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2016年4月28日木曜日

原エロス対象の植民地化としてのフェラチオ

まず、フロイトがロンドンの死の床で、枕元に草稿がおいてあったとされる『精神分析概説』-ーフロイトの概説のたぐいは精神分析入門者に向けて書かれているものが二つあるが、この草稿は専門家に向けて書こうと試みたものとされるーーから、最初のエロス対象=母の乳房をめぐる記述を抜き出す。

子どもの最初のエロス対象は、彼(女)を滋養する母の乳房である。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子どもは乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子どもはたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、子どもの母という人影のなかへ統合される。その母は、子どもを滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子どもに引き起こす。子どもの身体を世話することにより、母は、子どもにとっての最初の「誘惑者」になる。この二者関係には、母の重要性の根が横たわっている。ユニークで、比べもののなく、変わりようもなく確立された母の重要性。全人生のあいだ、最初の最も強い愛-対象として、のちの全ての愛-関係性の原型としての母ーー男女どちらの性にとってもである。(フロイト『精神分析概説』草稿 ――死後出版1940)


次に中井久夫の文をかかげる。ここでは当面、《乳の味覚や流れ入る喉頭感覚、乳頭の口唇触覚》に注目して読もう。


成人世界に持ち込まれる幼児体験は視覚映像が多く、稀にステロタイプで無害な聴覚映像がまじる。嗅覚、味覚、触覚、運動覚、振動感覚などはほとんどすべて消去されるのであろうか。いやむしろ、漠然とした綜合感覚、特に母親に抱かれた抱擁感に乳の味覚や流れ入る喉頭感覚、乳頭の口唇触覚、抱っこにおける運動感覚、振動感覚などが加わって、バリントのいう調和的渾然体 harmonious mix-up の感覚的基礎となって、個々の感覚性を失い、たいていは「快」に属する一つの共通感覚となって、生きる感覚(エロス)となり、思春期を準備するのではなかろうか。

これに対して、外傷性体験の記憶は「成人世界の幼児型記憶」とはインパクトの点で大きく異なる。外傷性記憶においては視覚の優位重要性はそれほど大きくない。外傷性記憶は状況次第であるが、一般に視覚、聴覚、味覚、触覚、運動覚が入り交じる混沌である。視覚的映像も、しばしば、混乱したものである。すなわち「共通感覚的」であり「原始感覚的」でもある。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』P57~58)


次にポール・ヴェルハーゲの論(2009)から抜き出す。

フロイトは症状形成を真珠貝の比喩を使って説明している。砂粒が欲動の根であり、刺激から逃れるためにその周りに真珠を造りだす。分析作業はイマジナリーなシニフィアンのレイヤー(真珠)を脱構築することに成功するかもしれない。けれども患者は元々の欲動(砂粒)を取り除くことを意味しない。逆に欲動のリアルとの遭遇はふつうは〈他者〉の欠如との遭遇をも齎す。(new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex PAUL VERHAEGHE 2009)

われわれの症状は、このように二重化されている。仮に原初のエロス対象が、《乳の味覚や流れ入る喉頭感覚、乳頭の口唇触覚》であって、それが原症状であろうとも、象徴界に生きているわれわれは、その原初のエロス対象を別のものに置き換えて、症状を形成する。

より詳述化されている同じヴェルハーゲの論2002では、次の通り。

フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動、他方にはプシケ(個人を動かす原動力としての心理的機構:引用者)である。ラカン派のタームでは、現実界と象徴界ということになる。これは、フロイトの最初のケーススタディであるドラの症例においてはっきりと現れている。この研究では、防衛理論についてはなにも言い添えていない。というのはすでに精神神経症psychoneurosisにかかわる以前の二つの論文で詳論されているからだ。このケーススタディの核心は、二重の構造にあると言うことができ、フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動にかかわる要素、――フロイトが“Somatisches Entgegenkommen”(〔流動する〕身体somaの支配)と呼んだものーーだ。のちに『性欲論三篇』にて、「欲動の固着」と呼ばれるようになったものだ。この観点からは、ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因性の代表象representation――抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動ということになる。

この二重の構造の視点のもとでは、すべての症状は二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換性の症状は、症状の形式的な外被に帰着する。すなわち、「それらの症状は欲動の現実界に象徴的な形式が与えられたもの」(Lacan, “De nos antécédents”, in Ecrits)ということになる。このように考えれば、症状とは享楽の現実界的核心のまわりに作り上げられた象徴的な構造物ということになる。フロイトの言葉なら、それは、「あたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなもの」(『あるヒステリー患者の分析の断片』)。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq,2002)


現実界が象徴界によって植民地化(砂粒の真珠化)されるということは、常にありうる。たとえば、象徴界の諸シニフィアンの連鎖が、ドラの口唇享楽を変形した。つまり、欲動の現実界は、神経性の咳 tussis nervosa と嗄れ声 hoarseness の症状を通して、記号化された。

フロイトの臨床により、ドラの神経性の咳と嗄れ声の上部症状が取り除かれても、口唇欲動は治癒不可能な原症状である。

この原症状を語る文脈のなかで、ヴェルハーゲは次ぎのように記している(対象aは種々の意味があるが(参照)、ここでの対象aは、そのもっとも純粋な意味での対象aである)。

対象aは象徴化に抵抗する現実界の部分である。

固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な特性をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち症状のない主体はない。ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは純化された症状の問題である。すなわち、象徴的な構成物から取り去られたもの、言語によって構成された無意識の外側に外立するEx-sistenzもの、純粋な形での対象a、もしくは欲動である。(J. Lacan, 1974-75, R.S.I., in Ornicar ?, 3, 1975, pp. 106-107.摘要)

症状の現実界、あるいは対象aは、個々の主体に於るリアルな身体の個別の享楽を明示する。「症状は、こう定義するしかない。それは、各人が無意識を享楽する様態である – 無意識がそう定めるがままに 。」

ラカンは対象aよりも症状の概念のほうを好んだ。性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel という彼のテーゼに則るために。(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq, ,Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way、2002)


ここで少し前に戻って、誰にでもその多寡はあれ残存していると思われる原初の口唇欲動は、一般にどのように変形されるのだろうか。つまりドラの咳や嗄れ声(失語症)のように生活に支障がきたすところまでいっていない症状も含めて考えてみよう。

ここではもうひとつの原初の症状といわれる肛門欲動の議論はしないでおく。ただ中井久夫の次の文を抜き出しておく。

口唇的な人は、結構、ナマコ、クサヤ、ふなずし、ブタの耳のサシミ(琉球料理)、カエル(台湾、広東、フランス料理)などの味も一度知れば楽しむ可能性のある人が多い。私は、喫煙をやめるという人には、やめたからには何かいいこともなくては、と言い、まず、ものの味がわかるようになり、朝、革手袋の裏をなめているような口内の感じがなくなりますよと言い、せっかくだからおいしいものを食べ歩いてはどうですか、それとも家でつくられますか、と言う。配偶者によって(時には子供によって)家族のメニューが決まるから、そのことをにらみあわせて答えを考える。配偶者と食べ歩き計画を立てるのもよい。そのうちに味をぬすんで家庭料理に取り入れる可能性も生まれてくる。喫煙者は皆が皆口唇的な人ではないが、私の観察では、強迫的(肛門的)な人は、タバコの本数は多いかもしれないが、どうも深く吸い込まない人が多い印象がある。けがれたものを体内に入れることに抵抗があるからだろうか。そして強迫的な人は、結構趣味のある人が多い(室内装飾からプラモデル作りまで)。禁煙を機に今まで買いたくて買えなかったものを自分に買うのを許すことが報酬になる。金銭的禁欲とそのゆるめは共に、精神分析のことばを敢えて使えば肛門的な水準の事柄である。(中井久夫「禁煙の方法について」『「伝える」ことと「伝わる」こと』所収)  

ここには、肛門欲動とは別に、口唇欲動、すなわち、《乳の味覚や流れ入る喉頭感覚、乳頭の口唇触覚》が、食事の趣味、あるいは喫煙に変形される、ということが示唆されている。すなわち、現実界の口唇欲動が、口唇や喉頭にどろどろした感覚を与えてくれる食べ物やタバコを咥えることによって、象徴化されているということだ。くり返せば、現実界の象徴界による植民地化(砂粒の真珠化)である。

ブルース・フィンクならこう言う。

たぶん映画におけるステレオタイプのセックス後の煙草は、それにもかかわらず、ある享楽の欠如を示している。なにかがもっと欲望されている、口唇の快楽が満たされていないのだ。(Bruce Fink 「Knowledge and Jouissance 『READING SEMINAR XX Lacan's Major Work on Love,Knowledge, and Feminine Sexuality』所収、2002)

ところで、口唇や喉頭にどろどろした感覚を与えてくれる象徴的振る舞いの究極のひとつは、フェラチオであり、口のなかに精子を射精されることだろう(わたくしの叔父は、なまこを咽喉奥あるいは胃まで垂らし込んで上下させるという技をもっていたが、あれもなかなかの効果があるかもしれない)。

ここで、いささかくどくなるかもしれないが、フロイトの「症例ドラ」の記述を掲げておこう。

いわゆる性倒錯のなかで、比較的厭わしくない者は、著述家をのぞき世人が皆知っているように、我が国民中に広く存在している。というよりも、むしろ著者たちもそのことを知っている、というべきかもしれない。ただ彼らは、それについて書こうと筆をとる瞬間に、そのことを忘れようと努めるだけなのである。それゆえ、このような性交(性器の吸啜)が存在することを耳にしていたわれわれのやがて十九歳になるヒステリー嬢が、無意識で、このような空想(ファンタジー)を展開させ、頸部の刺激感覚と咳によって表現したことは、驚くにはあたらない。そして私が他の女性患者について確定しえたと同じように、彼女が外から教えられなくて、このようなファンタジーに到達できたとしても、これまた驚くにはあたらない。というのは、彼女の例では、倒錯の実際行為とやがて重なりあるこのようなファンタジーを、独力でつくりかげるための身体的前提条件が、注目すべき事実であたえられたのである。

彼女は自分が子供のころ、「指啜りっ子」であったことをよく憶えていた。父もまた、彼女にその習慣をやめさせるのに、四歳か五歳になるまでかかったことを思いだした。ドラ自身も、彼女が左の親指をしゃぶりながら、片隅の床に坐り、右手で、そこに静かに座っている兄の耳たぶをむしっていた幼年時代の光景をはっきり記憶している。これこそ指しゃぶりによる自慰の完全な例であって、それについては他の患者もーー後には感覚麻痺の患者やヒステリーの患者もーー報告してくれたのである。私はそのなかのひとりから、この特異な習慣の由来を明らかにする報告をうることができた。この少女は、指しゃぶりの悪習をどうしてもやめられなかったのであったが、子供のころを回想したさいーー彼女のいうところでは、二歳の前半のことーー乳母の乳房を吸いつつ、乳母の耳たぶをリズミカルにひっぱっている自分の姿を思いだした。唇と口腔粘膜が一次的な性感帯と見なしうることには、誰も異論を差しはさまぬだろう。なぜなら、この意味の一部分は、正常なものとされている接吻にも温存されているのであるから。

この性感帯の早期における十分な活動が、後日、唇からはじまる粘膜道の「身体側からの対応 Somatisches Entgegenkommen」の条件となるのである。そして本来の性的対象、つまり陰茎をすでに知っている時期に、温存されていた口腔性感帯の興奮がふたたび高進するような事情が生れると、すべての源である乳首、それからその代理をつとめていた手指のかわりとして、現実の性的対象、すなわちペニスのイメージを自慰のさいに用いることには、創造力をたいして使う必要もない。こうして、このはなはだ厭わしい、ペニスを吸うという倒錯的ファンタジーも、もっとも無邪気な源から発している。それは母または乳母の乳房を吸うという、先史的ともいえるファンタジーの改変されたものなのであり、普通、それは乳をのんでいる子供との交際でふたたび活発化したものなのである。その場合、たいていは乳牛の乳首が、母の乳首とペニスのあいだの中間表象として使用される。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』人文書院旧訳 フロイト著作集5 PP310-311)

さて、いずれにせよ標準的な男たちーーたとえばゲイカップルを除いてーーは、この点、ひどく不利な条件を備えている。いくらクリニングスをしても、その後、ゴックンというわけには(例外を除いて)いかないのだから。





もっとも性交相手の女性が妊娠中やその直後であって、乳がふんだんに出るなら状況はいささか異なるのかもしれないが。





だから、男たちは性交後に(性交でえた快楽のものたりなさを補うために)煙草に手が伸びることが多い。やはりソーセージと蝦蟇口の相違は大きい。

彼女は三歳と四歳とのあいだである。子守女が彼女と、十一ヶ月年下の弟と、この姉弟のちょうど中ごろのいとことの三人を、散歩に出かける用意のために便所に連れてゆく。彼女は最年長者として普通の便器に腰かけ、あとのふたりは壺で用を足す。彼女はいとこにたずねる、「あんたも蝦蟇口を持っているの? ヴァルターはソーセージよ。あたしは蝦蟇口なのよ」いとこが答える、「ええ、あたしも蝦蟇口よ」子守女はこれを笑いながらきいていて、このやりとりを奥様に申上げる、母は、そんなこといってはいけないと厳しく叱った。(フロイト『夢判断』)

女たちも、性交後に、煙草のたぐいに手が伸びるとしたら、なにかが足りなかったせいだ・・・





ブルース・フィンクをくり返せば、《セックス後の煙草は…ある享楽の欠如を示している。なにかがもっと欲望されている、口唇の快楽が満たされていないのだ》。

男たちは解剖学上、始原のエロス欲動に近似した性の享楽から、女たちにくらべ遠く離れている。

詩人たちはそのことにとっくの昔から気づいている。

原始的淋しさは存在という情念から来る。
Tristis post Coitumの類で原始的だ。
孤独、絶望、は根本的なパンセだ。
生命の根本的情念である。
またこれは美の情念でもある。

ーー西脇順三郎『梨の女「詩の幽玄」』より

Tristis post Coitumとは、「性交後の悲しみ」のことである。

だが、せめて男たちは、女たちが「性交後の悲しみ」、たとえば性交後に煙草などを吸わないよう、彼女たちに十分に貢献せねばならぬ・・・





なおかつ、次のような調査もある。

最近の調査が示しているのは、多くの女たちはフェラチオを、彼女たちが権力感として、経験していることだ。それは、もちろん、イニシアティヴをとるという条件において、であるが。言い換えれば、能動的役割をとるという条件において、である。(Paul Verhaeghe、Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE.1998) 

解剖学的にどうしても受動的立場におかれやすい女たちの能動性発露の行為でもあり、やはり女性のために、よりいっそう賞揚せねばならぬのではないだろうか・・・

フロイトはくり返している、快と不快とのあいだの対立とは、別の対立を隠しているようにみえる、と。それは、はるかに重要な対立である。すなわち、他者に対して能動的であるか、受動的であるかの対立である。

