フロイトは症状形成を真珠貝の比喩を使って説明している。砂粒が欲動の根であり、刺激から逃れるためにその周りに真珠を造りだす。分析作業はイマジナリーなシニフィアンのレイヤー(真珠)を脱構築することに成功するかもしれない。けれども患者は元々の欲動(砂粒)を取り除くことを意味しない。逆に欲動のリアルとの遭遇はふつうは〈他者〉の欠如との遭遇をも齎す。(new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex PAUL VERHAEGHE 2009)
フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動、他方にはプシケ(個人を動かす原動力としての心理的機構:引用者)である。ラカン派のタームでは、現実界と象徴界ということになる。これは、フロイトの最初のケーススタディであるドラの症例においてはっきりと現れている。この研究では、防衛理論についてはなにも言い添えていない。というのはすでに精神神経症psychoneurosisにかかわる以前の二つの論文で詳論されているからだ。このケーススタディの核心は、二重の構造にあると言うことができ、フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動にかかわる要素、――フロイトが“Somatisches Entgegenkommen”と呼んだものーーだ。のちに『性欲論三篇』にて、「欲動の固着」と呼ばれるようになったものだ。この観点からは、ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因性の代表象representation――抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動ということになる。
この二重の構造の視点のもとでは、すべての症状は二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換性の症状は、症状の形式的な外被に帰着する。すなわち、「それらの症状は欲動の現実界に象徴的な形式が与えられたもの」(Lacan, “De nos antécédents”, in Ecrits)ということになる。このように考えれば、症状とは享楽の現実界的核心のまわりに作り上げられた象徴的な構造物ということになる。フロイトの言葉なら、それは、「あたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなもの」(『あるヒステリー患者の分析の断片』)。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq,2002)
さてここで、咳や嗄れ声の発作に対して見出したさまざまな決定因を総括してみたい。最下部には器質的に条件づけれらた真実の咳の刺激があることが推定され、それはあたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなものである。この刺激は固着しうるが、それはその刺激がある身体領域と関係するからであり、その身体領域がこの少女の場合ある性感帯としての意味をもったいるからなのである。したがってこの領域は興奮したリピドーを表現するのに適しており、おそらくは最初の精神的変装、すなわち病気の父親に対するイミテーションの同情、そして「カタル」のために惹き起こされた自己叱責によって固着させられるのである。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』フロイト著作集5 人文書院 P335)
「真珠貝」は、英訳では「oyster」となっている。
Let us next attempt to put together the various determinants that we have found for Dora's attacks of coughing and hoarseness. In the lowest stratum we must assume the presence of real and organically determined irritation of the throat - which acted like the grain of sand around which an oyster forms its pearl. This irritation was susceptible to fixation, because it concerned a part of the body which in Dora had to a high degree retained its significance as an erotogenic zone. And the irritation was consequently well fitted to give expression to excited states of the libido. It was brought to fixation by what was probably its first psychical coating - her sympathetic imitation of her father - and by her subsequent self-reproaches on account of her ‘catarrh’. (Freud - Complete Works Ivan Smith 2000, 2007, 2010)
原文はまったく読めない身であるが、“Muscheltier”であるならば、shell fish。
Wir können nun den Versuch machen, die verschiedenen Determinierungen, die wir für die Anfälle von Husten und Heiserkeit gefunden haben, zusammenzustellen. Zuunterst in der Schichtung ist ein realer, organisch bedingter Hustenreiz anzunehmen, das Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet. Dieser Reiz ist fixierbar, weil er eine Körperregion betrifft, welche die Bedeutung einer erogenen Zone bei dem Mädchen in hohem Grade bewahrt hat. Er ist also geeignet dazu, der erregten Libido Ausdruck zu geben. Er ist also geeignet dazu, der erregten Libido Ausdruck zu geben. Er wird fixiert durch die wahrscheinlich erste psychische Umkleidung, die Mitleidsimitation für den kranken Vater und dann durch die Selbstvorwürfe wegen des »Katarrhs«.
この真珠を生む砂粒が、ラカン曰くの「書かれぬことをやめぬもの“C'est ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire”」であり、フロイトの「自由連想」療法では対処できぬものである。ラカンが後年「症状のない主体はない」といった症状とはこの砂粒である。
“Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine”(症状は、こう定義するしかない。それは、各人が無意識を享楽する様態である – 無意識がそう定めるがままに 。)(Jacques Lacan, le 18 février 1975, Séminaire XXII RSI.)
対象aは象徴化に抵抗する現実界の部分である。
固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な特性をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち症状のない主体はない。ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは純化された症状の問題である。すなわち、象徴的な構成物から取り去られたもの、言語によって構成された無意識の外側に外立するもの、純粋な形での対象a、もしくは欲動である。(J. Lacan, 1974-75, R.S.I., in Ornicar ?, 3, 1975, pp. 106-107.)
