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2017年2月1日水曜日

だれもが自閉症的資質をもっている

まず今では悪評高い「冷蔵庫マザー refrigerator mother」ーー「母親非難 mother-blaming」モデルの主要な起源のひとつーーの考え方の創始者の文を掲げる。

ほとんどの患者は、親の冷酷さ・執拗さ・物質的欲求のみへの機械仕掛式配慮に最初から晒されていた。彼らは、偽りのない思いやりと悦びをもってではなく、断片的パフォーマンスの視線をもって扱われる観察と実験の対象だった。彼らは、解凍しないように手際よく「冷蔵庫」のなかに置き残されていた。(レオ・カナー、In a public talk quoted in Time magazine in 1948)

カナーはもちろん(ほぼ現在に使われる意味での)「自閉症」概念(1943年)の創始者の一人である(アスペルガーがやや先行して1938年にこの語を使用している)。

そこでの自閉症とは「他人とコミュニケーションができない症状」という意味。

さらに言えば、autismの語源はドイツ語のAutismusであり、ギリシャ語のautos-(αὐτός 自己)と-ismos(状態)を組み合わせた造語で、フロイトと一緒に仕事をしたスイスの精神科医オイゲン・ブロイラーが「統合失調症患者が他人とコミュニケーションができない症状」を記述するために、1910年に用いたそうだ(参照)。アスペルガーによる「自閉症」概念の使用もブロイラーの記述をもとにしているという。いずれにせよ、autismとは、本来は「自己状態」ということであり、「閉じる」の意味は元からない。

ーーというおそらく「常識的」なことを今頃知った。autismが自己状態であるならば、いままで異和のあった表現もなんの問題もなくなる。たとえば「自閉症スペクトラム」とは、自己状態スペクトラムである。これであったら何の異和もない。自己状態から他者状態ーーたとえば言語という他者状態ーーに移行するのは、言語という道具がなければ生きていけない人間として已む得ないにしろ、その他者に囚われていることに気づかないままのほうがむしろ「病気」かもしれない。

ラカンは言語という他者に囚われることを疎外といったり象徴的去勢といったりする。

去勢とは、本質的に象徴的機能であり、徴示的分節化以外のどの場からも生じない。la castration étant fonction essentiellement symbolique, à savoir ne se concevant de nulle part d'autre que de l'articulation signifiante(Lacan,S17, 18 Mars 1970)
…主体の最も深刻な疎外は、主体が己自身について話し始めたときに、起こる。 (ラカン、ローマ講演 ,Ecrits, 281、1953)

数多くのヴァリエーションがあるが、そのなかからいくらかを掲げておこう。

先ず、語 symbole は物の殺害 meurtre de la chose として顕れる。そしてこの死は、主体の欲望の終わりなき永続化 l'éterrusation de son désir をもたらす。(ラカン、ローマ講演、1953年)
フロイトの観点からは、人間は言語によって囚われ拷問を被る主体である。Dans la perspective freudienne, l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage(ラカン、S.3、04 Juillet 1956)
幼児は話し始める瞬間から、その前ではなくそのまさに瞬間から、抑圧のようなものがある il y ait du refoulement、と私は理解している。(Lacan,S.20, 13 Février 1973)

さて話を元に戻せば、「冷蔵庫マザー」概念を言い出したのは、べッテルハイムではあるが、上のカナーの文を読めばわかるように、実際の起源はカナーである。

ベッテルハイムは、ホロコーストの生存者だった(1939年のヒトラーの誕生日、強制収容所から逃げ出し米国に移住した)。彼曰く、自閉症の子供たちはホロコーストに置かれるのと同様な「極限状況」に苦しむ。そしてそれは母の情緒遮断・愛情欠如によって引き起こされると(参照:PDF)。

※ここでの文脈と異なるので敢えて引用しないが、「ホロコースト生存者の子供たちのPTSD」について、意想外の研究結果を以前メモしたことがある(参照)。


ところで《現在では、世界中の殆どすべての精神科医、臨床心理士は、自閉症の原因は遺伝子的傷害または何らかの脳の損傷》としているらしい。これは現在のポリティカル・コレクトネス規範などの観点からは、母親非難、ましてや「冷蔵庫マザー」などとは(ヨイコは)口が裂けても言ってはいけない、言えないという文脈のなかで捉えられる。

ラカン派臨床家の向井雅明氏は『自閉症について』 2016年にて、この経緯を次のように説明している。

自閉症が問題になり始めた頃、米国では精神分析の考えをもとにした力動精神医学が力をもっており、べッテルハイムなどの影響で、自閉症は両親との関係による後天的な要因によって引き起こされると考えられていました。それが現在では、世界中の殆どすべての精神科医、臨床心理士は、自閉症の原因は遺伝子的傷害または何らかの脳の損傷だと考えています。生物学的な原因を主張する理論は様々なものがありますが、実は多様な形態をとる自閉症を十分に説明できるような理論はまだ見いだされていません。それでも遺伝子による説明などの科学的な理論が受け入れられるのは、現代の精神医学理論の趨勢をなしている生理、生物学的選択という方向性に則ったものだからです。

生物学的な原因論が採用されるもう一つの理由は、子どもが自閉症となることによって両親がその責を問われることを避けるという思惑からです。親の間違った育て方によって子どもが自閉症になったと言われれば、両親は子どもにたいして過大な罪責観を負うことになるでしょう。しかしそこに生物学的な理由が置かれればもはや誰にも責任はなくなり、親の養育法にたいする非難もなくなります。

ただしこうもある。

現代のこうした自閉症についての客体的、科学的な原因論にたいして、精神分析は主体的な要因を導入します。先天的、生物学的な原因を否定するわけではありませんが、たとえ 生物学的な要因があったとしても、そこに何らかの主体的な要素も関与しているということです。つまり、自閉症には主体的な選択という科学的には考えられない要因も考察されなければならないと考えるのです。(向井雅明『自閉症について』 2016)

これも当然そうあるべきだろう。そして主体的選択とは原初の母子関係における主体的選択にかかわる。いずれにせよ、たんに「遺伝」が原因と言ってしまっては何も始まらない。いや次のようなことは始まるかもしれない。

前回引用したが、仏ラカン(ミレール)派のAgnes Aflaloはの文を再掲しよう。

自閉症の領野の拡大は、市場のひどく好都合な拡大をもたらす。まだ他にもある。現在の 「遺伝的自閉症」の主張と助長において、DSM は新しい市場を創造する。私は確実視している、数千ユーロの費用がかかる一回の遺伝テストが同じ薬品企業からすぐに提供されるだろうことを。(Report on autism,2012

もうすこし一般的には、次のような言い方もされる(この文はそのうちもう少し長く引用することにするが、今回ではない)。

(自閉症・メンタルディスオーダーの類の)精神医学のカテゴリーは最近劇的に増え、製薬産業は莫大な利益を得ている。(ポール・バーハウ2009,Paul Verhaeghe, Identity and Angst: on Civilisation's New Discontent,PDF)

…………

ところで現在ラカン派ではファルスの彼方にはーーフロイトの「快原理の彼方」にはーー自閉症的享楽 jouissance autiste がある、とされる。

まずはラカンのファルスの彼方をめぐる文を引用する。

現実界、それは「話す身体」の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(Lacan,S20, 15 mai 1973 )
ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…

ファルスの彼方 Au-delà du phallus……ファルスの彼方の享楽である!(Lacan20、20 Février 1973)

たとえば Jean-Luc Monnier 2015によれば、話す身体は、身体の享楽、自閉症的享楽とされている。

言存在の身体 Le corps du parlêtre は、主体の死んだ身体ではない。生きている身体、《自ら享楽する身体 se jouit 》である。この観点からは、身体の享楽 jouissance du corps は、自閉症的享楽 jouissance autiste である。(L’HISTOIRE, C’EST LE CORPS

Jean-Luc Monnier 2015の文は、Florencia Farìas、2010の文とともに読むことができる(参照:歌う身体の神秘)。

言説に囚われた身体 corps pris dans le discours は、話される身体 corps parlé・享楽される身体 corps joui である。反対に、話す身体 corps parlant は、享楽する身体 corps qui jouit である。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、,PDF

「言説に囚われた身体」とは、ほぼ「ファルスに囚われた身体」と等しい。わたくしはこれらから、だれにでも原初には自閉症的享楽がある、あるいはファルスの鎧を取り払ったら自閉症的享楽が現われる--、そのように読む。

自閉症的享楽については、ミレール派の主要論客であるPierre-Gilles Guéguen2016も同様の考え方である。

肉の身体 le corps de chair は生の最初期に、ララング Lalangue によって穴が開けられている troué 。我々は、セクシャリティが問題になる時はいつでも、この穴ウマ troumatism の反響を見出す。

サントームの身体 Le corps du sinthome、肉の身体…それは常に自閉症的享楽 jouissance autiste・非共有的享楽を示す。(Pierre-Gilles Guéguen, 2016)

ほかにも次のような記述がある。

身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)

これらは最晩年のラカンの次の言葉がヒントのひとつになっているようだ。

精神分析…すまないがね、許してくれたまえ、少なくとも分析家の諸君よ!… 精神分析とは「二者の自閉症」 « autisme à deux »のことじゃないだろうか?(ラカン、S.24、1977)

《Bref, il faut quand même soulever la question de savoir si la psychanalyse… je vous demande pardon, je demande pardon au moins aux psychanalystes …ça n'est pas ce qu'on peut appeler un « autisme à deux » ?

ミレールはこの文に次のようなコメントをしている。

もし、「〈二者〉の自閉症」でないならーーそう確信させてもらいたいがーー、言語 (la langue) があるおかげだ。ラカンが言うように、言語は共有の事柄のためだ。(ミレール、「後期ラカンの教え」Le dernier enseignement de Lacan,2002)

ただしPierre-Gilles Guéguen 2016は、別に「器官なき身体 les corps sans organes」、「分裂病的享楽 une jouissance schizophrène」ということも言っている(参照:話す身体と分裂病的享楽)。


自閉症と分裂病はどちらが先行するものだろうか。

たまたま次のような記述を拾った(WIKI:冷蔵庫マザーの項)。

自閉症は統合失調症的気質の基本的な性質である。それは合併して明らかな統合失調症にもなりうる。自閉症児は、もしその子が適切な治療を受け、家族からもフォローが得られるのであれば(しばしば家族はこの症候群の原因でもある。特に家族が子供に度の過ぎたことをしたり、過剰に完璧主義的な育て方をした場合にはそうである)多かれ少なかれ完全に治療可能である。だが、たとえその問題が解消されようとも、その子供はそれでもなお普通に落ち着いた人間関係を構築することが困難である。(Rizzoli-Larousse Encyclopedia 2001年版)

ここで現在DSM5では、自閉症スペクトラムと分裂病スペクトラム(統合失調症スペクトラム)という区分がなされていることを示しておくが、実際はこの二つは容易には区別できないという議論が多いようだ。





…………

以下、中井久夫の叙述から「自閉症」にかかわる文をいくらか抜粋する。

言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けられ、その結果、自閉症でない人間は自閉症の人からみて一万倍も鈍感になっているという。ということは、このようにして単純化され薄まった世界において優位に立てるということだ。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年
言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 ーー「ある臨界線以上の強度のトラウマ」)

次の文は、冒頭近くに記述した自閉症概念の創始者ブロイラーの名が出て来る。わたくしはようやくここで中井久夫がブロイラーの名を出している意味合いが分かった気がする。

オイゲン・ブロイラーが生きていたら、「統合失調症」に賛成するだろう。彼の弟子がまとめたブロイラーの基本障害である四つのAすなわちAmbivalenz(両価性)は対立する概念の、一段階高いレベルにおける統合の失調であり、Assoziationslockerung(連合弛緩)は概念から概念への(主として論理的な)「わたり」を行うのに必要な統合の失調を、Affektstorung(感情障害)は要するに感情の統合の失調を、そして自閉(Autismus)は精神心理的地平を縮小することによって統合をとりもどそうと試みて少なくとも当面は不成功に終わっていることをそれぞれ含意しているからである。

ブロイラーがこのように命名しなかったのは、よいギリシャ語を思いつかなかったという単純な理由もあるのかもしれない。「統合失調症」を試みにギリシャ語にもとずく術語に直せば、syntagmataxisiaかasyntagmatismusとなるであろう。dyssyntagmatismusのほうがよいかもしれない。「統合失調症」は「スキゾフレニア」の新訳であるということになっているが無理がある。back translation(逆翻訳)を行えばこうだと言い添えるほうが(一時は変なギリシャ語だとジョークの種になるかもしれないが)結局は日本術語の先進性を示すことになると思うが、どうであろうか。(中井久夫『関与と観察』、2002)
私たちは、外傷性感覚の幼児感覚との類似性を主にみてきて、共通感覚性coenaesthesiaと原始感覚性protopathyとを挙げた。

もう一つ、挙げるべき問題が残っている。それは、私が「絶対性」absoluteness、と呼ぶものである。(……)

私の臨床経験によれば、絶対音感は、精神医学、臨床医学において非常に重要な役割を演じている。最初にこれに気づいたのは、一九九〇年前後、ある十歳の少女においてであった。絶対音感を持っている彼女には、町で聞こえてくるほとんどすべての音が「狂っていて」、それが耐えがたい不快となるのであった。もとより、そうなる要因はあって、聴覚に敏感になるのは不安の時であり、多くの場合は不安が加わってはじめて絶対音感が臨床的意味を持つようになるが、思春期変化に起こることが目立つ。(……)

私は自閉症患者がある特定の周波数の音響に非常な不快感を催すことを思い合わせる。

絶対性とは非文脈性である。絶対音感は定義上非文脈性である。これに対して相対音感は文脈依存性である。音階が音同士の相対的関係で決まるからである。

私の仮説は、非文脈的な幼児記憶もまた、絶対音感記憶のような絶対性を持っているのではないかということである。幼児の視覚的記憶映像も非文脈的(絶対的)であるということである。

ここで、絶対音感がおおよそ三歳以前に獲得されるものであり、絶対音感をそれ以後に持つことがほとんど不可能である事実を思い合わせたい。それは二歳半から三歳半までの成人型文法性成立以前の「先史時代」に属するものである。(……)音楽家たちの絶対音感はさまざまなタイプの「共通感覚性」と「原始感覚性」を持っている。たとえば指揮者ミュンシュでは虹のような色彩のめくるめく動きと絶対音感とが融合している。

視覚において幼児型の記憶が残存する場合は「エイデティカー」(Eidetiker 直観像素質者)といわれる。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 P59-60)

この最後の文は、Pierre-Gilles Guéguen 2016、PDF による、「器官なき身体 les corps sans organes」、「語の物質性 la matérialité des mots」、「分裂病的享楽 une jouissance schizophrène」 の関連づけにかかわるだろう。

中井久夫もかねてより、「語の物質的側面」、分裂的症状の発生期の「言語の例外状態」を語っている(参照:「エディプス的なしかめ面 grimace œdipienne」 と「現実界のしかめ面 grimace du réel」)。

…この変化が、語を単なる意味の運搬体でなくする要因であろう。語の物質的側面が尖鋭に意識される。音調が無視できない要素となる。発語における口腔あるいは喉頭の感覚あるいはその記憶あるいはその表象が喚起される。舌が口蓋に触れる感覚、呼気が歯の間から洩れる感覚など主に触覚的な感覚もあれば、舌や喉頭の発声筋の運動感覚もある。(……)

このような言語の例外状態は、語の「徴候」的あるいは「余韻」的な面を意識の前面に出し、ついに語は自らの徴候性あるいは余韻性によってほとんど覆われるに至る。実際には、意味の連想的喚起も、表象の連想的喚起も、感覚の連想的喚起も、空間的・同時的ではなく、現在に遅れあるいは先立つものとして現れる。それらの連想が語より遅れて出現することはもとより少なくないが、それだけとするのは余りに言語を図式化したものである。連想はしばしば言語に先行する。(中井久夫「詩の基底にあるもの」1994年初出『家族の深淵』所収ーー中井久夫とラカン

おそらく自閉症者や統合失調者は、ときにモノとしての言語の感受性がすこぶる高い状態にあるということだろう。それは言語とは限らない。肝腎なのは「物質性」である。それがミュンシュや絶対音感を事例に掲げた文に現れた「絶対性」・「非文脈性」・「共通感覚性」・「原始感覚性」という語彙群が示す内容である。

最後に中井久夫の記述、《言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けら》る、《言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができる》ーーこれをラカン派ではおおむね「ファルス化」と呼ぶーーに反応して、ニーチェの次の文を掲げておくことにする。

なおわれわれは、概念の形成について特別に考えてみることにしよう。すべて語というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、直ちにそうなるのである。つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験に対して、何か記憶というようなものとして役立つとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合も同時に当てはまるものでなければならないとされることによってなのである。

すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである。一枚の木の葉が他の一枚に全く等しいということが決してないのが確実であるように、木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性を任意に脱落させ、種々相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには「木の葉」そのものとでも言い得る何かが存在するかのような観念を呼びおこすのである。つまり、あらゆる現実の木の葉がそれによって織りなされ、描かれ、コンパスで測られ、彩られ、ちぢらされ、彩色されたでもあろうような、何か或る原形というものが存在するかのような観念を与えるのである。(ニーチェ「哲学者の本」(『哲学者に関する著作のための準備草案』1872∼1873)ーー言語自体がフェティッシュである

上に引用した諸家の文から鑑みるに、遺伝などといわずにもファルスの鎧を取り払ってしまえば、だれもが自閉症的資質をもっているということが言えるのではないか?