もちろん例外はある。だが原初の口唇欲動までをも否定できるものだろうか。例外とは、多くの場合、なんらかの形式の「防衛」であるだろう。

……症状形成という言葉自体を代理形成の同義語としてもちいなければなるまい。そうすると防衛過程は、逃避と類似のものであることが明らかである。逃避とは、自我が外界のさしせまった危険からまぬかれる手段であるが、防衛過程もまた、衝動の危険からの逃避の試みといえる。(……)

抑圧は、根本的に逃避の試みである。抑圧されたものは、自我という大きな統制から追放され、除外されて、無意識の世界を支配する法則にのみ支配される。(フロイト『制止、症状、不安』1926)

フロイトはこの晩年の論文で、『夢判断』1900以前に使用した語彙「防衛」を復活させようとしている。 《防衛という古い概念をふたたび採用するのに十分な根拠がある。防衛とは、同じ傾向ーー衝動の要求にたいする自我の保護ーーをもつ以上にのべた過程をすべて包含し、抑圧はその特別な場合としてこれにふくまれる》と。

抑圧という語彙が廃れつつある現在、われわれは防衛という語彙を使わなければならない。


2016年3月31日木曜日

S(Ⱥ) とΦ の相違(性別化の式)、あるいは Lⱥ Femme

まず基本的な注意点を掲げる。

……二つの享楽(ファルス享楽と他の享楽)の議論は、ラカンが性別化と呼ぶものの話題を我々ににもたらしてくれる。ここで想い起しておかねばならない、性別化とは生物学的な性とは関係がないことを。ラカンが男性の構造と女性の構造と呼んだものは、人の生物学的器官とは関係がない。むしろ人が獲得しうる享楽の種類と関係がある。(ブルース・フィンク,Lacan to the Letter Reading Ecrits Closely Bruce Fink,2004)
ファルスのシニフィアンとは、その現前・不在が、男 man と女 woman を区別する機能でない。性別化の式において、それはどちら側(男性側 masculine と女性側 feminine)にも機能する。どちらの場合も、S と J (話す主体と享楽)とのあいだの不可能な関係(非関係)の作因子として作用する。ーーファルスのシニフィアンとは、象徴秩序に受け入れられた存在、つまり「話す存在」にアクセス可能な享楽を表す。

したがって、ひとつの性と、(プラスアルファの)それに抵抗する非全体しかないの同じように、ファルス享楽と、プラスアルファのそれに抵抗する X しかない。もっとも、正しく言うなら、その X は存在しない。というのは、《ファルス的でない享楽はない[ il n'y en a pas d'autre que la jouissance phallique]》(S.20)から。この理由で、ラカンが謎めいた幽霊的「他の享楽」を語ったとき、彼はそれを存在しないが機能する何ものかとして扱った。(ZIZEK.LESS THAN NOTHING、2012,私訳)

ーーより詳しくは、「二つの区分け:ファルス享楽 la jouissance phallique と他の享楽 l'autre jouissance」を参照のこと。




さて、S(Ⱥ) と Φとの相違を説くヴェルハーゲ、1999を掲げる。人は、これが必ずしも正しいとする必要はない。こういった観点がある、ということをここに掲げ、わたくしはいまのことろ下記二者(ヴェルハーゲ、ジジェク)の観点を主に取ったままだ、ということである。

ここでまた堅実なブルース・フィンクの見解を先にしめしておけば、彼曰く、ラカンのテキストを満遍なく読めば、次のようなことになる。

《ラカンについての私の初期の仕事は、父の名、S(Ⱥ)、Φ、S1などのあいだの「真の区別」を把握することにひどく関心があった。それらの多様な意味と使用法に苦しんだのだ。…ここでは、反対に、それぞれの異なった文脈にとってフィットするようにそれらを解釈した》(“THE LACANIAN SUBJECT BETWEEN LANGUAGE AND JOUISSANCE”、1995、粗訳ーー「父の名、Φ、S1、S(Ⱥ)、Σをめぐって」)


【S(Ⱥ) と Φ の相違】
1971年、ラカンはある誤解に対して対応した。すなわち、S(Ⱥ) が Φ、〈他者〉のなかに欠如している象徴的ファルスと等しいものであると思われている誤解に対して。この誤解は、ラカンの数多くの弟子たちによって抱き続けられた。そのため、ラカンは、彼がS(Ⱥ) によって理解していることを、より鋭意に定義することを余儀なくされる。S(Ⱥ) は Φ と等価ではない。S(Ⱥ) は完全に異なった何かにかかわる。というのは、S(Ⱥ) は、次の考え方にかかわるからだ。すなわち、L'Autre de l'Autre n'existe pas, 〈他者〉の〈他者〉は存在しない、Il n'y a pas de rapport sexuel,性関係はない。したがって、S(Ⱥ)は、La Femme n'existe pas, 〈女〉は存在しない、を意味する(徴示する)。我々の見解では、S(Ⱥ) のこの二重の側面は、フロイトの発見の形式化をもたらしてくれる。それによって、形式化の首尾一貫性を明示している。

 【Lⱥ Femme】
La Femme n'existe pas、すなわち、Lⱥ Femme。これは、象徴界のなかのシニフィアンの欠如の、最もよく知られた解釈である。子供たちとともに、我々は、去勢の基本幻想のなかで、その最初の防衛的徹底追及を見出す。このエラボレーションは、常に失敗する。というのは、性差を基礎づけるのは唯一、ただ一つだけのシニフィアン、ファルスの現前か不在かにおいてだから。彼女自身の性的アイデンティティへのヒステリックな追求は、この点で、満足を見出しえない。もし彼女が、女を徴示するための特別なシニフィアンを獲得しようとするなら、このヒステリー的主体は、欠如自体・〈他者〉のなかにある欠如に立ち向かわなければならない。

【不可能の名としての S(Ⱥ) 】
この点において、我々はフロイトの二番目の幻想に出会う。誘惑にかかわる幻想、欲望の煽動としての父。ヒステリー的主体は想像しーーしたがって構築するーー全的支配者としての男-父を。つまり欲望と享楽について知っている者。フロイトにおける幻想と知と性差のあいだのこの暗黙の統一とともに、S(Ⱥ) は不可能の名である。性関係の不可能は、書かれぬことをやめない、“ce qui ne cesse de ne pas s'écrire”(Lacan, Séminaire XX Encore)。幻想とは、その中にあるこの不可能な書くことのやめないことの構造である。したがって、幻想は、想像界から象徴界への道のりの上に位置されなければならない。この道のりの上で遭遇しよろめかせる障害物は、対象aである。(Paul Verhaeghe,Does the Woman Exist? From Freud's Hysteria to Lacan's Feminine,1999、私訳)

※参照:ラカン、アンコール(S.20)より

À ceci près que « La femme »… mettons lui un grand L pendant que nous y sommes, ça sera gentil [Rires] …à ceci près que La femme, ça ne peut s'écrire qu'à barrer « Lⱥ ».

Il n'y a pas « La » femme … article défini pour désigner l'universel …il n'y a pas « La » femme puisque… j'ai déjà risqué le terme, et pourquoi y regarderais-je à deux fois ? …puisque de son « essence », elle n'est « pas toute »

De sorte que pour accentuer quelque chose dont je vois mes élèves beaucoup moins attachés à ma lecture – n'est-ce pas ? – que le moindre sous-fifre quand il est animé par le désir d'avoir une maîtrise. Il n'y a pas un seul de mes élèves qui n'ait fait je ne sais quel cafouillage sur… sur je ne sais pas quoi : le manque de signifiant, le signifiant du manque de signifiant, et autres bafouillages à propos du phallus.

Alors que je vous désigne dans ce « Lⱥ » « Le » signifiant [S1], malgré tout courant et même indispensable. La preuve c'est que déjà tout à l'heure j'ai parlé de l'homme et de la femme, …oui il est indispensable !

C'est un signifiant ce Lⱥ , c'est par ce Lⱥ que je symbolise Le signifiant, Le signifiant dont il est tout à fait indispensable de marquer la place qui… qui ne peut… qui ne peut pas être laissée vide, de ceci que ce « Lⱥ » est Le signifiant, dont le propre est que… il est le seul qui ne peut rien signifier [S1]… mais ceci seulement : de fonder le statut de Lⱥ femme dans ceci qu'elle n'est « pas toute », ce qui ne permet pas de parler de « La femme ».

…………

次にジジェク(Woman is One of the Names-of-the-Father, or How Not to Misread Lacan's Formulas of Sexuation、1995)より。


【性別化の式の誤読①】
ラカンの性別化の式のよくある誤読の仕方は、男性側と女性側の差異を二つの式に還元してしまうことだ。その誤読による還元は、男性のポジションを定義するものとしての二つの式としてしまい、あたかも男性は、普遍的ファルス機能(関数)であり、女性は、その例外・過剰・ファルス機能の把握から逃れる剰余である、とする誤読である。このような読解は完全にラカンの核心を外している。まさに〈女〉のこのポジションを例外とするとはーー言わば、宮廷貴婦人恋愛の見せかけのようなものでありーー、男性の幻想そのものである。


【〈女〉は父の諸名のひとつ】
ファルス機能を構成する例外の典型的な例として、人はふつう、享楽の原父という幻想的・猥褻な形象に言及する。この享楽の原父は、どんな禁止にも邪魔されず、全ての女たちを隈なく享楽する。しかしながら、宮廷貴婦人恋愛の形象は、この原父の勝手放題の決定力に十全に合致しないだろうか。彼女もまた、全てを欲する気まぐれな主人、どんな法にも囚われず、彼女の騎士-召使いに専横非道な試練を課す主人ではないか?

この正確な意味において、〈女〉は父の諸名のひとつである。ここで見逃してならない決定的な細部は、複数形の使用と大文字 capital letters の欠如だ。すなわち、Name-of-the-Father ではなく、names-of-the-father のひとつである。つまりは、原父と呼ばれる過剰の候補者の一人だ。


【前象徴的な・去勢の法に制限されない権力の代理人】
〈女〉の事例においてーー原父の場合と同様(…)神秘的な〈彼女〉の場合において--、我々が扱っているのは、前象徴的な・去勢の法に制限されない権力の代理人である。どちらの場合にも、この幻想的代理人の役割は、象徴秩序、その起源の空虚の悪の循環を埋め合わせることである。〈女〉の概念(あるいは原父の概念)が提供するのは、制限されない十全さーーこの十全さの「原抑圧」が、象徴秩序を構成しているーー、この充溢さという神秘的な出発点である。


【性別化の式の誤読②】
二番目の誤読は、性別化の式の尖った先をを丸めてしまうことで成り立っている。それは、量化詞「すべて」quantifier "all" の二つの意味のあいだに意味論的区別を導入するやり方だ。この誤読によれば、普遍機能の場合、「全て(あるいは全てではない)」 "all" (or "not-all") は、単独の主体(x) を指し示し、「それの全て」"all of it" が、ファルス機能に囚われているかどうかの信号を指示することになる。他方、特別な例外「一人いる…」 "there is one..." は、主体と信号の集合を指し示すことになる。それは、この集合の内部で、ファルス機能から完全に免除されている「一人いる」"there is one"かどうかにかかわる。

したがって、性別化の式の女性側は、彼らの主張に従えば、どの女をも内部から分割する切断を証すものとなる。すなわち、どの女もファルス機能から完全には免れていず、そのまさに理由で、どの女も完全にはファルス機能に従っていない。つまり、どの女にもファルス機能に抵抗する何かがある、と。

相称的に、男性側においては、仮定された普遍性は、単独の主体を指し示す(どの男性主体もファルス機能に従う)。そして男性主体の集合に対する例外を指示する(ファルス機能から免れる「一人がいる」'there is one' )。

要するに、一人の男は完全にファルス機能から免れており、その他すべての男たちはファルス機能に完全に服従している。他方、どの女も完全にはファルス機能から免れていないがゆえ、女たちの誰もが完全にはファルス機能に服従していない。

一方の場合は、分割は外部化される。すなわち、「全ての男たち」の集合内部で、ファルス機能に囚われている者たちと、それから免れている「一者」を区別する分離の線を表す。

他方の場合、分割は内部化される。どの単独の女も内部から分割され、彼女のある部分は、ファルス機能に従い、ある部分は、それから免れる。

ーーすくなくとも、かつて90年代に日本で流通していた性別化の式の解釈(最近は不詳)は、ほとんどこのジジェクのいう「誤読②」を免れていない。稀な例外は、カントの否定判断/無限判断を男性の論理/女性の論理と結びつけたコプチェクに依拠する議論だろう(たとえば、田中純氏による)。


【性別化の式の正統的読解】
しかしながら、我々がラカンの性別化の式の本当のパラドックスを十全に引き受けるなら、性別化の式をもっと文字通り読まなければならない。すなわち、女がファルス機能の普遍性を掘り崩すのは、女のなかには例外はなく、例外に抗う何もないというまさにその事実によってである。言い換えれば、ファルス機能のパラドックスは、機能とそのメタ機能とのあいだの一種の短絡にある。ファルス機能は、それ自体の自己限界・非ファルス的例外の設置と一致するのだ。

※このジジェクの主張の詳細は、「象徴界(言語の世界)の住人としての女」にある。

《ここでの私のポイントは何だろう? それは次のようなものなのだ。ここでふつう気づかれていないことは、ラカンの断言、“La femme n'existe pas”――“〈女〉は存在しない”は、決して象徴的秩序の外にある言いようのない女性的なエッセンスのたぐいに言及しているのではないということだね。象徴秩序に統合されえない、言説の領域の彼岸にあるものでは決してないということだ。》

《大衆的な紹介、ことさらフェミニストによるラカンの紹介では、ふううこの公式にのみ焦点があてられこう言うんだな、「そうだわ、女たちのすべてが、ファリックな秩序に統合されるわけじゃないわ。女のなかには何かがあるのよ、まるで片足はファリックな秩序に踏み込み、もう一方の足はミステリカルな女性の享楽に踏み込んでいるのよね、それが何だかわからないけれど」。私のテーゼは、とても単純化して言うなら、ラカンの全体の要点は、われわれは女を統合化できないから、例外がないということなんだ。だから、別の言い方をすれば、男性の論理の究極の例は、まさに、女性のエッセンス、永遠の女性は、象徴秩序の外に除外されている、彼岸にあるという考え方なんだな。これは究極的な男性の幻想だね。そして、ラカンが「〈女〉は存在しない」というとき、私はまさにこう思うのだな、すなわち、象徴秩序から除外された言葉にあらわせない神秘的な「彼岸」こそが存在しない、と。わかるかい、私の言っていることが?》


ーーすなわち、フェミニストたちの女の神秘を主張する見解とは、男性の論理(幻想)だということになる。

《実のところ、ニーチェが大いに嘲笑を浴びせているフェミニストの女たちは男性なのだ。フェミニズムとは、女が男に、独断的な哲学者に似ようとする操作であり、それによって、女は真理を、科学を、客観性を要求する、即ち、男性的幻想のすべてをこめて、そこに結びつく去勢の効力を要求するのである。》(デリダ『尖筆とエクリチュール』)



