「発達段階 」の考え方、①快原理 →②現実原理…l'idée d'un « développement » [(I) principe de plaisir →(II) principe de réalité ] があるだろう?
フロイトは云ってるが、Real-Ich(現実自我)以前に Lust-Ich(快自我)があると。これは通念のなかに滑り込むに等しいね、「発達段階」という通念 l'ornière だ。単なる統御 maîtrise の仮説にすぎないよ。
そもそも赤子、あわれな幼児は、Real-Ich とは何の関係もない。わずかでもリアルle réel なんて概念を持つわけがない!
(……)さあ、「発展段階」の意味をすこしマトモに考えてみようじゃないか。
我々が、事の進行 processus に対して、「原初の primaire」 や「二次の secondaire」と言うとき、それは錯覚 illusion を誘い育む話し方だ。言わせてもらえば、どんな場合でも、それは、ある過程 processus が「原初の primaire」と言われるいるわけではなく、…結局、それは最初 premier に現れたもの qu'il apparaît le premier のことを言っている。
個人的には、私は赤ん坊を観察して、彼に外部の世界があるなどと感じたことはない。明らかなのは、赤ん坊は彼を興奮させるもの以外は何も見ていないということだ。
そしてそれはまさに妥当することだ、赤ん坊がいまだ話さない範囲で、だが。話し始めた瞬間から、まさにその瞬間以降からのみ、…抑制 refoulement の類があるようになると理解できる。
Lust-Ich(快自我) の事の起りprocessus は、原初 primaire かもしれない。どうしてそうでない訳があるだろう? それが「原初」なのは明瞭だ、いったん我々が考え始めた時には。しかし、それはたしかに「最初 premier」ではない。
《Il est évidemment primaire dès que nous commencerons à penser, mais il est certainement pas le premier. 》
これが少し前に、私が言ったことだ…世界はレトリックの華 une fleur de rhétorique だ、と。文字通りの谺が自我 moi にも及ぶだろう、自我もまたレトリックの華でありうる、と。それは、快原理の壺 pot du principe du plaisir で育った、フロイト云くの "Lustprinzip" ――私は次のように定義しておくよ、《何んたらかんたら blablabla で満足しているもの》、と。(ラカン、セミネールⅩⅩ(アンコール)より粗訳)
ーー要するに「原初とは最初のことではない」、遡及的に原初と措定される。
とすれば神はどうなのだろう?
…………
◆セミネールⅣにおける遡及性
人は常に把握しなければならない、すなわち、各々の段階の間にある時、外側からの介入によって、以前の段階にて輪郭を描かれたものを遡及的に再構成する remanie rétroactivement ということを。これは、子どもは単独ではないというシンプルな理由からである。(セミネールⅣ)
il s'agit toujours de saisir ce qui, intervenant du dehors à chaque étape, remanie rétroactivement ce qui a été amorcé dans l'étape précédente pour la simple raison que l'enfant n'est pas seul.
対象aから身体へ、自我へ、主体へ、そしてジェンダーへ、しかし後向きの配列で。すなわち、「以前 previous」は遡及的に存在するようになる。「次 next」ーーそのなかに「以前」が外立ex-sistする「次」から始めて。
「原初」要素は、「二次」要素の手段によって、遡及的に輪郭を描かれる。この「二次」要素のなかには、「原初」が含まれている、「異物」としてだが。
ここでの異物はフロイト概念である(フロイトはトラウマにかんしてこの語彙を使用した)。
たとえば、『ヒステリー研究』の予備報告 (1893年) にはこうある。
心的外傷,ないしその想起は,Fremdkörper異物〈其れは,体内への侵入から長時間たった後も,現在的に作用する因子として効果を持つ〉のように作用する。
ーーこの論理でいくと、神は「異物」である(少なくともわれわれ象徴界の住人にとっては)。「異物」とは、対象aではなかったか?
