このブログを検索

2015年1月5日月曜日

馬鈴薯、あるいはプラトン・カラターエフの歌うような声

しつもん

ばれいしょの名前の由来(ゆらい)をおしえてください。

質問者:小学生

こたえ

17世紀、中国で、野生種(やせいしゅ)の一種の「アンデイゲナ」とよばれる植物(しょくぶつ)のイモの形が馬の首につける鈴(すず)に似(に)ていることから、「馬鈴薯(ばれいしょ)」と名づけられました。(農林水産省

尿酸値がまた上がり、節制のため、蒸かした馬鈴薯にスパゲッティ用の自家製パジルペーストをつけて食す。ひどく美味なり。セロリに塩胡椒をふりかけオリーブ油に浸したサラダ。山羊のチーズ。全粒粉のパン少々。麦酒は控え赤ワインとす。やや物足りなく、サラミを切ろうかと思案したが思いとどまる。右足首と左膝に、腫れとまではいかないが違和があり、片足ならまだしも、これで悪化したら松葉杖使用も難くなるためなり。

低カロリーであろうイタリア風南蛮漬け、ーーカルピオーネといって、玉葱、セロリ、人参、大蒜をみじん切りにしてオリーブ油で炒めたものに赤ワイン酢をまぜて漬け汁をつくり、わかさぎを揚げて一晩ほど酢漬けする料理ーーを明日以降のためにやや大目に準備(といっても揚げるのは妻がやるのだが、ーー揚げ物を食してもダイジョウブだろうか)。

九月八日、捕虜の収容されている小屋へ、一人の将校がはいってきた。番兵たちがうやうやしい態度をとるところから見ると、よほど身分の高い人らしかった。この将校は司令部づきらしかったが、名簿を手にしてロシア人一同の名前を呼んだ。ピエールのことは「名を言わない者」と言った。(……)

彼のすぐそばに一人の小柄な男が背中をかがめて坐っていた。体を動かすたびに発散する強い汗の匂いで、ピエールは初めからその男の存在に気がついていた。男は暗闇のなかで自分の足をどうかしていた。ピエールは顔こそ見なかったけれど、その男がしじゅう自分を眺めているような気がした。闇のなかをよく見透かしているうちに、ピエールは男が靴を脱いでいることに気がついた。やがて彼はその男のやりかたに興味をいだきはじめた。

男は一方の足を縛った紐を解くと、その紐を丁寧にきちんと巻いて、ちょいちょいピエールを眺めながら、すぐいま一方の足にとりかかった。まだ一方の手は解いた紐をかけているのに、もう一方の手は別の足の紐を解き始めるのであった。こうして少しもぐずぐずせずに、丸みをおびたような、手順のいい動作をつぎつぎとつづけながら、規則ただしく靴を脱いでしまうと、頭の上に打ちつけてある木釘に靴をかけ、さて今度はナイフをとりだして何かを切った後、ナイフをたたんで枕の下に入れた。それから坐りぐあいをなおして、立てた膝を両手で抱きながら、ピエールをまともにじっと見つめた。この手順のいい運動にも、片隅に設けたぐあいのよさそうな世帯ぶりにも、またその男の匂いにさえも、何かしら気持ちのいい安心させるような、丸みをおびたあるもののがピエールに感じられた。で、彼は眼をはなさずにその男を観察していた。
「ねえ、旦那、お前さんはずいぶん不自由な目に会いなさったろうね? え?」突然、小柄な男がこう言った。

その歌うような声のなかには、何ともいえない愛撫と淳朴の表情が響いていたので、ピエールは返事をしようとしたけれど、あごがふるえて涙がこみあげるのを感じた。小柄な男はその瞬間、ピエールに困惑を表わす余裕を与えないで、依然気持ちのいい声で言い出した。
「なあに、旦那、くよくよなさるこたあありませんよ。」例の歌うような、優しい、愛撫のこもった声で彼は言った。それは年とったロシヤの農婦によく見受けられる調子であった。「お前さん、くよくよしなさんな。苦労は一時、暮しは一生だからなあ! え、旦那、そうじゃないかね。現にわしたちもここにこうして暮らしているが、おかげで何もいやな目には会わないよ。おなじ人間でも、悪い人も善い人もあるからね。」と彼は言った。そしてこんなことを言っているうちに、しなやかな身ぶりで膝の上にかがみこみながら起きあがると、咳をしいしいどこかへ行った。
「やあ、こんちくしょう、やってきたな!」バラックの向こうの端で、例の優しい声でこう言うのが、ピエールの耳にはいった。「きたな、ちくしょう、よく覚えているなあ! よし、よし、もうたくさんだよ。」