【Φ と S(Ⱥ) の親近性】
このような読解は、いくぶん謎めいたマテーム mathemes によって、予め示されている。そのマテームとは、ラカンが、性別化の式の下に記し、そこでは女は(線を引かれて消された Lⱥ によって示される)、Φ(ファルス)と S(Ⱥ) とのあいだで分割されているものだ。S(Ⱥ) とは、線を引かれて消された〈他者〉A のシニフィアンであり、象徴秩序の中の〈他者〉の不在/非一貫性を表す。

ここで見逃してはならぬことは、Φ と S(Ⱥ) (〈他者〉のなかの欠如のシニフィアン)とのあいだの深い親近性だ。すなわち、Φ 、ファルス権力のシニフィアン、魅惑的現前のなかのファルスは、〈他者〉の不能/非一貫性を具現化したものだという決定的事実である。


【ファルスとしての政治的指導者】
これは政治的指導者のことを思い出してみるだけで充分だろう。彼のカリスマの究極の支えは何だろう、と。政治の領域は、定義上、計算できず・予測できない。ある人物が、なぜだか分からないまま、情熱的反応を掻き立てる。転移の論理は図り知れない。したがって、人は魔法の魅力 magic touch ・言い知れぬ魅惑 je ne sais quoi に言い及ぶ。それは指導者のどんな実際の特徴にも還元されえない。あたかも、カリスマ的リーダーが、この (x) を支配しているかのようだ。あたかも、象徴秩序の〈他者〉が不能にされた場にて、陰で人を操っているかのようにさえ見える。



【ファルスとしての神】
ここでの状況は、スピノザによって批判された人物としての〈神〉概念の俗説と一致する。我々を取り巻く世界を理解しようという試みーー出来事と対象とのあいだの偶然的つながりのネットワークを形式化する方法によっての試みにおいて、人びとは遅かれ早かれ、ある点に到る。その点において、彼らの理解は、うまくいかなくなり、ある限界に遭遇する。そして、〈神〉(古き時代の賢人等と捉えられた神)とは、たんに、この限界を具現化したものである。我々は投影するのだ、〈神〉の各個人に見合った概念のなかに、明白に偶然の出来事を通して、理解・説明され得ぬ隠された言い知れぬ原因の全てを。

したがって、イデオロギー批判の最初の施行 operation は、〈神〉という魅惑をもたらす現前のなかに、我々の知の構造のなかにある裂け目の埋め合わせ物を認めることである。すなわち、我々の能動的知のなかの欠如が、能動的現前という見せかけの要素を身につけることを。



【女と神】
そして我々の要点は、これが(神 = ファルスが)、女性の「非全体」"not-all"(pas-tout)といくらか合致していることだ。この「非全体」は、女はファルス Φ に完全に従っていることを意味しない。「非全体」とはむしろ、女は、ファルスの魅惑をもたらす現前を通して、次のことを観察することの合図である。すなわち、女は、ファルスのなかに、〈他者〉の非一貫性の埋め合わせ物を見分けることの。


《La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». (ラカン、セミネール23)

《「大他者の(ひとつの)大他者 un Autre de l'Autre は存在すべきだ」という人間の全必然性。これは一般的には〈神〉と呼ばれるが、分析が明らかにしたのは、それは、たんに〈女 〉のことだ。》(粗訳)



【不可能の名としての S(Ⱥ) /禁止の名としての Φ】
とはいえ、ここで別の言い方をつけ加えねばならない。S(Ⱥ) から Φ への移行は、不可能性から禁止への移行だと。S(Ⱥ) とは、〈他者〉のシニフィアンの不可能性を表す(徴示する)。「〈他者〉の〈他者〉はいない」という事実、〈他者〉の領野は、本質として非一貫的にであるという事実のシニフィアン(徴示素)である。Φ はこの不可能性を例外へと具象化する。神聖な、禁止された/到達しえない代理人ーー去勢を免れ、全てを享楽する形象のなかへと具現化するのだ。

…………

いま流通しているメイヤスーも、ラカン派観点からは、神概念的思考(否定神学)の部分があるとされる。

以下、ジュパンチッチ、2014より。


【神がいないことを保証する神】
メイヤスーの観点…すべては偶然的だ、この偶然性の必然性以外は。このように彼は主張することにより、メイヤスーは事実上、不在の原因 absent cause を絶対化してしまっている。(……)

我々は、不在の〈原因〉absent Causeの絶対化しないですますことができない無神論的構造を見る。それは、すべての法(則)の偶然性を保証するのだ。我々は「無神論者の神」のような何かを扱っている。つまり、「神がいないことを保証する神」を。

(これに対して)ラカンの無神論とは、(あらゆる)保証の不在、もっと正確に言えば、外的(メタ)保証の不在という無神論である。つまり支え(保証)は、それが支えるもののなかに含まれている。どんな独立した保証もない。それは、保証(あるいは絶対的なもの)がないと言っているわけではない。これが、構成的な例外という概念とは異なって、非全体(pas-tout)概念が目論むことだ。すなわち、そこでは、ひとつの論証的理論を論駁しうる。そして論証的領野内部から来る別のものを確認しうる。

(……)例外の論理・或る「全て」を全体化するメタレヴェルの論理(全ては偶然的だ、この偶然性の必然性以外は)の代わりに、我々は「非全体」の論理を扱っている。ラカンの格言、それは「必然性は非全体である」と書きうるが、それは偶然性を絶対化しない。…(ジュパンチッチ、Realism in Psychoanalysis Alenka Zupancic、2014, PDF)

もっともラカンの精神分析的言説もまた、原支配 Ur-mastery の言説だという印象を完全には追い払いえないという事実をラカン自身気づいていた(参照:「僕らしい」(ボククラシー je-cratie)哲学者たち)。

そして、最晩年には次のようにさえ言い放つ。

c'est pas absurde de dire qu'elle peut glisser dans l'escroquerie. (S.24、1977)

ーー《馬鹿げたことじゃない、精神分析がペテン escroquerie に陥りうると言うのは》

Bref, il faut quand même soulever la question de savoir si la psychanalyse… je vous demande pardon, je demande pardon au moins aux psychanalystes …ça n'est pas ce qu'on peut appeler un « autisme à deux » ?(S.24.1977)

ーー《精神分析…すまないがね、許してくれたまえ、少なくとも分析家諸君よ!… 精神分析とは「二者の自閉症」 « autisme à deux »のことじゃないかい?》

ミレールは、このラカンの文を2002年の論‘Le dernier enseignement deLacan' (「後期ラカンの教え」)で正面から取り上げた。彼が精神分析集団から、陰性転移とさえ言いうる強い反発をうけるようになったのは、たんにラカンのセミネールのテキストの(いわゆる)「加工」のせいだけではないのではないか。この「精神分析」自体を問うことをした影響がより大きいのではないかと憶測できないでもない。いずれにせよ、現在ミレール批判とは、分析家集団のクリシェのようになってしまっている。

…………

さて、最後に注意しておかねばならないのは、「女性の論理が必ずしもいいわけじゃないよ」--ということだ。

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。つまり、彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する第三の立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなく、ヘーゲルになってしまうだろう。 この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」)
重要なのは、(……)マルクスがたえず移動し転回しながら、それぞれのシステムにおける支配的な言説を「外の足場から」批判していることである。しかし、そのような「外の足場」は何か実体的にあるのではない。彼が立っているのは、言説の差異でありその「間」であって、それはむしろいかなる足場をも無効化するのである。重要なのは、観念論に対しては歴史的受動性を強調し、経験論に対しては現実を構成するカテゴリーの自律的な力を強調する、このマルクスの「批判」のフットワークである。基本的に、マルクスはジャーナリスティックな批評家である。このスタンスの機敏な移動を欠けば、マルクスのどんな考えをもってこようがーー彼の言葉は文脈によって逆になっている場合が多いから、どうとでもいえるーーだめなのだ。マルクスに一つの原理(ドクトリン)を求めようとすることはまちがっている。マルクスの思想はこうした絶え間ない移動と転回なしの存在しない。(柄谷行人『トランスクリティーク』P250)

もし、女性の論理が支配的なイデオロギーであるならば、それを批判しなければならない。わたくしは、ある時期からの浅田彰の頑固オヤジ宣言をこの文脈で捉える、すなわち、「王様を笑い続ける少年」から、不本意で面白くないのを重々承知でゴリゴリの「頑固親父」の役割 Φ を演じることとは、(ある局面での)女性の論理 S(Ⱥ) に類似した日本的現象・その猖獗に対抗する男性の論理ではないか、と。

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988 )

この母性的な共感の共同体はかならずしも女性の論理とはいえないという観点もあるだろうが、男性の論理の国とは言い難いのはたしかだ。

ヒットラーが羨望したといわれる日本のファシズムは、いわば国家でも社会でもないcorporatismであって、それは今日では「会社主義」と呼ばれている。(……)

日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。(柄谷行人、「いつのまにかそう成る「会社主義corporatism」」)

権威と権力の相違を次ぎのように指摘するヴェルハーゲの考え方もある。

重要なことは、権力 power と権威 authority の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。(社会的絆と権威(Paul Verhaeghe))

二者関係、すなわち、母性的レヴェルの社会構造ーー、日本とは、かねてより権威なしの権力の国の気味合いがないだろうか。

さらに、こう引用しておこう(参照:ラカン派の「母の欲望」désir de la mèreをめぐる)。

ジャック=アラン・ミレールは、90年代だが、次のように言っている(THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez)。

超自我とは、確かに、法(象徴的なもの)である。しかし、鎮定したり社会化する法ではない。むしろ、思慮を欠いた法である。それは、穴、正当化の不在をもたらす。その意味作用を我々は知らない、「一」unary のシニフィアン、S1 としての法である。…超自我は、独自のシニフィアンから生まれる形跡・パラドックスだ。というのは、それは、身よりがなく、思慮を欠いているから。この理由で、最初の分析において、我々は超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。

ミレールは母なる超自我 surmoi mère ーー1938年の初期ラカンの記述を捉え直した概念ーーの問いを明瞭化するパラグラフで、こうつけ加えている。

思慮を欠いた法としての超自我S(Ⱥ) は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望とは、父の名によって隠喩化され、支配さえされする以前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。

…………

※附記:ジジェクによるヴェルハーゲの“ Does the Woman Exist?” の書評。

“A miraculous answer to the confusions surrounding Freud's and Lacan's theory of feminine sexuality . . . After reading this book, it should be clear that, far from being outdated, the psychoanalytic approach to feminine sexuality enables us to find our way in the . . . deadlocks of our allegedly ‘permissive' postmodern society . . . A must for anyone who wants to grasp what psychoanalysis has to say today.” –
奇跡的な応答だ、女性のセクシャリティのフロイト・ラカン理論を取り巻く混乱状態への。…この書を読めば、当然のごとく明瞭になるだろう、女性のセクシャリティへの精神分析的アプローチは、時代遅れどころか、いわゆる「寛大な」ポストモダン社会の行き詰まりのなかで新しい道を見出しうることが。…必読の書である、精神分析が今日言わなければならないことを把握したい誰にとっても。(Slavoj Žižek )

2002年前後までは、ヴェルハーゲはジジェクをしばしば引用した。ジジェクも上のような絶賛をした。だがその後、おそらくある解釈の相違があるせいだろう、両者は言及し合わなくなった。

この二人の解釈の分かれ目は、ジジェクの弟子筋のアレンカ・ジュパンチッチのバディウ論(現前・再現前論)の叙述をめぐるのではないか、と憶測されないでもない(参照)。

ジュパンチッチのバディウ論は、→ Alenka Zupancic、The Fifth Condition”、2004

ーーいくらかの私訳は、「反復されることになる最初の「真理」などは、ありはしない?」の後半にある。


2016年3月26日土曜日

二つの区分け:ファルス享楽 la jouissance phallique と他の享楽 l'autre jouissance

さて,ふたつめの問い,l'Autre jouissance について.改めて調べてみると,Lacan 自身は l'Autre jouissance という表現は使っていないようです.(2015.6.28)

ーーというツイートを抜き出して、「話す存在 l'être parlant / 話す身体 corps parlant」における記述、《ファルス享楽 la jouissance phallique の内部に外立する他の享楽 l'autre jouissance》について、なんたら言ってくる人がいるが、この人物のツイートは、ラカンのアンコールをまともに読んでいない証拠でしかない。

ま、誰もまともに読めていないという言い方はできるのでーーラカンのセミネールのテキストはとりわけ「非全体」であるーー、「ファルス享楽」 la jouissance phalliqueと「他の享楽」  l'autre jouissance の区分けは、多くの解説者たちによって、15年以上前から注目されているものとのみ言っておこう。

たぶん、なんらかの理由でブランクがあった人物なのだろう。すなわち前世紀の凡庸なラカン学者の解釈のままである。あるいは、他の解釈者の見解をさぐってみることをしない独我論者か自閉的心性の持主かのたぐいであろう。

この二つの区別は、わたくしのように、ラカンを断片的にしか読んでいない非専門家のディレッタントたちのあいだでも、すでに「常識」である。

…phallic enjoyment has to be understood as a defence against the enjoyment of the body as an organism.( Paul VerhaegheSUBJECT AND BODY. Lacan's Struggle with the Real.2001、原文)

ーー《ファルス享楽とは、有機体としての身体の享楽に対する防衛として理解されなければならない。》

いくらかの核心的表現をラカン自身の表現(アンコール)から掲げるなら、

・une jouissance au-delà du phallus, hein !

・La jouissance du corps, s'il n'y a pas le rapport sexuel, il faudrait voir en quoi ça peut y servir.

・l'être c'est la jouissance du corps comme tel, c'est-à-dire comme (a)sexué…

・la raison de cet être de la signifiance c'est la jouissance en tant qu'elle est jouissance du corps.

・…il y a une jouissance… puisque nous nous en tenons à la jouissance, jouissance du corps 

これらの叙述に重ねて、Patrick Valas版のアンコールでは、彼のコメントが入っている、《jouissance du corps de l'Autre (l'autre jouissance)》と。

この「〈他者〉の身体の享楽」とは、セミネールⅩⅣの次ぎの表現とともに読むとよい、《L'Autre、c'est le corps ! (大他者とは身体のことである)》。


ファルス享楽を超えたところにある享楽が、他の享楽 l'autre jouissance である(〈他者〉の享楽 la jouissance de l'Autre とはいささか異なることは前回みた)。

そもそもこの人物は「身体の享楽」(身体の悦)を少し前まで掴んでおらず、誤解もやむえない(参照)。

…………

最も重要な鍵は次ぎの表現にある。

c'est Ia jouissance qu'il ne faudrait pas"(S.20)

あり得ない享楽、かつ遭遇せざるを得ない享楽とでも訳せるか?

