詩にはさまざまな書きっぷりがある
カーヴァーの書きっぷり
カヴァフィスの書きっぷり
シェークスピアの書きっぷり
みなそれぞれに胸を打つ
ぼくは翻訳で読むだけだけれど
(ありがとう翻訳家の皆さん・名訳と誤訳の数々)
みんな死ぬまで自分の書きっぷりで書いた
書きっぷりはひとつの運命
だがぼくはいろんな書きっぷりに惑わされる
ひとつ ふたつ みっつ よっつ……
そのどれもに夢中になり
そのどれもにやがて飽きてしまう
ドンファンみたいに
女に忠実
詩には不実?
だがもともと詩のほうが
人間に不実なものではなかったか
ーー谷川俊太郎「北軽井沢日録」『世間知ラズ』所収)
音楽だってそうさ
前触れや前置きや助走だっぷりの
協奏曲なんて最近はウンザリだな
モーツアルトのピアノコンチェルト9番とか
ベートーヴェンの4、5番があるだろ、ーーだって?
わざとらしいよあれ、
逆張りでしかないな
「リッツォスは時には朗々と舞台で」とあるけれど
いい齢して「月光」をバックによく朗読するもんだよ
Yiannis Ritsos ヤニス・リッツォス
Ρίτσος - Η σονάτα του σεληνόφωτος
でもいい声してるよ 意味がわからなくても
声だけで惚れ惚れするんだけど
ベートーヴェンのムーンライトソナタが邪魔だな
どうもギリシャ人ってのはそういうところがあるのかね
そういうところってなんだろうな
よくいえば悲劇を演じるってのかな
わるくいえばメロドラマ風だな
ーーいやオレが齢をかさねてひねたせいだけさ
テオ・アンゲロプロスにも晩年はいささかついていけなくなったからな
いきなり「事件の核心」に降り立たせる第一行をもつ詩集は
日本では『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』だね
谷川俊太郎の最高傑作じゃないだろうか
1931年生まれの谷川俊太郎の1972年の作品だ
谷川の多くの詩を知っているわけじゃないけどさ
『世間知ラズ』とどっちをとれっていわれたら迷うな
「男と女ふたりの中学生が/地下鉄のベンチに坐っててね」(1)
「飲んでいるんだろうね今夜もどこかで」(2) 武満徹に
「きみが怒るのも無理はないさ」(4) 谷川知子に
「きいた風なこと言うのには飽きちゃったよ」(5)
「全然黙っているっていうのも悪くないね」(6)
「題なんてどうだっていいよ/詩に題をつけるなんて俗物根性だよ」(9)
「寝台の下にはきなれた靴があってね」(10)
ーー『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』より
ゴシップ性もふんだんにある詩の集まりで
谷川が後年カヴァフィス詩を愛したのがよくわかるよ
(8) 飯島耕一に
にわかにいくつか詩みたいなもの書いたんだ
こういう文体つかんでね一応
きみはウツ病で寝てるっていうけど
ぼくはウツ病でまだ起きている
(……)
でも何もかもつまらないよ
モーツァルトまできらいになるんだ
せめて何かにさわりたいよ
(……)
きみはどうなんだ
きみの手はどうしてる
親指はまだ親指かい?
ちゃんとウンコはふけてるかい
弱虫野郎め
中井久夫はカヴァフィス絶賛ってわけだろうか
でも訳詩の自負はカヴァフィスでもヴァレリーでもなく
エリティスの『アルバニア戦線に倒れた少尉にささげる英雄詩』だそうだ
(前回一部掲げたけどさ)
『日時計の影』の「あとがき」次のように書いている。
実際とてつもなく美しいよ
西脇順三郎のいくつかの詩句とどっちを選ぼうか
……カヴァフィスの詩の第一行を並べてみるとよい。彼は、われわれをいきなり「事件の核心」に降り立たせる。
「みたことがなかったな、何世紀も、こんなすてきなお供えは、デルフォイに……」(「アレクサンドリアからの使節」)
「夜中の一時だったか、それとも一時半。酒場の隅だったね」(「憩い」)