兵卒はとびつく小犬をおしのけながら、また自分の場所へ帰って腰をおろした。手には何かきれに包んだものをもっていた。
「さあ、旦那、ひとつ食べてごらんなさいよ。」彼はまた以前のうやうやしい語調にかえりながら包みを開け、いくつかの焼いた馬鈴薯をピエールにさし出した。「お昼にはスープがあったけれど、この馬鈴薯もとびきり上等でがすよ!」

ピエールは一日ものを食べなかったので、馬鈴薯の匂いが並はずれてうまそうに思われた。彼は兵卒に例を言って食べにかかった。
「え、そのまま食うのかね?」兵卒はにこにこしながらそう言って、馬鈴薯を一つとった。
「お前さん、こうするもんだよ。」

彼はまた折りこみのナイフを出して、てのひらの上で馬鈴薯をちょうどま二つに切り、きれに包んだ塩をふりかけてピエールにすすめた。
「とびきり上等の馬鈴薯だ。」と彼はくりかえした。「お前さん、こうやって食べてみなさい。」
ピエールは今までこれほどうまいものを、食べたことがないように思われた

「……ときに、わしの名はプラトンで、通り名はカラターエフというんだよ。」

(トルストイ『戦争と平和』(四) 米川正夫訳 岩波文庫 p70-72)

…………

長いあいだ、ジュリアードカルテットアルバン・ベルクカルテットで聴いていたベートーヴェンのop131だがーープルーストの愛したカペーカルテットは味わい深いにもかかららずいかにも古臭い箇所があるーー、ブタペスト弦楽四重奏団の録音にめぐりあって、これはひどくすばらしい演奏にきこえてくる。





この演奏で聴くと、わたくしの愛するフォーレのop121のまるで親戚みたいである。




この二つの曲、あるいは上の二つの演奏に《くらがりにうごめくはっきりしない幼虫》のざわめきを聴いて痺れない人たちとはオトモダチになれない。

……この音楽のなかで、くらがりにうごめくはっきりしない幼虫のように目につかなかったいくつかの楽節が、いまはまぶしいばかりにあかるい建造物になっていた。そのなかのある楽節はうちとけた女の友人たちにそっくりだった、はじめはそういう女たちに似ていることが私にはほとんど見わけられなかった、せいぜいみにくい女たちのようにしか見えなかった、ところが、たとえば最初虫の好かなかった相手でも、いったん気持が通じたとなると、思いも設けなかった友人を発見したような気にわれわれがなる、そんな相手に似ているのであった。(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)

それはこういうことでもある。

フローベールは「黄色の印象を与えたい」がために『サランボー』を、「わらじ虫がうようよする片隅のあのカビの色みたいな感じを出したい」がために『ボヴァリー夫人』を書いたらしく、これを聞いただけでもフローベールに好感を抱かざるを得なくなるとブルトンは言っているが、成る程いい感じ。御意。(鈴木創士ツイート)

フォーレは妻への手紙に、「ベートーヴェンの弦楽四重奏は、ベートーヴェンでないすべての作曲家に、弦楽四重奏を怖がらせる」と書いている(1924)。彼は最晩年の死去の前年1923年までピアノなしのカルテットを書くことはなかった(OP.121は1923年から1924年にかけて作曲される)。そして批評家たちにベートーヴェンの影響を指摘されることに心配した。フォーレは最初に第2楽章のアンダンテを書いた。これがOP121の中心であることは疑いない。

※参照:「String Quartet in E minor, Op. 121 Dichotomies of Innovation and Tradition in Gabriel Fauré’s “Swan Song”」Emma Childs  David Grayson Spring 2013

とはいえ、op131の第一曲のIAdagio ma non troppo e molto espressivoや第六曲のAdagio quasi un poco andanteなどを聴けば、フォーレのパクリを聴き取らずにはいられない。

しかもフォーレの作品には、ベートーヴェンの後期の作品にもかすかに残る中期ベートーヴェンの作品に顕著な、ーーさてどうしようかーー、ここは、オレが言うのじゃなくて、ドビュッシー=吉田秀和にお出まし願おう、《あの孤独で不機嫌なつんぼの音楽家は、ほかのどんな美徳を具えていたといしても、趣味の良い人間とは、いえなかったろうから。ドビュッシーのような人は、音楽においてさえ、ベートーヴェンは趣味の上での欠如があったといっている》(吉田秀和『私の好きな曲』)、--その趣味の悪さなど微塵もなく、当時の文化の華の国の極度の洗練と気品がある。

もっともこのop131にベートーヴェンの趣味の悪さを聴き取るのはむずかしい。問題はことさらカルテット15番op132のMolto Adagio - Andanteである"Heiliger Dankgesang eines Genesenen an die Gottheit, in der lydischen Tonart"「リディア旋法による、病より癒えたる者の神への聖なる感謝の歌」 だ。ああ、なんという美しい……、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲を聴いたものならまっさきに愛するだろうあの「崇高」さ!