もしそうであるならーー向井雅明氏の記述を再掲するがーー、次の態度が臨床的には最も肝腎である。

現代のこうした自閉症についての客体的、科学的な原因論にたいして、精神分析は主体的な要因を導入します。先天的、生物学的な原因を否定するわけではありませんが、たとえ 生物学的な要因があったとしても、そこに何らかの主体的な要素も関与しているということです。つまり、自閉症には主体的な選択という科学的には考えられない要因も考察されなければならないと考えるのです。(向井雅明『自閉症について』 2016)

2017年1月19日木曜日

超訳アドラーの流通という「犯罪行為」

いかなる経験もそれ自身では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック―いわゆるトラウマ―に苦しむのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与えた意味によって自らを決定するのである。(アドラー『人生の意味の心理学』)

ーーという文を拾った。すばらしいんじゃないか。これは人生に対する基本的な態度である。

過去を変えることは不可能であるという思い込みがある。しかし、過去が現在に持つ意味は絶えず変化する。現在に作用を及ぼしていない過去はないも同然であるとするならば、過去は現在の変化に応じて変化する。過去には暗い事件しかなかったと言っていた患者が、回復過程において楽しいといえる事件を思い出すことはその一例である。すべては、文脈(前後関係)が変化すれば変化する。(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』所収)

より一般的に言えば、次の文がいい。

赤ちゃんがはじめて笑うとき、その笑いは絶対になにも表現していない。幸福だからといって笑ったりしない。むしろこういったほうがよい。赤ちゃんは笑っているからこそ、いま幸福なのであると。赤ちゃんは笑うことに快楽を感じているのだ、食べることに快楽を感じるのと同様に。(アラン『プロポ集』杉本秀太郎他訳)

日本で流通しているアドラーの「心理学」と言われるものは、人生指南としてはごく標準的な啓蒙の教えのように思える。ましてやある時期からーーとくに21世紀に入る前後ぐらいからーー、トラウマという用語は、消極的人生の言い訳に使われる例もしばしば見受けられるのだから。「社会の心理学化」(樫村愛子) の時代にはなおさらアドラーのような視点が必要である。

そもそも最初からトラウマ、あるいはPTSD(心的外傷後ストレス障害)を名乗る患者は疑わなければならないという議論は、すでにかなり前からなされている。

たとえば日本におけるトラウマ論者の代表的な一人である中井久夫をふたたび引用すれば次の通り。

PTSDは社会的差別を生まない唯一の病名であるが、だからといって患者が心的外傷と関連症状をあっさり述べるわけではない。米国において「PTSDとは正常人が異常事態に起こす正常な反応である」(これはPTSD-PTSR関連をごまかしているが)というPRが大々的に行なわれるのは外傷患者の診療回避があってのことだろう。実際、初診において向こうからPTSDを名乗ってくる患者の中には果たしてそうかという場合がある。

一般に外傷関連傷害は決して発見しやすいものではない。葛藤を伴うことの少ない天災の場合でさえ、アンケートをとり、訪問〔アウトリーチ〕しても、なお発見が困難なくらいである。人災の場合になれば、患者は、実にしばしば、誤診をむしろ積極的に受け入れ、長年その無効な治療を淡々と受けていることのほうが普通である。外傷関連患者は治療者をじっと観察して、よほど安心するまで外傷患者であることを秘匿する。

心的外傷には、土足で踏み込むことへの治療者側の躊躇も、自己の心的外傷の否認もあって、しばしば外傷関与の可能性を治療者の視野外に置く。

しかし患者側の問題は大きい。それはまず恥と罪の意識である。またそれを内面の秘密として持ちこたえようとする誇りの意識である。さらに内面の秘密に土足で入り込まれたくない防衛感覚である。たとえば、不運に対する対処法として、すでに自然に喪の作業が内面で行なわれつつあり、その過程自体は意識していなくても、それを外部から乱されたくないという感覚があって、「放っておいてほしい」「そっとしておいてほしい」という表現をとる。

天災においてさえ、恥の意識はありうる。「他の人たちは我慢しているのに」「生きのびただけでも感謝するべきなのに」「私の弱さをさらけだしたくない」など。「死んだ人(家をなくした人)に申し訳ない」という生存者罪悪感もある。たとえば周囲が皆倒壊している中で一軒だけ倒壊しなかった家の人の持つ罪の意識である。性的被害や児童虐待においては、なおさらのことである。 ……(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収)

だが問題は、「トラウマは存在しない」という「超訳」アドラーの言葉が、日本社会にあまりにも厚顔無恥に流通してしまっていることだ。

(もっともわたくしはいくらかアドラーの言葉を垣間読んだだけなので、あまりエラそうなことは言えないが、フロイト文脈からのアドラーというのはいくらか追ってみたことはある[参照])。

たとえば次のような状況にある人にどう対応するつもりなのか、トラウマ否定論の留保なしの流通は、ある意味、「犯罪行為」でさえある、とわたくしは思う。

外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。

しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。素質による程度の差はあるかもしれないが、どのような人でも、残虐ないじめや拷問、反復する性虐待を受ければ外傷的記憶が生じる。また、外傷を受けつづけた人、外傷性記憶を長く持ちつづけた人の後遺症は、心が痩せ(貧困化)ひずみ(歪曲)いじけ(萎縮)ることである。これをほどくことが治療戦略の最終目標である。 (中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収 P.109)

ラカン自身、その欲動論を全面的に展開する以前は次のように言っている(とはいえ、欲動論の展開後のラカン、そのラカンの主流ラカン派の現時点の注釈は、《誰もがトラウマ化されている tout le monde est traumatisé》(ジャック=アラン・ミレール、セミネール2013-2014ではあるが)。

私の歴史において実現されるものは、もはやそうであったものとしての定過去ではなく、私があるところの現在完了でさえもない。そうではなく私が生成変化(過程)にあるところのそうなるであろうという前未来である。

Ce qui se réalise dans mon histoire, n'est pas le passé défini de ce qui fut puisqu'il n'est plus, ni même le parfait de ce qui a été dans ce que je suis, mais le futur antérieur de ce qu'aurais été pour ce que je suis en train de devenir. (ラカン、 精神分析におけるパロールとランガージュの機能と領野 Fonction et champ de la parole et du langage「ローマ講演、1953」)

これも人生に対する基本的な態度を語っている。

この文の注釈は、ポール・バーハウの文がよい(彼はフロイト・ラカン派で最も頻繁にトラウマ分析をしている解釈者のひとりである。わたくしは五年ほどまえ中井久夫の外傷論を読むなかで、ラカンはどのように考えているのかをいくらか探って彼に巡り合った)。

ラカンの「前未来 futur antérieur」とともに、フロイトの概念「神経症選択 Neurosenwahl」に注目して読もう。

問題は患者のトラウマ的状況への立ち位置にある。人は患者を外的動因のたんなる犠牲者とするのかーーすなわち彼もしくは彼女は援助や支援を受ける権利があることを意味するーー、あるいは人は患者をただ単に犠牲者としてだけではなく彼(女)自身の影響、更に言えば限られた形での選択をもつものと見なすかである。この二つの答えのあいだの相違は、支配の言説と分析の言説の相違として理解できる。

この議論が、その多寡はあれ「ポリティカル」文脈でなされるなら、患者は犠牲者あるいは生き残り者と見なされる。逆に臨床文脈では、治療者は二番目のアプローチをとる。たとえば、Judith Herman とJames Chu はともに強調している、感情的距離の必要性を。つまり過剰に支援する役割から距離をとることを。 

Herman は患者から責任を取り除くことを、治療上の主要な誤りの一つとしている。Chu は、何がどのように患者に起こったのかを理解することは患者の責任の手中にあるとする。そして彼がまた強調するのは、選択の要素である。これらの考え方は、元来のフロイトの考え方、いわゆる「Neurosenwahl」(神経症選択)と共鳴する。これは偶然の一致ではない。というのはまさにこの要因が精神療法を可能にするのだから。

もし人が最初の答に固執するのなら、完全な決定論、したがって治療上の悲観主義に終る。さらには宿命論とさえ言える。すなわち患者は、彼(女)のトラウマ経験のために、彼がそうならざるを得なかったものになる。もし人が二番目の答を選ぶなら、そこには最低限の選択要素と主体の掛かり合いの余地がある。これがまさに主体が変りうる最低限の条件である。ラカンが「過去時制」に対して「前未来 futur antérieur」を強調する事実とは、「私は私がすでにそうあったものになる」の代わりに、「私は私の選択を通して私であるものになるだろう」ということである。現在の選択が主体の未来を決定する。(ポール・バーハウ1998、Paul Verhaeghe 、TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN、PDF

ほかにも向井雅明氏による「精神分析とトラウマ」(2014)は、フロイトとラカンのトラウマにかんする考え方、そして心理学的対応と精神分析的対応がいかに異なるのかを知るためには、とてもすぐれた小論だと私は思う。



2016年3月8日火曜日

ラカン派の「母の欲望」désir de la mèreをめぐる

主にメモ。

まず、ラカンのセミネールⅤから名高い箇所を画像のまま貼り付ける。




これは少しでもラカンに関心があるものは、誰でも掠め読んだか、解説書などによって聞き知っているか箇所だろう。


たとえば、向井雅明氏によって、次のように説明されている(向井雅明「精神分析と心理学」 『I.R.S.―ジャック・ラカン研究―』第 1号,2002)。

母親の欲望とは子どもが母親にたいして持つ欲望という客体的意味もあるが、それよりもまして母親の持っている欲望という主体的な意味が決定的である。母親はまず欲望を持っている者とされるのだ。そして人間の欲望は他者の欲望であるという定式から、子供にとって他者はまず母親であるから、子供の欲望は母親の欲望、つまり母親を満足させようという欲望となる。母親の前で子供は母親を満足させる対象の場にみずからを置き母親を満足させようとする。つまり母親のファルスとなる。

つまり母親のファルスとなる。だが、母親の欲望の法は気まぐれな法であって、子どもはあるときは母親に飲み込まれてしまう存在となり、あるときは母親から捨て去られる存在となる。母親の欲望というものは恐ろしいもので、それをうまく制御することは子どもの小さなファルスにとって不可能である。ラカンは母親の欲望とは大きく開いたワニの口のようなものであると言っている。その中で子どもは常に恐ろしい歯が並んだあごによってかみ砕かれる不安におののいていなければならない。
漫画に恐ろしいワニの口から逃れるために、つっかえ棒をするシーンがある。ラカンはそれに倣って、このワニの恐ろしい口の中で子どもが生きるには、口の中につっかえ棒をすればよいと言う。ファルスとは実はつっかえ棒のようなもので、父親はこのファルスを持つ者である。そして父親のファルスは子供の小さいファルス(φ)ではなく、大きなファルス(Φ)である。つまり正義の騎士が万能の剣をたずさえて現れるように、父親がファルスを持って子供を助けてくれるのだ。
これは何を意味するのであろう。子供が母親の前にいるとき母親の目が子供だけに向き、欲望の対象が子どもだけであれば子どもはその貪欲な口の中で押しつぶされてしまう。このときに子供の外にも母親の関心を引くものがあれば、母親の欲望が「他のもの」(Autre)にも向いていれば、子供は母親のファルスに全面的に同一化する必要ななくなり、母親に飲み込まれることを逃れることができる。その「他のもの」が子どもを救ってくれるのだ。この「他のもの」が父親である。だがこの父親は現実に存在する父親ではない。ひとつの隠喩である。

隠喩とはひとつのシニフィアンを別のシニフィアンで置き換えるものだとするなら、ここにはひとつの隠喩が認められる。母親の欲望を何らかのシニフィアンで表すと、もうひとつのシニフィアンであるこの「他のもの」は前者の代わりに来るのであるからひとつの隠喩である。そしてこの隠喩はワニの口、すなわち母親の語る言葉の中に認められるもので、子どもにとってそれは母親の欲望を満足させる秘密、ファルスを意味するものである。有名なラカンの父の名の公式がここに認められる。






今、引用した向井雅明氏とほぼ同じように、ベルギーの精神分析家ポール・ヴェルハーゲはこう書く。

構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。

この畏怖に対する一次的な防衛は、このおどろおどろしい存在に去勢をするという考えの導入である。無名の、それゆえ完全な欲望の代りに、彼女が、特定の対象に満足できるように、と。この対象の元来の所持者であるスーパーファザー(享楽の父)の考え方をもたらすのも同じ防衛的な身ぶりである。ラカンは、これをよく知られたメタファーで表現している。《母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ c’est le désir de la mère(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。》(S.17)(Paul Verhaeghe,NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL,1995 PDF

他にも、ネット上で拾える文から抜き出せば、藤田博史氏は、向井氏の記す「大きなファルス(Φ)」がうまく機能しない場合(倒錯)をも含めた説明のなかで、「母の欲望」を次ぎのように記している(『入れ墨、フェティシスム、男性同性愛』)。

……「母なしでは生き延びてゆけない」という絶対的無力を抱えたヒトの子は、結局死ぬまで「(母に)愛されたい」という願望を抱き続ける不思議な動物だ。発達のごく初期(生後六〜十八ヵ月)に、つまり言葉の世界に巻き込まれる以前に母と二人だけで過ごした蜜月の期間は、ヒトという哺乳類に或る特殊な情念の世界を賦与する。精神分析において「想像界」と呼ばれるこの言葉以前の世界では、唯一であろうとする自我にとって「母=自我の鏡像」は愛の対象であると同時に憎しみの対象でもある。これは母の殺害がそのままそれが自分の死を意味するような矛盾に満ちた関係である。  

母にしてみれば、子は自らの身体像に欠けている「あるもの」を補ってくれる対象なのであり、だからこそ母は子をあたかも自らの身体の一部であるかのように愛して止まない。想像界のなかで母の庇護を求める寄る辺なき子は、「母の欲望」を欲望することによって母を自らにつなぎ留めている。つまり子の欲望は母の欲望を求める欲望として相乗されている。しかし母の場所には決定的に「あるもの」が欠けており、これに対し、子はこの欠如の場所から母の欲望が生じていることを受け入れることができず、幻想のなかで、母の場所における欠如を補填せざるを得なくなる。つまり子は自らの幻想のなかで母にペニスを賦与する。しかしこのような幻想はまもなく挫折することになる。なぜなら子は早晩母の股間にペニスがないことを目撃してしまうからである。この「母にペニスがない」という現実を受け入れることは失望と痛みをともなうが、通常、子はこの堪え難き現実を認め、ペニスの有無に基づく基本的な判断基準を心的な構造のなかに導入する。つまりここで「去勢コンプレックス」が導入される。  

以上のような一般的な経過に反し、この現実を「否認」する子が表われる。このような子は、母におけるペニスの欠如を最終的に認めることができない。このような子は自らの幻想のなかで母のペニスの欠如している場所に「それに代わるもの」を設置して「母にペニスがない」という堪えがたき現実を否認し続けている。このとき、そこに設置された対象が「ペニスの代理人」としての「自己の鏡像」であるならば、子は母が自分を愛したように自分の愛の対象を選択して男性同性愛者となる。また、設置された対象が「ペニスの代理物」としての「モノ(=フェティッシュ)」であるならば、その子はフェティシストの道を歩むことになるだろう。  

「なにかが足らない」という視覚的現実に対して、この現実を「認めない」という心的機制が働き、不足しているものの代わりに同性の人物や代理のモノを愛の対象として選択してしまうこと、これが男性同性愛やフェティシスムという倒錯を生み出している基本的なメカニズムである。(「現実の否認 déni de la réalité」

※倒錯の機制のやや詳細については、「あの女さ、率先してヤリたがったのは(倒錯者の「認知のゆがみ」機制)」を参照のこと。

上の藤田氏の文にある、《母の庇護を求める寄る辺なき子は、「母の欲望」を欲望することによって母を自らにつなぎ留めている》に関しては、ラカンのセミネールⅤに次の文がある。

原象徴化 première symbolisation のなかで、子どもの欲望は確証され、未来の全ての象徴化が始まる、《(子どもは)母の欲望の欲望 であるil est désir du désir de la mère……

Dans cette première symbolisation, le désir de l'enfant s'affirme, amorce toutes complications ultérieures de la symbolisation en ceci qu'il est désir du désir de la mère et ……(S.5)


これらのネット上にある短い論であり、著書にはより精緻に記されていることだろうが、一般的に、ラカン派の「母の欲望」とは、このように語られることが多いだろう。


ところでツイッターセミネールをやっておられる小笠原晋也氏 @ogswrs には、次ぎのような文がある。

母の欲望」と呼ばれたものは,その本有において,他 Ⱥ の欲望であり,そしてそれは,その本有においては,存在欠如である.つまり,抹消された存在です: https://pic.twitter.com/Z2OAWDFr17(2016.1.25)
存在の在処に関する問い,それは,他の欲望 Ⱥ に関する問いでもあります.なぜなら,ex-sistence としての存在は Lacan が manque-à-être[存在欠如]と呼ぶところのものであり,それは Freud が無意識のなかに見出した欲望の正体であるからです.(2015.11.11)
Freud が死の本能と呼んだものは,我々の学素では φ barré です.Lacan の概念では,欲望です.(2014.9.4) 

冒頭の文のみに「母の欲望」が出てくるが、この三つの文はすべて同じことを言っている。つまり母の欲望は、存在欠如であり、死の本能(死の欲動)だといっていることになる。

わたくしはこの小笠原晋也氏のツイートを、ここで難詰するつもりはない(彼の「欲望」という語の取り扱いにひどく違和がある身ではあるが。彼が「欲望」と口に出すとき、そのおおくは「純粋欲望」ではないか、という疑念がある。--そして、純粋欲望の状態 l'état de pur désir をめぐって、次のように指摘する論者がいる、《主体の解任、すなわち欲望の根源的顕現は、逆説的に、欲望の終結を引き起こす》Lorenzo Chiesa 2007ーー結局、純粋欲望とは欲動のことである)。

とはいえ、彼の上のツイートは、父の名の介入によって父の隠喩作用が成立する以前の「母の欲望」に焦点を絞っており、それほど文句を言うつもりはない。

ただし、彼は、母の欲望をȺと言ってしまっている(「その本有において」が二度反復されて曖昧化されてはいるが)。だが、わたくしの今のところの理解では、隠喩化以前の「母の欲望」désir de la mèreとは、Ⱥ がシニフィアン化された(原象徴化された)のちのS(Ⱥ)であるはずだ。そこがわたくしには抵抗がある。

事実、ジャック=アラン・ミレールは、90年代だが、次のように言っている(THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez)。

超自我とは、確かに、法(象徴的なもの)である。しかし、鎮定したり社会化する法ではない。むしろ、思慮を欠いた法である。それは、穴、正当化の不在をもたらす。その意味作用を我々は知らない、「一」unary のシニフィアン、S1 としての法である。…超自我は、独特のしにから生まれる形跡・パラドックスだ。というのは、それは、身よりがなく、思慮を欠いているから。この理由で、最初の分析において、我々は超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。

ミレールは母なる超自我 surmoi mère ーー1938年の初期ラカンの記述を捉え直した概念ーーの問いを明瞭化するパラグラフで、こうつけ加えている。

思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望が、父の名によって隠喩化され支配さえされする前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。

このミレールの叙述さえ、20年前のものということもあるせいもあり、今読むといささか違和がないでもないが、ここでそれに触れるつもりはない。

(原初の)〈母の欲望〉とは、おそらく、母なる〈他者〉の享楽の侵入にかかわるのではないか(参照:S1(主人のシニフィアン)≒trait unaire(一つの特徴))。

…la fonction du trait unaire, c'est-à-dire de la forme la plus simple de marque, c'est-à-dire ce qui est, à proprement parler, l'origine du signifiant.(S.17)

すなわち、最初のシニフィアンtrait unaire(「一」の徴)の機能は、《徴のもっともシンプルな形であり、厳密に言って、シニフィアンの起源である》であり、これが享楽の侵入の原初形態である。

享楽は、侵入 irruption を通して、身体に起こる。この侵入は徴を獲得する。その徴は、大他者の介入を通して、身体の上に刻印される inscribed。(Paul Verhaeghe enjoyment and impossibility、2006ーー「三つの驚き」(ラカン、セミネールⅩⅦにおける「転回」)

これは純シニフィアンにもかかわるはずであり、純シニフィアン signifiant pur とは、もちろん Ⱥ ではなく、S(Ⱥ)の領野にある(参照:純シニフィアンの物質性)。

…………

母の欲望はシニフィアンであろうことは、たとえば、若きラカン派の松本卓也氏のツイートを拾えば、次の通り。

たとえば、あまりよくないラカン本ではΦ(象徴的ファルス)と父の名NdPを区別していなかったりするのですが、Phallus et fonction phalliqueの説明では、この2つは水準が違うことが明記されています。Φは全体としてのシニフィエの諸効果を指し示すシニフィアン…

…であって、つまるところシニフィアンとシニフィエの結びつきを調整するもの。一方、父の名のほうは、意味作用が関わってくる水準。つまり、ファルス享楽についての謎に答えるために、先行する母の欲望(=シニフィアン)を隠喩化することでファリックな意味作用を作り出すという機能が父の名にはある

父の名は意味作用に関わる。だからこそ、父の名の隠喩が不成立であった場合(排除)、通常成立するはずのファリックな意味作用が成立せず、世界が「謎めいた意味」の総体になるわけです(分裂病急性期)。(松本卓也,2012、ツイート)
Pierre Naveau: Sur le déclenchement de la psychose. Ornicar ?, 44 : 77-87, 1988  ラカンが「精神病は〈父の名〉の隠喩がない」と言った意味を,ものすごく明瞭に説明してくれている.すこし引用する.