症状の現実界、あるいは対象aは、個々の主体に於るリアルな身体の個別の享楽を明示する。「症状は、こう定義するしかない。それは、各人が無意識を享楽する様態である – 無意識がそう定めるがままに 。」
ラカンは対象aよりも症状の概念のほうを好んだ。性関係はないという彼のテーゼに則るために。(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq, ,Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.)
ここに見られるようにヴェルハーゲの解釈では、(純化された)症状とは対象aであるが、誤解のないようにつけ加えておけばーー何度もくり返しているがーー、対象aの定義はいくつかある。
【Lorenzo Chiesa2007による対象aの五つの定義の要点】
①S(Ⱥ)としての象徴的ファルスΦによって生み出された裂け目の想像的表象
②主体から想像的に切り離されるうる部分対象
③シニフィアン化される前の、すなわちS(Ⱥ)以前の Ⱥ
④母なる〈他者〉(m)Otherの得体の知れない欲望
⑤アガルマ、すなわち隠された秘宝、あなたのなかにあってあなた自身以上のもの(ただし厳密にはやや異なる)。
ヴェルハーゲの言っている対象a=症状は、③のことだとわたくしは捉えている。
「真珠を生む砂粒」と同じように、「夢の菌糸体」も対象a=純化された症状であるだろう。
……すなわち象徴的秩序以外の審級である。この点で、すべての啓蒙形式はなにかが不足している。それは治療においても同様である。言葉にできない何かがある。その何かを表わすには言葉が欠けている。もともとフロイトはこれをトラウマ的経験と考えた。だが後に彼はそれを"mycelium(菌糸体)"、“われわれの存在の核”、“原初に抑圧されているもの”と呼んだ。(Paul Verhaeghe「Teaching and Psychoanalysis: A necessary impossibility」)
フロイトは、後年も不安神経症概念ーーこれはかぎりなく現実神経症概念に近いがーーをめぐって次ぎのように記している。
成長したからといって、原初のトラウマ的不安状況の回帰に対して、完全な防御の術があるわけではない。それぞれの個人は一定の限界をもっており、その限界を超えると、人の心的装置は、処理することが必要な多量の興奮を支配する機能を喪失する。(フロイト『制止、症状、不安』著作集6 p.361上からだが一部変更)
現実神経症概念は、現在の心の病いを考える上での核心のひとつであるだろう(参照:「忘れ去られたフロイトの現実神経症(現勢神経症)概念」)。現実神経症は、「分析」にフィットしない無意識の核にかかわる。
私は既に、無意識の核は「分析」にフィットしないことを論証した。無意識のうちの表象された部分のみが分析されうるのである。フロイト以後、症状symptomは防衛をベースに説明されてきたのだが、そこでは抑圧が特権的な位置を占める。忘れられてしまっているのは、抑圧自体は病因のダイナミズムの二次的重要性しかもたないということだ。実際は、抑圧は欲動の表象されたシニフィアンを処理しようとするメカニズム以外のなにものでもない。フロイト自身、症状の二重の構造を認めていた。一方は欲動であり、他方は象徴的なものである。同じ論法が夢にも当てはまる。ことさら驚くことはない。夢は症状なのだから。(Paul Verhaeghe『BEYOND GENDER』「DREAMS BETWEEN DRIVE ANDE DESIRE」)
どんなにうまく解釈しおおせた夢にあっても、ある箇所は未解決のままに放置しておかざるをえないこともしばしばある。それは、その箇所にはどうしても解けないたくさんの夢思想の結び玉があって、しかもその結び玉は、夢内容になんらそれ以上の寄与をしていないということが分析にさいして判明するからである。これはつまり夢の臍、夢が未知なるもののうえにそこに坐りこんでいるところの、その場所なのである。判読(解読)においてわれわれがつき当る夢思想は一般的にいうと未完結なものとして存在するより仕方がないのである。そしてそれは四方八方に向ってわれわれの観念世界を網の目のごとき迷宮に通じている。この編物の比較的目の詰んだ箇所から夢の願望が、ちょうど菌類の菌糸体から菌が頭を出しているように頭を擡げているのである。(フロイト『夢判断』第七章「夢事象の心理学」新潮文庫 下 p279)
…………
もともとヴェルハーゲには、中井久夫のトラウマ論を読むなかで、フロイトやラカンはどんなことを言っているのだろうと探るなか三年ほど前だったかに出会ったのだが、いまのところ最も信頼のおけるラカン解釈者である(わたくしにとって)。
ところで、中井久夫も、阪神大震災の後、トラウマあるいはPTSDを研究するなか、現実神経症概念を連発している。それへの言及を五箇所見いだしたが、そのうちの一つを掲げておこう。
