« la répétition est symbolique dans son essence, l symbole, le symuracle, est la lettre de la répétition même. » (Gilles Deleuze, Différence et répétition, 1968)
1968年にドゥルーズは、「反復は本質的に象徴界のものだ」と言った。そしてそれは「文字」にかかわる、と。ラカンは1969-1970年のセミネールⅩⅦで、ある意味で、これに具体的に応答をしたと考えられる箇所がないでもない。もっともラカンはセミネールⅦあたりから似たようなことを言っているという観点もあるだろう。だがやはり、セミネールⅩⅦでの転回が明らかにある。かつては、享楽の反復は、象徴界ではなく、現実界に関係した。それについては、ポール・ヴェルハーゲによる説明を参照のこと(「三つの驚き」(ラカン、セミネールⅩⅦにおける「転回」))
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以下、「「言い得ぬもの」はアンチノミーの場にあり、何ら神秘的な意味合いはない」の補遺でもある。
ーーAlenka Zupancic, When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value(ジュパンチッチ、『剰余享楽が剰余価値に出会う時』 Reflections on Seminar XVII (Justin Clemens and Russell Grigg,editors),2006 所収)より。
ーー以前にも訳出したがいくらか訳語などを変えて、かつパラグラフ分け・小題をつけて再掲。
【享楽とシニフィアン】
【einziger Zug による象徴的同一化】
【einziger Zugによる同一化の例】
しかしまずーーセミネールXVIIにてラカンはいかにして、享楽 enjoyment とシニフィアン signifier を概念的にリンクさせ得たのであろうか? 彼が、異なった形で、このセミネールのすべてを通してくり返す示唆に従えば、次の如くである。対象の喪失、満足 satisfaction の喪失、そして剰余満足 surplus satisfaction あるいは剰余享楽 surplus enjoyment の出現は、トポロジカルに言えば、ひとつであり同じ点に位置している、それはシニフィアンの介入 intervention の場である、と。
【einziger Zug による象徴的同一化】
ラカンはこれをフロイトが集団心理学のエッセイにて導入した概念に依拠して展開する。すなわち、フロイトの精神分析学が、社会的なもの(そして政治的なもの)の、或る本質的な側面を考えるための端緒をまさに構成する仕事(『集団心理学と自我の分析』)にかかわる。
賭けられている概念は、「たったひとつの特徴」"unary trait" (einziger Zug) だ。その einziger Zug にて、フロイトはある風変わりな(象徴的)同一化の特性を指摘する。この同一化は、想像的模倣ーー他の人々の種々の諸側面と同一化ーーとはまったく異なったものだ。象徴的同一化においては、「たったひとつの特徴 unary trait」それ自体が、すべての同一化の局面を引き受ける。
【einziger Zugによる同一化の例】
例えば、われわれが同一化する人物は、文字「r」発音する風変わりな仕方があるとすれば、われわれはそれを同じような仕方で発音し始める。それがすべてである。他の振舞いを試みること、すなわち、この人物のように服を着る、彼女がすることをするなどは、必要がない。
フロイト自身、この類の同一化のいくつかの興味深い例を提供している。例えば、他の人物の特有な咳の仕方を模倣する。あるいは少女の寄宿舎の名高い例がある。少女たちの一人が彼女の秘密の恋人から手紙を受け取った。その手紙は彼女を動顛させ嫉妬心で満たした。それはヒステリーの発作の形を取った。引き続いて、同じ寄宿舎の何人かの別の少女たちは同じヒステリーの発作に襲われる。彼女らは彼女の密通を知っており、彼女の愛を羨んでいた。そして彼女のようになりたい、と。とはいえ、この彼女との同一化は、奇妙な extraordinary 形をとっており、すなわち、問題の少女において、彼女の関係性(密かな恋の危機)の瞬間に現われた特徴 trait に同一化する形である。
この例は実に最も得るところが大きい。というのは、ラカンがこのフロイトの概念にかんして取り上げた二つの本質的な点をとり囲んでいるからだ。第一に、たったひとつの特徴 unary trait は、まったく気まぐれなものである。もちろん、同一化の点において「その特徴を取り上げる」主体にとっての意義は、まったく気まぐれなものではない。この特徴の類なさとは、次の事実から湧き出ている。それは、主体の満足あるいは享楽 enjoymentへの関係性を徴づけるのだ。すなわち、彼女らの結合の点(あるいは痕跡)を徴づけるのである。
これは寄宿舎の例において並はずれて明瞭である。この例においては、何か別のものがまた明らかになっている。最初の少女のヒステリーの発作は、「特徴trait」である(この事例では、すでに症状だが)。この特徴が彼女の情事を想起させる。想起させるのは、少女が愛する対象を喪う切迫した危機にあるまさにその瞬間において、すなわち嫉妬によってだ。これは、ラカンがフロイトから取り上げて強調した二番目の重要なポイントである。それは、喪失と「たった一つの特徴 unary trait」、そして埋め合わされた満足 supplementary satisfaction との間のつながりにかかわる。
【シニフィアンの起源としての einziger Zug】
フロイトによれば、対象の喪失の出来事において、(情動の)投下 investment は、この喪失に徴づけられた「たった一つの特徴」に移転される。この一つの特徴との同一化は、このようにして、喪われた対象の(構造的な)場所を占める。とはいえ、同時に、この同一化(それとともに、その特徴の反復と再演)が、それ自体、埋め合わされた満足となる。