わたくしも気分がよいときは、いまでもこの楽章を愛する。でもあそこには中期の最もベートーヴェン的なるもののかすかな残存があるんじゃないか。ときにーーシニカルな気分のときーーそれが鼻につかないでもない。

彼は、声をあげて泣いていた。その泣き声は泣いている間も、ずっと彼の耳からは離れない。彼は誇張したのだろうか、あれらの中期の作品で。いやそうとまではいうまい。だがその泣き声が、どんな影響をきく人に与えるかを、彼はよく知っていた。(同 吉田秀和)

シツレイ! ベートーヴェンの「感謝の歌」好きのみなさん。ダイジョウブだよ、ゴダールだって『カルメンという名の女』で使ってるからな。でも、あの曲は、何度もくり返して聴くというわけにはいかない作品ではないか。それに対してop131の飽きることのない完璧さ!


「感謝の歌」〔15番)というのは、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏のなかで「一番早く目につく美」なのさ。

ヴァントゥイユのソナタのなかで一番早く目につく美は、またあきられやすい美であり、そうした美がすでに人々に知られている美とあまりちがっていないのも、まず早く目にとまる美だからである。しかしそんな美がわれわれから遠ざかったとき、そのあとからわれわれが愛しはじめるのは、あまり新奇なのでわれわれの精神に混乱しかあたえなかったその構成が、そのときまで識別できないようにしてわれわれに手をふれさせないでいたあの楽節なのである。たが(プルースト「花咲く乙女たちのかげにⅠ」井上究一郎訳)

そしてop131(14番)はつぎのような具合だね。

私はこのソナタがもたらすすべてを時間をかさねてつぎつぎにでなければ好きになれなかったのであって、一度もソナタを全体として所有したことがなかった、このソナタは人生に似ていた。しかし、そうした偉大な傑作は、人生のようには幻滅をもたらすことはないが、それがもっている最上のものをはじめからわれわれにあたえはしない。(同上)

かつてはそれなりに高価なレコードを小遣いをはたいて購入したわけで、最初に馴染めないような曲でも多くの人びとはくり返し聴いてみただろう。が、現在のように音楽が無料でふんだんに手に入るようになってしまえば、そんな努力をすることは稀になる。とすれば一番早く目につく美ばかりを人は追い求めるようになる。これはなにも音楽に限らない。

わたくしが比較的好んで聴く若い弦楽四重奏団エベーヌカルテット(Quatuor Ébène)の連中も、OP131が至高だと言ってるからな。演奏家サイドでいえば、彼らは同じ曲をくり返し演奏せざるをえないわけだから、きっとop132ではなく、op131を選ぶことだろう。





ーーどうしてヴィオラくん欠席なんだろ? まさかこういったわけでもあるまいが。

S.Richter_bot ‏@RichterBot

かつて「ベートーヴェン」の名を冠した弦楽四重奏団があった。そこのヴィオラ奏者は第二ヴァイオリンと口をきかず、何かを伝えたいときには第一ヴァイオリンを介して伝えてもらうかさもなくば紙のメモをやり取りし合うだけだった。(リヒテル)

…………

『この傑作では、すべてが、完璧で、必然で、変更の余地が全くない』と、この曲(ベートーヴェン 作品 131)について賛辞をおしまなかったのは、晩年の死ぬごく前の、ストラヴィンスキーであった。

ストラヴィンスキーという人は、本当におかしな芸術家だった。二十歳そこそこであの最高のバレエ音楽、特に《春の祭典》を書き上げたのち、バッハに帰ったり、ペルゴレージからチャイコフスキーに敬意を表したりした末、晩年にいたって、ヴェーベルンに「音楽の中心点」を見出すに至ったかと思うと、その後長生した数年のあと、いよいよ死ぬ時をまつばかりとみえたころになって、今度はヴェーベルンも、自分の作品も、もうききたくないと言いだし、みんな投げすててしまい、ベートーヴェンに熱烈な賛辞を呈しつつ、死んでいった。これは、どういうことだろう? もっとも、ストラヴィンスキーは、若いころだってベートーヴェンの偉大さを認めてなかったわけではないと、後年、ロバート・クラフトに述懐しているが、しかし、それもまた奇妙な事情の下で、だった。というのは、彼は、一九二二年《ルナール》の初演のあと、招かれていたパーティでマルセル・プルーストに出会った。