これが「他の享楽」 l'autre jouissance である。

ブルース・フィンクの説明(2004)なら次の通り。

The fantasy is so powerful that we feel this Other jouissance has to be, has to exist. Yet if it were not for this fantasy, we might be more content with the jouissance we do actually obtain. Thus, whereas Lacan says that, according to the fantasy, this Other jouissance should be (that is, should exist), from the point of view of the satisfactions we actually do obtain, it should not be because it merely makes matters worse.

We might say that it never fails to make matters worse. This is the gist of the play on words Lacan makes over and over again in chapter 5 of Seminar XX, "c'est Ia jouissance qu'il ne faudrait pas" (a play on two different verbs, falloir, "it must be," and faillir, "to fail," that are written and pronounced identically in certain tenses; thus 'it is the jouissance that must not be" and "it is the jouissance that cannot fail"): It is the idea of a jouissance that never fails and that never fails to diminish still further the little jouissance we already have.

These two jouissances (the paltry one and the Other) are not complementary, according to Lacan, otherwise "we would fall back into the whole" (Seminar XX, 68/73), the fantasy of complementarity, yin and yang, one for men, say, and one for women. Instead, they form a couple, if you will, akin to that constituted by the aporetic couple, being and nonbeing, over which certain Greek philosophers got rather "worked up" (Seminar XX, 25/22, 52/54, 56/61).(Lacan to the Letter Reading Ecrits Closely Bruce Fink,2004)


セミネールⅩⅩ(Patrick Valas版(Staferla版))より(ミレール版といささか異なるが、手許にはこれしかない)。

La jouissance, donc : comment allons-nous exprimer ce « qu'il ne faudrait pas » à son propos, sinon par ceci : s'il y en avait une autre que la jouissance phallique… là, comme ça, pour que vous ne perdiez pas la corde, c'est affreux mais si je vous parle comme ça, comme j'ai pris mes notes ce matin, vous perdrez le fil … s'il y en avait une autre, il ne faudrait pas que ce soit celle-là.

C'est très joli. Il faut user, hein, il faut user, mais user vraiment, savoir user, user jusqu'à la corde de choses comme ça, bêtes comme chou, des vieux mots.

C'est ça l'utilitarisme. Et ça a permis un grand pas pour décoller des vieilles histoires, là, d'Universaux où on était engagé depuis PLATON et ARISTOTE, et où ça avait traîné pendant tout le Moyen-âge, et où ça étouffe encore LEIBNIZ, au point qu'on se demande comment il a été aussi intelligent.

Oui, s'il y en avait une autre, il ne faudrait pas que ce soit celle-là. Écoutez ça ! Qu'est-ce que ça désigne « celle-là » ?

Ça désigne ce qui dans la phrase est « l'autre » [jouissance] ? - Ou celle d'où nous sommes partis pour désigner cette autre, comme « autre » ?

Parce qu'enfin si je dis ça, qui se soutient au niveau de l'implication matérielle, parce qu'en somme la première partie désigne quelque chose de faux « s'il y en avait une autre » : il n'y en a pas d'autre que la jouissance phallique. Sauf celle sur laquelle la femme ne souffle mot, peut-être parce qu'elle ne la connaît pas, celle qui la fait pas toute en tout cas. Il est donc faux, hein, qu'il y en ait une autre. Ce qui n'empêche pas la suite d'être vraie, à savoir qu'« il ne faudrait pas que ce soit celle-là ».

Vous savez que c'est tout à fait correct, que quand le vrai se déduit du faux c'est valable, ça colle, l'implication. La seule chose qu'on ne peut pas admettre, c'est que du vrai suive le faux. Pas mal foutue la logique ! Qu'ils se soient aperçus de ça tous seuls, ces Stoïciens, il y avait CHRYSIPPE54, et puis il y en avait un autre qui n'était pas du même avis. Mais quand même, il ne faut pas croire que c'était des choses qui n'avaient pas de rapport avec la jouissance. Il suffit de faire réhabiliter ces termes.

Il est donc faux « qu'il y en ait une autre », ce qui nous empêchera pas de jouer une fois de plus de l'équivoque, et à partir non pas de faillir mais de faux [« faux qu'il y en ait une autre » → « faut qu'il y en ait une autre »…], et de dire qu'« il ne faudrait pas que ce soit celle-là ».

À supposer qu'il y en ait une autre, mais justement il n'y en a pas, et du même coup, c'est pas parce qu'il n'y en a pas… et que c'est de ça que dépend le « il ne faudrait pas » …que le couperet n'en tombe pas moins sûr. Eh bien celle-là… qui n'est pas l'autre, celle dont nous sommes partis …il faut que celle-là soit faute, entendez-le culpabilité [coupable → coupure], et faute de l'autre, de celle qui n'est pas.


◆ブルース・フィンク英訳(ミレール版) アンコールから

Were there another one, it shouldn't be/could never fail to be that one. What does "that one" designate? Does it designate the other in the sentence, or the one on the basis of which we designated that other as other? What I am saying here is sustained at the level of material implication, because the first part designates something false - "Were there another one," but there is no other than phallic jouissance - except the one concerning which woman doesn't breathe a word, perhaps because she doesn't know (connait)24 it, the one that makes her not-whole. It is false that there is another one, but that doesn't stop what follows from being true, namely, that it shouldn't be/could never fail to be that one.

You see that this is entirely correct. When the true is deduced from the false, it is valid. The implication works. The only thing we cannot abide is that from the true should follow the false. Not half bad, this logic stuff! The fact that the Stoics managed to figure that out all by themselves is quite impressive. One mustn't believe that such things bore no relation to jouissance. We have but to rehabilitate the terms to see that.

It is false that there is another. That won't stop me from playing once more on the equivocation based on faux (false), by saying that it shouldn't (faux-drait) be/could never fail to be/couldn't be false that it is that one. 25

Suppose that there is another - but there isn't. And, simultaneously, it is not because there isn't - and because it is on this that the "it shouldn't bel could never fail" depends - that the cleaver falls any the less on the jouis-sance with which we began. That one has (faut) to be, failing (faute de) -you should understand that as guilt - failing the other that is not. 26

注)

25 This play on words is untranslatable in English: faux ("false" or "wrong") is pronounced in French exactly like the first syllable offaudrait.

26 Faute de usually means for lack of or failing that, but here Lacan wants us to also hear the sin or fault in faute. Lacan may also want us to hear faut at the beginning of the sentence as based on faillir: "That one defaults, failing .. , ." The same is perhaps true four paragraphs down.



…………

【追記】


autre jouissance という語は、セミネールⅩⅨには、次ぎのように現われる


qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine qui n'en dépend nullement.(S.19)

この段階で、すでに「女性の享楽」 jouissance féminine と「他の享楽」 autre jouissance を結びつけている。ただし、実際は「ファルス享楽」を超える享楽と読むべきで、女性/男性にはほとんど関係がない、というのが通説。

たとえばブルース・フィンク、2004より。

……二つの享楽(ファルス享楽と他の享楽)の議論は、ラカンが性別化と呼ぶものの話題を我々ににもたらしてくれる。ここで想い起しておかねばならない、性別化とは生物学的な性とは関係がないことを。ラカンが男性の構造と女性の構造と呼んだものは、人の生物学的器官とは関係がない。むしろ人が獲得しうる享楽の種類と関係がある。(ブルース・フィンク,Lacan to the Letter Reading Ecrits Closely Bruce Fink,2004、私訳)

あるいは、ジジェク、2012より。

ファルスのシニフィアンとは、その現前・不在が、男 manと女 womanを区別する機能でない。性別化の式において、それはどちら側(男性側 masculine と女性側 feminine)にも機能する。どちらの場合も、S と J (話す主体と享楽)とのあいだの不可能な関係(非関係)の作因子として作用する。ーーファルスのシニフィアンとは、象徴秩序に受け入れられた存在、つまり「話す存在」にアクセス可能な享楽を表す。

したがって、ひとつの性と、(プラスアルファの)それに抵抗する非全体しかないの同じように、ファルス享楽と、プラスアルファのそれに抵抗する X しかない。もっとも、正しく言うなら、その X は存在しない。というのは、《ファルス的でない享楽はない[ il n'y en a pas d'autre que la jouissance phallique]》(S.20)から。この理由で、ラカンが謎めいた幽霊的「他の享楽」を語ったとき、彼はそれを存在しないが機能する何ものかとして扱った。(ZIZEK.LESS THAN NOTHING、2012,私訳)


では、結局何か。ここでは、「他の享楽」とは、おそらく「身体の享楽」だろう、としておこう。

 たとえば、セミネールⅩⅩⅡより。

S'y justifie que, si nous cherchons de quoi peut être bordée cette jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou, ce que nous trouvons c'est l'angoisse.

c'est la jouissance en tant que phallique [ JΦ ] qui implique sa liaison à l'Imaginaire comme ex-sistence : l'Imaginaire c'est le « pas-de-jouissance ».

ヴェルハーゲ、2001では、次のように記されいる。

……さらに詳しく享楽の二つの形式のあいだの関係を扱ってみよう。この関係は、一方は、制限、統制、そして防衛でさえある。性的、すなわちファルス享楽 la jouissance phallique は、享楽自体を統制する。というのは、ファルスのシニフィアンは、拘束的で束縛機能があるから。他の享楽 l'autre jouissance は、身体に属する。それは外立するものとしての存在ーーすなわち象徴界の外部に立つものーーとして理解されうる。

我々の象徴的に決定された現実において、男と女は、ファルス的な仕方で、互いに関係し合う。二つの異なったジェンダーのあいだに純粋な性関係はない。さらに、ファルス享楽は性関係にとって障害物を構成する。《ファルス享楽は障害である。そのせいでーー言ってしまえばーー、男は女の身体を悦楽するところまで来ない。それはまさに、彼が悦楽しているのは、器官の享楽だから》(S.20)。

《la jouissance phallique est l'obstacle par quoi l'homme n'arrive pas - dirai-je - à jouir du corps de la femme précisément parce que ce dont il jouit c'est de cette jouissance, celle de l'organe.》(S.20)

人は、ファルス享楽を超えても、いまだ性関係はない。というのは、ファルス享楽の彼方には、ジェンダーの差異はなく、《ファルスの彼方には Au-delà du phallus…身体の享楽 la jouissance du corps》(S.20)があるだけだから。

私はこれを次のように解釈する。すなわち、ファルスを超えた男と女とのあいだの関係は、主体と身体の享楽とのあいだの関係、あるいは、ファルス享楽と他の享楽とのあいだの関係とと同じものになる、と。

しかし、この「彼方」はそれ自体、目的地ではない。逆に、これに対する主体の最初の反応は、不安でありうる。そして、ファルス享楽は、有機体としての身体に享楽に対する防衛として理解されなければならない。事実、この享楽の形式は、象徴界を離れることを意味する。したがって、消滅、すなわち、主体の死である。《死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない》 [le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance] (Séminaire, XVII)。したがって、これは死の欲動と関連している。…(Paul Verhaeghe, Subject and Body. Lacan's Struggle with the Real. 2001,私訳)

2015年6月17日水曜日

精神病、あるいは「父の名の周囲のシニフィアンたちがどんどん自力で歌い出す」症状

「精神病とは,対象が失われておらず,主体が対象を自由に処理できる臨床的構造なのです.ラカンが,狂人は自由な人間だというのはこのためです.同時に,精神病では,大他者は享楽から分離していません.パラノイアのファンタスムは享楽を大他者の場に見定めることを伴います.…

…パラノイアとスキゾフレニーの差異を位置づけることができます.スキゾフレニーは言語以外の大他者を持っていないのです.また同時に,パラノイアと神経症における大他者の差異を位置づけることも可能です.パラノイアにとっての大他者は存在しますし,大他者はまさに対象aの大食家なのです」Clinique ironique. Jacques-Alain Miller, La Cause freudienne 23 松本卓也訳

ーーというわけで、ラカン派的にも、パラノイア/スキゾフレニーの相違が肝要だろうが、あるいは現在なら自閉症などを絡めて、さらには日本的文脈では統合失調症とはほんとうにスキゾフレニーのことなのだろうかという問いもあるだろうが、ここでは精神病一般についてのメモ。

※日本術語「統合失調症」の”区切り”より

オイゲン・ブロイラーが生きていたら、「統合失調症」に賛成するだろう。彼の弟子がまとめたブロイラーの基本障害である四つのAすなわちAmbivalenz(両価性)は対立する概念の、一段階高いレベルにおける統合の失調であり、Assoziationslockerung(連合弛緩)は概念から概念への(主として論理的な)「わたり」を行うのに必要な統合の失調を、Affektstorung(感情障害)は要するに感情の統合の失調を、そして自閉(Autismus)は精神心理的地平を縮小することによって統合をとりもどそうと試みて少なくとも当面は不成功に終わっていることをそれぞれ含意しているからである。ブロイラーがこのように命名しなかったのは、よいギリシャ語を思いつかなかったという単純な理由もあるのかもしれない。「統合失調症」を試みにギリシャ語にもとずく術語に直せば、syntagmataxisiaかasyntagmatismusとなるであろう。dyssyntagmatismusのほうがよいかもしれない。「統合失調症」は「スキゾフレニア」の新訳であるということになっているが無理がある。back translation(逆翻訳)を行えばこうだと言い添えるほうが(一時は変なギリシャ語だとジョークの種になるかもしれないが)結局は日本術語の先進性を示すことになると思うが、どうであろうか。(中井久夫『関与と観察』)

なおフロイトやラカンがときに同じものと扱ったりそうでなかったりするAusstossung/Verwerfungについて、次のような見解さえあることを、ここでの文脈からはずれるが、先に示しておこう。

Ausstossung(排出)は、Verwerfung(foreclosure排除・拒絶)とは徹底的に異なったものだ。それは精神病に特有の機制であるどころか、〈他者〉自体の領野を開くものである。この意味で、それは象徴界の拒絶ではなく、それ自体、象徴化なのである。我々はここで精神病と妄想を考えるべきではない。そうではなく主体それ自体を考えるべきある。決定的なのは、これは排除foreclosureは精神病者を言語のなかに住むことを妨げることはないという事実にかかわる。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être, Paris: Presses Universitaires de France 1999, p. 72.私訳)

…………

◆ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」 Jacques-Alain Miller, An Introduction To Lacan's Clinical Perspectives, in Reading Seminars I and II: Lacan's Return to Freud

ラカンはフロイトの著作のなかに、それぞれの構造に対する特異的な用語があることを指摘しました。[Verdrangung(repression)]、精神病では排除[Verwerfung(foreclosure)]、倒錯で は 否 認 [Verleugnung(disavowal,desaveu)] です 。 ラカンは最終的には否認[Verleugnung]に dementi(denial)という訳をあてることを好むようになりました。

ラカンの分析の教義の多くは、否定の三つの異なったモードを作ることにささげられています。ラカンはこのように言います――精神病における排除[Verwerfung] は 父のシニフィアンの否定であり、倒錯における否認[Verleugnung]はファルスのシニフィアンの否定の特別なモードであり、 神経症における抑圧[Verdrangung]は主体自身のより広範な否定である、 と。 これらのメカニズムには詳細なレクチャーが必要でしょう。