アラン・ヤングに言わせると、PTSDの症状はほかの病気にもある症状であり、PTSD特有の症状はないということです。そもそも神経症概念をDSM-Ⅲが捨てたということは、ある意味では正しいが半分しか正しくないのです。なぜならば確かにフロイトは神経症の概念をつくった人ではあります。しかしフロイトの立てた神経症には三つあり、それは精神神経症、現実神経症、外傷神経症です。精神病と神経症との境界は年々曖昧になってきています。昔は人格全体が犯されているものを精神病、人格が健康な部分が残っているものを神経症と明解に線を引いていたのですが、だんだんそれが怪しくなってきています。ヤングは「この撤廃は意味があるが、あとの二つの神経症をDSM-Ⅲは問題にしていない」と言っています。現実神経症は、例えば失恋して抑鬱になるなどというシンプルなもので、あまり研究の対象にはならないかもしれません。普通には心因反応と言われているものです。あるいはDSM-Ⅳになってから出てきた、ASD(急性ストレス障害)もあります。外傷神経症はフロイトも挙げているけれどもそれほど問題いしていません。この後身がPTSDです。DSM体系の中から神経症を追放するのは、よく考えてやっていないということいなります。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002.2『徴候・記憶・外傷』所収)
“ACTUAL NEUROSIS AS THE UNDERLYING PSYCHIC STRUCTURE OF PANIC DISORDER, SOMATIZATION, AND SOMATOFORM DISORDER: AN INTEGRATION OF FREUDIAN AND ATTACHMENT PERSPECTIVES” BY PAUL VERHAEGHE, STIJN VANHEULE, AND ANN DE RICK、2007という長い題名の論文には、次のような記述がある。
精神神経症と現実神経症は、互いに排他的なものとは見なされえない。(……)精神神経症は現実神経症なしではほとんど出現しない。しかし「後者は前者なしで現れるうる」(フロイト『自己を語る』1925)。これは、現実神経症的病理が単独での研究領域であることを正当化してくれる。さらにもっとそうでありうるのは、フロイトは、現実神経症を精神神経症の最初の段階の臍と見なしているからだ。
ACTUAL NEUROSIS AND PTSD The Impact of the Other Paul Verhaeghe,and Stijn Vanheule,2005年は、次ぎのような仮説を証明する試みである。
この論の中心的問いは見かけ上はシンプルである。すなわち、何がトラウマをトラウマ的にするのだろう? である。…酷いトラウマでさえも、自動的には、長引く精神病理に導かない。ある犠牲者は心的外傷後ストレス障害(PTSD)を展開させるが、かなりの数の人はそうではないという事実がある。とすれば、他の要因があるに相違ない。
我々の仮説はこうである。
第一に、トラウマ的出来事は、犠牲者が、事前にすでに在る心理学的構造を持っているならば、PTSDに導かれる。その心理学的構造とは、フロイトが「現実神経症」として理解しているものである。
第二に、現実神経症構造は、初期に子どもを世話する人との相互作用を基盤としている。そしてトラウマあるいはPTSDに先立つものとして診断されうる。
わたくしの知るかぎりでの、中井久夫の最も直近の現実神経症への問いは次ぎの如し。
現実神経症と外傷神経症との相違は、何によって規定されるのであろうか。DSM体系は外傷の原因となった事件の重大性と症状の重大性とによって限界線を引いている。しかし、これは人工的なのか、そこに真の飛躍があるのだろうか。
目にみえない一線があって、その下では自然治癒あるいはそれと気づかない精神科医の対症的治療によって治癒するのに対して、その線の上ではそういうことが起こらないということがあるのだろう。心的外傷にも身体的外傷と同じく、かすり傷から致命的な重傷までの幅があって不思議でないからである。しかし、DSM体系がこの一線を確実に引いたと見ることができるだろうか。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)
フロイトは、現実神経症内で、当初、神経衰弱と不安神経症を区分している。のちにヒポコンデリー(心気症)を付加。どの場合も、決定因は欲動からの緊張や圧迫にかかわる。
現実神経症は主にフロイトの「不安神経症」にかかわり、《事実上、DSM–IVにおけるパニック障害の叙述は、フロイトの不安神経症とほとんど全くおなじである》(Verhaeghe, 2004)。
…………
さてここで話を変えよう。ジジェクは、かなり以前の書評だが、「Does the Woman Exist? From Freud's Hysteric to Lacan's Feminine By Paul Verhaeghe Translated by Marc du Ry」について次ぎのように言っている。
“A miraculous answer to the confusions surrounding Freud's and Lacan's theory of feminine sexuality . . . After reading this book, it should be clear that, far from being outdated, the psychoanalytic approach to feminine sexuality enables us to find our way in the . . . deadlocks of our allegedly ‘permissive' postmodern society . . . A must for anyone who wants to grasp what psychoanalysis has to say today.” – Slavoj Žižek