ラカンはこれを彼の概念的な骨組みframeworkに転置する。それはたった一つの特徴 unary trait を次のように解釈することによってである。《徴の最もシンプルな形、それは正しく言うならば、シニフィアンの起源である》(S.17)。ラカンは、フロイトのたった一つの特徴を、彼が S1 として書くものと繋げている。さらに、彼は、喪失の瞬間と埋め合わされた満足あるいは享楽 enjoyment をある唯一の瞬間に、非線形化delinearizeし濃縮 condenseする。
原初の喪失(対象の)の概念から逃れ去り、喪失の概念は、残滓 waste の概念、無用の剰余あるいは残存物 remainder の概念に、より近づく。それが、享楽 jouissance それ自体に固有であり本質的なものなのである。喪失を「残滓 waste」の用語にて捉えようとするこの考え方は、ラカンをエントロピーという熱力学の概念への言及に導く。それについては後述する。
【シニフィアンの反復=死の欲動】
このように、享楽とは残滓(あるいは喪失)である。享楽は化身するincarnateのだ、シニフィアンの装置の働きによって生れた、まさにエントロピーに。しかしながら、残滓について精密さを期すなら、この喪失は、単純には、欠如、不在、何かが欠けていることではない。それはまさにそこにあるもの(残滓はつねにあるものとして)very much there (as waste always is) であり、何かが、シニフィアン作用と均等化につけ加えられ、それ自体として認知されるのだ。セミネールⅩⅩにて、ラカンはこの喪失-残滓の地位 status を要約している。次の正典的な定義によってである、《享楽はなんの用途にも奉仕しない [La jouissance, c'est ce qui ne serf a rien] と。
これはまさに欠如から残滓を区別するものである。なにかがそこにある。しかしそれは何の用途にもなさない。他方で、それがすることは、余儀ない反復である。この残滓が本質的に副産物の形で結びついたそのまさにシニフィアンの反復である。《享楽は反復を余儀なくさせるものである》とラカンは言う。そして続けて示すのは、いかにして、まさにこの理由で、享楽は生に反するのか、快原理を超えたものなのか、フロイトが「死の欲動」と呼んだものの形を取るのか、ということである。これは、ラカンの享楽の概念化において、実に意義深い移行である。
【シニフィアン(象徴界)内部にある享楽】
ここにはシニフィアンと享楽 jouissance のあいだにじかのリンクがある。あるシニフィアンの反復によって、われわれは享楽 jouissance にアクセスする。そして、それはシニフィアンと象徴界を超えることによってではないのだ。かつまた、法を逸脱したりシニフィアンの境界線を超えることによってではないのである。ラカンはなんどもこの点を強調している、《われわれは逸脱を扱っているのではない》。最も重要なパッセージを引用しよう。
《(享楽は)ただ、偶然によって、皮切りの偶発性によって、事故によって、これらによってのみ動き始める。ひっくり返った生きている存在、それは通常は、快楽にごろごとと喉を鳴らしているのだが。もし享楽が普通でないものであり、そして、「たった一つの特徴unary trait」とその反復の措置によって裁可されるなら、――今後、享楽を徴 mark として設定するならーーもしこれが起こるのなら、それは、享楽の意味におけるひどく些細な偏差にただ起源を持つのみである。これらの偏差は、結局のところ、けっして異常なものではない。私が以前掲げた(マゾヒズムやサディズムの)実践においてさえ、そうでない。》(S.17)
〈ラカン文の英訳〉
[Enjoyment] only comes into play by chance, an initial contingency, an accident. The living being that turns over normally purrs along with pleasure. If jouissance is unusual, and if it is ratified by having the sanction of the unary trait and repetition, which henceforth institutes it as a mark—if this happens, it can only originate in a very minor variation in the sense of jouissance. These variations, after all, will never be extreme, not even in the practices I raised before [masochism and sadism],
〈仏原文〉
(Car il est clair si la jouissance est interdite,) ce n'est que d'un premier hasard, d'une éventualité, d'un accident, que la jouissance entre en jeu. L'être vivant qui tourne, qui tourne normalement, ronronne dans le plaisir. Si la jouissance est remarquable, et si elle s'entérine d'avoir cette sanction : du trait unaire, de la répétition, de ce qui l'institue dès lors comme marque, …si ceci se produit, ce ne peut être que d'un très faible écart dans le sens de la jouissance que cela s'origine. Ces écarts après tout, ne sont jamais extrêmes, même dans les pratiques que j'évoquais tout à l'heure.