これらのカテゴリーのそれぞれには、もちろんさらなる区別があります。ラカンは何度も三つのカテゴリーに平行線を引いています。ラカンが新しい概念をつかんだとき、あるいは臨床的仕事の新しい観点を強調するとき、彼はそれを神経症・精神病・倒錯に適用します。精神分析においては、新しい観点を作るならば、この三つの領域に関連付けて複雑にしなければならないのです。神経症・精神病・倒錯の三つだけが領域なのではありません。例えば、男と女、男性的構造と女性的構造という臨床的カテゴリーもあります。これは三つの主要な臨床的カテゴリーをきれいに横断しています。例えば、ラカンは倒錯は男性的剥奪であり、男と女の二項構造を神経症・精神病・倒錯の三つ組みと結合させるとさらに複雑になると言っています。私たちが言いうるのは、倒錯は男性的剥奪であり、本物の精神病のすべては女性であろうということです。ラカンは精神病を「女性への衝迫[pousse a la femme]」とみなすという、今では有名となったフレーズを作りました。精神病は女性の領域にあるのです。神経症においては、 ヒステリーと強迫が区別され、 一般に女と男に関連付けられます。

しかし、だからといってヒステリーの男性がいないと主張するのではありません。私たちが神経症を語るとき、あるときはこのように注目しますが、また別の機会には、フロイトは強迫神経症をヒステリーの方言であり、ヒステリーが神経症の中核であると考えていたことを元にして、ヒステリー神経症と強迫神経症の区別について注目します。

とはいえ、ミレールは最近次ぎのような発言をしている。

……臨床において、「父の名」の名の価値下落は、前代未聞の視野に導いてゆく。ラカンの「皆狂っている、妄想的だ」という表現、これは冗句ではない。それは話す主体である人間すべてに対して、狂気のカテゴリーの拡張と翻訳しうる。誰もがセクシャリティについてどうしたらいいのかの知について同じ欠如を患っている。このフレーズ、この箴言は、いわゆる臨床的構造、すなわち神経症、精神病、倒錯のそれぞれに共通であることを示している。そしてもちろん、神経症と精神病の相違を揺るがし掘り崩す。その構造とは、今まで精神分裂病の鑑別のベースになっていたものであり、教育において無尽蔵のテーマであったのだが。(ジャック=アラン・ミレール 2012 The real in the 21st century by Jacques-Alain Miller)

さて、一般には、精神病者が妄想をつくるのは、「回復の試み」(フロイト)であるとされる。父の名の隠喩のかわりに妄想的隠喩(métaphore délirante)を自ら導入することで、不安定な謎の意味作用を安定化させようとする。

かつまた、無意識は主体につねに真理を語りかけているのだが、《神経症者は、その無意識(=大他者)の声に耳をとざしてしまっている。一方、精神病では無意識の主体にむけた語りがダイレクトに届いている(=幻聴)。こういった意味で,精神病者のほうが認知が優れている、とラカンは考えた》(松本卓也ツイート)などともいわれる。

以下の文はその前提で読んでみよう(なお再三くり返しているが、このブログの書き手は、精神医学臨床にかんしてまったくシロウトである)。


◆ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012 私訳(「フロイトの欲動二元論と一元論をめぐって」より)。

…この決定的なポイントをはっきりさせるため、精神分析理論における眼差しと声の地位を明確化することから始めよう。そこでは、我々は常に神経症、精神病、倒錯の異なった地位を念頭に置かなければならない。

(1) 神経症において、我々はヒステリー的な盲目と声の喪失を取り扱う。すなわち、声あるいは眼差しは、その能力を奪われてしまう。精神病においては逆に、眼差しあるいは声の過剰がある。精神病者は己れが眼差されている経験をする(パラノイア)、あるいは存在しない声を聴く(幻聴)。これらの二つの立場と対照的に、倒錯者は声あるいは眼差しを道具として使う。彼は眼差し・声とともに「物事をなす」のだ。

(2) 眼差しと声のカップルは、また物表象Sach‐Vorstellungen と語表象Wort‐Vorstellungenのカップルにかかわる。「物表象」は眼差しを含んでいる(我々が物を見るとき)。「語表象」は声(声のイメージ)を含んでいる(我々が言葉を聞くとき)。

(3)さらに、眼差しと声はそれぞれ、イド(欲動)と超自我に関係する。眼差しは覗見欲動を動員し、声は超自我の審級ーー主体に圧迫をかけるーーの媒体である。しかしまたここで心に留めておく必要がある、超自我はイドからエネルギーを引き出していることを。その意味は、超自我の声もまた欲動を動員するということだ。

このように、欲動の用語において、声と眼差しは、エロスとタナトス、生の欲動と死の欲動に関係している。眼差しは「 一撃で打ちのめすsiderates」 、脱線させ、釘づけにする、あるいは主体の顔を不動化する、主体をメドゥーサのような恐怖ですくみ上がった実体にする。現実界への洞察は身体を苦しめる。それは死を表す(メドゥーサの頭自体、釘づけにされた/恐怖ですくみ上がった眼差しである。それを見ることは、私を盲目にしない。ーー反対に、私自身が釘づけにされた眼差しになる)。他方、誘惑的な声は、前エディプスの法の彼方/法の底にある母との繫がりを表す。(母の子守唄からから催眠術師に声までの)活気を帯びた臍の緒を表す。

(4) 四つの部分対象(口唇、肛門、声、眼差し)のあいだの関係は、二つの軸、「要求/欲望」と「〈他者〉へ/〈他者〉から」の軸に沿って構造化される四角形の関係である。

口唇対象は要求を伴う。それは〈他者〉へ向けられる(母へ、私が欲しいものを下さい!)。他方、肛門対象は、〈他者〉からの要求である(肛門経済において、私の欲望の対象は〈他者〉の要求へ降格される。ーー私は糞便を規則正しくしなければならない、 親の要求を満足させるため)。

同様に、覗見欲動は〈他者〉へ向けられた欲望を伴う(それを見せて!私に見させて!)。他方、声の対象は〈他者〉からの欲望を伴う(声は私から欲しいものを知らせる)。すこし異なったふうに言えばこうなる。主体の眼差しは〈他者〉を見ようとする試みを伴う。他方、声は懇願・呪文である(ラカンの懇願・祈り欲動 invocatory drive)。それは〈他者〉(神、王、愛された者)を駆り立てる試みである。この理由で、眼差しは〈他者〉に屈辱を与え-鎮定し-不動化するmortifies‐pacifies‐immobilizes。他方、声は〈他者〉を活気づけるvivifies。声は〈他者〉から言動を誘い出すのだ。

(5) 眼差しと声は、それでは、いかにして社会的領野に刻み込まれるのか。まずは、恥と罪である。過剰に視る・裸の私を見詰める〈他者〉による恥。他者たちが私について言っていることを聞くことにより引き起こされる罪。声と眼差しは、このように、超自我と自我理想の対照にかかわるのではないか? 超自我は、主体に纏いつき、主体の罪を見出す声である。他方、自我理想は、主体がその前で恥じ入る眼差しである。このようにしてトリプルな同等物の連鎖がある。「眼差しー恥ー自我理想」、そして「声ー罪ー超自我」である。(ジジェク ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012)


◆フィンク THE LACANIAN SUBJECT BETWEEN LANGUAGE AND JOUISSANCE by Bruce Fink(1995 私訳)

ラカンによれば、精神病は、幼児の“原”シニフィアンを取り込む失敗の結果である。“原”シニフィアンとは、その取り込みに失敗しなければ、子どもの象徴世界を構成するものである。失敗すれば、子どもは言語のなかに錨を下ろさないままになる。方向を示す磁石がないということだ。精神病者の子どもは言語をとてもよく取り入れるかもしれない。とはいえ、神経症の子どもと同じようではない。基本的な錨を下ろす点が欠けているため、取り入れられたシニフィアンの残りは、漂流に追い込まれる。
神経症者は珍しい用語をきくとき…その言葉をきいた最初の折を思い起こすかもしれない。…他方、精神病者はもっぱら音声や音波phonetic or sonicの側面に集中する。…言葉は物として、リアルな対象として捉えられる。

以下、Lorenzo Chiesa、ジジェクによるミレール吟味(サントーム/主人のシニフィアンをめぐる)の補遺でもある。


◆Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa. 2007より

1960年代から1970年代にかけて、ラカンの理論は、《〈他者〉の〈他者〉はない》(それはアルジェブラとしてはȺとして言い表される)という前提にしっかりと依拠しているようにみえる。ラカンの思考のこのフェーズは、別の思考に先行されているが、この事についてラカンはしばしば相反する言明を提供しており、この本質的な結論が、初めて十全に想定された特定の瞬間をはっきりと同定するのは難しい。

セミネールV(1957‒1958)は、議論の余地なく、「〈他者〉の「他者〉は存在する」という仮定のもとに、父の隠喩の機能を導入している。ラカン曰く、《分析の経験が我々に示してくれるのは、〈他者〉にかんする〈他者〉Other with respect to the Otherによって提供される背景[arrière-plan] の必須性である。それなくしては、言語の世界は自らを分節化できない》。

一年もたたないうちに、今度はセミネールVIで、躊躇なく宣言することになる、《〈他者〉の〈他者〉はない…シニフィアンのどんな表明の具体的な成り行きconsequenceを支えるシニフィアンは存在しない》(=メタランゲージは存在しない:訳者)。

我々はこの明らかに折り合いのつかない二つの引用文をどう取り扱えばいいのだろう? 私は示唆しておきたいのだが、せっかちに選定してしまうこと、すなわちセミネール V とVI のあいだのどこかに根本的な転回Kehreをみることは、おそらくラカンの思考の多面的かつ非線形の進化を見逃がすことになるだろう。

とはいえ、1958年から1963年にわたる実りの多い年月のあいだに、ラカン理論が目醒しく動いたのはたしかだ。それは1950年代の半ばに優勢だったものを超えて、「構造」概念に向う。その概念にとって「〈他者〉の〈他者〉はない」は、暗黙のモットーとして考えられるべきだろう。この公式が意味することを手短かに概括してみよう。

「(象徴的)〈他者〉の(象徴的)〈他者〉がいる」という事実が示すのは、シニフィアンの秩序としての〈他者〉は別の超越的な〈他者〉、すなわち父性の〈法〉に支えられているということである。〈法〉としての〈他者〉、〈他者〉の〈他者〉は、〈父の名〉に一致する。これがエディプスコンプレックスの消滅を許容する。その結果、主体は母とのあいだの不穏な関係から脱却する。

このようにして、主体は能動的に、間主体的な象徴領野に入ることが可能になる。私はこの点をグラフ4.1にて示そう。そこでは斜線を引かれた主体$、諸シニフィアンの〈他者〉S2、主人のシニフィアンS1、そして父の名としての〈他者〉の〈他者〉のあいだにある関係を示している。



主体が、言語によって引き起こされた分裂Spaltungの結果として、斜線をを引かれている限り、彼は次のように見なされることになる。すなわち、一つのシニフィアン(無意識のシニフィアンの鎖のなかのあらゆるシニフィアンS2)は他の(特権的)シニフィアン(S1)を表象する。標準のファルス的幻想の場合、主人のシニフィアンは象徴的ファルスΦと同じものであり、それは父の名の超越的な法を体現する。

グラフ4.1 は、まずは地形図的に「父の名」の超越性を表している。それは全ての他のシニフィアン(Φを含む)にかんして超越的である。父の名は「背景arrière-plan」の機能をもっており、「諸シニフィアンのなかのシニフィアンsignifier of signifiers」としてある。まさに父の名が全ての他のシニフィアンを取り囲んでいるがゆえ、この段階でのラカン理論は、自己完結的で自立した象徴的〈他者〉の存在を仮定しているようにみえる。《全ての言語はメタランゲージである》(セミネール III)

この結果として、現実界の審級は象徴界から完全に分離している。現実界はただ否定的に、象徴界でないものとして定義される。

この文脈で、ラカンが精神病者を次のように定義したのは偶然ではない。すなわち、主体が現実界とのダイレクトな接触のなかに自ら見出した故の、排除、父の名のラディカルな拒絶と。精神病者は〈他者〉の〈他者〉を欠いている。

これが、『精神病のあらゆる可能な治療に対する前提的問題について』(1957‒1958)にて、ラカンが提案が次のように提案した理由である。精神病はただtout court〈他者〉の不在に対応するのではない。むしろ、(諸シニフィアンのシニフィアンsignifier of signifiersとしての)父の名の欠如の効果にかかわる。《父の名と呼ばれるものは、〈他者〉のなかのある点に対応するかもしれない。単なる一つの穴に、である。その穴は、隠喩効果の不十分性によって、ファルスの意味作用の場に付随した穴を引き起こすだろう》。

言い換えれば、精神病者は言語との関係が欠けているどころか、彼は実は、言語的な〈他者〉に浸り切っている。その言語的〈他者〉とは、父性隠喩によって「ファルス的に」組織されていないものだ。

精神病者の場合、諸シニフィアン(S2) の〈他者〉は、法の〈他者〉に統整されていないので、精神病者は言語の犠牲者のままである。すなわち、彼は言語によって「話させられている」。これを私はグラフ4.2で図式化した。象徴的〈他者〉の〈他者〉は主体が現実界によって侵入されることを妨げる。精神病の場合に、その侵入が起これば、悲惨な結果をもたらす。


ラカンは確信していた、精神病者の精神生活は、諸シニフィアンによって完全に決定づけられていることを。彼はまた信じていたようにみえる、精神病者は想像的な意味作用を生みだしうると。実際のところ、精神病はしばしば潜在的である。逆に、妄想は、たいていの深刻な事例でさえ「部分的」だと考えられていた。精神病者ができないことーー父の名が欠けており、その結果として主人のシニフィアン (S1)が欠けていることによって、できないことーー、それは、一貫性した言説において生み出される意味作用の秩序である。

言い換えれば、精神病者の精神生活は、にシニフィアンからシニフィアンへの絶えまない換喩的な横すべりで単に成り立っているわけではない。隠喩的な過程もまた可能なのだ。ラカンは実際に「妄想的隠喩」について語っている。そこでは《シニフィアンとシニフィエが(一時的に)安定化される》(S3)。ある程度の象徴的分節化はあるのだ。その分節化は種々のシニフィアンの連鎖が重なることで意味作用が生み出されるおかげであるーー《これらの患者は、我々と同じ言語で我々に話しかけている》(S3)ーーしかしながら、これらの連鎖は、諸シニフィアンのシニフィアン(父の名)によってより広く秩序づけられてはいない。