「ラカンは,〈父の名〉の隠喩が排除されたときの効果について述べている.もし〈父の名〉が排除されていなければ,そこで隠喩によって生産される意味作用は,ファルス的意味作用である ….このことは,x=(―φ)という式で示される

精神病の発病時には, …隠喩によって生産されていた意味作用すなわちファルス的意味作用の代わりに,穴( trou)が現れる.こうして隠喩は失敗し,〔母の欲望に対する〕代理の操作が生じない. …DM/x.母の欲望のシニフィアンによって生産された意味作用は謎めいたままにとどまる.x=?」

フロイトの発見は,神経症の症状は,すべて隠喩として構成されており,そのために性的な(ファルス的な)意味を持つということであった.それをラカンは継承している.つまり,隠喩は意味が(+)であり,換喩は意味が(ー)である(「文字の審級」).

そして,神経症を支配している最大の隠喩こそが,〈父の名〉の隠喩である.母の欲望は,何を欲望しているか分からない( DM/?).母の欲望のシニフィアンを,〈父の名〉で代理すること( NP/DM )によって父性隠喩が成立し,症状や夢,機知といったあらゆる象徴表現の可能性がうまれる.

E557 の父性隠喩の式の読み方はこれで分かる. NP/DM ・DM/x=+ファルス.父の名が母の欲望を代理することによって,ファルス的意味作用が成立する,ということ.( ※NP=父の名,DM =母の欲望)

精神病では〈父の名〉が排除されているということは,隠喩が作れず,よって神経症症状も形成されず,母の欲望があらわすものが謎のxのままにとどまるということ.だから,精神病の発病時には,世界の総体がひとつの大きな謎として主体に立ち現れるのである.

神経症では,〈父の名〉( Nom-du-Père)と出会い,ファルス的意味作用( signification phallique)が成立する.一方,精神病では,父なるもの( Un-Père)と出会い,謎の意味作用 (signification énigmatique)が成立する.(同上)

…………

※附記

別途投稿しようと思ったが、ここに貼り付けておこう。以下には、 Pierre BrunoのPhallus et fonction phalliqueに依拠しての松本卓也氏のツイートの内容といささか齟齬がある内容がある。

《たとえば、あまりよくないラカン本ではΦ(象徴的ファルス)と父の名NdPを区別していなかったりするのですが、Phallus et fonction phalliqueの説明では、この2つは水準が違うことが明記されています。》(松本卓也)に対して、

……事態は変わる、ラカンが「〈他者〉の〈他者〉はない」の結論に到ったときにすぐさま。大他者の大他者はない、とは、単純に次のことを意味する。超越的な法はない。したがって、象徴界はそれ自体ーー精神病や倒錯の病理とは独立してーー、構造的に欠けているものがある秩序であることを。この点で、正しい性別化/エディプス的解決の責務を負うという役割は残存しているにもかかわらず、〈父の名〉は次のものとなった。(a) 象徴的ファルスと完全に同一なもの。(b) 他のどんな(倒錯的)主人のシニフィアン(S1)でもよいレヴェルへと質的に「品格を下げられる」。 (Lorenzo Chiesa 2007)

Pierre Brunoがどんな文脈で語っているのかはしらないが、わたくしの今のところの理解では、上のロレンツォ・キエーザやポール・ヴェルハーゲの立場(参照)をとる。

セミネールV(1957‒1958)は、議論の余地なく、「〈他者〉の「他者〉は存在する」という仮定のもとに、父の隠喩の機能を導入している。ラカン曰く、《分析の経験が我々に示してくれるのは、〈他者〉にかんする〈他者〉Other with respect to the Otherによって提供される背景[arrière-plan] の必須性である。それなくしては、言語の世界は自らを分節化できない》。

一年もたたないうちに、今度はセミネールVIで、躊躇なく宣言することになる、《〈他者〉の〈他者〉はない…シニフィアンのどんな表明の具体的な成り行きconsequenceを支えるシニフィアンは存在しない》。(Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by 2007)
……父の名は、もはや〈他者〉の、すなわち象徴秩序の、保証ではない。逆も同様である。反対に、〈他者〉の〈他者〉はいない("il n’y a pas d’Autre de l’Autre")。

以前は、父の名は父(の機能)の保証だった。丁度、フロイトの原父がどの父をも基礎づけたように。今や、父の名が保証するものは〈他者〉のなかの欠如である。あるいは主体の象徴的去勢である。そして象徴的去勢を通して、主体はあらゆるものを取り囲む決定論から離れ、彼(女)自身の選択が、たとえ限定されたものであるとはいえ、可能となる。

この変貌の波紋は、ラカンのその後の仕事全体を通して、轟き続けた。まさに最後まで、絶え間なく寄せてはかえす波のように。 実に理論の最も本質的なメッセージは、どの理論も決して完璧ではないということだ。循環する論述によって組み立てられた閉じられたシステム、それを我々はフロイトとラカンとともに以前は見出した(原父や父の名によって保証される父、逆も同様)。だがそれは一撃で破棄された。  (PAUL VERHAEGHE『New studies of old villains』2009


松本卓也氏もこのあたりのことが分かっていないはずはないので(参照:『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』抜粋)、上に抜き出されたツイートのみを捉えた場合の齟齬としてよいだろう。

寄り道したが、ここでの関心の焦点は、冒頭からの「母の欲望」である。


◆Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa 2007 PDFより

(1) 〈母の欲望〉Desire-of-the-Mother とは、ラカンにとって、全体としての原象徴的 protosymbolic 母-子関係の一般的呼称である。あるいは、よりうまく言えば、母子関係を構成する・母子関係において構成される、原象徴的 protosymbolic「諸シニフィアンsignifiers」の呼称である。

(2) 〈母の欲望〉Desire-of-the-Mother とは、いまだ組織内されず、あるいはグループ化されていない対立する「諸シニフィアンsignifiers」の流れである。

(3) より正確に言えば、これらの「諸シニフィアン signifiers」は、(絶え間なく変化する不確かな代理としての)母の欲望 mother's desire の換喩的対象に相当する。…

したがって、それらの諸シニフィアンは対立的である。というのは、不在の背景に対して、換喩的対象の場を一時的に占めるどんな対象にも当てられるから(既に象徴的対象として経験されたというゆえに)。

平行して、それらの諸シニフィアンは、流れ flow を表象すると言いうる。というのは、集合化されていないにもかかわらず、換喩的鎖を形作るから。そのような流れは、要求の永続的不満足によって支えられている。集合化は、後に、最初の父の隠喩によってもたらされる。

(4) 「原-諸シニフィアン」Primordial signifiers とは、なによりもまず、想像的シニフィアンであり、それ自体、記号 signsである。もし、一方で、それらの対立的側面ーー「いないないばあ Fort!–Da!」のような発声を伴ったーーは、それらを「諸シニフィアン」として考えさせてくれるとしたら、他方で、それらはまた、フロイトの「表象代理 Vorstellungsrepräsentanz」の意味での、記号 (Zeichen)でもある。

※「表象代理 Vorstellungsrepräsentanz」(仏語 représentant-représentation,英語 ideational-representative )。表象代理とは、「主体の生活史をつうじて欲動 Triebe の固着の対象となり、また、心的現象への欲動の記載のための媒介となる表象ないしは表象群」。

ラカンによれば、〈母の欲望〉を構成する「原-諸シニフィアン」は、イメージの領域における(子どもの)欲求の代表象以外の何ものでもない。同じ理由で、これらの想像的諸シニフィアン/諸記号は、刻印としての原抑圧を徴づける。すなわち、子どもが、要求のなかで、彼の欲求を表明 articulate し、要求が想像的シニフィアンを創造すれば、子どもは抑圧をこうむる。

ここから、我々は結論づけることができる。フロイトとは異なり、ラカンにとって、すべての「表象代理」Vorstellungsrepräsentanz は、それ自体、原無意識 proto-unconscious のなかに、必然的に抑圧/刻印される。いったん無意識が、父の隠喩の作用によって、自己意識から正しく区別されたら、そのような表象代理の絶え間ない刻印が続いてゆく。この理由で、我々は言うことだできる、ラカンにとって、正当な原抑圧が起こった後、すべてのシニフィアンは二重に刻印される、と(意識的な通時的鎖 diachronic chain と無意識的な共時的鎖 synchronic chains のなかに)。
〈母の欲望〉の複合的な徴示 signifying 機能は、必然的に、〈父の名〉の地位にとって重要な飛び火をもたらす。

両方ともシニフィアンと考えられる範囲において、二つのあいだの置換作用は、正しく(父の)隠喩と呼びうる。他方で、〈母の欲望〉は、同時に、ただの原シニフィアン protosignifier 、表象代理の組織化されていない流れーーその想像的-象徴的徴示要素は、まだ何らかの形で、トラウマの現実界 Real of a trauma と直かの接触があるーーであることを考えれば、〈父の名〉はまた、記号として捉えうる。

我々は、少し前、やや異なった視点から結論づけたように、ファルスの意味作用を促進することによって、〈父の名〉は、両-一義的に bi- univocally 、謎めいた「彼女は何を欲しているのか?」ーー子どもは(完全には)象徴化しえるどころではない謎--を徴示する。まさにこの意味で、ファルスは、主人のシニフィアン (S1)と見なされるべきだ、うまくエディプス・コンプレックスに入場し崩壊させた主体たちの無意識のS1として。

セミネールVから、ラカンの最も有効な表現のひとつを使えば、ファルスは、結局、「signe constituant」である。興味深いことに、この段階におけるラカンは、この表現を、記号/想像的シニフィアンーーたとえば鞭や棒などーーのみに適用しているように見える。「異常な」エディプス関係において、それは、「代替的な」形で、子どもを能動的に象徴秩序に入場させる、と(マゾヒズム的倒錯によって徴づけられるものとして)。

《Il y en a parmi ces signes qui sont des signes constituants, je veux dire par où la création de la valeur est assurée, je veux dire par où ce quelque chose de réel qui est engagé à chaque instant dans cette économie est frappé de cette barre qui en fait un signe.》(S.5)

…もっと一般的に言えば、我々は強調しなければならない。父の法の超越性が、象徴的〈他者〉の自己充足性を与える限り、ラカンは、標準的なファルス幻想ーーそれはエディプス・コンプレックスの成功した施行にかかわる--を、あからさまには explicitly 認めていないことを。幻想は、倒錯の領野のなかに隔離されている。…

だが事態は変わる、ラカンが「〈他者〉の〈他者〉はない」の結論に到ったときにすぐさま。大他者の大他者はない、とは、単純に次のことを意味する。超越的な法はない。したがって、象徴界はそれ自体ーー精神病や倒錯の病理とは独立してーー、構造的に欠けているものがある秩序であることを。この点で、正しい性別化/エディプス的解決の責務を負うという役割は残存しているにもかかわらず、〈父の名〉は次のものとなった。(a) 象徴的ファルスと完全に同一なもの。(b) 他のどんな(倒錯的)主人のシニフィアン(S1)でもよいレヴェルへと質的に「品格を下げられる」。

言い換えれば、S1としての、父の名/象徴的ファルスは、どんな場合でも、象徴界のなかの欠如に対する最も標準の幻想的代償、あるいは防衛として考えられるようになり、「倒錯的」主人のシニフィアンと区別されるどんな構造的相違もない。父の名は、もはや大他者を「取り囲み encircle」はしない。それは、大他者の欠如を「ヴェール」することによって、単に「縫合 suture」するだけである。

結果として、諸主人のシニフィアン S1s は、それら各自の諸シニフィアンS2 が依拠する、平等に特権化されたシニフィアンとして定義される。しかしながら、そうした依拠は、意味作用のレヴェルに限られる。シニフィアン S2 は、所定の S1 に依拠するーーS2 は、彼の S1 に対して無意識の主体を表象、あるいは徴示するーーという事実は、S1 はその S2s を徴示することをもはや意味しない。

もはや諸シニフィアンのどんなシニフィアンもない。ただ相互に排他的なーー潜在的な無限性を通しての--諸シニフィアン S1 の複数性があるだけだ。それは、基本的幻想のなかで主体の無意識を固定することにより、シニフィエをシニフィアンする(意味されるものを徴示する)。

代数的なの幻想の式 $◇a ーーこれは、「去勢された主体の、原トラウマとしての現実界への(遡及的な)関係」と読まれるーーにかんして言えば、S1 はまさにこの二つの要素($、a)を結びつけるものである。

ーーここでの抜粋私訳は、ロレンツォのラカンセミネールⅤ解釈にもとづいているが、彼は別にセミネールⅩ(不安)にも依拠しつつ、「母の欲望」について詳細な記述がなされているが、ここでは割愛(わたくしにはいまだ納得できていない箇所がある、ということもある。彼の著書の核心そのものは、セミネールⅩⅩⅢの核心的記述(その一つは、この文)から、遡及的に過去のセミネールを読むという態度である)。

以下、いくらかラカン自身の文から引用しておこう。

ロレンツォの議論の核心の議論の一つは「欠如の欠如」である。すなわち、the lack is lacking” / “le manque vient à manquer” (1962)。まず、このリンク先には記載されていない文をひとつ抜き出しておく。

Ceci que ce sur quoi on met un accent qui n'est pas bien centré… à savoir que soi-disant l'angoisse serait liée à l'interdiction par la mère des pratiques masturbatoires …est vécu, perçu, par l'enfant comme présence du désir de la mère s'exerçant à son endroit.

Qu'est-ce que l'angoisse en général dans le rapport avec l'objet du désir ? Qu'est ce que nous apprend ici l'expérience si ce n'est qu'elle est tentation, non pas perte de l'objet, mais justement présence de ceci : que les objets ça ne manque pas !

Et pour passer à l'étape suivante, celle de l'amour du surmoi avec tout ce qu'il est censé poser dans la voie dite de l'échec, qu'est-ce que ça veut dire sinon que ce qui est craint, c'est la réussite, c'est toujours le : « ça ne manque pas ». P.91 S.10

あるいは、ロレンツォの論には、「不安」セミネールからの下記の文にからんだ解釈がある。

Il у а, au stade oral, un certain rapport de la demande au désir voilé de la mère.

Il у а au stade anal, l'entrée en jeu pour le désir, de la demande de la mère.

Il у а au stade de la castration phallique, le moins phallus (-φ), l'entrée de la négativité quant à l'instrument du désir, au moment du surgissement du désir sexuel comme tel dans le champ de l'autre.(Lacan,S.10)

・口唇期には、要求とヴェールされた母の欲望とのあいだある関係。

・肛門期には、母の要求の欲望にとっての機能開始がある。

・ファルスの去勢期には、マイナス-ファルス(-φ)、性欲望の興奮の瞬間に、欲望機構にかかわる否定性の登場、 …………という意味合いのことが記されている。



2015年7月25日土曜日

ラカンの注釈者たちの(ほぼ満場一致での)見落とし:「性関係はない」

如何にコミュニティが機能するかを想起しよう。コミュニティの整合性を支える主人のシニフィアンは、意味されるものsignifiedがそのメンバー自身にとって謎の意味するものsignifierである。誰も実際にはその意味を知らない。が、各メンバーは、なんとなく他のメンバーが知っていると想定している、すなわち「本当のこと」を知っていると推定している。そして彼らは常にその主人のシニフィアンを使う。この論理は、政治-イデオロギー的な絆において働くだけではなく(たとえば、コーサ・ノストラ Cosa Nostra(われらのもの)にとっての異なった用語:私たちの国、私たち革命等々)、ラカン派のコミュニティでさえも起る。集団は、ラカンのジャーゴン用語の共有使用ーー誰も実際のところは分かっていない用語ーーを通して(たとえば「象徴的去勢」あるいは「斜線を引かれた主体」など)、集団として認知される。誰もがそれらの用語を引き合いに出すのだが、彼らを結束させているものは、究極的には共有された無知である。(ジジェク『THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』私訳)


ラカニアンサークル内部において「象徴的去勢」やら「斜線を引かれた主体」という用語さえが分かっていないのであるなら、たとえばより厄介な「性関係はない」という表現などの解釈はとんでもない言説が跳梁跋扈しても止む得ない。それを責めてもいたしかたない、「世界とはその程度のものです」(蓮實重彦)。それぞれの分野での「真の」専門家というのは実は世界に十人ぐらいしかいない。

とすればそれに溢れたそれぞれが似非専門家やにわか専門家として自らの「思いこみ」を流通させるのは致し方ないのだ。

…………

手短かに言えば、ラカンは信じていたのだ、象徴的法(セクシャリティにおける)は人間という種族の生存に欠かせないと。すなわち象徴的性別化の終焉は、人間を単に動物の性交へと閉じ込めることはない。そうではなく、種の絶滅へと導く。

注釈者たちは、ラカンに依拠して、ふつうは強調するのは、象徴界が「性関係はない」という事実の責任を負っているということだ。たとえばEvansは簡潔に、「男と女のポジションのあいだには、相互関係、あるいは対称性はない。というのは象徴的秩序は基本的に非対称的だから」と言う。すなわち、ファルスが、両性のあいだの関係を支配する唯一のシニフィアンなのだから、と(.(Dylan Evans,An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis)

反対に、注釈者のほとんどが(満場一致で)見落としているのは、次の事実だ。象徴界は、(生殖的な)人間の性関係が起こる可能性の構造的条件を構成するという事実である。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)

ここに「手短かに言えば」とあるが、Lorenzo Chiesaは、この後数十ページにわたりながながと説明している。だいたいこのように「注釈者たち」のマヌケぶりをめぐる箇所の断片だけを切り取って引用すること自体、誤解を招くもとかもしれない。だが「世界とはその程度のものさ!」。

ただし、Lorenzo Chiesaの《注釈者のほとんどが(満場一致で)見落としているのは、次の事実だ。象徴界は、(生殖的な)人間の性関係が起こる可能性の構造的条件を構成するという事実である》というのはいささか言い過ぎなのかもしれない。

だが通常はこのように語られる。

ラカンは精神分析における不可能を「性的関係は存在しない」という命題で表しました。動物においては雄と雌の性的な行動様式は本能に書き込まれており、動物は本能的に性的関係を持つことができるます。ところが人間の男と女は類としての性的行動様式を与えられておらず、人間の性的活動は多様であり、様々な倒錯的傾向が認められます。男と女は性的行動様式を他者から学ばなければならないのです。そして性的行為の多くは生殖とは関係ない領域で繰り広げられています。ですから人間の言語世界には性的関係が書き込まれておらず、それが象徴界の穴として不可能を構成するのです。(向井雅明 精神分析とトラウマ)

