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2018年8月1日水曜日

私は痴である

いやあ、じつにすばらしい、塩田明彦の『月光の囀り』は。彼のこの作品をめぐっての三連投になっちまった。




とはいえボクの基本は、《愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime》(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』1970)だからな

ようするにシャンゼリゼの雪なんだ。 《私がそれを「経験した」日にシャン=ゼリゼをつつんでいた雪は、はらいのけられてはいなくて、私にはいつもその雪が目に見える。》(プルースト「見出されたとき」ーーパンセと石鹸の広告) 

とはいえシャンゼリゼの雪を超えた何ものかがシカとある。彼は蓮實チルドレンのひとりらしいが、自転車シーンのみごとさとはひょっとしてそれにかかわるのかも。たとえばひとは、あまりにも名高い小津「晩春」の自転車シーンと同じにおいをかがねばならない。

しかも、ああ、つぎの極度にテンポをおとしたアンダンティーノを見よ!




ここには「自体性愛的享楽」(自ら享楽する身体)の芸術家ヤン・ファーブル Jan Fabreーー「私は血である Je Suis Sang」の舞台演出家ファーブルーーまでいる。




現在、ヤン・ファーブル への愛を、塩田明彦に乗り換えようか否か、と検討中である。







2015年12月30日水曜日

カヴァフィスと谷川俊太郎の第一行

知っているか
詩にはさまざまな書きっぷりがある
カーヴァーの書きっぷり
カヴァフィスの書きっぷり
シェークスピアの書きっぷり
みなそれぞれに胸を打つ
ぼくは翻訳で読むだけだけれど
(ありがとう翻訳家の皆さん・名訳と誤訳の数々)

みんな死ぬまで自分の書きっぷりで書いた
書きっぷりはひとつの運命

だがぼくはいろんな書きっぷりに惑わされる
ひとつ ふたつ みっつ よっつ……

そのどれもに夢中になり
そのどれもにやがて飽きてしまう
ドンファンみたいに

女に忠実
詩には不実?

だがもともと詩のほうが
人間に不実なものではなかったか


ーー谷川俊太郎「北軽井沢日録」『世間知ラズ』所収)

……カヴァフィスの詩の第一行を並べてみるとよい。彼は、われわれをいきなり「事件の核心」に降り立たせる。

「みたことがなかったな、何世紀も、こんなすてきなお供えは、デルフォイに……」(「アレクサンドリアからの使節」)

「夜中の一時だったか、それとも一時半。酒場の隅だったね」(「憩い」)

「何をみたことがなかったのか? 何世紀もだって? すごいお供え? デルフォイに? いったい何ごと?」「夜更けに? 酒場の隅で? 何が?」もし紙幅が許せばいくらでも例を挙げることができるであろう。いつもわれわれは状況の中に文字どおり投入される。前触れも、前置きも、助走も、序曲もなく、いきなりテティスとペレウスとの結婚の場に、帝政ローマの末期のアゴラに、彫刻家ダモンの工房に、ネロの寝室に、あるいはローソクを一本だけともした彼の部屋に。急に状況のただ中に投入された者が皆そうなるように、われわれはしばらく戸惑い、うろたえ、耳をすませ、何かを待つ。劇の開幕直後の、困惑と期待との混ざった独特の沈黙。これはカヴァフィスの詩の発端が持つ独特の力であり、それが私に彼を劇詩人といわせる第一の理由である。意識的に磨きぬかれたものであろう。彼の未完詩編にはこれを欠くものがあるからである。

彼を劇詩人という第二の理由は、カヴァフィス詩が持つ、われわれを巻き込む力である。われわれは詩を読みすすめるにつれて、現場にいあわせるか、登場人物に語りかけられるか、あるいは詩人の打ち明け相手にさせられてしまう。カヴァフィスの詩は、決して人なき部屋の中の独り言にはならない。歴史上の人物がひとりごつ場合でさえ、われわれがすぐ側に位置して聞いているか、あるいは詩の中の聞き手が黙っているだけである。

エリティスなり、セフェリスなり、リッツォスの詩と比べていただきたい。エリティスは青空の下で遠くから澄んだ声で、セフェリスはじゅんじゅんとしばしば小暗い室内で、リッツォスは時には朗々と舞台で、時にはしみじみとランプの下で語る。しかし、いずれもモノローグである。われわれは「聞き手」「読み手」である。(……)

