隣人は、たんにわれわれの助手や性的対象たりうる存在であるばかりでなく、われわれを誘惑して、自分の攻撃本能を満足させ、相手の労働力をただで利用し、相手を貶め・苦しめ・虐待し・殺害するようにさせる存在でもあるのだ。
「人間は人間にとって狼である」(Homo homini lupus)といわれるが、人生および歴史においてあらゆる経験をしたあとでは、この格言を否定する勇気のある人はまずいないだろう。通例この残忍な攻撃本能は、挑発されるのを待ちうけているか、あるいは、もっと穏やかな方法でも手に入るような目的を持つある別の意図のために奉仕する。けれども、ふだんは阻止力として働いている反対の心理エネルギーが不在だというような有利な条件に恵まれると、この攻撃本能は、自発的にも表面にあらわれ、自分自身が属する種族の存続する意に介しない野獣としての人間の本性を暴露する。
民族大移動、フン族――ジンギス・カーンおよびティームールにひきいられたモンゴル人――の侵入、信心深い十字軍戦士たちによるエルサレムの征服などに伴って起こった数々の残虐事件を、いや、さらに最近の世界大戦中」の身の毛もよだつ事件までを想起するならば、こういう考え方を正しいとする見方にたいし、一言半句でも抗弁できる人はあるまい。(フロイト『文化への不満』)
《動物にはアウシュビッツもコソボもない。生物学の要素は心理学に転換され得ないし、逆も真である。欲動はこの二つの領域のあいだの中間地帯に現れ、境界線の不可能な越境の効果である。欲動にしばしば伴う怒りも攻撃性も、動物には馴染みのない不能と無力の表現である。動物には本能はあるが、欲動はない。》(ヴェルハーゲ,1998)