ここから導きだされる最も重要な結論は、妄想がいかに深刻で根強いものであっても、精神病者はけっして、言語を超えた、純粋な、原初の現実界の神秘的な領野に囚われるわけではないことだ。そのような頻繁に生じる誤解を避けるために、注意深く、精神病についてのラカンの最も有名な定式のひとつ、「象徴界から排除されたものは、現実界のなかに回帰する」の重要性をふたたび見極めなければならない。

…………

以下、続くーー「ラカン派の「象徴界から排除されたものは現実界のなかに回帰する」の意味するところ」に掲げたーー 、がここに再掲しておこう。この定式についてラカンは実際にはそんなことを言っていないという見方もそこで示したが、それはわたくしにはよくわからないし、いまはたいした問題ではないだろう、と思っている。最も肝要な点は、排除されたものの回帰を、「排除された<もの>Das Dingの回帰」と読んではならぬということだろう(das Ding、すなわちフロイト的〈モノ〉 。不可能にして獲得不能な享楽の実体)。
@schizoophrenie: 向井先生と話し合って、「精神病において父の名は排除されるけど、その父の名は回帰しない」という結論に達した。

簡単に書いておくと、まずラカンが60年代までに父の名に関して「回帰する」とはっきり書いているところはない。『精神病』においては「父である」というシニフィアン(父の名の前駆的概念)という大きい道が排除されているときは、その周囲の小さな道を通って行かねばならない、と言われている。

ラカンの構造論的な精神病論のまとめである”D'une question preliminaire...”では「排除」は出てくるが「回帰」は一切でてこない。その代わりにあるのが「現実界のなかにシニフィアンが解き放たれる=脱連鎖するdéchaîner」という術語。

神の名を語ってはいけないのと同じように、父の名もあらわれてきてはいけないんですね、おそらく。その代わりに、父の名の周囲のシニフィアンたちがどんどん自力で歌い出す(連鎖が切れて現実界に現れる)、という風に理解するべきだという話。

というわけで、 Lorenzo Chiesaの叙述を再掲。

「象徴界から排除されたものは、現実界のなかに回帰する」が、第一に意味するのは次のことである。すなわち、象徴界の外部の支えexternal guarantorとしての父の名が排除されるなら、毎日の現実は言語の現実界へ変身しturns into the Real-of-language、妄想delusionsが起りうるということだ。

セミネールIIIにて、ラカンは文字通りには次のようにいっている、《象徴化されないものは現実界のなかに回帰する》(SIII, p. 86)そして《Verwerfung(排除)の対象は現実界のなかに再び現れる》(p. 190)。

子どもは、エディプスコンプレックス(その消滅)を通して象徴界への能動的な入場active entryをする前に、文字letterとしての言語、言語のリアルReal-of-languageに関係する。人は原初の肝所を思い描くことを余儀なくされる、肝所、すなわちペットのように言語のなかに全き疎外されている状態を。これはたんに神話的な始まりを表すだけに違いないとはいえ、それにもかかわらず、子どもは、いかに話すかを学んだのちも、(文字としての)言語によって話されbe spoken by language続ける。

精神病者は、もし諸シニフィアンのシニフィアンsignifier of signifiers (父の名)が排除されているなら、いかに意味作用あるいは意味されるものを生み出すのだろうか? 私は、精神病にて《S2sはそれら自身のあいだに関係をもつ》(B. Fink, The Lacanian Subject [1995])について十分に議論されていないと信じている。

もし、精神病にて、S2sのあいだの関係が、言語のリアル(文字)の領野を超えてゆくのなら、もし、精神病者がしばしば潜在的(非発病)で、その主体は意味作用の生産をなんとかやっているのなら、ある数のシニフィアンーーS2sを越えたものでありながら正当なS1の地位を獲得していないいくつかのシニフィアンの手段によってのみ、そうし得る。

これは次のラカンの言明を説明するだろう、《人間にとって、「正常normal」と呼ばれるためには、彼は「最低限の数」の縫合点 “a minimal number” of quilting points を獲得しなければならない》(The Seminar Book III, pp. 268‒269)。

言い換えれば、精神病者は縫合点がないわけではない……精神病者は、原初の(そして質的にはより重要な)縫合点、父性隠喩によって生み出された縫合点を排除している。とはいえ、それにもかかわらず、精神病者は(量的に不十分な数の)他の縫合点を持っている。それは定義上、S2の地位におとしめることはできないものだ。もしこれがそうでなかったら、彼はシンプルに「完全な狂人」だろう、彼は我々の言語を話さない……

2015年6月14日日曜日

父の名、Φ、S1、S(Ⱥ)、Σをめぐって

たまには「暴言」を吐いてみよう、日曜日の憩いのためにーー。

…………

《ラカンについての私の初期の仕事は、父の名、S(Ⱥ)、Φ、S1などのあいだの「真の区別」を把握することにひどく関心があった。それらの多様な意味と使用法に苦しんだのだ。…ここでは、反対に、それぞれの異なった文脈にとってフィットするようにそれらを解釈した》という意味のことを「あとがき」で書いているのは、“THE LACANIAN SUBJECT BETWEEN LANGUAGE AND JOUISSANCE”(1995) の Bruce Finkである(邦訳名『後期ラカン入門: ラカン的主体について』ブルース・フィンク 2013)。

フィンクが正直にいっているのは、父の名、S(Ⱥ)(斜線を引かれた〈他者〉のシニフィアン)、Φ(象徴的ファルス)、S1(主人のシニフィアン)はときに区別がつきがたいということだ。

たとえば、ラカンのセミネールXVII(精神分析の裏面)の英訳のいくつかの解説論文のひとつである、enjoyment and impossibility  by Paul Verhaeghe2006にはこうある。

(セミネールⅩⅦは)この点で、ラカンは重要なニュアンスを加えている。それによって、父の名にかんする彼の以前の理論を相当に変化させている。主人のシニフィアンはどんなシニフィアンによっても生みだされうる(p144)。このニュアンスは「父の名」の理論の進化のタームで理解されうる。それは「父の諸名」へ、最後には、主人の例証によってS1として生みださる限り、どんなシニフィアンにでも(その資格がある)、となる(p101)。はっきりしているのは、我々は「父の名」という例外的なシニフィアンから長い道のりを経たということだ。

ここに書かれているのは、すくなくともセミネールⅩⅦの時点で、S1(主人のシニフィアン)=父の名となったということだ。ラカンが「〈他者〉の〈他者〉はいない」と言ったのは、まずはセミネールⅥ(1958-1959)だが、その前のセミネールⅤでは、「他者の他者は存在する」ーー直接にはこうではないが明らかにそう捉えられうる表現をしているようだ。

セミネールV(1957‒1958)は、議論の余地なく、「〈他者〉の「他者〉は存在する」という仮定のもとに、父の隠喩の機能を導入している。ラカン曰く、《分析の経験が我々に示してくれるのは、〈他者〉にかんする〈他者〉Other with respect to the Otherによって提供される背景[arrière-plan] の必須性である。それなくしては、言語の世界は自らを分節化できない》。

一年もたたないうちに、今度はセミネールVIで、躊躇なく宣言することになる、《〈他者〉の〈他者〉はない…シニフィアンのどんな表明の具体的な成り行きconsequenceを支えるシニフィアンは存在しない》(=メタランゲージは存在しない:訳者)。(Lorenzo Chiesa『Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan』 2007)

もっとも、Lorenzo Chiesaは、上のように書いたあと、すぐさま次ぎのようにつけ加えてはいる、《我々はこの明らかに折り合いのつかない二つの引用文をどう取り扱えばいいのだろう? 私は示唆しておきたいのだが、せっかちに選定してしまうこと、すなわちセミネール V とVI のあいだのどこかに根本的な転回Kehreをみることは、おそらくラカンの思考の多面的かつ非線形の進化を見逃がすことになるだろう》と。

これは、たとえばヴェルハーゲのような記述を暗に批判しているといってよいだろう。

……この変貌の波紋は、ラカンのその後の仕事全体を通して、轟き続けた。まさに最後まで、絶え間なく寄せてはかえす波のように。実に理論の最も本質的なメッセージは、どの理論も決して完璧ではないということだ。循環する論述によって組み立てられた閉じられたシステム、それを我々はフロイトとラカンとともに以前は見出した(原父や父の名によって保証される父、逆も同様)。だがそれは一撃で破棄された。(PAUL VERHAEGHE,の『New studies of old villains』2009ーー二重に重なる享楽の喪失(Paul Verhaeghe))

いずれにせよ、50年代半ばのラカンにとっては、父の名はあった(「〈他者〉の「他者〉は存在する」とは、象徴的〈他者〉を支える至高の存在がある、という意味である)。60年前後以降のラカンにとっては父の名はない。とすれば50年代と60年以降の用語の意味は異なってくるのだが、ラカンはそれを説明することは稀だ。

60年以降についても同様であり、セミネールⅩⅦやⅩⅩでの転回、さらにⅩⅩⅢの「サントーム」のセミネールでのサントームΣ概念、これでさえ主人のシニフィアンや父の名との正確な区別がつき難くなるときがある。

父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ。(Thomas Svolos“ Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant”2008)
主人のシニフィアンは、無意識のサントーム、享楽の暗号である。主体はそのシニフィアンに、知らないままで主体化されている。(ジジェク『パララックス・ヴュー』2006)

ほかにもジジェクは、最近、別に“phallic Master‐Signifier ”(2012)という表現を連発している。

これは象徴的ファルスΦと主人のシニフィアンS1を同じものと扱っているとしてよいだろう。とすれば、後期ラカンにとって、場合によっては、父の名=Φ=S1ということになったとして、-ーーさらにつけ加えて父の名=S(Ⱥ)=Σーーなどとすることは、わたくしは遠慮深いタチなので書かないでおく。

そんなことをするより、「誠実な」フィンクの文章を読むほうがいい(THE LACANIAN SUBJECTよりの私訳)。

S(Ⱥ) ーー〈他者〉のなかの欠如のシニフィアン。〈他者〉は構造的に不完全であるので、欠如は〈他者〉の固有の特徴である。しかし、その欠如はつねに主体に明白であるわけではないし、明白であるときでさえ、つねに名づけ得ない。ここで我々はその欠如を名付けるシニフィアンをもつ。それは、全ての象徴秩序、全ての他のシニフィアン (S2)の「錨を留める点anchoring point 」であり、しかし精神病においては(父の名として)排除されている。女の構造のラカンの議論においては、それは、言語の物質性もしくは実体により関係(そしてsignifiernessとしての対象aに関係)があるようにみえる。(Fink,1995)

ーーsignifiernessとはラカンのsignifianceのフィンクによる訳語で、たとえばアンコールにて、l’être de la signifianceという形で使用されている(シニフィアンの実体? なんという美しいパラドックス! と記すのは、ポール・ヴェルハーゲ2002だ)。

これは(S(Ⱥ) )はS(a)と書けるかもしれない。注意しておこう、少なくともラカンがS(Ⱥ) について言ったことの一つは、私の解釈を立証しないかもしれないことを。《S1とS2はまさに私が分裂したAによって示したものである。それは分離シニフィアンS(Ⱥ)に作り変えたものである。S1 and S2 are precisely what I designate by the divided A, which I make into a separate signifier, S(Ⱥ)》(Seminar XXIV, May 10, 1977)。

この引用が少なくともはっきりさせてくれるのは、S(Ⱥ)は、この時点でのラカンの思考において、分裂した或いは斜線を引かれた〈他者〉、すなわち不完全としての〈他者〉であることを示していることだ。しかしながら、それが、欠如する或いは欲望するものとしての〈他者〉のシニフィアンと S(Ⱥ) を同じものだとする限り、〈他者〉の欲望のシニフィアンにかかわる。それを、私は提案するのだが、S(a)と書きうる、と。とはいえ、このように言うなら、ファルス(Φ)とも同じでありうる。他方、私の感覚では、ここで問われているのは、喪われたものとしての母なる〈他者〉の欲望mOther's desire as lost、あるいは喪われた母-子の統合である。(Fink,1995)

上の文で、S(Ⱥ)をS(a)とするフィンクの見解は、ここでの議論からいったん外すーーこれはȺ=aとすることでもあり、「喪われた母-子の統合」=原トラウマとすれば、ある意味で当然の帰結だーー。ここではラカンのセミネール XXIVの言葉に注目しよう。それを読めば、フィンクのいうとおり、S(Ⱥ)とは象徴的ファルスと同じものとなる。しかもこの見解は1977年に表明されており、最晩年のラカンとしてよいだろう。

なぜ、S(Ⱥ)=象徴的ファルスΦとなりうるかについては、「「波打ち際littorale」と「横棒としての象徴的ファルスΦ」」を見よ。


…………

以下、小笠原晋也氏のツイッターセミネールから抜き出せばかくの如し。

①S1 は,或る意味で「父の名」です.「父の名」の概念は S1 に尽きるわけではありませんが.

②…その意味においては S1 は signifiant Φ と等価です.(……)しかし,父の名の概念は S1 に尽きるわけではありません.


③父の名の概念の最も基本的な定義は「徴象の機能の支え」 « support de la fonction symbolique » です.1953 年のローマ講演におけるこの fonction symbolique という表現は,fonction de la paroleの言い換えです.fonction de la parole はローマ講演のタイトルの含まれている表現です.

④……そのような父の名は,signifiant と signifié とを相互につなぎとめておく point de capiton と同じです.point de capiton とは,マットレスやクッションのなかの詰め物がずれて,かたよってしまわないように,表面の布地と詰め物とをつなぎとめておく縫い目です.表面の布地は signifiant, 中の詰め物は signifié に相当します.

⑤1972 年のテクスト Étourdit においては,父の名は réel なもの,つまり不可能なもの,書かれぬことをやめないものとして言及されています.しかし,1973-74 年の Séminaire, Les non-dupes errent において,新たな展開が為されます.

⑥父の名と φ barré とは等価である.Nom-du-Père ≡ φ barré  
Freud が死の本能と呼んだものは,我々の学素では φ barré です

⑦1973-74 年の Séminaire Les non-dupes errent において Lacan は,父の名との関連において nomination の概念を提示します.nomination は「命名」だけでなく「任命」です.つまり,nomination は destitution 「罷免」の逆です.罷免と分離に次いで,φ に新たな名 a を与えること.それは,無からの創造としての sinthome :症状,聖状,聖人の概念へとつながって行きます.

①において、S1=父の名
②において、S1=象徴的ファルスΦ
③④において、父の名=象徴的ファルスΦ
⑤⑥において、父の名=死の欲動
⑦において、父の名=サントームΣ

死の欲動は、フィンク見解の「喪われた母-子の統合」S(Ⱥ)とすれば(本来Ⱥーー《Ⱥutre は,抹消されたファロス φ barré と等価です、そして,実在的なものとしての父の名は,φ barré にほかなりません》(小笠原)ーー、あるいはフィンクのS(a)を想起するならaとすべきだろうが、ここでは精密さをはぶいて記すれば)、

小笠原解釈でも、父の名=S1=Φ=S(Ⱥ)=Σとなる・・・

ーーもちろんこれは半ばジョークであるが、半ばはマジメである。

要するに、フィンクの言う通り、それぞれの文脈において、ラカンが何をいいたいのかを摑むことが大切なのだが、ラカンのマテームの意味内容の変遷の把握は、それなりに「すぐれた」ラカン研究者でもかくの如く「混乱」を極めている。とすれば、マテームを利用するのは、ただひたすらいっそうの混乱を招くだけではないか?

