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2015年7月24日金曜日

ラカンのExtimité とハイデガーのExsistenz

以下メモ。

まず、ブルース・フィンク訳のラカン『アンコール』英訳における注から。

The expression Lacan uses here, ex-sister au die, is not easily rendered in English; Lacan is borrowing a term, ex-sistence, which was first introduced into French in translations of Heidegger's work (e.g., Being and Time), as a translation for the Greek έκσταση and the German Ekstase. The root meaning of the term in Greek is "standing outside of" or "standing apart from" something. In Greek, it was generally used for the removal or displacement of something, but it also came to be applied to states of mind that we would now call "ecstatic." (Thus, a derivative meaning of the word is "ecstasy.") Heidegger often played on the root meaning of the word, "standing outside" or "stepping outside oneself," but also on its close connection in Greek with the root of the word for "existence." Lacan uses it to talk about an existence that stands apart, which insists as it were from the outside, something not included on the inside. Rather than being intimate, it is "extimate."(On Feminine Sexuality The Limits of Love and Knowledge BOOK XX Encore 1972-1973 TRANSLATED WITH NOTES BY Bruce Fink)

ここにハイデガーの語彙のひとつ Ekstase の仏訳語である ex-sistence とラカンの新造語 extimate(Extimité) という言葉が出てくる。どちらもひどく訳しにくい言葉であり、前者は、「外-存在」とか「外立」、後者は「外密」と訳されているのを見たことはある。

・ハイデガーの〈実存〉は「実存主義」とは何の関係もない。むしろ「実存」は「外-立(Ex-sistenz」と訳すべき。人間が外部(=世界)へと超越する可能性をハイデガーは「実存(Existenz)」としての現存在(Dasein)と規定した

・九鬼周造は、ハイデガーのExistenzをたしか「外立」と正しく訳していたといま思い出したが(もちろん、私の師匠の高橋允昭も「外立」を提案していたが)、どの本だったかまでは思い出せない。(芦田宏直ツイート)
要するに、私たちのもっとも近くにあるものが、私たちのまったくの外部にあるのです。ここで問題となっていることを示すために「外密extime」という語を使うべきでしょう。(ラカンS16ーーツイッターラカンbot)

まず断わっておかねばならないこととして、ブルース・フィンクがあのように記しているからといって、ex-sistenceとextimateが同じ意味であるというつもりは毛頭ないし、ラカン自身のex-sistence という言葉の意味が、ハイデガーのEx-sistenzと同じ意味であるとさえ言えないだろうということだ。ラカンはただハイデガーから借用して新しい意味をつけ加えたのかもしれない。

Lacan は,「実在とは不可能在である」からさらに一歩進んで,Séminaire XXII R.S.I. の1975年2月18日の講義において,実在と徴象と影象の三つの位を改めて定義し直す.そこにおいて,実在 [ le réel ] は解脱実存 [ ex-sistence ], 徴象 [ le symbolique ] は穴 [ trou ], 影象[ l'imaginaire ] は定存 [ consistance ] と規定される.(小笠原晋也『ハイデガーとラカン』)

実在 [ le réel ] は解脱実存 [ ex-sistence ],ーーすなわち通常の訳語にすれば、「現実界は外立である」、ともできるだろうが、言いたいのは、果たしてこれがハイデガーの使用する意味であるとは限らないということだ。

…………

ここでまずExtimitéをめぐる何人かの解釈者の文章を掲げてみよう。

Extimité is not the contrary of intimité. Extimité says that the intime is Other—like a foreign body , a parasite.(Jacques-Alain Miller,Extimity )
おそらく対象aを思い描くに最もよいものは、ラカンの造語"extimate."である。それは主体自身の、実に最も親密なintimate部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外exに現れ、捉えがたいものだ。(Richard Boothbyーー譲渡できる対象objet cessibleとしての対象a
対象aの究極の外-親密ex-timate的特徴……私のなかにあって「エイリアン」…であるもの、まったく文字通り「私のなかにあって私自身以上のもの」、私自身のまさに中心にある「異物 foreign body」…(ジジェクーー「糸巻き」としての対象a
Fremdkörper, a foreign body present in the inside but foreign to this inside. The Real ex-sists within the articulated Symbolic.(Paul Verhaeghe "Mind your Body ")

