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2018年1月5日金曜日

「忘れるな、身体よ」



ああまた白木蓮のつぼみの奥の
キチガイ雌しべがひらひらしている

ああまたあの音が聞こえる
ああまたわからなくなつた

「女から/生垣へ
投げられた抛物線は
美しい人間の孤独へ憧れる人間の
生命線である」

ああ すべては流れている
ああ また生垣の後ろで
頭を垂れた睡蓮が溜息をついている

土を思い白鳥のように
濡れて野にしやがむ
イセの木むすめの
「なかさおはいりなせ--」という
言葉がまたきこえてくる

ああかけすが鳴いてやかましい

風がたち丘のうなじが光る
盲目の小鳥は光の網を潜る





わたしのチューリップにたいする関係はリンチ風だね、あの花というのはほんとにムカつくよ。想像してみよう、あの類の花というのは、なんて言えばいいのか、ヴァギナ・デンタータだな、きみを呑み込むような畏れ多い歯のついたオメコさ。花というのはそもそも気分が悪くなる。人はわからないのかね、花がひどくおどろおどろしいものだというのが? 基本的に、すべての昆虫やら蜂やらを呼び込む口を開けた誘いだよ。「おいでよ、そして私を突いてよ」。わかるかい? わたしが思うには、花は子供たちには禁止すべきだね。(ジジェク 、Slavoj Žižek, Dreamboat, Thinks Flowers Are "Dental Vaginas Threatening to Swallow You"、2009)

◆Valery Afanassiev - Schubert - Piano Sonata D664、8:09~



「忘れるな、身体よ……」 カヴァフィス(中井久夫訳)          

身体よ、忘れるな、受けた数多の愛だけではなく
横たわった多くの寝台だけでなく、
きみを見つめた眼の中に、
きみに語って震えた声の中に、
いかにも露わだった憧れのきらめきも--。

充たされなかったのはほんの偶然のせいだったが、
決定的な過去となった今では、
肌を合わせたようにも思えてくるではないか。

忘れるな、ああ、きみを見つめていた眼の中の、あの憧れのきらめき。
きみのためのあの声の中の、あの憧れの震え。忘れるな、身体よ。

 
◆Maryla Jonas plays Chopin - Mazurka in F major Op. 68, No. 3




2016年5月19日木曜日

柘榴の朱

万物の蒼々たる中に柘榴の花のかつと赤く咲きでたのを見ると、毎年のことだが、私はいつも一種名状のしがたい感銘を覚える。近頃年齢を重ねるに従つて、草木の花といふ花、みな深紅のものに最も眼をそばだて愛着を感ずるやうに覚えるが、これはどういふ訳であらう。その深紅のものの燃上るやうなものといふ中でも、柘榴の朱はまた格別の趣きがあつて、路傍などでこの花を見かけて眼を驚かせるその心持の中には、何か直接な生命の喜びとでもいふやうなものが、ともすればふさぎ勝ちな前後の気持を押のけて、独自の逼り方で強く胸に逼つてくるのを私は覚える。それは眼を驚かせるといふよりも、直接心を驚かせるやうな色彩である。それは強烈でまた単純でありながら、何か精神的な高貴な性質を帯びた、あの艶やかな朱である。柘榴の花の場合にはその艶やかな朱が、ぽつんぽつんとまるで 絞出し絵具を唯今しぼりだしたばかりのやうに、そのまた艶やかな緑葉の威勢よくむらがつた上に、点々と輝き出てゐるのであるから、その効果はまた一層引たつて、まるで音響でも発してゐるやうな工合に、人の心を奪つてしばらくはその上にとどめしめないではおかない、独占的な特殊な趣きがある。



私は毎年この花をはじめて見るたびに、何か強烈な生命的な感銘を覚えるといつたが、そのやうな場合、私は路上にあつて、その花にむかつて同じやうな感銘を覚えた去年のその同じ季節のある日から、今日のこの日まで、まる一年間の間の生活の要約、その風味とでもいつていい、何か圧縮された鮮明なしかしまた名状のしがたい感懐を覚えるのである。(三好達治、柘榴の花)

実に美しい幹枝であり花と葉だ。三好達治のいうように、「艶やかな緑葉の威勢よくむらがつた上に、点々と輝き出てゐる」見事な朱色の花。

わたくしはこの木を眺めたことがない。いやどこかで行き当たっていても、その花期にあたらないなどの理由で、何も感じなかったのかもしれない。

柘榴といえば、ヴァレリーは、《己が実の過剰にたえかねて/ひびわれた硬い石榴よ/至高の額を見る思いがする/発見に満ち裂けた額を/……/この光に満ちた裂開は/かつての私の魂を思わせるのだ/その密やかな建築の故に》(中井久夫)と歌っている。




それにエリティスもザクロの木を歌っている。


南の風が白い中庭から中庭へと笛の音をたてて
円天井のアーチを吹き抜けている。おお、あれが狂ったザクロの木か、
光の中で跳ね、しつこい風に揺すられながら、果の実りに満ちた笑いを
あたりにふりまいているのは?
おお、あれが狂ったザクロの木か、
今朝生まれた葉の群れとともにそよぎながら、勝利にふるえて高くすべての旗を掲げるのは?