【快原理の彼岸の否定】
というわけだが、われわれはここになにを見るだろう? まず事故、皮切りの偶発性があり、そこで主体は剰余快楽 surplus pleasure に遭遇する。すなわち享楽 jouissance である。この遭遇は、規範としての快原理の観点からは、一風変わったものかもしれない。しかしそれは次ぎのことを意味しない。どんな形であれ、奇観的であったり桁外れのもの、それを意味しない。それが一風変わっているというのは、快楽の普通の道のりからの脱線を表しているからだ。とはいえこの脱線や逸脱はけっして異常なものではない。最も法外な享楽 enjoyment の実践のようにみえるものにおいてさえそうではない。
それは、徴としての享楽を設置するシニフィアンの反復に拘束されている。そしてこの意味で、それはシニフィアンの領野の内部につねに留まっている。享楽の(そして死の欲動の)地位は、このように、言わば、本質的にシニフィアンの相互徴示作用 intersignifying の何かの地位である。それは、シニフィアンの領野に、内的な裂け目あるいは逸脱として発生あるいは具現する。
【シニフィアン自身の不十分性 inadequacy としての享楽】
人は言うことができる、セミネールⅩⅦのラカンにとって、享楽とはシニフィアンのそれ自身に対する不十分性 inadequacy にあると。すなわち、無用な剰余を生み出すことなしに、「純粋に」機能することの不可能性 inability であると。より正確に言うなら、シニフィアンのそれ自身に対するこの不十分性とは、二つの名を持っている。言わば、二つの異なった実体 entities において現われるのだ。それはラカンのディスクール理論のシューマにおける二つの非シニフィアン化要素 nonsignifying elements である。すなわち主体と対象aである。
シンプルに言おう。主体は、ネガティヴなマグニチュード、あるいはネガティヴな数 negative magnitude or negative number としての裂け目である。それが、ラカンによるシニフィアンの定義におけるまさに正確な意味である。シニフィアンとは、主体に代わって対象を代表象する何かではなく、他のシニフィアンに代わって主体を代表象するものである。すなわち主体とはシニフィアンの内的な裂け目なのである。そしてそれがその参照の動き referential movement を支えているのだ。他方、対象aは、この動きによってもたらされたポジティヴな残滓である。そしてそれがラカンが剰余享楽 surplus enjoyment と呼んだものである。剰余享楽 surplus enjoyment のほかには享楽enjoyment はない。すなわち享楽はそれ自体として本質的にエントロピーとして現われる。
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《享楽とはシニフィアンのそれ自身に対する不十分性inadequacyにある》とは、セミネールⅩⅦになって唐突に出てきたのではない、という観点もあるだろう。
たとえばセミネールⅩⅣには、《すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(徴 示)することができないこと》とある。
il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( S.14,Logique Du Fantasme)
セミネールⅩⅦの三年後のセミネールⅩⅩ(アンコール)には、まさにジュパンティッチがセミネールⅩⅦから見出したとする考え方と上のセミネールⅩⅣを混淆させたような表現がある。
《〈一〉と autre (つまり,petit a) との関係の不十分性(非十全適合性)》とは、シニフィアン l'« Un » には、常に残余としてのl« autre »(対象a)があるということだ。
・il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a), et que l'autre ne saurait dans aucun cas être pris pour un « Un »
・l'inadéquat du rapport de l'Un à l'autre. (S.20)
《〈一〉と autre (つまり,petit a) との関係の不十分性(非十全適合性)》とは、シニフィアン l'« Un » には、常に残余としてのl« autre »(対象a)があるということだ。