わたくしは向井雅明氏をそれなりに信頼しているのだが、上に掲げたLorenzo Chiesaのいう文脈に限っていえば、次の小笠原晋也氏の発言のほうがマシかもしれない(重ねて強調しておけば、これはわたくしの向井雅明氏の文の切り取り方が悪いせいかもしれないと言っておこう)。

「性関係は無い」はずいぶんびっくりさせる命題かもしれませんが,さほど突飛なものではありません.Freud のリビード発達論の文脈で考えれば.つまり,Freud が想定したような性的成熟としての性器段階は無い,と Lacan は言っているのです.Primat des Phallus 「ファロスの優位」と Freud が呼んだ「正常」な成人の性の発達段階はただの社会規範からの要請,想定にすぎません.(小笠原晋也、ツイート)

ここにはChiesaのいう《象徴的法》あるいは《象徴界は、(生殖的な)人間の性関係が起こる可能性の構造的条件を構成するという事実》が、《「正常」な成人の性の発達段階はただの社会規範からの要請,想定にすぎません》という文に現われている。ただし小笠原氏のほかの殆んどのツイートは、「性関係がない」を根源的なものとしてあまりにも強調しすぎるきらいがある。

ツイッターなどで発話するには、次の程度でいいのだ。あの場は「手短に」しか語れない場なのだから。詳しくは論文で書くべきであろう。

……「性関係はない」。人間の性は、取り返しのつかない失敗の刻印を押され、性差とは二つの性的立場の対立であり、両者の間に共通分母はない。(ジジェク『ラカンはこう読め』)

というわけだが、わたくしは何も比較的若い「哲学的」あるいは「政治的」ラカン派のLorenzo Chiesaを全面的に信頼しているわけではない。ただ彼の上に掲げた著書には、「注釈者たちは云々Commentators usually… 」という表現が頻出する。そこを眺めてニヤニヤすることができる貴重な書ではある。





2015年5月21日木曜日

「沖合いはるかな遠い未来のなか」へ送りだされたラカン理論

《もし〈女〉が存在するのなら、彼女は〈他者〉の〈他者〉である》(ジジェク)

女の問題とは、(……)空虚な理想ーー象徴的機能――empty ideal‐symbolic function—を形作ることができないことにあるので、これがラカンが「女は存在しない」と主張したときの意図である。この不可能の「女」は、象徴的フィクションではなく、幻影的幽霊fantasmatic specterであり、それは S1ではなく対象 aである。「女は存在しない」と同じ意味での「存在しない」人物とは、原初の「享楽の父」である(神話的な前エディプスの、集団内のすべての女を独占した父)。だから彼の地位は〈女〉のそれと相関的なのである。((ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012)

ラカンの「女は存在しないLa femme n'existe pas」の「存在しない」とは象徴界(シニフィアンの水準)には存在しないということだけであり、現実界にはもちろん存在する。ラカンはそれを外-存在と呼ぶ。女は外-存在する。そして〈他者〉の〈他者〉も外-存在する。

ラカンのex-sistence (外ー存在)は、ハイデガーのSein und Zeit(存在と時間)の仏訳から。ドイツ語ではEkstaseであり、ギリシャ語ではekstasis(外に立つこと)(フィンク,The Lacanian Subject)

…………

《ラカンは生前、自分の考えは50年経ったら理解されるようになるだろうと言っていた》(向井雅明)そうだが、反対に精神分析は時代遅れになったという「精神分析の追悼式」的言説も跳梁跋扈している。

たしかに心の病を治療するという側面からは、認知科学や神経生物学の進展の影響、あるいは薬物療法や行動療法によって、しだいに取って代わられる領域が増える傾向は、今後もさらに目立っていくだろうことをいまさら否定してもはじまらない。

だが、ラカンにとって、「精神分析のいちばんの基本」は、

心の病を治療する理論と技法ではなく、個人を人間存在の最も根源的な次元と対決させる理論と実践である。精神分析は個人に、社会的現実の要求にいかに適応すべきかを教えてくれるものではなく、「現実」なるものがいかにして成立しているのかを説明するものである。精神分析は、人がいかにして人間の現実内に出現するのかを説明する。ラカンの見方からすると、神経症、精神病、倒錯といった病理学的形成物は、現実に対する根本的な哲学的な姿勢がもつ威厳をそなえている。私が強迫神経症にかかっているとき、この「病」が、現実に対する私の関わり全体を彩り、私の人格の全体的構造を規定している。他の精神分析的アプローチに対するラカンの批判の核心は、彼らの臨床的方向性に関わっている。ラカンにとって、精神分析療法の目的は患者の幸福、社会生活の成功、自己実現ではなく、患者をその欲望の基本的座標と行き詰まりに対決させることである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』「はじめに」)

ーーとあるようにこれらの側面、とくに「哲学的」な側面は、場合によったら、《50年経ったら理解されるようになるだろう》ということはあるのかもしれない。1981年に死んだラカンだから、この言葉を真に受ければ、まだ15年ほどかかるということになる。

そもそもどうしてこういうことがないわけがあろう、偉大な発見は、100年、200年以上かかった後に理解されるという事例は、歴史上あまたある。ラカン理論がそれにあてはまるかどうかは誰もがわからないだけだ。

……天才の作品がただちに賞賛をえることの困難なのは、それを書いた天才その人が異例であり、ほとんどすべての人々が彼に似ていないからである。天才を理解することができるまれな精神を受胎させ、やがてその数をふやし、倍加させてゆくのは、天才の作品それ自身である。ベートーヴェンの四重奏曲(第12、第 13、第14および第15番の四重奏曲)は、それを理解する公衆を生み、その公衆をふくれあがらせるのに五十年を要したが、そのようにして、あらゆる傑作の例にもれず、芸術家の価値にではなくとも、すくなくとも精神の社会に―――最初この傑作が世に問われたときには存在せず、こんにちそれを愛することができる人々によってひろく構成されている精神の社会―――一つの進歩を実現したのは、ベートーヴェンの四重奏曲なのである。人々がいう後世とは作品の後世で ある。作品自身が(……)その後世を創造しなくてはならないのだ。したがって、作品が長くとっておかれ、後世によってしか知れれなかったとしたら、その後世とは、その作品にとっては、後世ではなくて、単に五十年経ってから生きた同時代人のあつまりであるだろう。だから、芸術家は自分の作品にその独自の道を たどらせようと思えば(……)その作品を十分に深いところ、沖合いはるかな遠い未来のなかに送りださなくてはならない。(プルースト「花咲く乙女たちのかげにⅠ」より)

…………

以下、ジジェクの記するラカンの「哲学的」側面の説明を一部掲げる。

存在論と男女の相違のあいだの繫がりがあることについて何も驚くことはない。前近代のすべての宇宙観の特質は、男性原理と女性原理のあいだの根源的相克の用語で世界の起源を説明しているではないか(陰陽、光と影、天と地…)? (……)

我々が、世界の近代的「幻滅」と呼ぶものは、数学化された科学にて接近し得る意味のない冷たい「客観的現実」と、我々が現実に「投影する」意味と価値の「主観的」世界のあいだのギャップの(根拠薄弱な)主張にかかわるのみではない。このギャップの底に横たわっているのは、現実の脱-性別化de‐sexualizationである。

ラカンの成果は、この背景に対してのものとして、評価されるべきだ。彼が重ねて力説したのは、近代科学領野内での性の相違の存在論的ontologicalステイタスである、ーーいかに前近代的神話に退行せずにこれを成し遂げ得るか、と。すなわち、近代の超越論的哲学にとって、性の相違は、脱存在論化されている。人間の存在的ontic領域に還元されてしまっている。もし人がそれを存在論化すれば、人は「擬人観anthropomorphism」と非難される。すなわち世界の上に、人間のたんに経験的(生物的かつ心的)な特徴を投影しているだけだと。

これが、カントの超越論的主体もハイデガーの現存在Daseinのいずれも性化されていない理由である。ハイデガーの「現存在」分析において、彼は全くセクシャリティを無視している(典型的なのは、哲学者がフロイトの「去勢」のような概念を取り扱うとき、彼らはそれを、我々の有限、限界、無力等の存在論的ontologicalア・プリオリにとっての存在的ontic隠喩として読む)。

とすれば、ラカンは、前近代の性化された宇宙に退行せずに、いかに性の相違の再存在論化を成し遂げたのか? はっきりしているのは、ラカンにとって、「セクシャリティ」とは人間の現実の個別的な存在的ontic領域ではないことだ。それは置換、歪像的ひずみなのであり、その地位は厳密に形式的である。どの人間的現実の「領域」も「性化」され得る。それは、セクシャリティがとても「強力」で、他のすべての領域へ波及し汚染するからではない。そうではなく、まさに反対の理由である。すなわち、セクシャリティはそれ自身の「正しい」領域を持っていないためであり、原初的に「箍が外れている」ためである。それは構成的な裂け目、不調和によって徴づけられている。

この袋小路を最初に詳述した哲学者(もっとも彼は、勿論、性の相違との繫がりに気づいていなかったが)、それはカントである。すなわち。カントが『純粋理性批判』で、純粋理性のアンチノミーの「存在論的スキャンダル」を描写したときである。我々が現実に接近するために使用する基本の存在論的-超越論的枠組みの内的非一貫性であり、「数学的」アンチノミーは、女性の立場を特徴づける袋小路を表し、「力学的」アンチノミーは、男性の立場を特徴づける袋小路である。

カント自身は、我々が見てきた通り、自らの大発見の過激性に直面し身につけることは出来なかった。彼は究極的にはこれらのアンチノミーを単に認識論的な地位として伝えるのみだった。…(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012 私訳)

ーーカントの数学的アンチノミー/力学的アンチノミーについては、「資料:ラカンの男性の論理と女性の論理/カントの力学的アンチノミーと数学的アンチノミー)」を見よ。

簡略に記せば、男性的アンチノ ミーは〈例外〉を伴う〈不完全性〉の障害、女性的アンチノミーは境界を欠いた〈非全体〉の表層における〈矛盾(非一貫性)〉の障害なのであり、それは否定判断/無限判断の二項でもある。

『純粋理性批判』におけるカントの弁証法は、アンチノミーが排中律を濫用することによって生じることを明らかにしている。彼は、たとえば「彼は死なない」という否定判断と「彼は不死である」という無限判断を区別する。無限判断は肯定判断でありながら、否定であるかのように錯覚される。たとえば、「世界は限りがない」という命題は「世界は無限である」という命題と等置される。「世界は限りがあるか、または限りがない」というならば、排中律が成立する。しかし、「世界は限りがあるか、または無限である」という場合、排中律は成立しない。どちらの命題も虚偽でありうる。つまり、カントは「無限」にかんして排中律を適用する論理が背理に陥ることを示したのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』第一部・第2章 綜合的判断の問題 P95-96)
カントはその『純粋理性批判』において、否定判断と無限判断という重要な区別を導入した。

「魂は必滅である」という肯定文は二通りに否定できる、述語を否定する(「魂は必滅でない」)こともできるし、否定的述語を肯定する(「魂は不滅である」)こともできる。

この両者の違いは、スティーヴン・キングの読者なら誰でも知っている、「彼は死んでいない」と「彼は不死だ」の違いとまったく同じものだ。無限判断は、「死んでいる」と「死んでいない」(生きている)との境界線を突き崩す第三の領域を開く。「不死」は死んでいるのでも生きているのでもない。まさに怪物的な「生ける死者」である。

同じことが「人でなし」にもあてはまる。「彼は人間ではない」と「彼は人でなしだ」とは同じではない。「彼は人間ではない」はたんに彼が人間性の外にいる、つまり動物か神様であることを意味するが、「彼は人でなしだ」はそれとはまったく異なる何か、つまり人間でも、人間でないものでもなく、われわれが人間性と見なしているものを否定しているが同時に人間であることに付随している、あの恐ろしい過剰によって刻印されているという事実を意味している。おそらく、これこそがカントによる哲学革命によって変わったものである、という大胆な仮説を提出してもいいだろう。

カント以前の宇宙では、人間は単純に人間だった。動物的な肉欲や神的な狂気の過剰と戦う理性的存在だったが、カントにおいては、戦うべき過剰は人間に内在しているものであり、主体性そのものの中核に関わるものである(だからこそ、まわりの闇と戦う<理性の光>という啓蒙主義のイメージとは対照的に、ドイツ観念論における主体性の核の隠喩は<夜>、<世界の夜>なのだ)。

カント以前の宇宙では、狂気に陥った英雄は自らの人間性を失い、動物的な激情あるいは神的な狂気がそれに取って代わる。カントにおいては、狂気とは、人間存在の中核が制約をぶち破って爆発することである。(ジジェク『ラカンはこう読め』鈴木晶訳)

以下は、ラカンの性別化の式をめぐって女性の無限判断の説明がなされている箇所を、再度ジジェク2012から掲げておこう。

ラカンの否定の否定は、"性別化の式"の女性の側に位置し、非全体non‐Allの概念にある。例えば、言説でないものは何もない。しかしながら、このnon‐not‐discourse (言説の二重否定)は、すべては言説であるということを意味しない。そうではなく、まさに非全体non‐Allは言説であるということ、外部にあるものは、ポジティヴな何かであるのではなく、対象a、無以上でありながら、何かでなく、一つのものではないmore than nothing but not something, not Oneということだ。別の例を挙げよう。去勢されていない主体はない(性別化の式の女性側では)。しかし、これはすべての主体が去勢されていることを意味しない(非去勢の残余は、もちろん対象aである)。この二重否定において、われわれが触れている現実界とは、カントの無限判断に関連しうる。述語否定の肯定affirmation of a non‐predicateである。"彼は不死である"は、彼が生きていることを単純には意味しない。そうではなく、彼は死んでいないものとして、生きている死として、生きているのである。"彼は不死である"とは、non‐not‐dead(死の二重否定)なのである。同様に、フロイトの無意識とは、不死のようなものである。それは単純に意識しないnot‐consciousことではなく、non‐not‐conscious(意識の二重否定)なのである。そしてこの二重否定において、それはただ存続しないことの否定no not only persistsではなく、強められさえするのだeven redoubled。不死は、死に非ずnot‐dead生に非ず not‐aliveの状態として生き続けるremains。同様に、対象aとは、non‐not‐object(対象の二重否定)ではないだろうか。そしてこの意味で、空虚を具現化する対象ではないだろうか。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012 私訳)

<女>のシニフィアンは象徴界には存在しない。だがらいっそう強められてeven redoubled、象徴界の非全体の領域に外-存在するのだ。これはラカン理論など知らなくても、誰でもがそれとなく感知しているはずだ。

ラカンの若い友人であったソレルスの『女たち』の最初頁にある文は、けっして冗句ではない。

世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …

…………

※附記

◆向井雅明「ヒステリーの、ヒステリーのための、ヒステリーによる精神分析」より(参照:アンコールの享楽の図(Levi R. Bryant=ラカン)、あるいはS(Ⱥ)の扱い方


女性には例外的な父親の場所はなく


すべての女性と言えるような全体化もない。

つまり女性は一人一人個的で違った存在であり、 個別に女性ということを確認して行かなければならないのである。ここに女性であることに固有の困難がある。なぜなら、女性には、男性がそれを基準に自分は男性であると言えるような、例外的存在が欠けており、各自一人一人が女性という立場を確立しなければならないのである。例外的存在が欠如してもΦの機能、すなわち去勢は各々の女性が受け入れているのであるから精神病とは区別されるのであるが、峻厳な父親像の欠如は、しばしば、男性側の目からすると狂気と映り、男性の軽蔑を買うのである。

ラカンはエディプスの彼方に女性を見ようとする。女性においては、例外的父親がなくても一応の主体的統一が得られる。これは男性のようなひとつの総体をなさない非総体的な統一であり、いかなる理想像も必要としない。

これが男性と異なった女性の特徴なのである。この文は、1990年代半ばに書かれており、いささか古い側面がないでもないが。

エディプスの斜陽が極まりつつある現在には、男性側にも「峻厳な父親像」などなく、男性の女性化が進んでいるといってよいのかもしれない。父性隠喩が不成立であれば、「母のファルスになる」という欲望を「ファルスをもつ」に変換できなかった連中は、「母に欠けたファルスになることができないならば、彼には、男性たちに欠如している女性になるという解が残されている」(ラカン、E566)ということになる。

とはいえ、古典的には次ぎのようなことであり、現在も女に比べれば、男のシニフィアン、スタンダードはないわけではないだろう。

母たちが小さな天使の未来を心配して、彼女たちの理想の男を参照して息子を判断し、ふつうは、男のスタンダードを体現するよう息子を押しやる(コレット・ソレール Collet soller 『What Does the Unconscious Know about Women?』2002)

いずれにせよ男のスタンダードはかつては厳然とあったし今もなんらかの形であるだろうが、女のスタンダードはかねてよりない。

男性側には、エリック・ロランの言い方をすれば("Psychosis, or Radical Belief in the Symptom" 2012)、「父の名」はなくなったかもしれないが、「ふつうの父の名」はある。

父の機能は、ユルんだにしろ、まだ生き残ってるさ。より普通の地位の父だがね…オヤジ言葉で印象づけたり驚かしたり父がいるじゃないか…ミレールが言ってるが、現代の政治家だって、道化ているが、印象づけようとしているぜ…これが「普通の父の名」さ。(エリック・ロラン 超訳 2012)

他方、女性側には、愛されるような女になりなさいという類の個別的な要請があるだけだろう。

再度、女流分析家の第一人者と呼ばれるコレット・ソレールの表現なら、,女たちは、他人を或いはとくに男を魅了させる「トリック」を幼い頃から学んでゆく。

〈他者〉を欲望させる能力、これは女性たちの特徴だが、それは無意識の干渉から逃れてはいない。…彼女たちのやり方は、〈他者〉の要求に適うよう仮装することだ。知られざる欲望を捕獲しようとして、そうする。

私はここで数多くの臨床上の事実を掲げることができる、女性たちが言ったことを正確に…。母に対してのことさら目立った不平はーー母のあら探しをするのだがーー、女性の才智savoir-faire を娘に伝えてくれなかったというものだ。

この不平は、もちろん、いつもそのものズバリにされるわけではない。たいていは換喩の迂回路をとって、あれやこれやのあら探しとなる。ある女性の場合、母は美味しい料理の秘密を教えてくれなかったと不平を言ったが、これが意味するのは、男を魅了させる「トリック」を伝えてくれなかったということだ。

私はまた、ヒステリー者の、彼女の〈他者〉への従属に対する頻発する抗議にも言い及ぶことができる。彼女の自立の夢は、疎外された自己の水準における相似物以外の何ものでもない。その疎外は、彼女の疎外されたい(同一化したい)という要求から生まれているのだ。(同 Collet soller)

もっともここでは、コレット・ソレールは、女性のヒステリー的側面を語っているのであって、ラカンの性別化の公式における女性の論理を直接に語っているわけではない。この論文ではなく、別の書物において(『What Lacan Said about Women』2003)、彼女は、次ぎのようにヒステリーと女を分けて示している(ここでは説明抜きにこの図のみを掲示する)。



