子犬が四匹生れた。彼ら(母犬と子犬の関係)を見ていると、動物の「本能」をつくづく思い知らされる。
以下メモ。
以下メモ。
動物にはアウシュビッツもコソボもない。生物学の要素は心理学に転換され得ないし、逆も真である。欲動はこの二つの領域のあいだの中間地帯に現れ、境界線の不可能な越境の効果である。欲動にしばしば伴う怒りも攻撃性も、動物には馴染みのない不能と無力の表現である。動物には本能はあるが、欲動はない。(ヴェルハーゲ,1998)
《……シューラーが人間を「おのれの衝動不満足が衝動満足を超過してたえず過剰であるような(精神的)存在者」と呼んでいるの葉興味深い。(……)
ここで衝動と呼んだものは正確に言うと何なのか。ここの問いに答えるためには、人間学と遠からぬ所から出発し、遥か先まで到達した精神分析に目を移したほうがいいだろう。そこでは、有機体と人間との対比、Instinkt / Trieb ないし instinct / pulsion の対比に集約される。最近の慣例に従って、これに本能/欲動という訳語をあてよう。
本能という語は、有機体を生のサンスにかなった行動に導くガイドとして機能する内的な情報機構を指し示している。これに対し、過剰なサンスを孕むことによって錯乱してしまった本能が欲動である。例えば、性本能が種の保存のために、「正しい」相手に対する、時宜にかなった、「正しい」性行動を導くのに対し、性欲動は時と場所を選ばずありとあらゆる対象に向かって炸裂する。フロイトが喝破した通り、本来、人間は多形倒錯なのである。「正しい」異性愛のパターンが社会制度として課されねばならないのは、まさにこのためである。また、攻撃本能が適当なシグナルによって解除され、同類の無用な殺し合いが避けられるのに対し、攻撃欲動は見境なしに発動され、恐るべきジェノサイドを現出する。人間の歴史はまさしく血塗られた歴史であり、いかなる社会的規制も、より大きな暴力をもたらしこそすれ、永続的に平和を築くことができなかったというのは、周知の事実である。》(浅田彰『構造と力』)
……人間が動物を凌駕するのは暴力の能力の点においてであり、それがほかなら ぬ言葉を使うせいだとすればどうだろう。数多ある言語の暴力的特性を中心的なテーマに したてた哲学者・社会学者には、ブルデューからハイデガーまでいる。しかしながら、ハイ デガーが見落とした言語の暴力的特性がある。それこそラカンによる象徴界の理論の焦点である。その象徴界の理論を通じて、ラカンは存在の家としての言語、つまり言語は人間の創造物でも道具でもなく、人間のほうが言語の中に「暮らし」ている、というハイデガー のモチーフを変奏している。「精神分析は、その主体となるものがなかに住まう言語の科 学であるべきです」。ラカンが「パラノイア的な」加えたひねり、ラカンがフロイトのようにして 加えたねじの回転は、この〔ハイデガーの〕家に折檻の家という特徴を与えた点に求めら れる。「フロイトの視点に立てば、人間は言語に囚われ、折檻を受ける主体なのです」。(ジジェク 「詩に歌われる言語の折檻所」)
…………
以下の文は「欲動」でなく「享楽」という語彙がでてくる。「欲動とは享楽の漂流」(ラカン)を前提にして読もう(参照:欲動の最も美しい定義(フロイト=ヴェルハーゲ))。
我々は動物がけっしてしないことをするように見える。我々は、我々がそうあるべきだと思っている標準、絶対的な標準、規範、水準に照らし合わせて、享楽を判断している。標準や基準は、動物界にはない。標準などは言語によってのみ可能となる。言い換えれば、言語は、我々が得ている享楽が標準には達していない、基準に達していない、そうあるべきものではない、と思わせるのだ。
言語は、我々に「言う」ことを可能にする、我々が種々の方法で得ている満足は取るに足りないもので、別の満足、より良い満足、決して我々を裏切らない満足、決して期待外れに終わらず、失望させない満足があると。我々はかつて一度でもそのような期待通りの満足を経験することができただろうか? 大抵の人にとっては、おそらく「否」だろう。だが、そのことは信じることを止めはしない、きっとそのような満足があるに違いない、何かより良いものがあるに違いない、と。たぶん我々は、ある他の集団ーーユダヤ人、アフリカ系アメリカ人、ゲイ、女性ーーにその徴を見ると考えるかもしれない。そして憎悪したり羨望したりする。たぶん、我々はある集団にそれを投影するのだ。というのは、我々はそれが存在すると信じていたいのだから(私はここでレイシズムやセクシズムなどの全ての局面を、このひどく単純化した形式で説明するつもりは毛頭ないことを断っておく)。
いずれにせよ、我々は、何かより良いものがあるに違いないと思い、何かより良いものがあるに違いないと言い、何かより良いものがあるに違いないと信じる。そのように何度もくり返しして言うのだ、我々自身に、あるいは友人に、さらには分析家に。そうすることによって、我々はこの他の満足、この〈他者〉の享楽に一貫性を与える。結局、それにとても大きな一貫性を与えることそのものが、我々が実際に得ている享楽はひどく不十分なものに見えてしまうことに導く。そのため、我々のもつ僅かな享楽は、更に先細りになってしまう、我々がひどく重要だと思い込んでいる享楽の理想との比較によって、いっそう色褪せてしまうのだ。そして我々はその享楽を決して諦め切れない。(Bruce Fink“Knowledge and Jouissance”2002)
……同じことが資本主義にもいえる。資本主義の永続的な自己革新のダイナミズムは、不可能性のポイント(最終的な恐慌、あるいは崩壊)の絶え間ない延期に依っている。…資本主義において、恐慌は内面化され予め考慮に入れられている。すなわち、不可能のポイントとして、であり、それが資本主義を継続的な活動に駆り立てる。資本主義は構造的に常に恐慌のなかにある。それが、いつまでも拡大していく理由である。資本主義は「未来から借金する」ことによってのみ、それ自身を再生産することが出来る。fuite en avant(破れかぶれで前に突き進む)ことによって未来に向かう。全ての借金が支払われる最終的な決着など決して到来しない。マルクスが提示した、不可能の社会的ポイントの彼自身の名は「階級闘争」である。
たぶん、人はこれを人間性のまさに定義として拡張すべきである。人間を動物から究極的に区別するものは、あるポジティヴな特徴(会話する、道具を作る、反省的思考等々)ではない。そうではなく、フロイトやラカンによって「モノdas Ding」として表現された不可能性の新しいポイントの出現にある。「モノdas Ding」、すなわち欲望の不可能なリアルに究極的参照点である。しばしば注目度される人間と類人猿のあいだの相違は、ここであらゆる重要性を獲得する。類人猿は手の届かない対象に直面するとき、何度かそれを掴もうと試みた後にそれを放棄して、より穏当な対象に転ずる(例えば、より魅力の劣る性的パートナー)。他方、人間は、不可能な対象に釘づけになったままで努力をしつこく繰り返す。
これが、主体自体がヒステリー的な理由である。主体、享楽を絶対的なものとする主体。その主体は、満足されない欲望の形式としての享楽に絶対性に応答する。そのような主体はゲームの限界の外側にいるままの状況に関係し得る。実際、「ゲームの外」という用語へのこの関係性は、主体自体を構成する。ヒステリーは、このように絶対的な享楽の偽装のもとに不可能性のポイントを設置する初歩的な「人間的」方法である。ラカンの「性関係はないil n'y a pas de rapport sexuel 」も人間であることを構成する不可能性のポイントではないだろうか?(ZIZEK,LESS THAN NOTHING, 私訳)