ここに出てくるFremdkörperは、初期フロイトがトラウマに関連付けて使用した語彙である。

たとえば『ヒステリー研究』の予備報告 (1893年) にはこうある。

心的外傷,ないしその想起は,Fremdkörper異物〈其れは,体内への侵入から長時間たった後も,現在的に作用する因子として効果を持つ〉のように作用する。

………

さてハイデガーにはとんと縁のない身であるので、Ex-sistenzはまったく不案内なのだが、ここでは、なんと1956年に書かれたリルケ研究者の塚越敏氏の論から抜き出そう。とても昔の論文なので、その訳語、解釈は現在とは異なるであろうが、文学研究者の訳文にはわたくしには馴染みやすいということがある(そのうち別の解釈を見出したら、付加することにしよう。今はとりあえず塚越敏氏の文のみを掲げる)。

「リルケ文学解明に於けるハイデッガーの誤謬(塚越敏 1956)」からである。

・「森の道」 Holzwege(1950) :森林の空地 Lichtungに至る森のなかの道、それは人跡未踏の道、迷いの道であり、 Lichtung とは存在の Lichtungであるーー Lichtung des Seins.この論文集のなかの「何のための詩人か」W ozu Dichter? は一九四六年一二月、リルケ二十回忌にあたって行なわれた追悼講演である。
Ex-sistenz のEx はaus,heraus,hinaus を、即ち「外に出る」ことを意味している。ハイデガー自身の説明によればーー「存在の真理のなかに出で立つこと」 Hinausstehen in die Wahrheit des Seins と言い、Das stehen in der Lichtung des Seins nenne ich die Wahrheit des Seinsと言っている。(この語の訳語は「開存」「出存」「脱存」「脱我的実存」などさまざまであるが、以下では「開存」という邦訳語を使用する)この開存によって世界(世界とは存在の開示性 Offenheit,Offenbarkeit を意味している)は開かれる。ハイデガーは人間の本質をこの開存にありとする。即ち Lichtung des Seins, Offenbarkeit des Seins のなかに出で立つこと、逆に云えば、存在者を照らすLichtung des Seins, Offenbarkeit des Seins のなかに出会うことである。
Lichtung とは、森のなかの開けた場所、森林の空地を意味する。また光を点ずるという意味もあるから、「存在の開け」「存在の明るみ」「存在の光」とも邦訳できるであろう。

森林の空地 Lichtungとは、想像力に翼を与える「美しい」表現には違いない。若い頃知ったなら、一発で(一読で)惚れこんでしまった気がする。




ハイデガーの「森の道」は、今では「杣径」や「杣道」とも訳されることがあるようだ。

須永紀子さんが、思潮社から新しい詩集を出された。詩集のタイトルは「森の明るみ」で、ハイデガーが「杣道」で使った比喩、「暗い森のなかに明るみ(間伐地)が開かれ、その光のなかで、そこに現れるすべてのものがその形を見せることになるが、それと同時にそれをとりまく森の暗さもまたそれとして見えてくる。」からヒントを得たと、「あとがき」に書かれている。(須永紀子詩集「森の明るみ」思潮社




どのような入り方をしても
いきなり深い
そのように森はあった
抜け道はふさがれ
穴は隠されて
踏み迷う

空を裂く
鳥の声は小さな悲鳴
両手を泳がせ
枝をかきわけて
つくる小径
星と虫
死骸の層に靴は沈み
凶兆の泥が付着する
実と見れば齧り
青くしびれる舌
…………(「森」  須永紀子


ーーいけねえ、こんなもの読まされたら、たちまちハイデガーファンになってしまいそうだ・・・


「リルケ文学解明に於けるハイデッガーの誤謬(塚越敏 1956)」から上にいくらか抜き出した文は、塚越敏氏の論文の冒頭近くにあった注からであるが、以下は本文である。

