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2015年7月25日土曜日

ラカンの注釈者たちの(ほぼ満場一致での)見落とし:「性関係はない」

如何にコミュニティが機能するかを想起しよう。コミュニティの整合性を支える主人のシニフィアンは、意味されるものsignifiedがそのメンバー自身にとって謎の意味するものsignifierである。誰も実際にはその意味を知らない。が、各メンバーは、なんとなく他のメンバーが知っていると想定している、すなわち「本当のこと」を知っていると推定している。そして彼らは常にその主人のシニフィアンを使う。この論理は、政治-イデオロギー的な絆において働くだけではなく(たとえば、コーサ・ノストラ Cosa Nostra(われらのもの)にとっての異なった用語:私たちの国、私たち革命等々)、ラカン派のコミュニティでさえも起る。集団は、ラカンのジャーゴン用語の共有使用ーー誰も実際のところは分かっていない用語ーーを通して(たとえば「象徴的去勢」あるいは「斜線を引かれた主体」など)、集団として認知される。誰もがそれらの用語を引き合いに出すのだが、彼らを結束させているものは、究極的には共有された無知である。(ジジェク『THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』私訳)


ラカニアンサークル内部において「象徴的去勢」やら「斜線を引かれた主体」という用語さえが分かっていないのであるなら、たとえばより厄介な「性関係はない」という表現などの解釈はとんでもない言説が跳梁跋扈しても止む得ない。それを責めてもいたしかたない、「世界とはその程度のものです」(蓮實重彦)。それぞれの分野での「真の」専門家というのは実は世界に十人ぐらいしかいない。

とすればそれに溢れたそれぞれが似非専門家やにわか専門家として自らの「思いこみ」を流通させるのは致し方ないのだ。

…………

手短かに言えば、ラカンは信じていたのだ、象徴的法(セクシャリティにおける)は人間という種族の生存に欠かせないと。すなわち象徴的性別化の終焉は、人間を単に動物の性交へと閉じ込めることはない。そうではなく、種の絶滅へと導く。

注釈者たちは、ラカンに依拠して、ふつうは強調するのは、象徴界が「性関係はない」という事実の責任を負っているということだ。たとえばEvansは簡潔に、「男と女のポジションのあいだには、相互関係、あるいは対称性はない。というのは象徴的秩序は基本的に非対称的だから」と言う。すなわち、ファルスが、両性のあいだの関係を支配する唯一のシニフィアンなのだから、と(.(Dylan Evans,An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis)

反対に、注釈者のほとんどが(満場一致で)見落としているのは、次の事実だ。象徴界は、(生殖的な)人間の性関係が起こる可能性の構造的条件を構成するという事実である。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)

ここに「手短かに言えば」とあるが、Lorenzo Chiesaは、この後数十ページにわたりながながと説明している。だいたいこのように「注釈者たち」のマヌケぶりをめぐる箇所の断片だけを切り取って引用すること自体、誤解を招くもとかもしれない。だが「世界とはその程度のものさ!」。

ただし、Lorenzo Chiesaの《注釈者のほとんどが(満場一致で)見落としているのは、次の事実だ。象徴界は、(生殖的な)人間の性関係が起こる可能性の構造的条件を構成するという事実である》というのはいささか言い過ぎなのかもしれない。

だが通常はこのように語られる。

ラカンは精神分析における不可能を「性的関係は存在しない」という命題で表しました。動物においては雄と雌の性的な行動様式は本能に書き込まれており、動物は本能的に性的関係を持つことができるます。ところが人間の男と女は類としての性的行動様式を与えられておらず、人間の性的活動は多様であり、様々な倒錯的傾向が認められます。男と女は性的行動様式を他者から学ばなければならないのです。そして性的行為の多くは生殖とは関係ない領域で繰り広げられています。ですから人間の言語世界には性的関係が書き込まれておらず、それが象徴界の穴として不可能を構成するのです。(向井雅明 精神分析とトラウマ)

わたくしは向井雅明氏をそれなりに信頼しているのだが、上に掲げたLorenzo Chiesaのいう文脈に限っていえば、次の小笠原晋也氏の発言のほうがマシかもしれない(重ねて強調しておけば、これはわたくしの向井雅明氏の文の切り取り方が悪いせいかもしれないと言っておこう)。

「性関係は無い」はずいぶんびっくりさせる命題かもしれませんが,さほど突飛なものではありません.Freud のリビード発達論の文脈で考えれば.つまり,Freud が想定したような性的成熟としての性器段階は無い,と Lacan は言っているのです.Primat des Phallus 「ファロスの優位」と Freud が呼んだ「正常」な成人の性の発達段階はただの社会規範からの要請,想定にすぎません.(小笠原晋也、ツイート)

ここにはChiesaのいう《象徴的法》あるいは《象徴界は、(生殖的な)人間の性関係が起こる可能性の構造的条件を構成するという事実》が、《「正常」な成人の性の発達段階はただの社会規範からの要請,想定にすぎません》という文に現われている。ただし小笠原氏のほかの殆んどのツイートは、「性関係がない」を根源的なものとしてあまりにも強調しすぎるきらいがある。

ツイッターなどで発話するには、次の程度でいいのだ。あの場は「手短に」しか語れない場なのだから。詳しくは論文で書くべきであろう。

……「性関係はない」。人間の性は、取り返しのつかない失敗の刻印を押され、性差とは二つの性的立場の対立であり、両者の間に共通分母はない。(ジジェク『ラカンはこう読め』)

というわけだが、わたくしは何も比較的若い「哲学的」あるいは「政治的」ラカン派のLorenzo Chiesaを全面的に信頼しているわけではない。ただ彼の上に掲げた著書には、「注釈者たちは云々Commentators usually… 」という表現が頻出する。そこを眺めてニヤニヤすることができる貴重な書ではある。