女性のセクシュアリティのラカン理論を理解する上で、ヴェルハーゲの著作はなくてはならないものであるのは、現在も同じく。フェミニストたちが、ヴェルハーゲを読まないのは致命的だよ。ジジェクやバディウを読んでいるだけではなんのことかいつまでも分からない(もっとも常に見解の一致があるわけではないが→「フロイトの欲動二元論と一元論をめぐって」)。
彼の最近の著(“new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex”、PAUL VERHAEGHE 2009)からのいくらかの抜き書きは、「古い悪党フロイトの女性論」にある。序文は、イギリスのラディカル・フェミニスト・グループの創設者の一人であったジュリエット・ミッチェルJuliet Mitchellが書いている、序文にしてはいささか長すぎるほどの文を。
とはいえ、フロイトやラカン理論を押しつけるつもりはないさ、人それぞれでいいよ。
ラカン理論に固有の難解な特徴は、その典型的に抽象的なスタイルにあるとされる。これは部分的にしか正しくない。誤解の真の原因は、むしろ粘り強い、防衛的な「知りたくないnot-wanting-to-know」にある。というのは、彼の理論は、われわれの仕事の領域だけではなく、まさに人生の生き方においてさえ、数多くの確信を揺らつかせるので、これが概念上の孤立無援を齎している。(Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics 私訳)
これはまずは、「私は自分の家の主人ではない」にかかわるだろう。わたくしのこの文もある原動因によって衝き動かされているのかもしれない。より深い動因はあるだろうが、まずわたくしの気づく範囲の「表層的な部分」での動因は、母がわたくしが六歳前後「精神分裂病」と診断されたが、実はPTSDではなかったかという問いだ。あるいは現実神経症(不安神経症)ではなかったかという問いだ。実際、太平洋戦争のニュースがテレヴィであると、たちまち頬を紅潮させるか蒼ざめるかして座を立つか、テレヴィを消すかをくり返した。不安神経症とは、まずはソマティック(身体的な)ストレス反応だ(たとえば動悸、呼吸器系の支障、身震い )。
ホロコーストの生存者たちの子どもは、他の親の子どもたちに比べて、PTSDを発現させる傾向が大きい。しかし、奇妙なことがある。子どもたちのほうが、彼らの親たち以上に、心的外傷後ストレス症状を経験していることが示されているのだ(Yehuda, Schmei-dler, Giller, Siever, & Binder-Brynes, 1998).
これはどういうことかーー。ホロコースト生存者の親は、子どもにとって「他者」として機能しない(あるいはし難い)。最初に子どもを世話する(m)Otherとしての子どもの鏡となりがたい。《現実神経症構造は、初期に子どもを世話する人との相互作用を基盤としている。そしてトラウマあるいはPTSDに先立つものとして診断されうる》(ヴェルハーゲ、他、2005)。だから子どもは「象徴化」の不得手な人間として生育する。すなわち欲動のなすがままの人間として育ち、欲動は欲望に変換されない(あるいはされることが少ない)。
一般に外傷関連障害は決して発見しやすいものではない。(……)患者は、実にしばしば、誤診をむしろ積極的に受け入れ、長年その無効な治療を淡々と受けいれていることのほうが普通である。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収 P95)
…………
フロイトが我々に示してくれたのは、人が話すとき、我々自身には知られていない真理によって駆り立てられているdrivenということだ。この真理のポジションが、いずれの言説においても動因 motor として、出発点として、機能する。
真理のポジションはアリストテレス的な原動因であり、すべての言説構造に影響を与える。その最初の帰結は、エージェント(動作主)はどう見てもただのエージェント(代理人)に過ぎないということだ。自我は話さない。自我は(何かによって)話させられる。もちろんこの結論は自由連想の過程にて観察できるが、ふつうの発話行為でさえ同じ結果を生む。実に私が話すとき、私は何を言っているのか知らない。もし私が暗記してその話を覚えていないのなら。あるいは書かれた物から話を読んでいないのなら。
そうでないなら、私は話すのではなく、話させられている。そしてこの話は欲望によって駆り立てられている。意識的な同意があろうとなかろうとそうである。これはシンプルな観察による事実だ。だが人のナルシシズムを根本的に傷つける。だからフロイトは人間における第三番目のナルシシズムの屈辱と呼んだ(コペルニクスが人間を宇宙の中心から追い出し、ダーヴィンが人間を生物界の特権的位置から追い出したのに引き続く第三の屈辱である)。
フロイトはそれをとてもはっきりとした表現で刻印している、“dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus”、「私は自分の家の主人ではない」と。フロイトの公式のラカン版は次の通り。“Le signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant”(シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を代表象する)。(「四つの言説」(ラカン)概説(Paul Verhaeghe))