…………

「存在の歴史」 Die Geschichte des Seins とはなにか? この存在の歴史は古代から現代にまで続いている。存在論の歴史ではない。普通の歴史のように出来事として生ずるのではなく、「存在の歴史」は存在によってわれわれに与えられるものである。古代から続いていながら、それは見失われている。何故なら存在そのものが見失われているからである。われわれが存在のLichtung のなかに開存することによって、世界は開かれる、即ち、存在が自らを与え、自らを露わにするーーこれは存在の非隠蔽性 Unverborgenheit des Seins であるがーーそこに存在の歴史が生起するのである。しかしハイデガーは「存在の歴史は始まる、しかも必然的に存在の忘却とともに始まる」(Holzwege s.243)と言っている、このことは近世の主体性の形而上学に対する否定なのである。

※存在の忘却 Seinsvergessenheit とは存在と存在者を区別しないこと、即ち、存在論的差別 ontonogische Differenz の無視のことであるーー……この存在論的差別もギリシャでははっきり区別されていたが、従来の形而上学は存在者のみに眼をむけ、外見上存在に眼をむけているように見えるだけだと、ハイデガーは云っている。これは近世的人間が存在の主人と思いこみ、人間が存在を支配しているものと考え、存在が思惟の対象となってしまったことにある。後にハイデガーは近世的人間の特色として意志作用を対象化とを挙げて、これは烈しく攻撃する。

存在の忘却はなにも人間の側ばかりにあるのではない、存在を忘却せしめる言わば性格が存在の側にある。「存在は自己を与えると同時に自己を拒否する。」即ち、存在には非隠蔽性があると同時に隠蔽性 Vervorgenheit がある。この隠蔽性のゆえに存在は忘却されてしまう。われわれはこの存在の性格を知るまえにLichtung des Seins について、ハイデガーの説明を聞く必要がある。――

存在者を越えて、しかし離れてではなく、それに先立って、もう一つ別のことが起る。存在者全体の真只中に一つの開けた場所 eine offene Stelle が現成する。一つのLichtung がある。存在者の側から考えれば、それは存在者より以上に存在する。この開けた中心 die offene Mitte は、従って存在者によって囲まれているのではなく、この光を与える中心 die Iichtende Mitte そのものが一切の存在者を包む umkreisen のである。存在者は、このLichtung のなかに入って照らされるときにのみ、存在者として存在しうる。このLichtung のみが我々人間に我々以外の存在者への通路と、我々自身である存在者への接近を贈り、保証する。……存在者がそのなかに立つLichtung はそれ自身において同時に隠蔽である。隠蔽は存在者の只中において二種の仕方で行なわれる(Holzwege)

さて隠蔽は二種の仕方で行なわれる、ということについてーーもし人間が存在の光のなかに開存した場合、そこに開存している存在者に出会い、そのものを「もっとも近いもの」(das Nächste)と考え、(実は存在がもっとも近いものであるが)、存在を忘却してしまう。換言すれば「存在者」が自らに与えられた「存在の明り」(das Lichtung des Seins)を自己自身と思い迷い、存在そのものは忘却されてしまう。これは即ち「存在は存在者のうちに現われることによって遠ざかってしまう」(Holzwege)ということで、拒絶 Versagen としての隠蔽性である。他の隠蔽性とは、存在者が他の存在者のまえに自己を押しやって、他を暗くしてしまうのであって、互いに現われはするのだが、本来的な自己を互に現さないで、佯った自己を現わす(Holzwege)。これが偽装 Veretellen の隠蔽性である。これによってまた存在は忘却される。以上のことからして、存在の本質は存在の光とこの隠蔽性との根源闘争 Urstreit であって、この闘争のうちに存在者が開けた中心 die offene Mitte を奪いとるとき、存在の真理は存在者を存在の非隠蔽性に到達せしめるのである。