ーーここでコレット・ソレールはヒステリーは男性の論理とほとんど言っているはずだが、これもまた種々の見解があるので、曖昧なままにしておく。

さて最後に、男性の論理/女性の論理の相違のあり方を簡潔に述べたポール・ヴェルハーゲの文を掲げておく

〈女〉は、象徴界には、存在しない。〈男〉は、いやというほど存在している。男と同じように、女は自身を、〈他者〉のファルスのシニフィアンに疎外しなければならない。男は、ファルスのシニフィアンとS1との関係性のせいで、「自然に」シニフィアンとの同一化の方向へ向かう。彼は疎外に囚われる。〈女〉もこの疎外関係を同じように知っている。しかし、同時に、彼女は、対象aと享楽への特別な関係を楽しむ。この二重の関係性のせいで、女は、まさに女になる過程で、「自然に」彼女自身の何かを創造する。この意味で、ラカンの治療の結論ーー症状の現実界との同一化、享楽の選択、そして新しい主体の創造ーーは、女性性の系列に全き位置する独特の過程である。(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq,Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way. 2002 私訳)

ここでヴェルハーゲはS(Ⱥ)という記号をいわずに、「対象aと享楽への特別な関係」としていることに注目しておこう(S(Ⱥ)=S(a)ともできるとするフィンクの見解は以前に見た。それはȺ=aでもあるだろうが、このあたりはこの性別化の式がラカンによって示された以降(『セミネールⅩⅩ』以降)の議論にもかかわるので割愛)。





念をおしておけば、最も基本的なことは、人が、男性の側(左側)、女性の側(右側)に位置するのは、生物学的な男/女とはまったく関係がない。男でも女性の側に属するタイプはいるし、逆もまた真である。参照:アンコールの享楽の図(Levi R. Bryant=ラカン)、あるいはS(Ⱥ)の扱い方)。

ただし、実際上、女性の論理に属するのは、生物学的にも女性が多いだろうというのは、ほぼラカン派内のコンセンサスがあるようだ。





2015年5月19日火曜日

夢の臍、あるいは菌糸体

@kumatarouguma · 5月12日
↓脳科学がここまで進歩している現状で、今における「夢判断(フロイトの現代は夢解釈)」が書かれないのは本当に不思議だ。あれ記憶だか妄想だかもわからない。あの夢という映像装置は何なのか、主観でしかないのに自発性は何もない。かなり奇妙なものだとおもう。誰か21世紀フロイトになってくれ
檜垣立哉RT@hitsujiaruki

いなかったところにいたことになったり、未だ嘗て感じたことのないものを思い出したり、写真や夢はすごいなぁ。

――との檜垣立哉氏のツイートに以前めぐり合って、ははあ、「脳科学」か、精神分析と脳科学は敵でもあり味方でもあるからな、どんなふうに最近は進歩しているのだろうとは思いつつ、そのままほうってあった。

だが昨晩、ふたたびこのツイートのRTにめぐり合って、檜垣立哉氏のこのツイートの前後をさぐってみることにした。

@kumatarouguma

私の夢に対する徹底的な謎

・同じ場所の繰り返し出現があるが私の個人的自発的記憶ではそのような場所はない(すくなくとも意識的に憶えてはいない)。

・ものすごく精緻な電気配線やものすごく流暢にフランス語をしゃべっていたりするが、私にはそのような電気配線の記憶はないし、そんなに流暢にフランス語がはなせるわけはない(いわゆる写真的録音的記憶があり、意図的自発性なく開放されるのか)、それともたんにありありと、流暢に、消えたり喋っていたりしたとおもっているだけなのか。

・自分が死んでいる夢がある、これは何度も書いたが、自分で自分の心だ場所をみにいく、国道沿いの寂しい場所で焼け焦げているが、とくに悲しいとか寂しいとかそういう情動はない。たんたんと観察している。焼け焦げているが事故なのか自殺なのかさっぱりわからない。ただただ無情動でそれをみている(さらにそのあと、死んだので大学はクビだなとおもって、新しい職場をどうするか考えて就職活動を初め、昔教えていた大学にいったりする、死んでいるのだからもう働く必要はないとおもうのだが・・・まあなんとなくロジカルなもののねじれはよくわかる。が、その昔の職場にいくと、昔かよっていた小学校で、今の大学の先生が教えていたりする。これはよくある夢イマージュの圧縮だな。

これは、「脳科学」どころではない。シツレイながら、――わたくしの思い込みならーー、フロイトの『夢判断』を読めていない。ドゥルーズ研究者の一人者ともいわれる専門家でも専門以外の分野では、このようにナイーヴなのか? いやツイッターというのはそもそもそういう囀りをするところではあるのだろうが。

精神分析からの脳科学やらニューロサイエンスに対する主要な異議は、脳科学では欲動、――すべての欲動は潜在的には死の欲動である(ラカン「エクリ」)――すなわち死の欲動やら享楽――欲動とは享楽の漂流である(ラカン「アンコール」)――があつかえないというものだ。とすれば、ドゥルーズにも「死の欲動」概念が頻出するわけだが、ダイジョウブかね、檜垣さん・ ・ ・

《精神分析は「決定論的」(「私がすることは、無意識の過程に決定されている」)ではない。……

「死の欲動」が意味するのは、有機体は、もはや十全には、環境によって決定されない、すなわち、自律的行動の円環へと外破/内破するということだ。》(ジジェク LESS THAN NOTHING 2012)

以下の文は、「死の欲動とは?」と、そのまますることはできないかもしれないが、それに近いものとして読める。まずはラカン派の臨床医でありながら、ニューロサイエンスにも造詣が深いポール・ヴェルハーゲの文を引こう。

すなわち象徴的秩序以外の審級である。この点で、すべての啓蒙形式はなにかが不足している。それは治療においても同様である。言葉にできない何かがある。その何かを表わすには言葉が欠けている。もともとフロイトはこれをトラウマ的経験と考えた。だが後に彼はそれを"mycelium(菌糸体)"、“われわれの存在の核”、“原初に抑圧されているもの”と呼んだ。(Paul Verhaeghe「Teaching and Psychoanalysis: A necessary impossibility」
私は既に、無意識の核は「分析」にフィットしないことを論証した。無意識のうちの表象された部分のみが分析されうるのである。フロイト以後、症状symptomは防衛をベースに説明されてきたのだが、そこでは抑圧が特権的な位置を占める。忘れられてしまっているのは、抑圧自体は病因のダイナミズムの二次的重要性しかもたないということだ。実際は、抑圧は欲動の表象されたシニフィアンを処理しようとするメカニズム以外のなにものでもない。フロイト自身、症状の二重の構造を認めていた。一方は欲動であり、他方は象徴的なものである。同じ論法が夢にも当てはまる。ことさら驚くことはない。夢は症状なのだから。(Paul Verhaeghe『BEYOND GENDER』「DREAMS BETWEEN DRIVE ANDE DESIRE」

ジジェクの態度は、『ジジェク自身によるジジェク』、あるいは『パララックス・ヴュー』に鮮明であるが、ここでは柄谷行人の書評でまにあわせておく。

ジジェクはむしろ、脳科学や認知科学の成果を肯定する。その上で、そこにパララックスを見いだすのである。たとえば、「意識」はニューロン的なものと別次元にあるのではなく、ニューロン的なものの行き詰まり(ギャップ)において突然あらわれる、という。こうして、ジジェクは、現象学や精神分析といった人文科学的な観点に立つかわりに、現在の認知科学そのものの中に、ドイツ観念論(カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル)が蘇生している、と考えるのである。(柄谷行人 パララックス・ヴュー 書評

ここで、われわれは、意識とは「躊躇」の別名であるという荒川修作の名言を想起することもできる。

一般に意識の働きとして、遅らせて選択可能性を開くような遅延機能、選択の場所の設定、自分自身の組織化の三つに限定してよいと思う。この遅延機能のことを、荒川修作はかなり早い段階から気付いており、意識とは「躊躇」の別名だと言っていた。また選択の場所の設定というのは、空間的な広がりのことではなく、さまざまな働きを混在させておくという非空間的な場所のことである。この働きのなかには、感情や情動あるいは渇き飢えのようなものも含まれる。また意識の自分自身の組織化は、集中させたり集中を解除したりする働きである。つまり意識は自分自身の前史を断ち切るほどの組織化をそのつど行っていることになる。意識による遅延がなければ、反射運動・行為だけになり、選択の場所の設定が機能不全になると統合失調症、自分自身の組織化不全になると意識障害となる。(河本英夫『臨床するオートポイエーシス』)

近著『考える足』で、脳科学への戦争宣言をしたといわれることもある向井雅明氏なら、--わたくしはこの書を読んでいないので別の小論から引用すれば、このような言い方もある。

ダマシオのシステムにとって他者は必要ない。たとえば愛情というものを感じたとしてもそれは誰かにたいする愛情ではなく、愛情に相当する身体状態を表すニューラルマッピングによって引き起こされた感情でしかない。憐憫の感情にしても誰かかわいそうな人にたいして感じるというのではなく、身体の情動的変化によって引き起こされるのだ。(……)

ダマシオだけではなく、一般的にニューロサイエンスや生物学だけで人間を説明しようとする試みはすべて同じ過ちを犯している。真に人間的な次元を扱うには、人間世界は自然界との切断によって生まれる、あるいは、語る存在としての人間は生命体とは切り離されている、さらにあるいは、 主体とは身体とは超越したものであるということを前提にしなければならない。(向井雅明『 Dの誤り、ダマシオ批判』)

だが、檜垣立哉氏のツイートの問題は「脳科学」や「死の欲動」以前にある。《ものすごく精緻な電気配線やものすごく流暢にフランス語をしゃべっていたりするが、私にはそのような電気配線の記憶はないし、そんなに流暢にフランス語がはなせるわけはない》とするツイートは、フロイトの『夢判断』がまったく読めていないと、わたくしがーーシツレイながらーー感じるのは、フロイトが明言しているのは、「われわれは夢を前にしたとき、その全体やその構成要素のいわゆる「象徴的意味」を探すことを断じて避けなければならない」ことだからだ。だがわたくしは遠慮深いほうなので、「知識人」としては「焼け焦げ」たほうがいいなどとは決していわないタイプだ。檜垣立哉氏のツイートを再掲するだけですましておく。

《自分が死んでいる夢がある、これは何度も書いたが、自分で自分の心だ場所をみにいく、国道沿いの寂しい場所で焼け焦げているが、とくに悲しいとか寂しいとかそういう情動はない。たんたんと観察している。焼け焦げているが事故なのか自殺なのかさっぱりわからない。ただただ無情動でそれをみている》

というわけで、以下に資料を並べておこう。

夢の思考は、聞けばすぐに理解できるようなものである。それにたいして夢の内容は、いわば象形文字で綴られており、その一つ一つの文字を夢思考の言語に置き換えなければならない。もしわれわれがそれらの文字を、それらの象徴的関係に従ってではなく、それらの視覚的価値に従って、読もうとすると、かならずや間違いをおかす。たとえば今ここに一枚の判じ絵があったとする。そこに描かれているのはまず一軒の家。その家の屋根にはボートが一艘のっかっている。それからアルファベットの中の文字が一つ。そして走っている人物の姿。その人物には頭がない、等々。さてこの判じ絵を表面そのままに受け取って、この絵全体やその個々の構成要素には全然意味がないと抗議することもできよう。ボートが屋根にのっているはずがないし、頭のない人間は走れないはずだ。しかも、人間のほうが家よりも大きく描かれているし、この絵全体がどこかの景色のつもりなら、アルファベットの文字は場違いだ。そんなのが自然界にあるわけがないから。いうまでもなく、この判じ絵を正しく解釈するためには、この絵全体およびその各部分にたいするそうした批判は脇にのけておき、その代わりに、個々の要素を、なんとかその要素によって表わすことができる一音節とか一単語に置き換えなければならない。そのようにして得られたいくつかの言葉はもはや無意味ではなく、この上なく美しい意味深い詩の一節を形づくることもできる。夢はこの種の判じ絵であり、夢解釈の分野における先輩たちは、判じ絵をまともな絵画作品と受け取るという過ちを犯してきたのであり、そのために彼らには夢が無意味で無価値なもののように思われたのである。(フロイト『夢判断』第四章「夢の仕事」)
フロイトがはっきり言っているように、われわれは夢を前にしたとき、その全体やその構成要素のいわゆる「象徴的意味」を探すことを断じて避けなければならない。「この家は何を意味しているのか。屋根の上のボートは何を意味しているのか。走っている人物は一体何を象徴しているのか」といった質問をしてはならないのである。しなければならないことは、物をふたたび翻訳する、つまり物をそれを指す言葉に置き換えることである。判じ絵においては、物は文字通りその名前を表わしている。すなわちそのシニフィアンを表わしている。言葉表象Wort-Vorstellungenから物表象Sach-Vorstellungenへの移行――夢の中で作用しているいわゆる「表象可能性への配慮」――を言語から前言語的表象への一種の「退行」と見なしてはいけない理由が、これで明らかになっただろう。夢の中では、「物」それ自体がすでに「言語のように構造化されて」おり、その配置は、それが表わしているシニフィアンの連鎖によって規定されている。「物」から「言葉」への再翻訳によって得られる、このシニフィアンの連鎖のシニフィエが「夢思考である」。意味のレベルでは、この「夢思考」は夢の中に描かれた物と、内容的にはなんの繋がりもない(同様に判じ絵の場合、その解読は判じ絵に描かれた個々の物の意味とはなんの繋がりもない)。夢の中にあらわれた形象の「より深い隠された意味」を探そうとすると、その中に表現された潜在的「夢思考」が見えなくなってしまう。直接的な「夢内容」と潜在的な「夢思考」とは、言葉遊び、すなわち意味のないシニフィアン的物質のレベルのみで繋がっているのである。(ジジェク『斜めから見る』p103)
……しかし、精神分析的解釈の基本的前提、その方法論上の前提条件は次ぎのようなことである。すなわち、夢作業の最終的産物、すなわち顕在的夢内容はすべて、必然的にそこに欠如しているものが占めるべき場所を塞ぐ穴埋め=充塡剤の役割を担う要素を少なくとも一つ含んでいる。その要素は、一見すると、顕在的な想像上の場面の有機的全体にぴったり合っているように見えるが、じつは、その想像上の場面が存在しうるためにはぜひとも「抑圧」、排除、排斥しなければならないものが占めるべき場所を、みずからのうちに隠しもっているのである。それは想像的構造と「抑圧された」その構造化過程を結びつけている、いわば臍の緒みたいなものである。要するに、二次加工がけっして完璧に成功することがないのは、経験的理由のせいではなく、アプリオリな構造的必然性のせいなのである。結局のところ、ある要素がつねに「突出sticks out」し、夢の構造的欠如を示している、すなわちみずからのうちにその外部を表象しているのである。この要素は、欠如と剰余が同時に生じるという逆説的弁証法に囚われている。それがなかったら、最終的結果(顕在的な夢のテクスト)はまとまらず、何かが欠けているだろう。夢が有機的全体だという感覚を生み出すためには、この要素がどうしても必要不可欠である。しかしこの要素があると、それはある意味で「余計in excess」であり、厄介な過剰plethoraとして機能することになるーー


われわれの考えでは、どんな構造においても、目に見えるものの中には一つの囮、すなわち欠如を埋めるものが含まれているが、それは同時に、あたえられたものの中でいちばん弱い繋ぎ目であり、その点や揺らいでおり、現実のレベルに属しているとしか見えない。その中には〔構造化する空間の〕実質上全レベルが圧縮されている。この要素は現実には非合理であり、その中に含まれることによって、欠如の場所を示すことになる。(Jaques-Alain Miller”Action de la structure” 1968)


わざわざ付け加えるまでもないが、夢の解釈はまさしくこの逆説的な要素、「欠如を埋めるもの」、シニフィアンの無-意味の点を抽出することから始めなければならない。この点から出発し、夢の解釈は次に「変性denature」の作業へと進まなければならない。すなわち、顕在的な夢内容の意味の全体性という偽りの見かけをばらばらにし、「夢作業」まで突き進み、それ自身の最終的結果によって消し去られたさまざまな要素が織りなすモンタージュを目に見えるようにするのである。この段階にいたって、われわれは精神分析家の手続きと探偵の手続きとの類似性に到達したのである。探偵が直面する犯罪の現場もまた、一般に、殺人犯が犯行の痕跡を消し去るために作り上げた偽りのイメージである。その場面は有機的でごく自然に見えるが、それは囮であって、探偵の仕事は、まず、表面的なイメージの枠にぴったり嵌らない、突出している目立たない細部を発見することによって、その場面を変性させることである。探偵小説の語彙には、そうした細部をあらわす文字通りの専門用語terminus technics が豊富に含まれている。「〈風変わりな〉〈奇妙な〉〈あやしい〉〈クサい〉〈理屈に合わない〉、さらには〈気味の悪い〉〈目を疑うような〉〈信じられない〉といったもっと強い表現から、〈そんなはずはない〉という断定にいたるまで」さまざまな形容詞によって、手がかりが示される。その細部は、それ自体としてはまったく取るに足らないのだが(カップの把手が割れているとか、椅子の位置が変わっているとか、目撃者のさりげない言葉とか。時には、何かが起こらなかったという事実が手がかりになることもある)、それにもかかわらず、その構造的位置について考えれば、犯行現場を変性させ、いわばブレヒト的な異化の効果を生み出す。ちょうど、有名な絵の細部をちょっと変えると、突然、絵全体が奇妙で不気味に見えてくるのと同じだ。もちろんそうした手がかりは、その現場のもつ意味の全体性を括弧に入れ、細部に関心を集中したときにはじめて得られる。全体的印象は気にせずに細部を考慮に入れるようにというホームズのワトソンへの助言は、精神分析は解釈を全般にen masse ではなく細部にen detail用いるというフロイトの提言と、共鳴し合っている。「精神分析は最初から夢を合成されたものとして、すなわち心の形成物の集塊として捉える」(フロイト『夢判断』)
……このように探偵は、手がかりから出発して、殺人犯人によって仕立てあげられた犯行現場の見せかけの統一性の仮面を剝いでいく。探偵はその現場を、さまざまな要素からなるプリコラージュとして捉える。そこにおける犯人の演出と「実際の出来事」との関係は、ちょうど、顕在的夢内容と潜在的夢至高との関係や、判じ絵の表面的な図柄とその解読との関係に相当する。その関係は、「サテュロスsatyr」が最初はサテュロスの踊る姿を意味し、次いで「テュロスは汝のものTyre is thine」を意味するように、「二重に刻印された」シニフィアンとしての素材の中にある。探偵小説におけるこの「二重の刻印」の意義は、すでにヴィークトル・シクロフスキーによって指摘されている。「作家は、二つの物が一致しないにもかかわらずある特定の特徴においては合致するような例を探す」。……(ジジェク『斜めから見る』p105-108)


《フロイトによれば、夢にはつねに絶対にとらえられない点があり、これは不可知なものの領域に属しています。フロイトはこれを夢の臍と呼んでいます。こ のことはあまり強調されません。臍などというのもおそらく詩的表現だろうと思われてしまうからです。そんなことはありません。このことが意味するのは、夢 という現象の中にはとらえられない点、主体と象徴的なものとの関係の出現点があるということです。》(ラカン『セミネール Ⅰ』(「フロイトの技法論」))