Extimité is not the contrary of intimité. Extimité says that the intime is Other—like a foreign body , a parasite.(Jacques-Alain Miller,Extimity )
おそらく対象aを思い描くに最もよいものは、ラカンの造語"extimate."である。それは主体自身の、実に最も親密なintimate部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外exに現れ、捉えがたいものだ。(Richard Boothbyーー譲渡できる対象objet cessibleとしての対象a)
対象aの究極の外-親密ex-timate的特徴……私のなかにあって「エイリアン」…であるもの、まったく文字通り「私のなかにあって私自身以上のもの」、私自身のまさに中心にある「異物 foreign body」…(ジジェクーー「糸巻き」としての対象a)
…………
◆セミネールⅤにおける「遡及性」
※ロレンツォ・キエーザ、2007
《実在のarticulation =潜在的なものは、differencie されているが、differentier されていない》(参照:ドゥルーズの時間論)
柄谷行人は、90年代だが、次のようにぼやいていたが。
ここに「ア・プリオリ」も「事後的」も、「遡及的」ということである。すなわちよく知られているように?(ユング派以外は)、無意識は遡及的なものである。
もちろん、ラカンの「享楽」も「現実界」も遡及的なものである(参照:超越論的享楽(Lorenzo Chiesa))。
…………
◆セミネールⅤにおける「遡及性」
エネルギーは、潜在的な状態で、川の流れのなかに、既にそこにある…これは何も意味しない。というのは、エネルギーが蓄積され始めたと瞬間からのみ、我々に興味をもたらすのだから。そして機械が働き始めた瞬間からのみエネルギーは蓄積される。
機械が川から来る推進力 propulsion によって現働化される activated のは確かだ。しかし《川の流れがエネルギーの原初の状態primitive order だと信じること》、それは《生地Stoff、原初の状態、あるいは本能》を象徴的アクチュアリティWirklichkeitと混同することであり、エネルギーをマナ、あるいは《川の流れの妖精》のエネルギーと取ることと同様に、ひどい間違いだ。(英訳からのテキトウ訳)
ーーだが、「機械」は誰が作ったのか。やはり神が創ったのではないか・・・
Dieu ex-siste (pas au Ciel : dans le nœud de la structure), il est l'ex-sistence par excellence (l'ex-sistence étant ce qui donne du jeu au réel du nœud), il est le refoulement en personne, et même la personne supposée au refoulement. C'est en ça que la religion est vraie. Dieu n'est rien d'autre que ce qui fait qu'à partir du langage, il ne saurait s'établir de rapport entre sexués. (le séminaire ⅩⅩⅡ R.S.I.)
※ロレンツォ・キエーザ、2007
潜在(潜勢)的現実界は象徴界に先行している。が、それは象徴界によってのみ現在(現勢)化される。
The virtual Real precedes the Symbolic, but it can be actualized only by the Symbolic.(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)
理想自我は、論理的には自我理想に先行している。だが理想自我は自我理想によって避けがたく作り変えられる。これが、ラカン曰くの(……)、自我理想は理想自我に「形式」を提供する、ということの意味である。
the ideal ego is logically prior to the ego-ideal,on the other, it is inevitably reshaped by it. This is why Lacan, following Freud, says that the ego-ideal provides the ideal ego with a “form.”
※ドゥルーズが、潜在性とか純粋過去とかナンタラカンタラ言っているのもこの口だろう。はて、あれはなんだったか?
紅茶に浸したマドレーヌを口に含んだ途端、それを誘い水にして、「コンブレは、かつて生きられたためしがない光輝のなかで、まさにそうした純粋過去として再び出現する」。「コンブレがかつて現在であったためしがない〈純粋過去〉という形式で、つまりコンブレの即自という形式で出現する。(ドゥルーズ『差異と反復』p140)
柄谷行人は、90年代だが、次のようにぼやいていたが。
柄谷)ドゥルーズは超越論的といいますが、これもまさにカント的な用法ですが、これを正確に理解している人はドゥルーズ派みたいな人にはほとんどいない。カントの超越論という観点は、ある意味で無意識論なんです。実際、精神分析は超越論的心理学ですし、ニーチェの系譜学も超越論的です。(中略)
ア・プリオリという言葉がありますけど、ア・プリオリというものは、実際には事後的なんです ―――無意識がそうであるのと同じように。それがほとんど理解されていない。さっき言った様相のカテゴリーはア・プリオリですが、それはたとえば可能性が先にあってそれが現実化されるというような意味ではまったくない。可能性とは事後的に見いだされるア・プリオリです。最近、可能世界論などといっている連中は、こんな初歩的なこともわかっていない。(『批評空間』1996Ⅱー9 共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津/蓮實/前田/浅田/柄谷行人)
ここに「ア・プリオリ」も「事後的」も、「遡及的」ということである。すなわちよく知られているように?(ユング派以外は)、無意識は遡及的なものである。
もちろん、ラカンの「享楽」も「現実界」も遡及的なものである(参照:超越論的享楽(Lorenzo Chiesa))。
…………
※附記:ジジェク、2012における遡及性