カヴァフィスは、自分は小説家や劇作家にはならないだろうが、歴史家にはなれたはずだと内心ひそかに自負している。彼はどういう歴史家となったであろうか。この楽しい空想にはむろん答えがないけれども、すべての時代を同時代と感覚するような歴史家であったろうと私は思う。「すべての時代を同時代と感じる」ことを歴史的感覚 historical sense というならば彼を「歴史的感覚の詩人」といってよいだろう。(中井久夫「劇詩人としてのカヴァフィス」『家族の深淵』所収)


音楽だってそうさ
前触れや前置きや助走だっぷりの
協奏曲なんて最近はウンザリだな
モーツアルトのピアノコンチェルト9番とか
ベートーヴェンの4、5番があるだろ、ーーだって?
わざとらしいよあれ、
逆張りでしかないな

「リッツォスは時には朗々と舞台で」とあるけれど
いい齢して「月光」をバックによく朗読するもんだよ

Yiannis Ritsos ヤニス・リッツォス
Ρίτσος - Η σονάτα του σεληνόφωτος



でもいい声してるよ 意味がわからなくても
声だけで惚れ惚れするんだけど
ベートーヴェンのムーンライトソナタが邪魔だな

どうもギリシャ人ってのはそういうところがあるのかね
そういうところってなんだろうな
よくいえば悲劇を演じるってのかな
わるくいえばメロドラマ風だな

ーーいやオレが齢をかさねてひねたせいだけさ

テオ・アンゲロプロスにも晩年はいささかついていけなくなったからな





いきなり「事件の核心」に降り立たせる第一行をもつ詩集は
日本では『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』だね
谷川俊太郎の最高傑作じゃないだろうか
1931年生まれの谷川俊太郎の1972年の作品だ
谷川の多くの詩を知っているわけじゃないけどさ
『世間知ラズ』とどっちをとれっていわれたら迷うな


「男と女ふたりの中学生が/地下鉄のベンチに坐っててね」(1)

「飲んでいるんだろうね今夜もどこかで」(2) 武満徹に

「きみが怒るのも無理はないさ」(4) 谷川知子に

「きいた風なこと言うのには飽きちゃったよ」(5)

「全然黙っているっていうのも悪くないね」(6)

「題なんてどうだっていいよ/詩に題をつけるなんて俗物根性だよ」(9)

「寝台の下にはきなれた靴があってね」(10)


ーー『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』より

ゴシップ性もふんだんにある詩の集まりで
谷川が後年カヴァフィス詩を愛したのがよくわかるよ

(8)  飯島耕一に

にわかにいくつか詩みたいなもの書いたんだ
こういう文体つかんでね一応
きみはウツ病で寝てるっていうけど
ぼくはウツ病でまだ起きている
(……)
でも何もかもつまらないよ
モーツァルトまできらいになるんだ
せめて何かにさわりたいよ
(……)
きみはどうなんだ
きみの手はどうしてる
親指はまだ親指かい?
ちゃんとウンコはふけてるかい
弱虫野郎め

ただ、カヴァフィス詩には、たしかにどこか「ゴシップ」的なものがある。われわれ皆がゴシップを楽しむ、その感覚に訴える何ものかがある。上質のゴシップというものなしでは「サロン」は成り立たない。レプシウス街十番地も盛んにゴシップが飛び交っただろう。カヴァフィス詩の「ゴシップ感覚」的側面である。この感覚が、登場人物とわれわれとの近しさをつくりだしているのももしれない。ヘレニズム期ギリシャの市井笑劇家ヘロダスのパピルスはカヴァフィスの若い時にエジプトの砂漠から発見され、それにカヴァフィスは感激している。このヘロダスの「ミーモセス」(擬曲)はゴシップ的快楽から成り立っている。これを「普遍的ゴシップ性」といおうか。

シェイクスピアにはゴシップ的要素がないか、当時の時代的背景の中におけば、たとえば「アントニーとクレオパトラ」にもその要素がある。エリザベス一世とその寵臣エセックスとの重ね合わせである。T・S・エリオットがその「荒地」においてシェイクスピアのこの劇を引く時には、明らかにこの二重性を意識している。また「荒地」自体、特にその前半は「普遍的ゴシップ性」にみちみちている。エズラ・バウンドの手がはいる前の原稿にはいっそう著しい。