最後にこう記しておこう、騙されない者は間違える、と。

les non‐dupes errent(騙されない者は間違える)は、le‐Nom‐du‐Père(父の名)と同じ発音である。

とはいえ肝腎なのは、人はどのレヴェルで「父の名」に騙されるか、である。

(そのうち続く)

→ S(Ⱥ) とΦ の相違(性別化の式)、あるいは Lⱥ Femme



2015年6月11日木曜日

動物と人間(本能と欲動)

子犬が四匹生れた。彼ら(母犬と子犬の関係)を見ていると、動物の「本能」をつくづく思い知らされる。

以下メモ。

《類人猿は手の届かない対象に直面するとき、何度かそれを掴もうと試みた後にそれを放棄して、より穏当な対象に転ずる(例えば、より魅力の劣る性的パートナー)。他方、人間は、不可能な対象に釘づけになったままで努力をしつこく繰り返す》(ジジェク、2012)

動物にはアウシュビッツもコソボもない。生物学の要素は心理学に転換され得ないし、逆も真である。欲動はこの二つの領域のあいだの中間地帯に現れ、境界線の不可能な越境の効果である。欲動にしばしば伴う怒りも攻撃性も、動物には馴染みのない不能と無力の表現である。動物には本能はあるが、欲動はない。(ヴェルハーゲ,1998)

《……シューラーが人間を「おのれの衝動不満足が衝動満足を超過してたえず過剰であるような(精神的)存在者」と呼んでいるの葉興味深い。(……)

ここで衝動と呼んだものは正確に言うと何なのか。ここの問いに答えるためには、人間学と遠からぬ所から出発し、遥か先まで到達した精神分析に目を移したほうがいいだろう。そこでは、有機体と人間との対比、Instinkt / Trieb ないし instinct / pulsion の対比に集約される。最近の慣例に従って、これに本能/欲動という訳語をあてよう。

本能という語は、有機体を生のサンスにかなった行動に導くガイドとして機能する内的な情報機構を指し示している。これに対し、過剰なサンスを孕むことによって錯乱してしまった本能が欲動である。例えば、性本能が種の保存のために、「正しい」相手に対する、時宜にかなった、「正しい」性行動を導くのに対し、性欲動は時と場所を選ばずありとあらゆる対象に向かって炸裂する。フロイトが喝破した通り、本来、人間は多形倒錯なのである。「正しい」異性愛のパターンが社会制度として課されねばならないのは、まさにこのためである。また、攻撃本能が適当なシグナルによって解除され、同類の無用な殺し合いが避けられるのに対し、攻撃欲動は見境なしに発動され、恐るべきジェノサイドを現出する。人間の歴史はまさしく血塗られた歴史であり、いかなる社会的規制も、より大きな暴力をもたらしこそすれ、永続的に平和を築くことができなかったというのは、周知の事実である。》(浅田彰『構造と力』)


……人間が動物を凌駕するのは暴力の能力の点においてであり、それがほかなら ぬ言葉を使うせいだとすればどうだろう。数多ある言語の暴力的特性を中心的なテーマに したてた哲学者・社会学者には、ブルデューからハイデガーまでいる。しかしながら、ハイ デガーが見落とした言語の暴力的特性がある。それこそラカンによる象徴界の理論の焦点である。その象徴界の理論を通じて、ラカンは存在の家としての言語、つまり言語は人間の創造物でも道具でもなく、人間のほうが言語の中に「暮らし」ている、というハイデガー のモチーフを変奏している。「精神分析は、その主体となるものがなかに住まう言語の科 学であるべきです」。ラカンが「パラノイア的な」加えたひねり、ラカンがフロイトのようにして 加えたねじの回転は、この〔ハイデガーの〕家に折檻の家という特徴を与えた点に求めら れる。「フロイトの視点に立てば、人間は言語に囚われ、折檻を受ける主体なのです」。(ジジェク 「詩に歌われる言語の折檻所」)

…………

以下の文は「欲動」でなく「享楽」という語彙がでてくる。「欲動とは享楽の漂流」(ラカン)を前提にして読もう(参照:欲動の最も美しい定義(フロイト=ヴェルハーゲ))。

我々は動物がけっしてしないことをするように見える。我々は、我々がそうあるべきだと思っている標準、絶対的な標準、規範、水準に照らし合わせて、享楽を判断している。標準や基準は、動物界にはない。標準などは言語によってのみ可能となる。言い換えれば、言語は、我々が得ている享楽が標準には達していない、基準に達していない、そうあるべきものではない、と思わせるのだ。

言語は、我々に「言う」ことを可能にする、我々が種々の方法で得ている満足は取るに足りないもので、別の満足、より良い満足、決して我々を裏切らない満足、決して期待外れに終わらず、失望させない満足があると。我々はかつて一度でもそのような期待通りの満足を経験することができただろうか? 大抵の人にとっては、おそらく「否」だろう。だが、そのことは信じることを止めはしない、きっとそのような満足があるに違いない、何かより良いものがあるに違いない、と。たぶん我々は、ある他の集団ーーユダヤ人、アフリカ系アメリカ人、ゲイ、女性ーーにその徴を見ると考えるかもしれない。そして憎悪したり羨望したりする。たぶん、我々はある集団にそれを投影するのだ。というのは、我々はそれが存在すると信じていたいのだから(私はここでレイシズムやセクシズムなどの全ての局面を、このひどく単純化した形式で説明するつもりは毛頭ないことを断っておく)。

いずれにせよ、我々は、何かより良いものがあるに違いないと思い、何かより良いものがあるに違いないと言い、何かより良いものがあるに違いないと信じる。そのように何度もくり返しして言うのだ、我々自身に、あるいは友人に、さらには分析家に。そうすることによって、我々はこの他の満足、この〈他者〉の享楽に一貫性を与える。結局、それにとても大きな一貫性を与えることそのものが、我々が実際に得ている享楽はひどく不十分なものに見えてしまうことに導く。そのため、我々のもつ僅かな享楽は、更に先細りになってしまう、我々がひどく重要だと思い込んでいる享楽の理想との比較によって、いっそう色褪せてしまうのだ。そして我々はその享楽を決して諦め切れない。(Bruce Fink“Knowledge and Jouissance”2002)
……同じことが資本主義にもいえる。資本主義の永続的な自己革新のダイナミズムは、不可能性のポイント(最終的な恐慌、あるいは崩壊)の絶え間ない延期に依っている。…資本主義において、恐慌は内面化され予め考慮に入れられている。すなわち、不可能のポイントとして、であり、それが資本主義を継続的な活動に駆り立てる。資本主義は構造的に常に恐慌のなかにある。それが、いつまでも拡大していく理由である。資本主義は「未来から借金する」ことによってのみ、それ自身を再生産することが出来る。fuite en avant(破れかぶれで前に突き進む)ことによって未来に向かう。全ての借金が支払われる最終的な決着など決して到来しない。マルクスが提示した、不可能の社会的ポイントの彼自身の名は「階級闘争」である。

たぶん、人はこれを人間性のまさに定義として拡張すべきである。人間を動物から究極的に区別するものは、あるポジティヴな特徴(会話する、道具を作る、反省的思考等々)ではない。そうではなく、フロイトやラカンによって「モノdas Ding」として表現された不可能性の新しいポイントの出現にある。「モノdas Ding」、すなわち欲望の不可能なリアルに究極的参照点である。しばしば注目度される人間と類人猿のあいだの相違は、ここであらゆる重要性を獲得する。類人猿は手の届かない対象に直面するとき、何度かそれを掴もうと試みた後にそれを放棄して、より穏当な対象に転ずる(例えば、より魅力の劣る性的パートナー)。他方、人間は、不可能な対象に釘づけになったままで努力をしつこく繰り返す。

これが、主体自体がヒステリー的な理由である。主体、享楽を絶対的なものとする主体。その主体は、満足されない欲望の形式としての享楽に絶対性に応答する。そのような主体はゲームの限界の外側にいるままの状況に関係し得る。実際、「ゲームの外」という用語へのこの関係性は、主体自体を構成する。ヒステリーは、このように絶対的な享楽の偽装のもとに不可能性のポイントを設置する初歩的な「人間的」方法である。ラカンの「性関係はないil n'y a pas de rapport sexuel 」も人間であることを構成する不可能性のポイントではないだろうか?(ZIZEK,LESS THAN NOTHING, 私訳)


2015年5月1日金曜日

「波打ち際littorale」と「横棒としての象徴的ファルスΦ」

……ここにはシニフィアンと享楽jouissanceのあいだにじかのリンクがある。あるシニフィアンの反復によって、われわれは享楽jouissanceにアクセスする。そして、それはシニフィアンと象徴界を超えることによってではないのだ。かつまた法を逸脱したりシニフィアンの境界線を超えることによってではないのである。ラカンはなんどもこの点を強調している、《われわれは逸脱を扱っているのではない》。……人は言うことができる、セミネールⅩⅦのラカンにとって、享楽とはシニフィアンのそれ自身に対する不十分性inadequacyにあると。すなわち、無用な剰余を生み出すことなしに、“純粋に”機能することの不可能性inabilityであると。(ジュパンチッチAlenka Zupancic”WhenSurplus Enjoyment Meets Surplus Value")


以下は、このジュパンチッチの「セミネールⅩⅦ』読解における驚くべき指摘にかかわる「とりあえずの」メモである。さらにいえば、「レイシズムと享楽(Levi R. Bryant+ZIZEK)」の派生物である。

もちろん、『セミネールⅩⅦ』(精神分析の裏面 1969-1970)は、ドゥルーズの『差異と反復』(1968)の影響によるラカンの転回点とさえ言う人がいるだろう。

……ラカンにとって、反復は抑圧に先んずるものである。それはドゥルーズが簡潔に言っているのと同様である。《われわれは、抑圧するから反復するのではない。反復するから抑圧するのだ》(『差異と反復』)。次のようではないのだ、――最初に、トラウマの内容を抑圧し、それゆえトラウマを想起できなくなり、かつトラウマとの関係を明確化することができないから、そのトラウマの内容がわれわれに絶えずつき纏いつづけ、偽装した形で反復するーー、こうではないのだ。現実界(リアル)が極細の差異であるなら、反復(それはこの差異を作り上げるもの)は、原初的なものである。すなわち抑圧の卓越性が現れるのは、現実界から象徴化に抵抗する「物」への“具現化”としてであり、排除され、あるいは抑圧された現実界が、己を主張し反復するときに初めて抑圧は現れる。現実界は原初的には無である。だがそれは物をそれ自身からの分離する隙間なのであり、反復のずれ(微細な差異)なのである。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』ーー「二種類の反復ーー「反復強迫automaton」と「反復tuche」」)

…………

象徴界と現実界を分ける棒線は、厳密に象徴界の内部のものである。というのは、その棒線が、象徴界が「それ自身になる」のを妨げるのだから。シニフィアンにとっての問題は、現実界に触れ得ないことではなく、「それ自身に到達する」ことが出来ないことだ。シニフィアンに欠けているものは、特別な言語の対象ではなく、「シニフィアン」自身、棒線を引かれない、何物にも邪魔されない〈一者〉である。(ジジェク『為すところを知らざればなり』For They Know not What They Do; Enjoyment as a Political Factor - Slavoj Žižek 1996 私訳)

Levi R. Bryantはこの文を引用して次ぎのように言っている(The Democracy of Objects)。

要するに、現実界は象徴界以外の何物でもない。むしろ象徴界の一種の効果である。どのシニフィアンも、シニフィアンとその割り当てられた場所のあいだの分裂によって纏いつく相違による効果なのだ。シニフィアンは常にそれ自体と場所のあいだの相違を包含しているのだから、シニフィアンは常に-何処でもそれ自体との同一化を得ることに失敗せざるを得ない。しかしながら、それ自体との同一化が不可能だというまさにこの失敗が、そのアイデンティティの本質なのだ。

Bryantはこの後、ヘーゲルを引用して、こう記している。

ヘーゲルが『論理の科学』で、悪戯っぽく言ってる、もしAがそれ自体と同じなら、どうして反復する必要があるんだい?と。“A = A” のような同語反復の同一の反復は、実際はそれ自体との非-同一の徴を示している。

ヘーゲルにはとんと疎いのだが、おそらく次ぎのジジェクの叙述も、ヘーゲル起源なのだろう。

“A = A”は、象徴秩序内においてのみ起こり得る。そこでは、Aの同一化は「唯一の特徴unary feature」によって支えられ構成されているのだ。その「唯一の特徴」は、その核心にある空虚を徴づけている(その空虚の代わりとなっている)。「あなたはジョンだ」は意味するのは次ぎのことである。あなたのアイデンティティの核心は、あなたの名前で示された言葉で言い表わせないje ne sais quoi深淵なのである。だからどのアイデンティティも、つねに挫折させられ、実質がなく、虚構である(ポストモダンの「脱構築主義者」の呪文のように)だけではない。アイデンティティそれ自身が、厳密な意味で stricto sensu、その反対物の徴、それ自身の欠如の徴、自己アイデンティティとして主張される実体は十全のアイデンティティを喪失しているという事実の徴なのである。(ジジェク LESS THAN NOTHING 2012 私訳)

ここではヘーゲルはうっちゃり、棒線の話に戻る。とはいえ、「棒線bar」とは何の話か。

ファルスの用語に関して、ラカンは、セミネールⅩⅩにて、ファルスを、シニフィアンとシニフィエ (S/s)のあいだの横棒と同じものとして扱っているのに注意しよう。

Regarding the term phallus, note that Lacan equates the phallus with the bar between the signifier and the signified (S/s) in Seminar XX (40/39). (Bruce Fink  “KNOWLEDGE AND JOUISSANCE ”)

――とあり、フィンク英訳のセミネールⅩⅩを探ってみると、次のようになっている。

For the time being, I will say that what I put forward last time as the function of the bar is not unrelated to the phallus. Seminar XX (40/39)

《the function of the bar is not unrelated to the phallus》――すなわち、「横棒の機能はファルスと関係がないのではない」、とでも訳せるだろう。

これは、ジジェクも同様の説明をしている。

……with regard to the division between signifier and signified, the objet a is on the side of the signifier, it fills in the lack in/of the signifier, while the Master‐Signifier is the “quilting point” between the signifier and the signified, the point at which the signifier falls into the signified.