『プルーストは、ストラヴィンスキーとは戦前〔第一次大戦〕すでに知りあいになっていたが、〔このパーティで〕最初に口をきいた時、荒れ模様の初演を終えたばかりの大作曲家に呈する質問としては、もっとも無器用な質問を彼にむけたのだった。―― 「ベートーヴェンはお好きですか?」 ――「大嫌いですよ」――「しかし晩年の四重奏曲などは ……」とプルーストは抗議した。「彼が書いたもののなかで最悪の作品ですよ」とストラヴィンスキーはどなった』(ペインター、岩崎力訳《マルセル・プルースト》)

晩年になって、この時の様子を改めてクラフトにきかれると、こう弁解したのだ。『プルーストは、直接彼のベッドから、例によって、夕方おそく起きて、やってきたのだった。まっさおな顔をして、こったフランス式の服装に、手袋をはめ、ステッキをもっていた。彼は、私に音楽の話をしかけてきて、ベートーヴェンの後期の四重奏曲に対する感激を吐露していた。これは、当時のインテリ文士のきまり文句で、音楽的判断というより、文学的ポーズになっていた。そうでなければ、私も、大いに共鳴するところだったのだ』(ストラヴィンスキー、ロバート・クラフト、吉田秀和訳《百十八の質問に答える》

――― 吉田秀和『私の好きな曲』上  P15-16

さて話が逸れたが、馬鈴薯の話に戻る。昭和二十年、戦争の終わる二日前の、荷風散人六十七歳の日記からである。

八月十三日 谷崎氏を勝山に訪はむとて未明に起き、明星の光を仰ぎ見つゝ暗き道を岡山駅の停車場に至る。 構内には既に切符を購はむとする旅人雑沓し、午前四時札売場の窓に灯の点ずるを待ちゐたり。 構外には前夜より来りて露宿するもの亦少からず。 予この光景に驚き勝山往訪の事を中止せむかと思ひしが、また心を取直し行列に尾して佇立すること半時間あまり。 思ひしよりは早く切符を買ひ得たり。 一ト月おくれの盂蘭盆にて汽車乗客平日より雑沓する由なり。 予は一まづ寓居に戻り、朝飯かしぎて食し後、再び停車場に至り九時四十二分発伯備線の列車に乗る。 辛うじて腰かくることを得てり。 向合ひに坐したる一老媼と岡山市罹災当夜の事を語る。 この媼も勝山に行くよし。 弁当をひらき馬鈴薯、小麦粉、南瓜を煮てつきまぜたる物をくれたれば一片を取りて口にするに味案外に佳し。 列車倉敷を過る頃より沿線の山脈左右より次第に迫り来り、短き隧道を出入する事数回に及ぶ。 沿道行けども ~ 清渓の流るゝあり。 人家は皆山に攀づ。 籬辺時に百日紅の花爛漫たるを見る。 正午新見といふ駅の停車場に着す。 こゝにて津山姫路行の列車に乗替をなす。 車窓より町のさまを窺ひ見るに渓流に沿ひ料理屋らしき二階家立ちならびたり。 家屋皆古びて古駅蕭條の趣あり。 鉄道従業員多くこの地に住居するが如し。 新見を発するや左右の青巒いよ ~ 迫り、隧道多く、渓流ます ~ 急なり。 されど眺望広からざれば風光の殊に賞すべきものなし。 一歩一歩嚢中に追ひ込まれ行くが如き心地す。 車中偶然西欧人夫婦幼児を抱きて旅するものあるを見る。 容貌独逸人なるが如し。 午後一時半勝山に着し直に谷崎君の寓舎を訪ふ。 駅の停車場を去ること僅に三四町ばかりなり。 戦前は酒楼なりしと云。 谷崎氏は離れ屋の二階二間を書斎となし階下に親戚の家族多く避難し頗雑沓の様子なり。 細君に紹介せらる。 年紀三十四五歟。 痩立の美人にて愛嬌に富めり。 佃煮むすびを恵まる。 一浴して後谷崎君に導かれ三軒程先なる赤岩といふ旅館に至る。 谷崎君のはなしに渓流に臨む好き旅館に案内するつもりなりしが、遽に独逸人収容所に当てられて如何ともしがたしと。 予が来路車中にて見たりし洋人は想像通り独逸人なりしなり。 やがて夕飯を喫す。 白米は谷崎君方より届けしもの。 膳に豆腐汁。 渓流に産する小魚三尾。 胡瓜もみあり。 目下容易には口にしがたき珍味なり。 食後谷崎君の居室に行き閑話十時に至る。 帰り来つて寝に就く。 岡山の如く蛙声を聞かず。 蚊も蚤も少し。

《容易には口にしがたき珍味》は「苦境」に陥ったとき、初めて訪れる。夜中にひどく腹がへって食べる冷えた御飯と梅干、あるいは海苔のなんという美味なこと!