ーーエリティス「狂ったザクロの木」(中井久夫訳)

と、柘榴の木の画像をいくらか探っていたら、どこかの家の裏庭か中庭だろう、その家の裏戸の傍らに枝をひろげる、静かで親密な時の流れを感じさせてくれる写真に行き当たった。樹幹や枝ぶりが見事な古木だ。




陽気な陽気な時節ではあるがちょっとの間はしーんと静になって、庭の隅の柘榴の樹の周りに大きな熊蜂がぶーんと羽音をさせているのが耳に立った。 (幸田露伴『雁坂越』)

ふいに、この柘榴の木の木陰で「アポロン的静謐」の午後を繊細に過ごしたい、という心持にとらわれる。

一軒の古い家屋、影になっているポーチ、屋根瓦、昔のアラブ風の装飾、壁に寄りかかって座っている男、人気のない街路、地中海沿岸に見られる樹木。この古い写真(1854年)は私の心を打つ。私はひたすらここで暮らしたいと思う。この願望は、私の心の奥深いところに、私の知らない根を下ろしている。私を引きつけるのは、気候の暑さか? 地中海の神話か? アポロン的静謐か? 相続人のいない状態か? 隠棲か? 匿名性か? 気高さか? いずれにせよ(私自身、私の動機、私の幻想がどのようなものであるにせよ)、私はそこで繊細に暮らしたいと思うーーその繊細さは、観光写真によっては決して満足させられない。私にとって風景写真は(都市のものであれ田舎のものであれ)、訪れることのできるものではなく、住むことのできるものでなければならない。この居住の欲望は、自分自身の心に照らしてよく観察すると、夢幻的なものではない(私は非日常的な場所を夢みているわけではない)し、また、経験的なものでもない(私は不動産屋の案内広告の写真を見て、家を買おうとしているわけではない)。この欲望は幻想的なものであり、一種の透視力に根ざしている。透視力によって私は未来の、あるユートピア的な時代のほうへ運ばれるか、または過去の、どこか知らぬが私自身のいた場所に連れもどされるように思われる。ボードレールが「旅への誘い」と「前の世」でうたっているのは、この二重の運動である。そうした大好きな風景を前にすると、いわば私は、かつてそこにいたことがあり、いつかはそこにもどっていくことになる、ということを確信する。ところでフロイトは、母胎について≪かつてそこにいたことがあると、これほど確信をもって言える場所はほかにない≫(「不気味なもの」)と言っている。してみると、(欲望によって選ばれた)風景の本質もまた、このようなものであろう。私の心に(少しも不安を与えない)「母」をよみがえらせる、故郷のようなもの(heimlich)であろう。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

バルトのこのひどく美しい文を読むと、あの写真に唐突に魅了された理由がわかる。わたくしの場合、柘榴の木ではなく、母方の祖父母の家の中庭にあった夏みかんの木なのだが。

またある朝はみゃくらくもなく,前夜むかれた多肉果の紅いらせん状の皮が匂いさざめいたが,それはそのおだやかな目ざめへとまさぐりとどいた者が遠い日に住みあきらめた海辺の町の小いえの,淡い夕ばえのえんさきからの帰着だった.(黒田夏子「abさんご」)

さらにもっと漠然といえば、「午後の日差し」、そしてそれへのノスタルジーとでもいうべきものをわたくしに与えてくれる(京大近くの関西日仏会館にあるレストランはあの写真のような感覚がすこしあった、ということを、これまた唐突に想起する)。亜熱帯の国に住んでいると「午後の快楽」というものはめったにないのだ。


午後の日射し カヴァフィス

私の馴染んだこの部屋が
貸し部屋になっているわ
その隣は事務所だって。家全体が
事務所になっている。代理店に実業に会社ね

いかにも馴染んだわ、あの部屋

戸口の傍に寝椅子ね
その前にトルコ絨毯
かたわらに棚。そこに黄色の花瓶二つ
右手に、いや逆ね、鏡付きの衣裳箪笥
中央にテーブル。彼はそこで書き物をしたわ
大きな籐椅子が三つね
窓の傍に寝台
何度愛をかわしたでしょう。

(……)

窓の傍の寝台
午後の日射しが寝台の半ばまで伸びて来たものね

…あの日の午後四時に別れたわ
一週間ってーーそれからーー
その週が永遠になったのだわ

2015年12月30日水曜日

カヴァフィスと谷川俊太郎の第一行

知っているか
詩にはさまざまな書きっぷりがある
カーヴァーの書きっぷり
カヴァフィスの書きっぷり
シェークスピアの書きっぷり
みなそれぞれに胸を打つ
ぼくは翻訳で読むだけだけれど
(ありがとう翻訳家の皆さん・名訳と誤訳の数々)

みんな死ぬまで自分の書きっぷりで書いた
書きっぷりはひとつの運命

だがぼくはいろんな書きっぷりに惑わされる
ひとつ ふたつ みっつ よっつ……

そのどれもに夢中になり
そのどれもにやがて飽きてしまう
ドンファンみたいに

女に忠実
詩には不実?