◆以下、フロイト『夢判断』より、いわゆる「美しき肉屋の女将(妻)」をめぐって書かれている箇所を附記する。


「先生はいつも、夢は満たされた願望だとおっしゃるけれど」と、ある頭のいい女性患者がいいはじめる。「そんなら、全然反対の中身の夢を先生にお話してみましょうか。つまりその夢の中では、わたしの願いが遂げられなかったのです。この夢は先生のお言葉とどう調和するかしら。こういう夢なのです」

《ひとを夕御飯にお招きしようと思った。しかし燻製の鮭が少々あるほかには、何の貯えもなかった。買物に出かけようと思ったら、今日は日曜の、しかも午後なので、お店はどこももうしまっているということを思い出した。そこで出前で届けてくれるところを二、三軒電話で当ってみようとしたけれども、電話は故障している。それでその日ひとをご招待しようというわたしの願いは諦めてしまわなければならなかった》

私はこれに対してこう答えた、なるほどその夢は伺ったところ立派に筋が通っていて、願望充足の正反対であるように見えるけれども、分析してみなければその夢の本当の意味はどうとも申し上げかねる、と。「しかし、この夢はどういう材料から出てきたのでしょうか。夢のきっかけはいつも前の日のいろいろの出来事の中にあるということはあなたもご存じでしょうね」

分析 この婦人患者の夫は、実直で働き者の、ある大きな肉屋だが、前の日に彼女に向って、どうも近ごろやけに肥ってきたから、なんとか痩せるような治療法をやってみようと思う。早起き、運動、美食を避ける、ことによそから夕御飯に招ばれても絶対に出かけてはゆくまいなどと話した。――彼女は笑いながら自分の夫について話しつづけた。夫は行きつけの飲屋でひとりの画家と知合いになった。この画家がぜひ夫をモデルにして絵を描きたいといった。こんなに表情に富んだ頭部は今までに見たことがないという。夫は持ち前のあけすけな態度で、「ご芳志はまことにかたじけないが、若いきれいな娘っ子のお尻のほうがわたしの顔なんかよりよっぽどあなたには向いているでしょう※」ち答えた。自分は今夫にすっかり惚れている、そしてなんだかんだといって夫にいちゃつく。「あたしにキャヴィアをくださらないでね」と頼んだこともある。――キャヴィアをくれるなというのはどういうことなのか、と私はたずねた。

※「美人のお尻」は「モデルになる」の意。ゲーテに「お尻がなければ貴人もモデルに坐れまい」とある。

つまり彼女は前々から、毎日午前中にキャヴィアを塗ったパンを食べたいと思っていたのだが、贅沢だと思ってそれをしかねていた。夫にそういうえば、むろんすぐにそうしてもらえただろう。しかし彼女はそのことでなるべく永いあいだ夫をからかうことができるように、その逆のことを夫に願ったのである。

(この説明はどうも根拠薄弱のようである。こういう不十分な説明の背後には、ひとが白状したがらない動機が隠れているのがつねである。ぺルネームの催眠術実験では、催眠状態にある患者に何か命令すると、患者は醒めたのちにその命令を実行するが、君はなぜそのことをするのかとたずねられても、患者は「なぜこのことをするのか、自分にはわかりません」とは答えないで、それに必ず何かの理由をつける。しかも嘘だということが見えすいているような理由をつける。このキャヴィアの一件もこれと似たりよったりである。彼女は、生活中にひとつの充たされない願望を作り出すべく余儀なくされているように思われる。それに彼女の夢も、願望拒否を実現したものとして彼女に示している。しかし彼女は何のために充たされない願望を必要としているのか)

これまでの思いつきは、この夢の分析にたいして役だたなかった。私はさらに先へ進む。抵抗を克服しようとするかのように暫時沈黙したのちに、彼女は語を継いだ。彼女は昨日ある女友だちを訪問した。この友だちに対しては、少々やきもちを焼くいわれがあった。ありがたいことにこの婦人はひどく痩せっぽちだった。ところが彼女の夫は豊満な女を好んでいた。この女友だちは何を話題にしたか。むろん、もっと肥りたいということをいった。それからまた、こういった、「わたしたちをいつまた夕御飯によんでくださるの? なにしろお宅の御馳走はとてもすばらしいんだから」

これで夢の意味がはっきりした。私は患者に向ってこういうことができる、「まるで何ですね、あなたはそんなふうに夕御飯によんでくれと催促されたときにこう考えたとでもいうような具合ですね。つまり『自分があなたを招待して御馳走したら、あなたはわたしのとことでその御馳走を食べて、肥って、わたしの夫に今までよりももっと気に入るようになるだろう。それじゃもうひとをよんで夕御飯なんか御馳走をするのはやめてしまおう』そうだとすると、夢はあなたにこういっているのです、『わたしはもうひとに夕御飯を御馳走するわけにはゆかない』、したがって、『お友だちのからだつきがふっくらすることに役だつようなことは何ひとつしたくない』というあなたの願いを満たしているわけです。およばれの御馳走を食べて肥るということは、あなたの御主人が食事療法のためにひとから晩餐によばれても断わるという、その計画を見てあなたもそんなふうに考えはじめたのです」あと欠けているものがあるとすれば締め括りである。この締め括りがつけば夢の分析は完了する。そこで問題は、燻製の鮭だ。「あの燻製の鮭はどうして夢の中に出てきたんでしょうね」「ああ、それはその女のお友だちの大好物なんです」ところが偶然私はその女友だちなる人をも見知っていた。そして、この女友だちなる人が、ちょうど私の患者がキャヴィアを贅沢だと思って食べないように、鮭にお金を出したがらないということをたしかめることができた。

この夢は、もっと別の、もっと微妙な解釈をも許している。その解釈はある付随的な事情を考慮に入れるとき、必然的なものになる。そしてこれら二つの解釈は相矛盾することなく、互いに重なりあい、夢並びにいっさいの精神病的症状形成の一般的な二重意味性の見事な一実例を提供する。上にも見たように、私の患者は、願望拒否の夢を見るのと同時に、その充足を拒否された願望を現実に作り出そうと努力していた(キャヴィアのパン)。その女友だちも、もっと肥りたいという願望を口にしている。それでもしわれわれの婦人がその女友だちの願望が実現されないという夢を見たとしても、すこしも怪しむに足りないであろう。すなわちこの女友だちの願い(もっと肥りたいという願い)が充たされないでいてもらいたいというのは、この患者の願望なのである。しかし彼女はそのかわりに、自分自身の願いが充たされない夢を見てしまったのである。そしてもし夢の中の彼女が自分自身ではなくその女友だちその人であったならば、つまり彼女がその女友だちの身代わりに自分を夢の中に出したのであったならば、別言すれば自分自身をその女友だちと同一化したのであるならば、この夢はひとつの新しい解釈を与えられることになる。

事実私の患者はこれをやってのけたと私は考える。そしてこの同一化の証拠として、彼女は現実に自分自身に対して、充たされない一つの願望を作り出した。だがこのヒステリー性の同一化はいかなる意味があるのか。これを説明するにはすこし詳しく述べてみなければならない。同一化は、ヒステリー的諸症状の機制にとってきわめて重大な一契機である。この手段に訴えてこそ患者たちは、(自己自身の諸体験のみならず)たくさんの人間の諸体験を彼らのヒステリー的諸症状のうちに再現し、いわば一群の人間たちの身代りとなって悩み、ある芝居のすべての役柄を、自分ひとりで自分の個人的な諸手段だけを駆使して演じてみせることができるのである。するとひとは私に向ってこう抗議するだろう、「それは周知のヒステリー的模倣ではないか。他人、そのヒステリー患者に強い印象を与えるところの、他人のいっさいの症状を模倣するヒステリー患者固有の能力、いわば再演にまで高められたところの共感ではないか」しかしこの説明では、ヒステリー的模倣における心的過程がその上を通ってゆく道が示されたにすぎない。しかしその道と、それからその道の上で行なわれる心的行為とは別々のものなのである。後者は、ひとが好んで想定するヒステリー患者の模倣よりもやや複雑なのである。後者は実例によってはっきりわかると思うが、無意識的な推論過程に相応じている。一種独特な痙攣をする一婦人患者を、ほかの患者たちといっしょに病院内の一室に入れておいたところが、この独特のヒステリー的発作をほかの患者たちが真似た。ほかの患者たちがこの発作を目賭してそれを模倣したのであって、これがほかならぬ心理的伝染である、医師はあっさりこう判断する。そのとおりにはちがいないが、しかし心理的伝染はざっとつぎのようにして行なわれるのである。患者たちは、医者が患者のひとりひとりについて知っているよりも、通例お互いをもっとよく知りあっている。彼らは、医者の回診が終ると、互いに容態について心配しあう。そのうち、ひとりに発作が起るとする。そうしてその原因はあるいは家からきた手紙、あるいは事新たに掻きたてられた恋の悩みにあるなどというふうに、たちまちのうちにみんなにわかってしまう。みんなのうちには共感が呼び覚まされる。そして無意識裡につぎのような推論が行われる。「もしこれこれの原因のために、こういう発作に襲われるのだとすれば、自分もこういう発作に襲われるだろう、なぜなら自分にも同じような訣合があるのだから」もしこれが意識化しうる推論であったとしたならば、この推論は、おそらく「自分にも同じような発作が起こるかも知れない」という不安になっていったことであろう。しかしこの推論は無意識の層の中で行われるから、患者たちが怖れていた症状が本当に実現してしまうのである。だから同一化は「あたかも……のごとき」を表現し、無意識界内部にとどまって動こうとしない一つの共通のものに関係しているのである。

同一化は、ヒステリー症においては、ある性的共通性を表現するためにもっとも頻繁に利用される。婦人ヒステリー患者は(いつもそうであるとはかぎらないが)彼女らの症状において、自分と性的に交渉のあった人物、もしくは自分が性交した同一の人物と現在性交を続けている人物と自分とを同一化する。言葉というものはうまいもので、愛するふたりは「一心同体」だというようにこの考えをちゃんと表現している。ヒステリー症の空想並びに夢において、同一化が行われるための十分なる条件は何かというと、患者ないし夢みる人が性的関係を念頭に置いていること(だからといって何もその性的関係が現実のものでなければならないということはないが)である。上記の婦人患者が、夢の中でその女友だちの位置に自分自身を置き、ひとつの症状(実現のかなわない願望)を作り出すことによって自分をその女友だちと同一化し、これによってその女友だちに対する嫉妬心(しかし患者自身はこの嫉妬をいわれないものだと認めている)を表現しているのは、そういう次第でただ単にヒステリー的思考過程の諸法則に従ったまでのことなのである。この過程はつぎのようにいい直して説明することもできよう。患者が夢の中で自分を女友だちの位置に据えおいたのは、その女友だちが彼女の夫においては自分の位置を占めているからであり、また、彼女が自分の夫の価値評価内部においてその女友だちの占めている位置を占めたいと望んでいるからである。(フロイト『夢判断』上 p191-197 新潮文庫 高橋義孝訳)



※追記

フロイトは、原抑圧は欲動の身体的な構成物somatic component であり、これを夢の臍やら菌糸体と(我々の存在の核)といっている。

どんなにうまく解釈しおおせた夢にあっても、ある箇所は未解決のままに放置しておかざるをえないこともしばしばある。それは、その箇所にはどうしても解けないたくさんの夢思想の結び玉があって、しかもその結び玉は、夢内容になんらそれ以上の寄与をしていないということが分析にさいして判明するからである。これはつまり夢の臍、夢が未知なるもののうえにそこに坐りこんでいるところの、その場所なのである。判読(解読)においてわれわれがつき当る夢思想は一般的にいうと未完結なものとして存在するより仕方がないのである。そしてそれは四方八方に向ってわれわれの観念世界を網の目のごとき迷宮に通じている。この編物の比較的目の詰んだ箇所から夢の願望が、ちょうど菌類の菌糸体から菌が頭を出しているように頭を擡げているのである。(フロイト『夢判断』第七章「夢事象の心理学」新潮文庫 下 p279)



2015年4月25日土曜日

トラウマと主体性

レイプされたのはあなたのせいじゃない―被害に遭った女性ジャーナリストが、被害者を撮り続ける理由

――という記事を少し前に読んだのだが、その後、この記事をリンクして、次のようにツイートしている方がいるのに行き当たった。

寮美千子 ‏@ryomichico これは、奈良少年刑務所の教官がいつも話していることと合致。加害者の多くは、虐待を受けてきた子。

あれ? そんなことが書いてあったかなと疑問に思い、この方の別のツイートを眺めてみると、このようにある。

寮美千子 @ryomichico 【性欲よりも“支配欲” レイプ被害の真の姿とは?】 http://wotopi.jp/archives/15289 「性犯罪は性欲が強い人が行うと思われがちですが、アメリカでは、性暴力は性欲よりもむしろ支配欲によって行われると考えられています。他者を支配下に置きたい、コントロールしたいという欲望」

おそらくこの「支配欲」を《加害者の多くは、虐待を受けてきた子》という文における加害者の支配欲と読み取られたのであろう。

――というわけで、この寮美千子さんにも元記事のフォトジャーナリスト大藪順子さんにも何の文句を言うつもりもない。

ただ、大藪さんのインタヴュー記事には、《悪意のある人はいなかったですね。たとえば「加害者にリベンジしてやろう」というような。そうではなくて、前に進もうとしている》とあり、すなわち彼女が取材して写真を撮った性虐待を受けた方々は、加害者になっていないと語られている。

他方、寮さんの《加害者の多くは、虐待を受けてきた子》というツイートは、それとは相反するということだけだ。わたくしと注目する箇所が異なったのだろう。

そして寮さんは、《加害者の多くは、虐待を受けてきた子》という奈良少年刑務所の教官の話を強調したかったのだろう。

今、わたくしはひどく曖昧に書いていることを自覚しているが、冒頭の記事だけではなく、大藪順子さんが発言されたり講演での語りなどにかかわる別の記事も三つほど読んでみた。とはいえ繊細に扱うべき問題なので、あまりシロウトの感想を書きたくない。そのための曖昧さである。

ただ写真を撮るという行為には、次のような側面はあるだろう。

カメラを持つ手が武器を握る手に見えないような奴はカメラマンを辞めろと藤原新也がどこかで言っていて、まあ何如にも藤原さんらしい言い方だが、このハードボイルドな断定が一時気に入っていて、本を読む姿が云々、コンピュータを見る目が云々、とか色々変奏させて人を判断していたことがある。(丹生谷貴志ツイート)
写真をとるということは、機関銃に似た固い物体を相手にむけるという行為である。写真をとることにも、とられることにも、私に抵抗があるのは、このためもあるらしい。つまり、私の心の中にある対人恐怖に、相手から攻撃されること、人を攻撃してしまうことの恐怖が加わって、写真というものを苦手にしているらしい。(中井久夫「顔写真のこと」『記憶の肖像』所収)
遥かな距離にある対象物に照準を合わせること、そして指の微妙な動きが成功と失敗とを分けへだてるという物理的な類似にとどまらず、ある攻撃的な衝動なしには達成されがたい振舞いとして、撃つことと撮ることとの心理的な類縁性が、すでに写真の発生期に、狩猟の快楽に目覚めたばかりの旅行家によって実践されている点に、われわれは改めて興味をおぼえる。ある種の征服欲の発現なしには、撃つことも撮ることも真の目的を遂げえないだろう。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』p607)



わたくしが、寮美千子さんのツイートに、ある穿った見解を書かれているのかな、と一瞬の錯覚を覚えたのは、これらの文が念頭にあったせいである。そしてそれは誤解であったことが分かった。


…………

◆いくつかの資料の列挙。

【一般論】

性的虐待の昨日の犠牲者は、今日の加害者になる恐れがあるとは今では公然の秘密である。

It's now an open secret that yesterday's victims of sexual abuse run the risk of becoming today's perpetrators. (When psychoanalysis meets Law and Evil: perversion and psychopathy in the forensic clinic Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe  2010)
非常に多くのものが権力欲の道具になりうる。教育も治療も介護も布教もーー。(……)個人、家庭から国家、国際社会まで、人類は権力欲をコントロールする道筋を見いだしているとはいいがたい。差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。(中井久夫「いじめの政治学」)


【トラウマとその治療】

治療における患者の特性であるが、統合失調症患者を診なれてきた私は、統合失調症患者に比べて、外傷系の患者は、治療者に対して多少とも「侵入的」であると感じる。この侵入性はヒントの一つである。それは深夜の電話のこともあり、多数の手紙(一日数回に及ぶ!)のこともあり、私生活への関心、当惑させるような打ち明け話であることもある。たいていは無邪気な範囲のことであるが、意図的妨害と受け取られる程度になることもある。彼/彼女らが「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」となるのも当然であろうか。世話になった友人に対してストーキング的な電話をかけつづける例もあった。

特に、男性治療者に対する誘惑的な態度は、不幸にもレイプによって女性としての歴史を始めた場合に多い印象がある。それは必ずしも治療者ではなく異性一般に向かい、時に結ばれるところまで行くが、結婚の場合、男性側の「同情結婚」となっていることも多く、しかも結婚当初から波瀾が多く、不仲を継続している。その中には結婚に伴う行為が配偶者にはわからないままでセカンド・レイプになっている場合もあるにちがいない。配偶者がこれに気づくことは一般に期待できず、事態は螺旋状に悪循環となって、精神科医に相談されるならまだしも、そのまま離婚となっている場合も少なくないのではないか。「夫の理不尽性」が主訴であって、しかも具体的内容に乏しい時には、特にその可能性が高い。

それが思春期の事件であった場合だけでなく、幼児の性虐待の再演である場合もある。成人期における男女交際において、同情的な男性も親密になれば性的接近にうかうかと陥る。これが女性には過去の再演となる。これは、児童期の性虐待自体がまず同情を示して児童に接近する場合が少なくないからであろう。一見「堅い」人物が性的劣等感を持ち、あるいは社会的に禁欲を強いられ(寡夫や障碍者)ているうちに、たまたま攻撃者となり、攻撃が児童に向かって時に噴出することがありうる。男性教師が、不幸な家庭の、才能があって美しい女性徒に同情し可愛がることが、性的凌辱に終わることもあり、結婚に至ることもあるが、幸福な結婚となる場合もそうでない場合もある。婚外関係において、打ち明け手と選んだ「立派な」人が性的接近者となってしまう場合もある。彼女は「結局はこの人も男性にすぎないのだ」と結論し、隠微な方法でこれは世間に暴露する。男性一般への一つの復仇である。こういう場合に「境界型人格障害」という診断を下すのはまだしも、インテンシヴな治療を試みて難症化が起こることは大いにありうるのではないか。

犠牲者は聖者ではない。彼女が傷口に塩を塗るような「精神的リストカット」を行うことも、外傷の再演を強迫的に求めることも、どんな男性もしょせん男性であることを確認しようとすることも、これらがすべてないまぜになっていることもありうる。