…ここにいかにヘーゲル的な「仲直り」が作用しているかーー、対立を解決するとか克服するとかの積極的な仕草ではなく、いかに本当は深刻な対立など決してなかったかの遡及的なretroactive納得、いかに二人の対立者は常に味方同士だったかの事後的なretroactive納得として。
この遡及性は、「仲直り」の固有の一時性(はかなさtemporality)をも説明する。謝罪過程のパラドックスを想起してみよう。もし私が、思いやりのない意見を言って、誰かを傷つけたなら、私にとってなすべき正しい事は、誠実な謝罪をすることだ。そして彼女にとってなすべき正しい事は、次のようなたぐいのことを言うことだ。「ありがとう、とっても。でもそんなつもりで言ったんじゃないのよ、私はわかってたわ、あなたが、そんなこと言うつもりじゃないのを。だから謝ることなんて全然ないのよ」。
もちろんポイントは、この最後の結果にもかかわらず、人は謝罪の申し出の全過程を横断しなけれならないことだ。すなわち、「あなたは謝まる必要は全くない」と言いうるのは、私が謝罪を申し出た後でしかない。だから、形式的には「何も起こらない」、そして謝罪の申し出は不必要なことと明示されているにもかかわらず、過程の最後に何かが手に入ったのである(たぶん、実際に友情が救われたのだ)。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,私訳)
ーーいずれにせよ、(父の名に)騙されない者は間違える(参照:「神の二度めの死」=「マルクスの死」).。
……正当ラカン派の立場からは、「騙されない者は間違える」の意味するところは全く反対である。真の錯誤illusionとは、見せかけを現実として取ることではなく、現実界自体を実体化することにある。現実界を実体的なそれ自体と取り、象徴界を単に見せかけの織物に降格してしまうことが真の錯誤である。言い換えれば、 間違える者たちは、象徴的織物を単に見せかけとしてさっさと片付け、その効力に盲目な、まさにシニカルな連中である。効力、すなわち、象徴界が現実界に影響を及ぼす仕方、我々が象徴界を通して現実界に介入できるあり方に盲目な輩が、間違える者たちである。(ジジェク、2012)
この論理でいくと、神を実体としてはならないが、その効力には敬意を払わなければならない、ということになる。
“Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu”(Lacan, Seminar XXIII)
《現実界は全きゼロの側に探し求められるべきだ。》
ゼロ度とは、厳密に言えば、何もないことではない。ないことが意味をもっていることである。(『零度のエクリチュール』1964)
ーーもちろん、神も全きゼロの側に探さなければならない。
※ゼロ記号の議論については、柄谷行人の『トランスクリティーク』の叙述を参考にせよ。上に掲げた「事後的=超越論的」についても理解が深まりうる(人によれば、つまりわたくしのような数学的頭をもっていない人物でなければ)→ 「メタランゲージはない」と「他者の他者はない」。
※ゼロ記号の議論については、柄谷行人の『トランスクリティーク』の叙述を参考にせよ。上に掲げた「事後的=超越論的」についても理解が深まりうる(人によれば、つまりわたくしのような数学的頭をもっていない人物でなければ)→ 「メタランゲージはない」と「他者の他者はない」。
…………
La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». (Séminaire ⅩⅩⅢ Staferla 版 p.173)
我々は、ラカンの一連の“il n'y a pas…” (de l'Autre)と一連の “n'existe pas”を混同してはならない。 “n'existe pas”とは、打ち消された対象の十全な象徴的存在の否定である。他方、“il n'y a pas”とはもっと根源的である。それが否定するのは、まさに前存在論的な実体である。(ジジェク、2012,摘要)
要するに、la Femme n'existe pas, mais il y a des femmes である。
〈女〉は存在しないが、女たちはいる。
実際、女たちはわれわれに取り憑く。
存在するのは女達les femmes、一人の女そしてもう一人の女そしてまたもう一人の女...です。(……)
女は存在しない。われわれはまさにこのことについて夢見るのです。女はシニフィアンの水準では見いだせないからこそ我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。(ミレール 『エル ピロポ』)
無意識には女についての男の無知そして男についての女の無知の点があります。それをまず次のように言うことができます。二つの性は互いに異邦人であり、異国に流されたものである、と。
しかし、このような対称的表現はあまり正しいものではありません。というのも、この無知は特に女性に関係するからです。他の性について何も知らないからなのです。ここから大文字の他の性Autre sexsというエクリチュールが出て来ますが、それはこの性が絶対的に他であるということを表わすのです。実際、男性のシニフィアンはあります。そしてそれしかないのです。(……)
科学があるのは女性というものla femmeが存在しないからです。知はそれ自体他の性についての知の場にやってくるのです。(ミレール「もう一人のラカン」)
ここでミレールが言っているのは、女たちにとっても〈女〉は他者である、ということだ。
Other sex as such, for both sexes, is the female sex. It is the Other sex both for men and women.(Jacques-Alain Miller,The Axiom of the Fantasm)
そして科学があるのも、--よく知られているように?--〈女〉のせいである。
やや穏やかにいえば、次の如し。
男は取り残される。快楽のあとに、姙娠の予感もなく、育児の希望もなく、取り残される。この孤独が生産的な文化の母胎であった。 (三島由紀夫「女ぎらいの弁」)
くり返せば、〈女〉は存在しないが、女たちはいる。
とすれば、〈神〉は存在しないが、神たちはいる。
聖アウグスティヌスによれば、神とは包み込みながら満たすものだというが、音楽はそのような神の属性をそなえている。音楽はまわりを取り巻き、包囲し、しかも内部にとどまっている。それは部分の部分であり、耳に向かってたちのぼってくる苦痛あるいは快楽の切っ先である。(シュネデールーー杣径のなかの信仰を持たない者の祈り)
ーーはて、遡及的な効果はあっただろうか・・・