状況を共有し、演出者となり、「ゴシップ」感覚を享楽するという、一見矛盾した点からであろうが、カヴァフィス詩の読者の中には、あるふしぎな感覚、「コミットしながらも醒めている」という奇妙な状態が生じる。すなわち、われわれはカヴァフィス詩の状況に共感し共振するが、決して主人公に同一化することはない。彼が感傷的になっている時でさえ、われわれは、その感傷からある距離を保ち、決してこの距離を失うことはない。おそらく、詩人自身が対象との距離を失わないからであろう。カヴァフィス詩の現代性は、安易な感情移入と同一化を許さないというところにある。(中井久夫「劇詩人としてのカヴァフィス」『家族の深淵』所収)

中井久夫はカヴァフィス絶賛ってわけだろうか
でも訳詩の自負はカヴァフィスでもヴァレリーでもなく
エリティスの『アルバニア戦線に倒れた少尉にささげる英雄詩』だそうだ
(前回一部掲げたけどさ)

『日時計の影』の「あとがき」次のように書いている。

…拙い翻訳ながら、私の訳詩の中では最良のものかと、ひそかに思っている。翻訳をしながら、また読み返しながら、涙がこみあげてきたのは、他にも絶無ではないが、訳者を泣かせるパワーがいちばん大きかったのはこの詩である。

実際とてつもなく美しいよ
西脇順三郎のいくつかの詩句とどっちを選ぼうか
迷っちまうぐらいにさ

「向うの家ではたおやめが横になり
女同士で碁をうっている」

「美容師と女あんまは愛らしいひょうたんを
かたむけてシェリー酒をのんでいる」

「女神は足の甲を蜂にさされて
足をひきずりながら六本木へ
膏薬を買いに出かけた」

でもきのこの匂いはしないな
晩年の西脇みたいにさ

「灌木について語りたいと思うが
キノコの生えた丸太に腰かけて
考えている間に」

「もう秋は四十女のように匂い始めた」

ギリシャの文学に親しんでいささか参るのは、裏も表もない若さの賛美である。山間で老人が背を曲げて碁でも打っているといった南画の世界がギリシャから一番遠いものであるという、どなたかの指摘を読んでなるほどと思ったことがある。だから、カヴァフィスのような現代ギリシャ詩人も若い時から老・病・死を恐れる強迫を持ち、この強迫がその詩に隠顕するのだろう。私はたまたま彼の詩をだいたい全部訳したけれども、時には非常に違和感を感じて手に取れないことがある。それは一言にしていえば、菌臭の持つ安らぎから実に遠いということである。(中井久夫「きのこの匂いについて」1986年初出『家族の深淵』所収)

ところでキノコの匂いのする音楽ってのはあるんだろうか
さてとーー。
ちょっと思いつかないな
キノコ研究家のケージの音楽にもにおいを嗅いだおぼえはないよ
武満徹にだってないな

東欧あたりの民謡にはすこしはあるのかな





バルトークは性格わるかったらしいからな
「あんた方はみんなつんぼだっていったんだ。
そら、あれが聞こえないのかい?」 (バルトーク)

キノコのにおい嗅ぐまえに性格の悪さきいちまうな
で「アンタ方はみんな鼻がきかないっていったんだ。
ほら、このにおいに気づかないのかい?」ってわけだ

ヤナーチェクあたりにもキノコはあるのかもな
でもこのところヤナーチェク鼻ずまり症でね

どれもに夢中になり
そのどれもにやがて飽きちまうんだな

女に忠実
音楽には不実?

