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2016年3月7日月曜日

ある臨界線以上の強度のトラウマ

書かれぬことをやめぬもの“ce qui ne cesse de ne pas s'écrire”(Lacan, Séminaire XX Encore)


症状は、こう定義するしかない。それは、各人が無意識を享楽する様態である – 無意識がそう定めるがままに 。“Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine”(Lacan, Séminaire XXII RSI.)



…………

以下、主に中井久夫のトラウマ論からのメモ。


《トラウマ研究は麗々しくやるものとは絶対に違うと思います。地下水脈のようにーーと私は思っています。》(中井久夫「外傷神経症の発生とその治療の試み」『徴候・記憶・外傷』所収 p.157)


……初診において向うから PTSDを名乗ってくる患者の中には果たしてそうかという場合がある。

一般に外傷関連障害は決して発見しやすいものではない。葛藤を伴なうことの少ない天災の場合でさえ、アンケートをとり、訪問〔アウトリーチ〕しても、なお発見が困難なくらいである。人災の場合になれば、患者は、実にしばしば、誤診をむしろ積極的に受け入れ、長年その無効な治療を淡々と受けいれていることのほうが普通である。外傷関連患者は治療者をじっと観察して、よほど安心するまで外傷患者を淡々と受けいれていることのほうが普通である。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収 P95)
男女を問わず成人になる過程で、あるいは成人以後に外傷を負わない人間はあっても少ない。(……)

「身体の傷は何カ月かで癒えるのに心の傷はどうして癒えないのか。四十年前の傷がなお血を流す」と老いた詩人ポール・ヴァレリー(1871-1945)はその『カイエ』(生涯書き綴ったノート)に記している。心の傷の特性は何よりもまず、生涯癒えないことがあるということであろう。八カ月で瘢痕治療する身体の外傷とは画然とした相違がある。(……)

外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。

しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。素質による程度の差はあるかもしれないが、どのような人でも、残虐ないじめや拷問、反復する性虐待を受ければ外傷的記憶が生じる。また、外傷を受けつづけた人、外傷性記憶を長く持ちつづけた人の後遺症は、心が痩せ(貧困化)ひずみ(歪曲)いじけ(萎縮)ることである。これをほどくことが治療戦略の最終目標である。 (中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収 P.109)
言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 p.66)
私の子どもの観察であるが、ある子はしばしばうなされ、苦悶している時期があって、何とかしなければ、と思った。ところが夢を片言にせよ言語化することができるようになった途端に苦悶は止んだ。別のある子には、成人言語性を獲得してしばらく、親の後を追いかけてでも夢を聞かせようとする時期があった。私が言語の「減圧力」をまざまざと実感したのは、これら観察によってである。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 p.69)

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頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平成は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。

小児性を克服できずに育った、とこれを咎める者もいるだろうが、とても、当の小児にとっても後の大人にとってもおのれの力だけで克服できるようなしろものではない、小児期の深傷〔ふかで〕というものは。やわらかな感受性を衝いて、人間苦の真中へ、まっすぐに入った打撃であるのだ。これをどう生きながらえる。たいていはしばらく、五年十年あるいは二十年三十年と、自身の業苦からわずかに剥離したかたちで生きるのだろう。一身の苦にあまり耽りこむものではない、という戒めがすくなくとも昔の人生智にはあったに違いない。一身の苦を離れてそれぞれの年齢での、家での、社会での役割のほうに付いて。芯がむなしいような心地でながらく過すうちに、傷を克服したとは言わないが、さほど歪まずとも受け止めていられるだけの、社会的人格の《体力》がついてくる。人の親となる頃からそろそろ、と俗には思われているようだ。

しかし一身の傷はあくまでも一身の内面にゆだねられる、個人において精神的に克服されなくてはならない、克服されなくては前へ進めない、偽善は許されない、という一般的な感じ方の世の中であるとすれば、どういうことになるだろう。また社会的な役割の、観念も実態もよほど薄い、個人がいつまでもただの個人として留まることを許される、あるいは放置される世の中であるとすれば。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』)


…………

ぼくがクワイがすきだといったら
ひとりの少女が笑った
それはぼくが二十才のとき
死なせたシナの少女に似ている(吉岡実〈恋する絵〉)


或る別の部落へ行った。兵隊たちは馬を樹や垣根につなぐと、土造りの暗い家に入って、チャンチュウや卵を求めて飲む。或るものは、木のかげで博打をす る。豚の奇妙な屠殺方法に感心する。わたしは、暗いオンドルのかげに黒衣の少女をみた。老いた父へ粥をつくっている。わたしに対して、礼をとるのでもなけ れば、憎悪の眼を向けるでもなく、ただ粟粥をつくる少女に、この世のものとは思われぬ美を感じた。その帰り豪雨にあい、曠野をわたしたちは馬賊のように疾 走する。ときどき草の中の地に真紅の一むら吾亦紅が咲いていた。満人の少女と吾亦紅の花が、今日でも鮮やかにわたしの眼に見える。〔……〕反抗的でも従順 でもない彼ら満人たちにいつも、わたしたちはある種の恐れを抱いていたのではないだろうか。〔……〕彼らは今、誰に向って「陰惨な刑罰」を加えつつあるのか。

わたしの詩の中に、大変エロティックでかつグロテスクな双貌があるとしたら、人間への愛と不信をつねに感じているからである。(吉岡実『わたしの作詩法?』)


《――愛というものをどういう風に感じていますか?

 とんでもない不運、恐るべき寄生体、
全てのささやかな楽しみを台無しにする
永続化された緊急事態、そういったもの。》(ジジェク


……私は精神分析実践とほとんど恐怖症の関係にあるんだ。決してあんなことをしたい気はないね。

ーーけれど、あなたはミレールに分析を受けに行ったではないですか?

そう、でもひどく倒錯的で奇妙な分析だった。私が分析に行ったのは、個人的理由のせいだ。不幸な恋愛、深い、深い、とっても深い危機に陥ったせいだ。分析は、純粋に官僚的仕方でなされた。ミレールは私に言う、次週来るように、明日の午後5時に来るように、と。私は、約1ヶ月の間、本当に自殺したい気分だった。この思いは、ちょっと待て! と囁いた。自殺するわけにはいかない、というのは、明日の5時にミレールのところに行かなくちゃならないから。義務の純粋に形式的官僚構造が、最悪の危機を生き延びさせてくれた。…(Parker, (2003) ‘Critical Psychology: A Conversation with Slavoj Žižek、私訳)