スイスの研究者ヴィリーがその論文「ヒステリー性結婚」において挙げているいくつかの例は明らかに同情結婚である。彼は同情する男性でなく同情される一見清純な女性のほうに過去の男性関係があることを述べ、さらに彼のいうヒステリー性結婚においては性は妻の権力の道具となり、同情する夫が性的に迫れば「不潔」と退け、遠ざかっていると「冷たい」と罵ることによって、夫の立つ瀬をなくし、支配するさまを、最後の乾ききった「ヒステリー性欠損結婚」期まで四期にわけて追跡しているが、ヴィリーがいささか辛口の皮肉を交えて述べている女性たちがかつての性被害者である可能性を私は思わずにはいられない。性を権力の道具として女性を支配するのは性加害者の特徴であるからである。妻の現在の行動は加害者との同一視を経ての性の権力化であろうか、それとも転移を経ての、あるいは異性一般への端的な復讐であろうか。「男性は皆五十歩百歩である」ことを反復確認しているのであろうか。そしてそれは被害者の自責感を軽減するのであろうかまた、「同情的結婚者」も意識的・無意識的に「恩に着せる」支配者でありうる。夫からのDVへの通路も開かれている。

幻想的復讐を初め、これらの被害者側の行為は外傷の治癒に寄与せず、むしろ「化膿」をひどくするからこそ強迫的反復が起こるのであろう。治療者も、この行為の被害者(にして加害者)となることがあり、その確率は相手の外傷被害性に気づいていない場合に特に高い。特定の具体的被害を同定する前に、これらを含めて外傷被害者的特性に対する感覚を持っている必要がここにある。通常の逆転移分析では足りない。いずれにせよ、このような例では、治療者が困惑する事態が頻繁に起こり、対処に苦しむことが多い。

時には、被害者が、家族の誰かの治療者役を演じることによって、その誰かの「病気」を永続させる結果になっていることもある。その誰かが治癒した時に、被害者の重大な障害が明らかになったこともあった。

私たち治療者も、私たちが治療者になった動機の中に外傷性の因子があって、それが治療の盲点を創り、あるいは逆転移性行動化に導いていないかどうか、吟味してみる必要があるだろう。男女を問わず成人になる過程で、あるいは成人以後に外傷を負わない人間はあっても少ない。直感的に「苦手な患者」が自己の外傷と関係している場合もある(たとえば私の戦時下幼少時の飢餓体験とそれをめぐる人間的相克体験は神経性食欲不振者の治療を困難にしてきた)。逆に「特別の治療に値する患者」と思い込む危険な場合もある。いずれも、治療者を引き受けないことが望ましく、外的事情でやむをえず引き受ける際には、スーパーヴァイザーあるいはバディ(秘密を守ってくれる相互打ち明け手)を用意するべきである。(「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』中井久夫より抜粋)


【トラウマと主体性】

トラウマと主体性という組み合わせは奇妙なものに思えるかもしれません。トラウマというのは、主体がそれを経験するとき、まさに主体はそれにたいして何の主体的な行為もできずただ受動的に出来事を被るだけです。主体は何の準備もなく、不安さえも感じず、何も理解できないまま突然出来事に巻き込まれます。ですからトラウマ的体験に出会うときには主体性の欠如があるといえるでしょう。ではトラウマを語るにおいて主体性というものを問題にする必要はないのでしょうか。

ひとつの例を挙げてみましょう。これはすでに他のところでも紹介したものです* 。

1973年8月にストックホルムでの銀行強盗人質立てこもり事件が発生しました。その事件を有名にしたのは、人質解放後の捜査で、犯人が寝ている間に人質が警察に銃を向けるなど、人質が犯人に協力して警察に敵対する行動を取っていたことが判明したこと、そしてまた、解放後も人質が犯人をかばい警察に非協力的な証言を行ったほか、1人の人質が犯人に愛の告白をし結婚する事態になったことなどです。そこからストックホルム症候群と名付けられました。

これについてウィキペディアは次のように書いています。「犯人と人質が閉鎖空間で長時間非日常的体験を共有したことにより高いレベルで共感し、犯人達の心情や事件を起こさざるを得ない理由を聞くとそれに同情したりして、人質が犯人に信頼や愛情を感じるようになる。また「警察が突入すれば人質は全員殺害する」となれば、人質は警察が突入すると身の危険が生じるので突入を望まない。ゆえに人質を保護する側にある警察を敵視する心理に陥る。このような恐怖で支配された状況においては、犯人に対して反抗や嫌悪で対応するより、協力・信頼・好意で対応するほうが生存確率が高くなるため起こる心理的反応が原因と説明される。

上述のように、ストックホルム症候群は恐怖と生存本能に基づく自己欺瞞的心理操作(セルフ・マインドコントロール)であるため、通常は、人質解放後には、犯人に対する好意は憎悪へと変化する」。

しかしこうした心理学的説明ではどうして事件の後で犯人との結婚にまで至ったのかが説明できません。

フランスの分析家ジャン-ジャック・ゴログはこの事件について次のような解釈を与えています。「ストックホルム症候群は、主体が受動的に被った出来事に、それがあたかも自分自身の選択であるかのような意味を与えるという大きなメリットがある」

つまり、人間は偶然に被るトラウマに甘んじることはできない、運命にいたずらに引き回されるだけでは生きていけないということです。天からふってくるようにおこる人質事件の被害者であっても、そこで主体的な行為によって自分自身を関与させることでトラウマを逃れ事件を生きることができるのです。そこに主体的行為があったからこそ事件後結婚にまで至ったのです。人間の行為は行為をなした者の以後の言動をも決定するからです。

もう一つの例は有名なフロイトの「糸巻き遊びの子ども」の例です。この例は「快感原則の彼岸」でフロイトが死の欲動を導入するための動機のひとつとしてあげています。人間に取ってもっとも大きなトラウマのひとつは母親からの離別でしょう。この子は母親がこの子を残してどこかに出かけるとすぐに紐の付いた糸巻きを投げオーオーオー「fortあっち」と叫び、つぎに糸巻きを取り戻してダー「Daここ」と嬉しそうに叫ぶのです。フロイトによると、子どもは母親の喪失を受動的に被るのだが、その苦しみを逃れるために子どもは離別のシーンを糸巻きによって能動的に再現し、あたかもそれは子ども自身が積極的に行った行為のように扱うのです。フロイトはこう言います「子どもたちは生活のうちにあって強い印象をあたえたものをすべて遊戯の中で反復すること、それによって印象の強さをしずめて、いわば、その場面の支配者となることは、明らかである* 」つまりトラウマ的体験たいして主体的に立ち回ることでトラウマによる苦痛をのがれることができると言うことです。これらの例が示すのはトラウマに対抗するには主体性というものが必要であるということです。

ラカンはこの子どもの遊びのなかの糸巻きを、子どもが自分自身から切り捨てる対象であると言っています。子どもはこうやって対象喪失を引き受け主体として母親から分離して生きていくのです。ここには対象と主体、ラカン用語では小文字のaと斜線を引かれたS/があります。 ラカンは対象と主体がある形で結びつくことをファンタスムと呼び、それをS/<>aという記号で記します。この子どもの遊びの中にはしたがってファンタスムの構造が見られるわけです。(向井雅明『精神分析とトラウマ』ーー 2014年一月26日京都大学における公開シンポジウム「トラウマと反復精神分析の臨床」における発表





2015年4月20日月曜日

フロイトの「拘束されたエネルギーと拘束から解放されたエネルギー」をめぐって

さてこのところジジェクのサントーム概念の捉え方の変遷をいくらか探ってみたなかで、いくらか初期ジジェクの著作を覗いてみたので、ここではすこし細部に拘ってみることにする。

サントームとして捉えられた症状は、文字通り、われわれの唯一の実体、われわれの存在の唯一のポジティヴな支え、主体に一貫性を与える唯一のポイントである。

言い換えれば、症状は、われわれが"狂気を避ける"方法、われわれが、何も選択しない代わりに(ラディカルな精神病的自閉症、象徴的世界の崩壊)、何か(症状-形成物)を選択することである。その選択は、あるシニフィアンに、あるいは世界におけるわれわれの存在へ最低限の一貫性を保証してくれる象徴的形成物に、われわれの享楽を拘束することbindingを通してなされる。

もしこの根源的領域における症状が拘束から解放されてunboundしまったら、文字通り"世界の終わり"である、ーー唯一の代替物は無である、すなわち純粋な自閉症、精神病による自殺、死の欲動に身を委ねられ、象徴的世界の全き壊滅にさえ向かう。

これが、精神分析過程の終わりのラカンの最終的な定義が、症状との同一化 identification with the symptomである理由だ。患者が、彼の症状の現実界Realにおいて、彼の存在の唯一の支えを認めたとき、分析は終結する。これが、フロイトの"Wo Es war, soll Ich werden"を如何に読まなければならないか、ということでもある。すなわち、主体としてのあなたは、あなたの症状の既ににあった場所に同一化しなければならない。この"病理上の"特異性particularityにおいて、あなたの存在に一貫性を与えている要素を認めなければならない。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』THE SUBLIME OBJECT OF IDEOLOGY 1989ー--邦訳はもちろんあるが、わたくしの手元には原文しかないので、私訳した)

ジジェクは、ここにある捉え方から、すなわち《主体としてのあなたは、あなたの症状のある場所に同一化しなければならない》からのいくらかの移行があるだろうことは、「ラカン派の「主体の解任destitution subjective」をめぐって」にみて見た。

とはいえ、ジジェクこのこの文において既に、サントームの対象a、欲動の側面だけではなく、《世界におけるわれわれの存在へ最低限の一貫性を保証してくれる象徴的形成物》という側面を強調している。

ところで、二年後に上梓された『斜めから見る』にはこう書かれている。

サントームLe sinthomeは症状symptomではない。症状は、解釈によって解読されるべき、暗号化されたメッセージであるが、サントームは意味のない文字であり、即座に意味-の-享楽jouis-sense, "enjoyment-in-meaning," "enjoy-meantを獲得する。(ジジェク『斜めから見る』1991 鈴木晶訳だが、symptomの訳語が「症候」となっているのを「症状」とした)

この文だけ安易に読んでしまえば、サントームのある側面が、ラカンの後期「症状」概念と同じものだということが見えてこないかもしれない。だが、「サントームは症状ではない」とされているのは、サントームはラカンの前期症状概念ーーそれは通常、現在でも医学用語として使われている意味に近いのだろうがーーそれとは違うといっているのだ(参照:ラカン派の二種類のサントーム・症状)。


…………

さて、ここでは、冒頭の文章にある"Wo Es war, soll Ich werden"と、binding、unboundの二つに注目することにする。

◆まず、"Wo Es war, soll Ich werden"である。向井雅明氏の「Wo Es war, soll Ich werden」『imago(イマーゴ) 』 Vol.6-11,1995,pp.164-171.)には、次のような説明がある。

フロイトが『続精神分析入門』の中で精神分析の意図として表明した“Wo Es war, soll Ich werden.”は、フランスではマリー ・ ボナパルトによって “Le moi doit déloger le ça.” と訳された。 これを日本語に訳すと 「自我はエスを追い出さなければならない」 となる。 日本では、 このフロイトのことばは懸田克躬・ 高橋義孝によって 「かつてエスであったところを自我にしなければならない。 」 と訳されている。

フロイトも『終わりのある分析、終りのない分析』で述べているように、分析作業は去勢(-φ)の岩に遭遇して終了する。これはひとつの「Wo Es war……」である。無意識の真理、去勢(-φ)があったところに私はやってこなければならないのだから。

だが、これではまだ分析終了の半分だけを説明しているのにすぎない。あとの半分は…、患者はファンタスムのイマジネールな形態を整理し、そこにそれまで自らの症状の中で沈黙の内に満足されていた欲動の対象 (a) を自らの存在の核をなすものとして認め、 私は 「それ」 (je suis ça = エス)であると言うことである。 Wo Es war, soll Ich werden. まさしくこれは、エスがあったところに、私は到達しなければならない、である。

"Wo Es war, soll Ich werden"の訳、および解釈を伴なう訳は次ぎの通り。

①《かつてエスであったところを自我にしなければならない》(懸田克躬・ 高橋義孝訳)

②《エスがあったところに、私は到達しなければならない》(向井雅明)

③《主体としてのあなたは、あなたの症状の既ににあった場所に同一化しなければならない。you, the subject, must identify yourself with the place where your symptom already was》(ジジェク)

ーー②と③は、ほとんど同じことを言っているとしてよいだろう。


◆次ぎは、binding、unboundである(わたくしは、それぞれ「拘束すること」、「拘束から解放されて」、と訳した)。

ジジェクが、それを意図して使っているのかどうかは分からないが、boundという語彙は、フロイトの『快感原則の彼岸』に表れる。まず英訳を示そう。

This picture can be brought into relation with Breuer's distinction between quiescent (or bound) and mobile cathectic energy in the elements of the psychical systems; the elements of the system Cs. would carry no bound energy but only energy capable of free discharge.

一方は、boundエネルギーであり、もうひとつはmobile cathectic エネルギーである。

この文章は、岩波新訳ではどう訳されているかは知らない身であるが、人文書院の旧訳ではかくの如し。

……このような想定と、ブロイアーが、心理的体系の諸要素について、静止せる(拘束された)供給エネルギーBesetzungsenerと自由に活動しうる供給エネルギーとを区別した見解とをむすびつけて考えることができる。Bw体系の諸要素は、そのとき拘束されたエネルギーをもたず、ただ自由に放出できるエネルギーしかそなえていないだろう。(フロイト『快感原則の彼岸』フロイト著作集6 p165

この訳文は、「フロイト翻訳正誤表」氏によって次のような訳文変更の提案がある、《心的システムの諸要素のなかに、静止せる(拘束された)備給エネルギーと自由に活動しうる備給エネルギー》。

いずれにせよ、ブロイアー起源の用語であることがわかる。独語とは殆ど縁のない身であるが、この際、独原文も貼り付けておこう。
Man kann mit dieser Vorstellung die Breuer-sche Unterscheidung von ruhender (gebundener) und frei beweglicher Besetzungsenergie in den Elementen der psychischen Systeme zusammenbringen; die Elemente des Systems Bw würden dann keine gebundene und nur frei abfuhrfähige Energie führen.

ーーこれで見ると、人文書院の訳文は、Besetzungsenerという原語が置かれる位置がずれているようにみえるが、独語に疎い者として深くは追求しまい。

さて、何がいいたいのかと言えば、この「拘束されたエネルギー」は、フロイトだけでなくラカンの欲動論におけるひとつのキーワードであるということだ。

ここでヴェルハーゲの論から抜き出すならば、こうある。

フロイト理論において、快感原則は、"シニフィアン内部"で機能する、すなわち表象Vorstellungenとともに、ということである。そこでの"拘束されたbound"エネルギーは、いわゆる二次的な過程内部に結びつけられる。快感原則の彼岸に横たわるものは、表象によって表現され得ず、一次的な過程内部での"自由なfree"エネルギーとともに作動する。後者は自我にトラウマ的な影響を与える。ラカンの現実界とは、フロイトの、原抑圧された無意識の臍であり、固着のせいで居残ったstays behindものである。"居残るstays behind"が意味するのは、「シニフィアンに、言語に転換されない」ということである(Freud, letters to Fliess, dd. 30th May 96, 2nd Nov.96)。(Paul Verhaeghe, Beyond Gender. From Subject to Drive)

象徴界での二次的なエネルギーが、「拘束されたboundエネルギー」であり、他方、現実界の一次的なエネルギーが、「拘束から解放されたunboundエネルギー」なのである。

フロイトは、その経歴の最後に、自由連想の技法は「終りがない」1937ことを認めた。象徴界における「徹底操作」1914では不十分なのだ。というのは、徹底操作(ラカンの「幻想の横断」)だけではでは、構造的に、欲動の真の核には繋がりえないからだ。すでに、フロイトは、この1914年の論文にて、「反復強迫Wiederholungszwang」を発見しているが、それはなにも偶然の一致ではないと言える。とはいえ、反復強迫とは、普通の反復とは異なるものだが、その時点ではフロイトは十分な区別が出来ていなかったように見える。

反復強迫とは、象徴化できないものを象徴化する絶え間ない試みである。すなわち、ラカン用語でいうなら、「書かれぬことをやめぬもの“C'est ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire”」であり、シニフィアンの連鎖automaton(自由連想)が、象徴界におけるネガティヴな生産物としての穴、tuchè(反復強迫としての現実界)を決定づけているのにフロイトはある時期から気づいていた。

これが、欲動の強迫を「拘束しbind」、二次的な過程(象徴界)に繋げようとする、構造的に「不可能な」試みということである。驚くべきなのは、フロイトはすでに1890年代にトラウマを研究するなかで(たとえば『ヒステリー研究』1895)、この「言語に転換されない」異物 Fremdkörper(あるいは異物としての身体)に頻りに言い及んでおり(「異物」はブロイアー概念)、そこですでに快感原則の彼岸の核を見出しているとさえいえることだ。

いずれにせよ、この「書かれぬことをやめぬもの」が「欲動」の姿である。そして、欲動は潜在的には死の欲動である、《…toute pulsion est virtuellement pulsion de mort.》 (Lacan Ecrit 848)

きみたちにフロイトの『性欲論三篇』を読み直すことを求める。というのはわたしはla dériveと命名したものについて再びその論を使うだろうから。すなわち欲動Triebを「享楽のdérive(drift)漂流」と翻訳する。(ラカンセミネールⅩⅩアンコール私訳)

フロイトの文における《Bw体系の諸要素は、そのとき拘束されたエネルギーをもたず、ただ自由に放出できるエネルギーしかそなえていない》という表現は、いかにもあっさりしているが、この《拘束されたエネルギーをもたず、ただ自由に放出できるエネルギー》が、「死の欲動」を言い表わそうとする起源の少なくともその一つである。

最後に、ジジェクがフロイトの『集団心理学と自我の分析』をめぐって語る中での、”the unbinding of a social link”という表現を抜き出しておこう。

……for Freud, the “regressive” primary crowd, exemplarily operative in the destructive violence of a mob, is the zero‐level of the unbinding of a social link, the social “death drive” at its purest.(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012)
……フロイトにとっては、“退行的な”原始集団、典型的には暴徒の破壊的な暴力を働かせるその集団は、社会的な絆の拘束を解き離すゼロ度、最も純粋な社会的“死の欲動”である。(私訳)

2015年4月4日土曜日

母のファルスの去勢ーー象徴的ファルスによる想像的ファルスの去勢

〔エディプスの衰退、父への同一化に〕先立って、父が母を剥奪するものとして機能し始める瞬間があります。つまり、父が母とその欲望の対象との関係の背後に、「去勢するもの」として姿を現す瞬間があるのです。(……)この場合、去勢されるのは主体ではなく、母だからです。(ラカン セミネールⅤ)

さて、このセミネールⅤでラカンは何を言っているのだろう。まずはなによりも「去勢」は子供の去勢ではなく、母の去勢であるということだ。母の去勢? 母にはおちんちんはもちろんない。だがファルスはある。母のファルス、想像的ファルスである。

以下にジジェクの2012年に上梓された文章を英文のまま付す。

The most important part of the imaginary is what cannot be seen. In particular, taking the pivot of the clinical practice that, for example, is developed in Seminar IV, La relation d'objet, it is the female phallus, the maternal phallus. It is a paradox to call it the imaginary phallus when precisely one cannot see it; it is almost as if it were a question of imagination. In Lacan's celebrated observations and theorizations on the mirror stage, Lacan's imaginary register was essentially linked to perception. While now, when the symbolic is introduced, there is a disjunction between the imaginary and perception, and in some way this imaginary of Lacan is linked to the imagination. … This implies the connection of the imaginary and the symbolic and thus a thesis that is separated from perception: the image is a screen for what cannot be seen. Insofar as the maternal phallus is by definition veiled, this brings us to the positive/constitutive ontological function of the veil: the image/screen/veil itself creates the illusion that there is something behind it—as one says in everyday language, with the veil, there is always “something left to the imagination.”(ZIZEK、LESS THAN NOTHING)