ショパンにあるとしたらマズルカだけだよ
しかも地元出身のピアニストじゃないとな
Maryla Jonasとかさ
彼女には忠実なままだな今のところ


2015年1月8日木曜日

「つち澄みうるほひ」(室生犀星)と「水澄み/ふるとしもなき」(三好達治)

微恙あり、ベッドに寝転がって三好達治の『測量船』をiPadで読む。今年(2015)から青空文庫には三好達治、佐藤春夫などが新たに加わっている。『測量船』は文庫本が手元にないわけではないが、大きな活字で読む方が――詩はとくにーー好ましい。

以前にも、『測量船』をそれほど熱心に読んだわけではない。冒頭近くにある「春の岬」やら「乳母車」、「雪」などの名高い詩を中心に拾い読みする程度で、中ほどから居並ぶ散文詩のたぐいは殆んど読み飛ばし、その散文詩のなかでは、「海、遠い海よ! と私は紙にしたためる。――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」との文がある「郷愁」が印象に残っているぐらいだ。

ところで自由詩のなかに「池に向へる朝餉」という題の詩がある。冒頭の四行は次ぎの通り。

水澄み
ふるとしもなきうすしぐれ
啼く鳥の
鳥のねも日にかはりけり

この詩句は以前はなんの印象も受けておらず、今ごろになってその存在に気づいたと云ってもいいぐらいなのだが、この若き日に書かれた詩の「水澄み」に今注目することになったのは訳がある。それは次ぎの文章に感心していたからである。

……三好が詩に於てつとに萩原朔太郎を宗としたことは周知のとほりだが、その詩境をうかがふに、年をふるにしたがつて、むしろ室生さんのはうに「やや近距離に」あゆみ寄つて来たのではないかとおもふ。萩原さんの詩はちよつと引つかかるところがあるけれど、室生さんの詩のはうはすらすら受けとれると、げんに當人の口から聞いたことがあつた。萩原さんをつねに渝らず高く仰いてゐた三好として、これは揣らずもみづからの素質を語つたものだらう。ちなみに、そのときわたしは鑑賞上それと逆だと應へたおぼえがある。また三好が酣中よくはなしてゐたことに、芥川龍之介は百發九十九中、室生犀星は百發わづかに一中だが、のべつにはづれる犀星の鐵砲がたまにぶちあてたその一發は芥川にはあたらないものだといつて、これにはわたしも同感、われわれは大笑ひした。つち澄みうるほひ、石蕗の花咲き……といふ室生さんの有名な詩は三好が四十年あまりにわたつで「惚れ惚れ」としつづけたものである。「つち澄みうるほひ」はまさに犀星の一發。このみがき抜かれたことばの使ひぶりは詩人三好が痩せるほど氣に入つた呼吸にちがひない。(石川淳「三好達治」『夷斎小識』所収)

寺の庭は四行詩で、全編を掲げれば次ぎのごとし。

つち澄みうるほひ
石蕗の花さき
あはれ知るわが育ちに
鐘の鳴る寺の庭

なによりも《つち澄みうるほひ》はひどく美しい詩句である、――ということも、上の石川淳の文章を読んで、はじめて御意と思ったのであり、この「寺の庭」という詩をかつて読んだことはありながら、たいしてその詩句に魅了されていたわけではない。初老の身になってはじめてひどく感心することになった詩句である。

ところで土が澄むとはどういうことか。

後年庭作りに丹念であった室生さんででもなければ、最初の一行「土澄みうるほひ」などと歌ひ起す詩人が、凡そ天地のひらけて以来他にはゐなかつだであらうと思ふ。その「「土澄みうるほひ」で「石蕗の花咲き」が、詩中でたいへん美しい。……「土澄みーー」といふのは、まことに異な表現であつたのを思ふと、そもそもこの際その美の發端は、この「土澄み」にあつた、その發見といつてもいい一種の呼吸に、私はいつでも變らず惚れ惚れとしてものを覺える。(三好達治「土澄みうるほひ」1963.1「週刊読書人」初出ーー犀星没年1962に書かれているとしていいだろう)

三好達治は《まことに異な表現であつた》と言っているが、「土」と「澄み」が組み合わされるのは、オクシモロンとまではいかないにしろ、それに近い印象をあたえるということか(いずれにせよその後に続く「澄み」と「うるほひ」の接合はオクシモロンの一種としてもよいだろう)。

修辞学で言うオクシモロンoxymoronという言葉は、語源の上ではギリシャ語で「鋭い」を表すoxyと「愚か」の意味のmOrosとが結びついたもので、「無冠の帝王」とか「輝ける闇」などの表現のように、通念の上では相反する、あるいは結びつき難い意味を持つ二つの言葉が結びつき、ぶつかりあいながら、思いがけない第三の意味を生み出すという一つの表現技法である。撞着語法とも、矛盾語法とも呼ばれる。(安永愛「 ポール・ヴァレリーのオクシモロンをめぐって」)