これらは別に格別あたらしく言われたものではない。ただ、かつて漠然と言われた内容が、ジュパンチッチの論によって明瞭化された、ということでもある。たとえば、日本でも田中純氏がジジェクの『為すところを知らざればなり』1996(原著 1991)をまとめる形で次のように記している。
ジジェクはラカンの「シニフィアンとは他のシニフィアンに代わって主体を代理表象するものである」という命題を注釈して、シニフィアンの示差的性格が示すのは、シニフィアンの二項一組のうち、一方の項の現前の反対はただちに他の項なのではなく、この最初の項の不在なのであり、他の対立する項の現前が最初の項のこの不在を満たすという関係性にほかならないことを指摘している。(《言葉》と《建築》──性差という分割 | 田中純)
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表題をあえて、《快原理の彼岸とはシニフィアンのそれ自身に対する不十分性にしかない》としたが、この意味は、快原理の彼岸は、シニフィアン(象徴界)内部にしかない、ということだ。つまり彼岸はない、ということである。これは、「たかだか根源的なと呼ばれる程度の問いを「安易に」口にだす連中」でもみたように、「存在の深淵」のたぐいの言説は、実は深淵ではなく表層の裂け目にしかない、という観点である。
上の内容はジジェクの次の簡潔な表現の詳述化ととらえてよいだろう。
現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 (ジジェク、2012)
ジジェクやジュパンチッチや現実界を極力形式的に捉えようとしている。そしてもちろん別の立場もある。
セミネールXVIIでは、享楽の喪失を引き起こすシニフィアンの導入がある。それは一見、ラカンの以前の立場の転倒にようにみえる。が、私の読解では、そうではない。シニフィアンによって引き起こされたこの喪失は、性的生の導入によって引き起こされた喪失の上に重なるものだ。それは、この原初の喪失の別の反復iterationだけではなく、この喪失への応答を練りあげる試みである。(Enjoyment and Impossibility, Paul Verhaeghe 2006 私訳ーー「二重に重なる享楽の喪失(Paul Verhaeghe)」)
ジジェク組の言い方は、一見極論であり、やはり原初の喪失があって、それが現実界の核だろうと人は思いたくなるが、ところが、ラカンには次ぎのように言っているのだ、《原初とは最初を意味しない》と。
ヴェルハーゲ自身、次のように記している。
……「彼方」にかかわるこの〈他の享楽〉は、始原の享楽、原初の享楽として解釈されうるかもしれない、時系列な chronological 観点からは、後の二次的な享楽を従えた原初の享楽だと。
ラカンはこの読解の誤謬を、とても明瞭に指摘している、《原初とは最初を意味しない》と。非全体 pas-tout とは、事後的な効果である。それは遡及的 nachträglich なものであり、シニフィアンの〈他者〉 the Other of the signifier の影響によって輪郭を描かれるにすぎない。シニフィアンの〈他者〉 は、ファルス的シニフィアンの〈一者〉the One of the phallic signifier の手段によって、全体化する効果 totalising effect を確立しようとする。結果として、この〈他者〉は、ある種の二重化 double vision に追い込まれる。事実、この〈他者〉は、シニフィアンの手段によって何かーーそれ自身を超える何かとしての、このまさにシニフィアンによって定義された何かーーを見たいのだ。したがって、それは複眼 cross-sightedness (biglerie)である。(Paul Verhaeghe、 Lacan's Answer to the Classical Mind/Body Deadlock 2001 → 原文)
これは、「二つの欠如 Deux manques」にて引用したセミネールⅩⅠの次ぎの文にもかかわってくるだろう。
c'est un manque engendré du temps précédent, qui sert à répondre au manque suscité par le temps suivant.
いずれにせよ、「遡及性」の考え方が大切なのは間違いない(参照:ラカンにおける特殊相対性理論から一般相対性理論への移行)。