※末尾に私訳貼付有り。


さて、すこし前に戻れば、ラカンはこう言っていることになる、《父は、母に介入し、禁止を命ずる。お前は、お前が生み出したもの(想像的ファルスとしての子供)を取り返してはいけない!と》。

人間の欲望は他者の欲望であるという定式から、子供にとって他者はまず母親であるから、子供の欲望は母親の欲望、つまり母親を満足させようという欲望となる。母親の前で子供は母親を満足させる対象の場にみずからを置き母親を満足させようとする。つまり母親のファルスとなる。(……)

子供が母親の前にいるとき母親の目が子供だけに向き、欲望の対象が子どもだけであれば子どもはその貪欲な口の中で押しつぶされてしまう。このときに子供の外にも母親の関心を引くものがあれば、母親の欲望が「他のもの」(Autre)にも向いていれば、子供は母親のファルスに全面的に同一化する必要ななくなり、母親に飲み込まれることを逃れることができる。その「他のもの」が子どもを救ってくれるのだ。この「他のもの」が父親である。だがこの父親は現実に存在する父親ではない。ひとつの隠喩である。(向井雅明――「鰐なる母=女の口、あるいは象徴的ファルスと想像的ファルス」)


 ラカンは後年も次のように言っている。

フロイトは、抑圧は禁圧に由来するとは言っていません。つまり去勢はおちんちんをいじくっている子供に今度やったら本当にそれをちょん切ってしまうよ と脅かすパパからくるものではないのです。 「(テレヴィジョン」)

フロイトは「母の去勢」についてこう書いている。

人間の最初の不安体験は、出産であり、これは客観的にみると、母からの別離を意味し、母の去勢(子供すなわち陰茎の等式により)に比較できるかもしれない。(フロイト『制止、症状、不安』)

この根源的な不安を「去勢」やら「ファルス」用語で説明するのは、《有機体の水準での根源的な喪失を、主体と〈他者〉のファルスの欠如として再-解釈》(ポール・ヴェルハーゲ)しているだけという見解もある。

この「母の去勢」は、むしろ出産外傷、あるいは原トラウマ、もし「去勢」という語を使いたいなら、「原去勢」にかかわるといってよいのかもしれない。

ランクは出生という行為は、一般に母にたいする(個体の)「原固着」Urfixerungが克服されないまま、「原抑圧」Urverdrängungを受けて存続する可能性をともなうものであるから、この出生外傷こそ神経症の真の源泉である、と仮定した。後になってランクは、この原外傷Urtraumaを分析的な操作で解決すれば神経症は総て治療することができるであろう、したがって、この一部分だけを分析するば、他のすべての分析の仕事はしないですますことができるであろう、と期待したのである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』)

ラカン自身、オットー・ランクの「出産外傷」と似たようなことをいっている。

根源的な喪失とはなにか。永遠の生の喪失である。それは、矛盾しているように思われるかもしれないが、性的存在として産まれた瞬間に喪われる。(ラカン セミネールⅩⅠ)

わたくしは、小笠原晋也氏の独特のマテームφ barréを「原去勢」、あるいは「出産外傷」と読む。以下、小笠原氏の説明を付すが、氏は独特の訳語を使い馴れないと読みづらい。以下の「徴象,影象,実在」は、通常、「象徴界、想像界、現実界」である。「徴示素」はシニフィアン、「悦」は享楽、「学素」はマテームである。

…phallus についてですが,Lacan は精神分析において三つの phallus を区別するよう教えています.それは,徴象,影象,実在の三つの位に応じての区別です.

まず「去勢の影象的な関数」としての phallus : ( - φ ) があります.第二に「悦の徴示素」signifiant de la jouissance と規定される phallus : Φ があります.第三に,signifiant de l'Aufhebung, signifiant de la perte と Lacan が呼ぶ phallus : φ barré があります.この学素はわたしの工夫ですが,その概念はちゃんと Lacan のなかにあります.

以上の三つの phallus はいずれも signifiant ですが,( - φ ) は imaginaire, Φ symbolique, φ barré は réel の位にそれぞれ位置づけられます.

他方,去勢とは何でしょうか?精神分析において去勢は,基本的に,去勢複合,すなわち,去勢不安として問題になります.そして,去勢不安という表現は冗長であって,精神分析においてかかわる不安はすべて去勢不安です.去勢との連関における不安です.

不安は,a が φ barré を代理する限りにおいて,a との出会いにおいて惹起されます.つまり,去勢とは φ barré そのものです.かくして,phallus と去勢との関繋を整理すると,こうなります.まず,φ barré は去勢そのものです.

( - φ ) は φ barré の影象的な相関者であり,女の欠如せる phallus です.最後に Φ は,男の性別構造において φ barré の穴を塞ぐ仮象であり,(……)男において特に強い精神分析への抵抗(男性的抗議)を惹起するものです.

ですから,le phallus est le signifiant de la castration とひとくちに Lacan が言ったことは無いのではないでしょうか?勿論,そう言ったこともあったかもしれませんし,それはそれで,上述の三つのうちいずれを意義しているのか読解できる だろうと思いますが,先ほど Lacan のおもだったテクストを見た限りでは,le phallus est le signifiant de la castration ともろに言われている箇所は見つかりませんでした.代わりに,わたしの引用した表現は,Lacan 自身のものです.(ラカンの S(Ⱥ)をめぐって

小笠原晋也氏自身、オットー・ランクの名を出して次ぎのようにいっている。

もし仮に主体と他 A との“交わり” [ intersection ] に phallus が有り,それにより性関係が成り立つなら,性本能の完全な満足が得られるだろう.そこにおいて成就される十全たる悦は,現実において性行為がもたらすかもしれぬ束の間の快や満足ではなく,而して,もし例を想像するなら,聖書神話におけるエデンの園において人間が神との関係において得ていただろう至福,あるいは,それに劣らず神話的な Otto Rank の想定する“幸福な子宮内生活”(cf. Freud, 1926, p.166)〈其こにおいては,母胎内で子が母と完全に一体となっている〉に相当するかもしれぬような悦であろう.

ともあれ,明らかに,現実の人生においては,如何なる幸運に見まわれようと,そのような悦は実現しない.したがって,帰謬法により,結論される: 主体と他 A との性関係を実現させ得るようなphallus は無い: φ barré .(『ハイデガーとラカン』)

ここから、φ barré原去勢と読むことができるだろう。

…………

さてここまで書かれたことは、ポール・ヴェルハーゲの説明ならこうなる。

去勢不安そのものは、すでに地層にある原初の不安の防衛的なエラボレーションである。地層にある原初の不安とは、主体と〈他者〉 とのあいだの関係から起こる。各々の主体の原初の不安とは〈他者〉に 呑み込まれ貪り喰われることである。すなわ ち、〈他者〉の享楽の受動的な対象に還元されてしまうことである。概念的な用語なら、これが意味するのは、分離の可能性のない全的な疎外を意味する。

その原初の形式においては、この法は母にかかわる。彼女は禁じられているのだ、彼女の生産物を保持することを、たとえば子どもを彼女自身のものにすることを。 これが近親相姦の最初の意味である。すなわち、あなたは、あなたの子どもを自らの享楽 として捕えてはならない、ということだ。現在の、父と子とのあいだの近親相姦への強調は、 この原初の意味がほとんど忘れられてしまっているようなものだ。(「社会的絆と権威(Paul Verhaeghe)」)

「ファルス」用語で解釈されるのは防衛的なエラボレーションであるという前提を受け入れて、その上であえて「ファルス」用語で書き綴るのなら、父の「象徴的ファルス」(大きなファルスΦ)による「象徴的去勢」とは、まずなによりも母のファルス、「想像的ファルス」(小さなファルスーφ)をちょんぎることなのである。

構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。

この畏怖に対する一次的な防衛は、このおどろおどろしい存在に去勢をするという考えの導入である。無名の、それゆえ完全な欲望の代りに、彼女が、特定の対象に満足できるように、と。この対象の元来の所持者であるスーパーファザー(享楽の父)の考え方をもたらすのも同じ防衛的な身ぶりである。ラカンは、これをよく知られたメタファーで表現している。《母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。》(NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL(Paul Verhaeghe)

もちろん、象徴的ファルスの介入によって、〈母〉に貪り食われるのは止んだとしても、今度は大きなファルスとしての〈父〉に貪り喰われてしまったら、元も子もない。

重要なのは、父とその機能を差異化することである。機能は母と子どもの分離にかかわる。 それは〈他者〉の享楽から子どもを解放することを必然的に伴なう。もしこの分離が、二番目の〈他者〉としての父への疎外として終わってしまうのなら、それは構造的には母への疎外となんの相違もない。ラカンの意図はこの点を超えていくことであった。そしてそれがラ カンがこの機能――分離――とその象徴的特性に焦点を絞った理由である。象徴的特性の意味とは、作用する要素がシニフィアンであるということである。(Paul Verhaeghe、Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way

(おそらく続く)

…………

※追記

冒頭近くにジジェクの『LESS THAN NOTHING』から英文のまま貼り付けた文があるが、その前段のいくらかも含めての私訳。


ラカンが想像的領域imaginary registerについて語ったとき、彼は見ることができるイメージについて話していた。……しかし、いったん象徴的なものが導入されても想像的なものについて話すことをやめた分けではない。彼は想像的なものについて、相変わらず多くのことを語った。しかしその定義を全く変化させた想像的なものについてである。象徴的なものの導入後の想像的なものは、導入前の想像的なものとひどく異なる。…

想像的なものの概念はいかに変形したのか、象徴的なものの導入された後に。まさに正確に次の如し。想像的なものの最も重要な箇所は、見ることのできないものとして、である。特に、臨床診療の中心を取り上げるなら、例えば、セミネールIVの「対象関係」で展開されたのは、女性のファルス、母のファルスである。人はそのファルスを見ることができないのに、母のファルスを想像的ファルスと呼ぶのはパラドックスである。すなわちそれは、ほとんど想像力の問題なのである。

ラカンの名高い鏡像段階における観察と理論化において、ラカンの想像的領域は、本質的に知覚とリンクされていた。ところが象徴的なものが導入されたこの今、想像的なものと知覚の分裂がある。そしてこの想像的ものは、何らかの形で、想像力とつながっている。これが意味するのは、想像的なものと象徴的なもののつながりであり、故にそれは知覚から分離したものという命題である。「イメージは見られないもののためのスクリーンである」(Jacques‐Alain Miller, “The Prisons of Jouissance,” 2009)。

母のファルスは、定義上、ヴェールで覆われたものである限り、これは、肯定的/構成的なヴェールの存在論的機能をもたらす。すなわち、イメージ/スクリーン/ヴェール自体が、その裏に何かが隠されているという錯覚illusionを生む。日常的にヴェールという語彙を使うとき、いつも「何かが想像力に残されている何か」があるのと同様である。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012 私訳)

2015年3月18日水曜日

フロイト・ラカン派の「主人のシニフィアン」の遡及性

如何にコミュニティが機能するかを想起しよう。コミュニティの整合性を支える主人のシニフィアンは、意味されるものsignifiedがそのメンバー自身にとって謎の意味するものsignifierである。誰も実際にはその意味を知らない。が、各メンバーは、なんとなく他のメンバーが知っていると想定している、すなわち「本当のこと」を知っていると推定している。そして彼らは常にその主人のシニフィアンを使う。この論理は、政治-イデオロギー的な絆において働くだけではなく(たとえば、コーサ・ノストラ Cosa Nostra(われらのもの)にとっての異なった用語:私たちの国、私たち革命等々)、ラカン派のコミュニティでさえも起る。集団は、ラカンのジャーゴン用語の共有使用ーー誰も実際のところは分かっていない用語ーーを通して(たとえば「象徴的去勢」あるいは「斜線を引かれた主体」など)、集団として認知される。誰もがそれらの用語を引き合いに出すのだが、彼らを結束させているものは、究極的には共有された無知である。(ジジェク『THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』私訳)

《「主人のシニフィアン」も瘤のようなものであり、知識、信念、実践などを縫い合わせて、それらが横にずれることを止め、それらの意味を固定する》(ジジェク)。

なにがマスターシニフィアンを構成するのかといえば、《語りの残りの部分、一連の知識やコード、信念から孤立化されることによってである》(Fink 1995)。

この“empty”(空の)シニフィアン(主人のシニフィアン)が、正確な意味を持たないことによって、《雑多な観点、相相剋する意味作用のチェーン、ある特定な状況に付随する独特の解釈を、ひとつの共通なラベルの下に、固定し保証してくれる》(Stavrakakis 1999)

バディウは時折、"正義"を主人のシニフィアンとするように提案する。"自由"や"民主主義"のようなあまりにもひどくイデオロギー的に意味付けられ過ぎた概念のかわりにすべきだというものだ。しかしながら正義についても同様な問題に直面しないだろうか。プラトン(バティウの主要な参照)は正義を次のような状態とする、すなわちその状態においては、どの個別の決断も全体性の内部、世界の社会秩序の内部にて、適切な場所を占めると。これはまさに協調組合主義者の反平等主義的モットーcorporatist anti‐egalitarian mottoではないか。とすれば、もし"正義"を根源的な束縛解放を目指す政治の主人のシニフィアンに格上げしようとするなら多くの補足的な説明が必要となる。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』)

もっとも、主人のシニフィアンとはこれだけではない。たとえば<私>、<僕>というシニフィアンはどうか。

あなたは、すくなくとも最低限の言語構造をもつためには二つのシニフィアンが必要である。だからわれわれは、すでに二つのタームを持っている、すなわちS1とS2である。S1とは、最初のシニフィアン、フロイトの“境界シニフィアンborder signifier”、“原シンボルprimary symbol”、いや“原症状primary symptom”とさえいえるが、それは特別の地位をしめる。それは主人のシニフィアンなのであり、欠如を埋めようとする。その欠如を覆い隠す過程の保証としてのふりposeをする(みせかける)。最も良い、簡略な例であるならば、シニフィアン“私”である。それは己れのアイデンティティのイリュージョンを抱かせてくれる。S2は残りシニフィアン、シニフィアンのネットワークの連鎖の分母である。その意味で、また“le savoir”の分母、知識の連鎖を包含する知識である。(Paul Verhaeghe『 FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN'S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES』)

他にも、向井雅明氏はトラウマ(原トラウマ)の遡及性を次ぎのように語っている。

トラウマは遡及的に作用する。
S1―>S2->S1
(ラカンの症例)エマの例。店員の笑い→過去の想起 商店の親父の性的いたずら→症状一人で店に入れない。ある回想が抑圧されずっと後になって遡行作用によって初めて外傷になる。(向井雅明『精神分析とトラウマ』)

ここでは、トラウマ的な原光景でさえ主人のシニフィアンS1であるとされている。これはシニフィアンの遡及性、すなわち最初のシニフィアン S1 は次に来るシニフィアン S2によって意味的に決定されるという構造のこと。

ひとびとはある人を王(S1)として取り扱うのは、彼が王だからではない。人々(S2)が彼を王として取り扱うから、彼は王なのだ。(マルクス『資本論』)

これらは、ラカンがセミネールⅩⅩで強調した「原初とは最初のことではない」にかかわる。

とすれば、原初の”シニフィアン(S1,母なる〈他者〉mOtherの 欲望)は最初のことではないのだろうか。

反復されることになる最初の項などは、ありはしないのだ。だから、母親へのわたしたちの幼児期の愛は、他の女たちに対する他者の成人期の愛の反復なのである。(……)反復のなかでこそ反復されるものが形成され、しかも隠されるのであって、そうした反復から分離あるいは抽象されるような反復されるものだとは、したがって何も存在しないのである。。擬装それ自身から抽象ないし推論されうるような反復は存在しないのだ。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳ーー「二種類の反復ーー「反復強迫automaton」と「反復tuche」」)

主人のシニフィアンの遡及性の説明は、ジジェクの次の文がよいだろう。

そこには、《最初の事実は象徴的な行き詰まりであり、意味の世界の割れ目を埋めるために、外傷的な出来事が蘇生された》との文がある。

ここにあるのは、<あなた>が自らの原光景と思っているものは、後の生活での象徴的な袋小路によって遡及的に構成されたものではないか、という問いである。「問い」としたのは、ほんとうにこれだけなのだろうか、という疑念を、わたくしはいまだーー素朴にもーー持ち続けているところがあるから。


アインシュタインの特殊相対性理論から一般相対性理論への移行を例にとって考えてみよう。特殊相対性理論はすでに歪んだ空間という概念を導入しているが、その歪みを物質の効果と見なしている、物質がそこに存在することによって空間が歪む、つまり空っぽの空間だけが歪まない。一般相対性理論への移行にともなって、因果が逆転する。物質が空間の歪みの原因なのではなく、物質は歪みの結果であり、物質の存在が、空間が曲がっていることを示している。このことと精神分析との間にどんな関係があるのかというと、見かけ以上に深い関係がある。アインシュタインを模倣しているかのように、ラカンにとって<現実界> ――<物>―― は象徴的空間を歪ませる(そしてその中に落差と非整合性をもたらす)不活性の存在ではなく、むしろ、それらの落差や非整合性の結果である。

このことはわれわれをフロイトへと引き戻す。その外傷理論の発展の途中で、フロイトは立場を変えたが、その変化は右に述べたアインシュタインの転換と妙に似ている。最初、フロイトは外傷を、外部からわれわれの心的生活に侵入し、その均衡を乱し、われわれの経験を組織化している象徴的座標を壊してしまう何かだと考えた。たとえば、凶暴なレイプだとか、拷問を目撃した(あるいは受けた)とか。この視点からみれば、問題は、いかにして外傷を象徴化するか、つまりいかにして外傷をわれわれの意味世界に組み入れ、われわれを混乱させるその衝撃力を無化するかということである。後にフロイトは逆向きのアプローチに転向する。フロイトは彼の最も有名なロシア人患者である「狼男」の分析において、彼の人生に深く刻印された幼児期の外傷的な出来事として、一歳半のときに両親の後背位性交(男性が女性の後ろから性器を挿入する性行為)を目撃したという事実を挙げている。しかし、最初はこの光景を目撃したとき、そこには外傷的なものは何ひとつなかった。子どもは衝撃を受けたわけではさらさらなく、意味のよくわからない出来事として記憶に刻み込んだのだった。何年も経ってから、子どもは「子どもはどこから生まれてくるのか」という疑問に悩まされ、幼児的な性理論をつくりあげていったが、そのときにはじめて、彼はこの記憶を引っ張り出し、性の神秘を具現化した外傷的な光景として用いたのである。その光景は、(性の謎の答を見つけることができないという)自分の象徴的世界の行き詰まりを打開するために、遡及的に外傷化され、外傷的な<現実界>にまで引き上げられた。アインシュタインの転向と同じく、最初の事実は象徴的な行き詰まりであり、意味の世界の割れ目を埋めるために、外傷的な出来事が蘇生されたのである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』p128)