【シェイクスピアの例】
ああ喧嘩しながらの恋 、ああ恋しながらの憎しみ、ああ無から創られたあらゆるもの、ああ心の重い浮気、真剣な戯れ、美しい形の醜い混沌、鉛の羽根、輝く煙、燃えない火、病める健康、綺麗は汚い、汚いはきれい……

【ヴァレリーの例】
魅惑の岩、豊かな砂漠、黄金の闇、さすらふ囚われびと、おぞましい補ひ合ひ、昏い百合、凍る火花、世に古る若さ、はかない不死、正しい詐欺、不吉な名誉、敬虔な計略、最高の落下(以上、中井久夫訳ヴァレリー『若きパルク 魅惑』巻末の「「オクシモロンー覧表」」

「つち澄み」は、オクシモロンに近い《まことに異な表現》として捉えうるのかもしれないが、とはいえ、次ぎのような見解もある。すなわち、この「つち澄みうるほひ」は、金沢の気候、風土、その曇り空の下の特有の現象であり、《北陸は雨が多いので、常にしっとりと湿っている秋の庭を見ているものには、とても「異な表現」とは思われない》(安宅夏夫「蠟燭と鳩笛」ーー北川透「《無類の直接性》をめぐって」より孫引き)。






ところでトルストイの『アンナ・カレーニナ』の主人公としてよい地主リョーヴィン--トルストイ自身がモデルとして読むことができるだろうーー、彼がモスクワだったかペテルブルグから自らの田舎に帰って来て、己れの領地の肥沃な黒土をみやり、いや手にすくってみたのだったかもしれないが、これが俺の宝だというようなことを呟く場面があったと記憶するのだが、いまその箇所を探し出せないでいる。あの黒土は「土澄みうるほひ」と言いうるものではないか。滋養で匂い立つ黒土がさらさらとかつ潤って手に指の股から零れ落ちる……。だがこれは記憶違いかもしれない。


ここで、バルトークの《生と死とが相半ばしてできているこの刺激臭のあるカーペット》をめぐる文が「つち澄みうるほひ」であると、そのままいうつもりはないが、トルストイのかわりに引用しておこう。

バルトークは……森の中に腰をおろすと、かがみこんで足下につもった松葉を手で掘るのだった。

「膝くらいつもっている。何百年もかかって堆積されたんだ。あなた方御婦人は、こういう種類のカーペットをお宅の床にほしいとは思わないだろうけれど、これは飛びっきり高価な手織りのカーペットより、ずっと時間も労力もかかっていることはわかるだろう。太陽、雨、霜、雪、風が私たちの頭上にあるこの木々にふりそそぎ、季節がめまぐるしく変わる毎に、葉は落ちて死に、それに代わって生まれるべき無数の新しいもの、こうした生命のための場を整えるんだ。それに昆虫や鳥、毛虫のことも忘れちゃいけない。それぞれのやり方で、この過程を助けているのだから。彼らはみんな、この生と死とが相半ばしてできているこの刺激臭のあるカーペットの生成に関わっているんだ」(あんた方はみんなつんぼだっていったんだ。そら、あれが聞こえないのかい? (バルトーク))




…………

さて三好達治の「水澄み」は犀星起源ということは充分にありうるが、とはいえ「水」と「澄み」はごく標準的な組み合せであり、犀星の「つち澄み」には到底かなわない。

だがそれ以外にも音韻上の工夫を見てみよう、ここで見るのは母音だけだが。


つち澄みうるほひ
石蕗の花さき
あはれ知るわが育ちに
鐘の鳴る寺の庭

uiuiuuoi
uauioaaai
aaeiuaaoaii
aeoaueaoia


水澄み
ふるとしもなきうすしぐれ
啼く鳥の
鳥のねも日にかはりけり

iuui
uuoioaiuuiue
auoio
oioeoiiaaiei


両詩とも、一行目、二行目とウ音が重り、《くらがりにうごめくはっきりしない幼虫のよう》ではないか。そして三行目の冒頭に明るいア音がきて、唐突の転調のような印象を生んでいる。