「何をみたことがなかったのか? 何世紀もだって? すごいお供え? デルフォイに? いったい何ごと?」「夜更けに? 酒場の隅で? 何が?」もし紙幅が許せばいくらでも例を挙げることができるであろう。いつもわれわれは状況の中に文字どおり投入される。前触れも、前置きも、助走も、序曲もなく、いきなりテティスとペレウスとの結婚の場に、帝政ローマの末期のアゴラに、彫刻家ダモンの工房に、ネロの寝室に、あるいはローソクを一本だけともした彼の部屋に。急に状況のただ中に投入された者が皆そうなるように、われわれはしばらく戸惑い、うろたえ、耳をすませ、何かを待つ。劇の開幕直後の、困惑と期待との混ざった独特の沈黙。これはカヴァフィスの詩の発端が持つ独特の力であり、それが私に彼を劇詩人といわせる第一の理由である。意識的に磨きぬかれたものであろう。彼の未完詩編にはこれを欠くものがあるからである。
彼を劇詩人という第二の理由は、カヴァフィス詩が持つ、われわれを巻き込む力である。われわれは詩を読みすすめるにつれて、現場にいあわせるか、登場人物に語りかけられるか、あるいは詩人の打ち明け相手にさせられてしまう。カヴァフィスの詩は、決して人なき部屋の中の独り言にはならない。歴史上の人物がひとりごつ場合でさえ、われわれがすぐ側に位置して聞いているか、あるいは詩の中の聞き手が黙っているだけである。
エリティスなり、セフェリスなり、リッツォスの詩と比べていただきたい。エリティスは青空の下で遠くから澄んだ声で、セフェリスはじゅんじゅんとしばしば小暗い室内で、リッツォスは時には朗々と舞台で、時にはしみじみとランプの下で語る。しかし、いずれもモノローグである。われわれは「聞き手」「読み手」である。(……)
カヴァフィスは、自分は小説家や劇作家にはならないだろうが、歴史家にはなれたはずだと内心ひそかに自負している。彼はどういう歴史家となったであろうか。この楽しい空想にはむろん答えがないけれども、すべての時代を同時代と感覚するような歴史家であったろうと私は思う。「すべての時代を同時代と感じる」ことを歴史的感覚 historical sense というならば彼を「歴史的感覚の詩人」といってよいだろう。(中井久夫「劇詩人としてのカヴァフィス」『家族の深淵』所収)
音楽だってそうさ
前触れや前置きや助走だっぷりの
協奏曲なんて最近はウンザリだな
モーツアルトのピアノコンチェルト9番とか
ベートーヴェンの4、5番があるだろ、ーーだって?
わざとらしいよあれ、
逆張りでしかないな
「リッツォスは時には朗々と舞台で」とあるけれど
いい齢して「月光」をバックによく朗読するもんだよ
Yiannis Ritsos ヤニス・リッツォス
Ρίτσος - Η σονάτα του σεληνόφωτος
でもいい声してるよ 意味がわからなくても
声だけで惚れ惚れするんだけど
ベートーヴェンのムーンライトソナタが邪魔だな
どうもギリシャ人ってのはそういうところがあるのかね
そういうところってなんだろうな
よくいえば悲劇を演じるってのかな
わるくいえばメロドラマ風だな
ーーいやオレが齢をかさねてひねたせいだけさ
テオ・アンゲロプロスにも晩年はいささかついていけなくなったからな
いきなり「事件の核心」に降り立たせる第一行をもつ詩集は
日本では『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』だね
谷川俊太郎の最高傑作じゃないだろうか
1931年生まれの谷川俊太郎の1972年の作品だ
谷川の多くの詩を知っているわけじゃないけどさ
『世間知ラズ』とどっちをとれっていわれたら迷うな
「男と女ふたりの中学生が/地下鉄のベンチに坐っててね」(1)
「飲んでいるんだろうね今夜もどこかで」(2) 武満徹に
「きみが怒るのも無理はないさ」(4) 谷川知子に
「きいた風なこと言うのには飽きちゃったよ」(5)
「全然黙っているっていうのも悪くないね」(6)
「題なんてどうだっていいよ/詩に題をつけるなんて俗物根性だよ」(9)
「寝台の下にはきなれた靴があってね」(10)
ーー『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』より
ゴシップ性もふんだんにある詩の集まりで
谷川が後年カヴァフィス詩を愛したのがよくわかるよ
(8) 飯島耕一に
にわかにいくつか詩みたいなもの書いたんだ
こういう文体つかんでね一応
きみはウツ病で寝てるっていうけど
ぼくはウツ病でまだ起きている
(……)
でも何もかもつまらないよ
モーツァルトまできらいになるんだ
せめて何かにさわりたいよ
(……)
きみはどうなんだ
きみの手はどうしてる
親指はまだ親指かい?
