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2016年3月6日日曜日

ラカンのPatrick Valas版(Staferla版)

ラカンの原文の引用のページ数を記載していただければもっと有り難いのですが、と言われてくる方がいるが、わたくしの引用は、すべてPatrick Valas版(Staferla版)から。全セミネールがあるわけではないが、四分の三以上はある→「Patrick Valas版」。

インターネット上には、こうしてPDFなどがあるのだから、わざわざ頁数を記載するまでもないだろうという判断の下(そのうち、正統的な論文でさえ、すべての研究書が頁数割愛の時代になるんじゃないかね)。

そしてわたくしが稀にラカンを和訳することがあれば、そのほとんどが英訳からの重訳。その英訳の箇所をときおり原文で拾って比べてみるという習慣に、最近はしている(フランス語は、40年近くごぶさたしており、いくらかの単語を覚えているくらい)。

たとえば、
“Jouissance Autre (JA) barred concerns jouissance, but not Other jouissance, given that I have stated that there is no Other of the Other, i.e. that there is nothing to be opposed to the Symbolic qua place of the Other; the fact that A is barred entails that there is no Other jouissance in as much as there is no Other of the Other”.(Lacan,Seminar XXIII, lesson of December 16, 1975.)


ーーという英文を拾えば(Chiesa)、仏原文をその前後のいくらかをふくめて、眺めてみる。

Elle résulte de ceci : c'est qu'au regard de ce champ, que j'ai déjà ici noté de J(Ⱥ) .

Il s'agit de la jouissance, de la jouissance, non pas de l'Autre, au titre de ceci que j'ai énoncé : - qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, - qu'au Symbolique - lieu de l'Autre comme tel - rien n'est opposé, - qu'il n'y a pas de jouissance de l'Autre en ceci qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, et que c'est ce que veut dire cet A barré [Ⱥ]. Lacan,Séminaire XXIII Le sinthome 1975-76 16 Décembre 1975(Staferla版)

この文は、ミレール版ではこうなっていないらしいが、具体的にどうなっているかは知らない。


そもそもわたくしはラカン研究者でもなんでもなく、日本語でラカン派の書物を読んだことはない。ラカンのセミネール自体、90年前後にセミネールⅠの和訳を読んだだけ。これはフロイトの「ナルシシズム入門」への疑問を解くために読んだ。

フロイト自体には愛着があるが、とはいえ、今では評判の悪い人文書院の旧訳で読んだだけ(今は英訳と並べてみる、ということはするが)。

そもそも、どこの馬の骨とも知れぬ人物のブログをまともに扱うこと自体が間違っているんじゃないかね、わたくしがラカンについてなんたら記すことがあるなら、その多くは自分用のメモ。ネット上にあると、曖昧検索も容易に可能で、つまり検索しやすいせいだよ

翻訳を探しに行く暇のない弁解のようだがね、思想的な、あるいは信仰に近い思索が書かれている本は、やはり原書を読むほかないのじゃないだろうか? 隔靴掻痒というか、ここをしっかり掴みたい、というところにかぎって、翻訳ではあいまいで苦しむことがある。日本語とフランス語の構造の差で、原書の力点のある所が翻訳では前後にズレてしまってね、その結果、付随的な文章に引きずれらてしまうことはしばしばあるんだ。

原書の言葉が読めない時は、日本語の翻訳に別の外国語によるそれを並べて読むのが、次善の策。ともかくテキストを相対化することができて、自発的な受けとめをなしやすい。結局は、自分の言葉でどう捉えなおすということが、つまりはテキストの受容だからね。自分の頭と心とを通過させないで、唇の周りに反射的な言葉をビラビラさせたり、未消化の繰り返しだけやる連中がいるけれどーー学者に、とはいわないまでも研究者にさーー、こういう連中は、ついに一生、本当のテキストと出会うことはないんじゃないだろうか?(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第三部「大いなる日」より)


ま、長年《自分の頭と心とを通過させないで、唇の周りに反射的な言葉をビラビラさせたり、未消化の繰り返しだけやる連中》の一員だったのでね、最近はすこしはそうでないように努めてるのさ