くらがりにうごめくはっきりしない幼虫のように目につかなかったいくつかの楽節が、いまはまぶしいばかりにあかるい建造物になっていた。そのなかのある楽節はうちとけた女の友人たちにそっくりだった、はじめはそういう女たちに似ていることが私にはほとんど見わけられなかった、せいぜいみにくい女たちのようにしか見えなかった、ところが、たとえば最初虫の好かなかった相手でも、いったん気持が通じたとなると、思いも設けなかった友人を発見したような気にわれわれがなる、そんな相手に似ているのであった。(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳ーー馬鈴薯、あるいはプラトン・カラターエフの歌うような声)

ーーさあて、すこしパクってみよう。

うみ澄みゆらめき 
船ゆれの山なみ 
あはれ見るわが港に 
柿のなる枝の先


酒澄みうるほひ
たおやめの頬あからみ
秋は女の垣根の奥のやうに
香液したたり匂いだす庭


(ははあ、音韻が合わない語句多く、鋭意エラボレーション中)

《生垣に穴をあけなければ永遠の世界を眺めることが出来ない》(西脇順三郎)

……この真っ昼間、……
トカゲも壁の割れ目にもぐり、
墓守ヒバリも見えない時刻なのに。
……
実もたわわなスモモの枝が
地面に向かってしなだれる。
――テオクリトス『牧歌(Idyllia)』第7歌(古澤ゆう子訳)

《享楽の垣根における欲望の災難「Mesaventure du desir aux haies de la jouissance」》(ラカン)

ーー欲望が享楽に向かって進もうとするときはいつでも、《トカゲの尻尾のように落ちる》[ca tombe]


…………


室生犀星の詩、あるいは三好達治の詩をいま読むと、その懐古の仕草、あるいは「感傷性」にほとんど耐えきれなくなるときがある。だが二十世紀前半の詩人たちの多くの作品はそうだったのだろう。とはいえ、あんなにも過去に歩み寄り、とくに「母」への思いに耽溺して「退行」してよいものだろうか。

……わが国の著者はいささか幼児的ではないかという気もしないではないが、何人であろうと、「デーモン」が熾烈に働いている時には、それに「創造的」という形容詞を冠しようとも「退行」すなわち「幼児化」が起こることは避けがたい。(中井久夫「執筆過程の生理学)

この「創造的退行」とでもいうべきものなのだろうか。

この機会に室生犀星の『抒情小曲集』を覗いてみたのだが、序には北原白秋の文などが掲げられている。

初めて会つた頃の君は寂しさうであつた、苦しさうであつた、悲しさうであつた。初めて君の詩に接した時、私はその声の清清しさに、初めて湧きいでた同じ泉の水の鮮かさと歓ばしさとを痛切に感じた。君はまた自然の儘で、稚い、それでも銀の柔毛を持つた栗の若葉のやうに真純な、感傷家であつた。それは強い特殊の真実と自信と正確さを特つた若葉だ。その栗の木は日を追うて完全な樹木の姿となつた。

ここにも「感傷家」という言葉がある。そしてわたくしには、彼らの作品から《つかれを吹きとばす笑いのやさしさと、たたかいの意志》を、感じとれることは稀にしかない。

ふりむくことは回想にひたることではない。つかれを吹きとばす笑いのやさしさと、たたかいの意志をおもいだし、過去に歩みよるそれ以上の力で未来へ押しもどされるようなふりむき方をするのだ。 (高橋悠治『ロベルト・シューマン』)

だからといって捨て去るにはーーたいした文学読みではないわたくしが言っても始まらないがーー忍びない詩句に溢れている。そこに内容ではなく形式的な美をみる方法もあるのだろう。

「軽薄にソネットを扱いそこにピタゴラス的な美をみないのは馬鹿げている」(ボードレール)。ピタゴラス的な美とは、”現実”や”意味”と無関係に形式的な項の関係のみで成り立つものである。(柄谷行人『隠喩としての建築』)

ようするに、海外住まいを二十年続けてしまったわたくしは、最近「日本語」が懐かしいのだ。この「懐かしい」とは、やはり感傷なのだろうか。かりに「感傷」であっても、こうでありたいものだ。

傷によって生気は増し、力は生長する increscunt animi,virescit volnere virtus (Furio Anziate (II sec. a. C.)