ちゃんとウンコはふけてるかい
弱虫野郎め
ただ、カヴァフィス詩には、たしかにどこか「ゴシップ」的なものがある。われわれ皆がゴシップを楽しむ、その感覚に訴える何ものかがある。上質のゴシップというものなしでは「サロン」は成り立たない。レプシウス街十番地も盛んにゴシップが飛び交っただろう。カヴァフィス詩の「ゴシップ感覚」的側面である。この感覚が、登場人物とわれわれとの近しさをつくりだしているのももしれない。ヘレニズム期ギリシャの市井笑劇家ヘロダスのパピルスはカヴァフィスの若い時にエジプトの砂漠から発見され、それにカヴァフィスは感激している。このヘロダスの「ミーモセス」(擬曲)はゴシップ的快楽から成り立っている。これを「普遍的ゴシップ性」といおうか。
シェイクスピアにはゴシップ的要素がないか、当時の時代的背景の中におけば、たとえば「アントニーとクレオパトラ」にもその要素がある。エリザベス一世とその寵臣エセックスとの重ね合わせである。T・S・エリオットがその「荒地」においてシェイクスピアのこの劇を引く時には、明らかにこの二重性を意識している。また「荒地」自体、特にその前半は「普遍的ゴシップ性」にみちみちている。エズラ・バウンドの手がはいる前の原稿にはいっそう著しい。
状況を共有し、演出者となり、「ゴシップ」感覚を享楽するという、一見矛盾した点からであろうが、カヴァフィス詩の読者の中には、あるふしぎな感覚、「コミットしながらも醒めている」という奇妙な状態が生じる。すなわち、われわれはカヴァフィス詩の状況に共感し共振するが、決して主人公に同一化することはない。彼が感傷的になっている時でさえ、われわれは、その感傷からある距離を保ち、決してこの距離を失うことはない。おそらく、詩人自身が対象との距離を失わないからであろう。カヴァフィス詩の現代性は、安易な感情移入と同一化を許さないというところにある。(中井久夫「劇詩人としてのカヴァフィス」『家族の深淵』所収)
中井久夫はカヴァフィス絶賛ってわけだろうか
でも訳詩の自負はカヴァフィスでもヴァレリーでもなく
エリティスの『アルバニア戦線に倒れた少尉にささげる英雄詩』だそうだ
(前回一部掲げたけどさ)
『日時計の影』の「あとがき」次のように書いている。
…拙い翻訳ながら、私の訳詩の中では最良のものかと、ひそかに思っている。翻訳をしながら、また読み返しながら、涙がこみあげてきたのは、他にも絶無ではないが、訳者を泣かせるパワーがいちばん大きかったのはこの詩である。
実際とてつもなく美しいよ
西脇順三郎のいくつかの詩句とどっちを選ぼうか
迷っちまうぐらいにさ
「向うの家ではたおやめが横になり
女同士で碁をうっている」
「美容師と女あんまは愛らしいひょうたんを
かたむけてシェリー酒をのんでいる」
「女神は足の甲を蜂にさされて
足をひきずりながら六本木へ
膏薬を買いに出かけた」
「向うの家ではたおやめが横になり
女同士で碁をうっている」
「美容師と女あんまは愛らしいひょうたんを
かたむけてシェリー酒をのんでいる」
「女神は足の甲を蜂にさされて
足をひきずりながら六本木へ
膏薬を買いに出かけた」
でもきのこの匂いはしないな
晩年の西脇みたいにさ
「灌木について語りたいと思うが
キノコの生えた丸太に腰かけて
考えている間に」
「もう秋は四十女のように匂い始めた」
ギリシャの文学に親しんでいささか参るのは、裏も表もない若さの賛美である。山間で老人が背を曲げて碁でも打っているといった南画の世界がギリシャから一番遠いものであるという、どなたかの指摘を読んでなるほどと思ったことがある。だから、カヴァフィスのような現代ギリシャ詩人も若い時から老・病・死を恐れる強迫を持ち、この強迫がその詩に隠顕するのだろう。私はたまたま彼の詩をだいたい全部訳したけれども、時には非常に違和感を感じて手に取れないことがある。それは一言にしていえば、菌臭の持つ安らぎから実に遠いということである。(中井久夫「きのこの匂いについて」1986年初出『家族の深淵』所収)
ところでキノコの匂いのする音楽ってのはあるんだろうか
さてとーー。
ちょっと思いつかないな
キノコ研究家のケージの音楽にもにおいを嗅いだおぼえはないよ
武満徹にだってないな
東欧あたりの民謡にはすこしはあるのかな
バルトークは性格わるかったらしいからな
「あんた方はみんなつんぼだっていったんだ。
そら、あれが聞こえないのかい?」 (バルトーク)
キノコのにおい嗅ぐまえに性格の悪さきいちまうな
で「アンタ方はみんな鼻がきかないっていったんだ。
ほら、このにおいに気づかないのかい?」ってわけだ
ヤナーチェクあたりにもキノコはあるのかもな
でもこのところヤナーチェク鼻ずまり症でね
どれもに夢中になり
そのどれもにやがて飽きちまうんだな
女に忠実
音楽には不実?
ショパンにあるとしたらマズルカだけだよ
しかも地元出身のピアニストじゃないとな
Maryla Jonasとかさ
ヤナーチェクあたりにもキノコはあるのかもな
でもこのところヤナーチェク鼻ずまり症でね
どれもに夢中になり
そのどれもにやがて飽きちまうんだな
女に忠実
音楽には不実?
ショパンにあるとしたらマズルカだけだよ
しかも地元出身のピアニストじゃないとな
Maryla Jonasとかさ
彼女には忠実なままだな今のところ