For Lacan, the phallic signifier is such a suturing element: Lacan's concept of the phallus is exemplary of the dialectic of the priority of lack over the element that fills it in—and, as Lacan points out, for a very precise reason (known to all Lacanians), the phallus is the very signifier of this lack:……

Insofar as the phallic Master‐Signifier is the point of the subject's symbolic identification, identification is ultimately always identification with a lack.(ZIZEK“LESS THAN NOTHING”2012)

この文章で、決定的なのは、対象aはシニフィアンの側(象徴界の側)にあると言っていることだ。現実界としての対象aは何処に行ったのか? 《a は、現実界の位のものであるle a est de l'ordre du réel》(ラカンSéminaire XII)としたラカンは? それについてはS(a)という表記が救いになリ得るのではないか、ということを「ジャック・ラカンのS(Ⱥ)とブルース・フィンクのS(a)」にて示した。

上のジジェクの叙述に戻れば、ファルスの主人のシニフィアンは、シニフィアンとシニフィエの繋ぎ目だとしている、《 the Master‐Signifier is the “quilting point” between the signifier and the signified, the point at which the signifier falls into the signified.》

すなわち縫合点suturing elementなのである。縫合点であるなら、やはり横棒である。

これは、ソシュールの図、大文字のS(シニフィアン)と小文字のs(シニフィエ)の話である。



というわけで、この横棒が、象徴的ファルスΦ、あるいはファルスの主人のシニフィアンS1ということになる、ーーのだろうか? 自信がないための捏造された疑問符であることは言うを俟たない。

わが国の若き聡明なるラカン派松本卓也氏のPierre Brunoに依拠したツイート曰く、

たとえば、あまりよくないラカン本ではΦ(象徴的ファルス)と父の名NdPを区別していなかったりするのですが、“Phallus et fonction phallique”(Pierre Bruno)の説明では、この2つは水準が違うことが明記されています。Φは全体としてのシニフィエの諸効果を指し示すシニフィアンであって、つまるところシニフィアンとシニフィエの結びつきを調整するもの。一方、父の名のほうは、意味作用が関わってくる水準。つまり、ファルス享楽についての謎に答えるために、先行する母の欲望(=シニフィアン)を隠喩化することでファリックな意味作用を作り出すという機能が父の名にはある。

ブルース・フィンク曰く、《後期ラカンの使用法によれば、父の名は、S1、主人のシニフィアンと関連があるように見える》 。

In the late 1960s and 1970s, S1, is assigned the role of the "master signifier," the nonsensical signifier devoid of meaning, which is only brought into the movement of language—in other words, "dialectized," a term I shall explain below—through the action of the various S2s. In accordance with Lacan's later usage, the Name-of-the-Father thus seems to be correlated with S1, the master signifier. If S1, is not in place, every S2 is somehow unbound.(Bruce Fink 『THE LACANIAN SUBJECT BETWEEN LANGUAGE AND JOUISSANCE 』「Ⅵ Metaphor and the Precipitation of Subjectivity」)

さてどうしたものか?

ジジェクのphallic Master‐Signifier、すなわちS1=Φ
ピエール・ブルノ=松本卓也の、Φ≠NdP
フィンクのNdP≒S1を。

ーーそれぞれ〈あなたがた〉が勝手に思案したらよろしい。

とはいえ、セミネールⅧの前期ラカンの言葉などあまり参照しないで思案すべきか? なぜならPierre Brunoセンセは、Φとthe phallic functionは違うとオッシャッテルのだから。

The symbolic phallus is written Φ in Lacanian algebra. However, Lacan warns his students that the complexity of this symbol might be missed if they simply identify it with the symbolic phallus (S8, 296). The symbol is more correctly understood as designating ‘the phallic function' (S8, 298).(Dylan Evans,An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis)

さあて、こうやってなんのことらや分からなくなり、それゆえ共有された無知によってコミュニティを結束させるのが、S1(主人のシニフィアン)の機能である。

如何にコミュニティが機能するかを想起しよう。コミュニティの整合性を支える主人のシニフィアンは、意味されるものsignifiedがそのメンバー自身にとって謎の意味するものsignifierである。誰も実際にはその意味を知らない。が、各メンバーは、なんとなく他のメンバーが知っていると想定している、すなわち「本当のこと」を知っていると推定している。そして彼らは常にその主人のシニフィアンを使う。この論理は、政治-イデオロギー的な絆において働くだけではなく(たとえば、コーサ・ノストラ Cosa Nostra(われらのもの)にとっての異なった用語:私たちの国、私たち革命等々)、ラカン派のコミュニティでさえも起る。集団は、ラカンのジャーゴン用語の共有使用ーー誰も実際のところは分かっていない用語ーーを通して(たとえば「象徴的去勢」あるいは「斜線を引かれた主体」など)、集団として認知される。誰もがそれらの用語を引き合いに出すのだが、彼らを結束させているものは、究極的には共有された無知である。(ジジェク『THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』私訳)

だが、わたくしは残念ながら、主人のシニフィアンだが父の名だか象徴的ファルスΦの機能は拒絶したい口だ。

とはいえ、ここではとりあえず、象徴的ファルスは、シニフィアンとシニフィエのあいだの横棒なのだ、という見解だけは取り入れて話をすすめる。

そのとき次の文を読むと、どうなるのか。「波打ち際littorale」の話である(ジジェク 2012)。

ラカンは、その仕事の展開を通して、ずっと探し求めていた、S(象徴的見せかけsemblance)とJ(享楽の現実界)のあいだの「縫合点」、SとJをひとつにまとめる、あるいは少なくともそのふたつを仲介するリンクを。主な解決法は、まずは、ファルスを欠如のシニフィアンに昇格させること、すなわち去勢のシニフィアンとして、象徴秩序内の享楽の場を保持することだった。その後には、享楽の喪失から生み出される剰余享楽としての対象a自体がある。それは象徴秩序へのエントリーの相対物であり、現実界の享楽のサイドに位置する享楽ではなく、パラドキシカルにも、象徴界のサイドに位置する享楽である。

「リチュラテールLituraterre」(Autres écrits所収)にて、ラカンは、最終的に象徴的松果体(デカルトにとっての身体と魂が交流する身体的な徴である)のこの探求を断念し、ヘーゲリアンの解決法を取った。すなわち、S とJを永遠に分離するギャップ自体がこの二つを一つにまとめるというものだ。というのは、このギャップが各々の二つを構成しているのだから。

象徴界は、己れを十全な享楽から分離するギャップを通して生じる。そしてこの享楽自体は、象徴界のギャップと穴によって生み出された幽霊specterである。

この相互依存性を示すために、ラカンは「波打ち際littorale」という用語を導入する。それは「海岸のような」次元における文字を表している。それによって「ある領域、そっくりそのまま他にとっての前線を作る領域を描くこと、それらの存在は、相互の関係に陥いらない範囲で、互いに異物であるのだ。その痕跡とは知の穴の縁ではないか?」(ラカン「リチュラテールLituraterre」)

だからラカンが「知と享楽のあいだに、波打ち際littoraleがある」と言うとき、jouis‐senseの喚起を聞かねばならない。サントーム、享楽のシニフィアンする形式signifying formula of enjoymentに縮減された文字のjouis‐senseを、である。ここに後期ラカンの最終的な「ヘーゲリアン」の洞察がある。二つの相容れない領域(現実界と象徴界)の一つへの収束convergenceは、まさに不一致divergenceによって支えられている。というのは差異が己れが差異化するものを構成しているのだ。あるいはもっと形式的用語で言うなら、二つの領野のあいだのまさに横断点が、二つの領野を構成しているのだ。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING)

どうだろうか? これは冒頭のジュパンチッチの説明によるセミネールⅩⅦの説明とどう異なるのだろう。

ジジェク曰く、《二つの相容れない領域(現実界と象徴界)の一つへの収束convergenceは、まさに不一致divergenceによって支えられている》

ジュパンチッチ曰く、《享楽とはシニフィアンのそれ自身に対する不十分性inadequacyにあると。すなわち、無用な剰余を生み出すことなしに、“純粋に”機能することの不可能性inabilityである》


そのうち「波打ち際の漂流」をめぐって続く、だが「おそらく」であり、いつのことかわからないので、基礎資料だけ添付しておこう。

…………

※附記:「波打ち際littoraleの漂流dérive」をめぐる。

きみたちにフロイトの『性欲論三篇』を読み直すことを求める。というのはわたしはla dériveと命名したものについて再びその論を使うだろうから。すなわち欲動Triebを「享楽のdérive漂流」と翻訳する。(ラカンセミネールⅩⅩアンコール私訳)
「欲動」という名のもとにわれわれが理解することのできるのは、さしあたり、休むことなく流れている、体内的な刺激源の心的な代表者以外のなにものでもないのであって、これは個別的に外部からやってくる興奮によってつくりだされる「刺激」とは異なるものである。だから欲動は心理的なものを身体的なものから区別する概念の一つである。この欲動の本性についてのもっとも単純でもっともらしい仮定は、欲動はその自身いかなる性質ももたず、心的生活に対する作業促進の尺度として問題になるにすぎない、というものであろう。あまたの欲動をそれぞれ区別して、これに特殊な性格を付与するのは、その身体的な源泉やその目標に対する欲動の関係なのである。欲動の源泉はある器官のなかで起る一つの刺激的な過程なのであって、欲動の当面の目標はこういう器官の刺激を除去することにあるのである。(フロイト『性欲論三篇』フロイト著作集5 p35)
セミネール十一巻の6、7、8、9、そして13、14章を読んで、Triebを本能と訳 さないことne pas traduire Trieb par instinctによって得られるもの、そしてこの欲動を漂流と呼びcette pulsion de l'appeler dérive、子細に検討して、フロイトに密着しながら、その奇妙さを分解したのち、組み立て直すことによって得られるものを実感しないひとがいるでしょうか。(ラカン『テレヴィジョン』)

さて漂流とはどこを漂流するのだろうか、身体と心理の狭間である。

『テクストの快楽』につけ加えて。享楽、それは欲望《に応える》もの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。このように主体を踏み迷わせうるものを適切に言いあらわすことばは、神秘主義者たちにたずねるほかはない。たとえばライスブルックのことば、「私が精神の陶酔と呼ぶものは、享楽が、欲望によって垣間見られていた可能性を越えてしまう、あの状態である。」(『彼自身によるロラン・バルト』1975)

《主体が囚われているのは意識ではない、身体である。(ラカン「「哲学科の学生への返答」(1966 "Ce n'est pas à sa conscience que le sujet est condamné, c'est à son corps."》(Réponses à des étudiants en philosophie sur l'objet de la psychanalyse Jacques Lacan, 1966


後期ラカンには次のような文がある。

l'inconscient, c'est le réel. (...) c'est le réel en tant qu'il est troué." (Seminar XXII, RSI, Ornicar?, 15th April 75
無意識はリアル(現実界)である……それが穴が開けられているtroué限りにおいて。(私訳)

この”troué”とは、われわれのなかには、エイリアン(異物としての身体Fremdkörper)がいるということである(“Fremdkörper”は、すでにフロイトの『ヒステリー研究』1895に頻出し、それはトラウマに関連して使用されている)。


たとえばラカンの「サントーム」セミネールに、”un corps qui nous est étranger”とあるがこれは「異物としての身体Fremdkörper」のことだろう。

l'inconscient n'a rien à faire avec le fait qu'on ignore des tas de choses quan qu'on sait est d'une toute autre nature. On sait des choses qui relèvent du signifiant. (...) Mais l'inconscient de Freud (...) c'est le rapport qu'il y a entre un corps qui nous est étranger et quelque chose qui fait cercle, voire droite infinie - qui de toutes façons sont l'un à l'autre équivalents - quelque chose qui est l'inconscient." (Seminar XXIII, Joyce - le sinthome, lesson of 11th May 1976

シニフィアンによって分節化された象徴界の内部にあって、しかもその内部の異物としてあるものが、現実界としてのFremdkörperのことである。それは言葉で言いあらせない原トラウマ=原症状のことでもある。

Fremdkörper, a foreign body present in the inside but foreign to this inside. The Real ex-sists within the articulated Symbolic.(Paul Verhaeghe "Mind your Body ")


というわけで、”しめ”はニーチェの「波打ち際littoraleの漂流dérive」である。

君はおのれを「我」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体と、その肉体のもつ大いなる理性なのだ。それは「我」を唱えはしない。「我」を行なうのである。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「肉体の軽侮者」より 手塚富雄訳)

…………

※追記

ツイッターセミネールをされているラカン派小笠原晋也氏に敬意を表して、主人のシニフィアン、Φ(象徴的ファルス)、父の名をめぐるツイートをいくらか抜粋しておこう。

S1 は,或る意味で「父の名」です.「父の名」の概念は S1 に尽きるわけではありませんが.Lacan が「父の名」に言及した最初のテクストは,1953 年の「ローマ講演」です.そして,1958 年の精神病についての書,それから,1963 年 11 月の一回のみ行われた「父の名」(複数形)についての séminaire, 1969-70 年の「精神分析の裏」,1973-74 年の Les non-dupes errent (だまされない者たちは誤る: フランス語では les noms du pères と同音),1975-76 年のJoyce についてのセミネール — 思い出すままに列挙しても,Lacan は彼の教えの出発点から最晩年に至るまで「父の名」に関する問いを問い続けたことがわかります.
……その意味においては S1 は signifiant Φ と等価です.支配者の言説の構造は,S1 としての signifiant Φ との同一化の構造と見なすことができます.しかし,父の名の概念は S1 に尽きるわけではありません.
さて,父の名にもどると,父の名の概念の最も基本的な定義は「徴象の機能の支え」 « support de la fonction symbolique » です.1953 年のローマ講演におけるこの fonction symbolique という表現は,fonction de la paroleの言い換えです.fonction de la parole はローマ講演のタイトルの含まれている表現です.
そのような父の名は,signifiant と signifié とを相互につなぎとめておく point de capiton と同じです.point de capiton とは,マットレスやクッションのなかの詰め物がずれて,かたよってしまわないように,表面の布地と詰め物とをつなぎとめておく縫い目です.表面の布地は signifiant, 中の詰め物は signifié に相当します.
1972 年のテクスト Étourdit においては,父の名は réel なもの,つまり不可能なもの,書かれぬことをやめないものとして言及されています.しかし,1973-74 年の Séminaire, Les non-dupes errent において,新たな展開が為されます.
父の名に話を戻すと,1973-74 年の Séminaire Les non-dupes errent において Lacan は,父の名との関連において nomination の概念を提示します.nomination は「命名」だけでなく「任命」です.つまり,nomination は destitution 「罷免」の逆です.罷免と分離に次いで,φ barré に新たな名 a を与えること.それは,無からの創造としての sinthome :症状,聖状,聖人の概念へとつながって行きます.

ーーこれだけ見ても混乱するかもしれないが、ラカン派の皆さんは苦心せざるをえない、ということだけは判然とするだろう。

他にもミレール派(フロイトの大義派)のThomas Svolosによって次のような言明があるのを少し前見た→「父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない」。

おそらく、ーーわたくしの「浅墓な」理解では、今のところーー、この解釈が一番すっきりと、ラカンの父の名の一連の思考推移がまとめられているように感じる。