だがもともと詩のほうが
人間に不実なものではなかったか


ーー谷川俊太郎「北軽井沢日録」『世間知ラズ』所収)

……カヴァフィスの詩の第一行を並べてみるとよい。彼は、われわれをいきなり「事件の核心」に降り立たせる。

「みたことがなかったな、何世紀も、こんなすてきなお供えは、デルフォイに……」(「アレクサンドリアからの使節」)

「夜中の一時だったか、それとも一時半。酒場の隅だったね」(「憩い」)

「何をみたことがなかったのか? 何世紀もだって? すごいお供え? デルフォイに? いったい何ごと?」「夜更けに? 酒場の隅で? 何が?」もし紙幅が許せばいくらでも例を挙げることができるであろう。いつもわれわれは状況の中に文字どおり投入される。前触れも、前置きも、助走も、序曲もなく、いきなりテティスとペレウスとの結婚の場に、帝政ローマの末期のアゴラに、彫刻家ダモンの工房に、ネロの寝室に、あるいはローソクを一本だけともした彼の部屋に。急に状況のただ中に投入された者が皆そうなるように、われわれはしばらく戸惑い、うろたえ、耳をすませ、何かを待つ。劇の開幕直後の、困惑と期待との混ざった独特の沈黙。これはカヴァフィスの詩の発端が持つ独特の力であり、それが私に彼を劇詩人といわせる第一の理由である。意識的に磨きぬかれたものであろう。彼の未完詩編にはこれを欠くものがあるからである。

彼を劇詩人という第二の理由は、カヴァフィス詩が持つ、われわれを巻き込む力である。われわれは詩を読みすすめるにつれて、現場にいあわせるか、登場人物に語りかけられるか、あるいは詩人の打ち明け相手にさせられてしまう。カヴァフィスの詩は、決して人なき部屋の中の独り言にはならない。歴史上の人物がひとりごつ場合でさえ、われわれがすぐ側に位置して聞いているか、あるいは詩の中の聞き手が黙っているだけである。

エリティスなり、セフェリスなり、リッツォスの詩と比べていただきたい。エリティスは青空の下で遠くから澄んだ声で、セフェリスはじゅんじゅんとしばしば小暗い室内で、リッツォスは時には朗々と舞台で、時にはしみじみとランプの下で語る。しかし、いずれもモノローグである。われわれは「聞き手」「読み手」である。(……)

カヴァフィスは、自分は小説家や劇作家にはならないだろうが、歴史家にはなれたはずだと内心ひそかに自負している。彼はどういう歴史家となったであろうか。この楽しい空想にはむろん答えがないけれども、すべての時代を同時代と感覚するような歴史家であったろうと私は思う。「すべての時代を同時代と感じる」ことを歴史的感覚 historical sense というならば彼を「歴史的感覚の詩人」といってよいだろう。(中井久夫「劇詩人としてのカヴァフィス」『家族の深淵』所収)


音楽だってそうさ
前触れや前置きや助走だっぷりの
協奏曲なんて最近はウンザリだな
モーツアルトのピアノコンチェルト9番とか
ベートーヴェンの4、5番があるだろ、ーーだって?
わざとらしいよあれ、
逆張りでしかないな

「リッツォスは時には朗々と舞台で」とあるけれど
いい齢して「月光」をバックによく朗読するもんだよ

Yiannis Ritsos ヤニス・リッツォス
Ρίτσος - Η σονάτα του σεληνόφωτος



でもいい声してるよ 意味がわからなくても
声だけで惚れ惚れするんだけど
ベートーヴェンのムーンライトソナタが邪魔だな

どうもギリシャ人ってのはそういうところがあるのかね
そういうところってなんだろうな
よくいえば悲劇を演じるってのかな
わるくいえばメロドラマ風だな

ーーいやオレが齢をかさねてひねたせいだけさ

テオ・アンゲロプロスにも晩年はいささかついていけなくなったからな





いきなり「事件の核心」に降り立たせる第一行をもつ詩集は
日本では『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』だね
谷川俊太郎の最高傑作じゃないだろうか
1931年生まれの谷川俊太郎の1972年の作品だ
谷川の多くの詩を知っているわけじゃないけどさ
『世間知ラズ』とどっちをとれっていわれたら迷うな


「男と女ふたりの中学生が/地下鉄のベンチに坐っててね」(1)

「飲んでいるんだろうね今夜もどこかで」(2) 武満徹に

「きみが怒るのも無理はないさ」(4) 谷川知子に

「きいた風なこと言うのには飽きちゃったよ」(5)

「全然黙っているっていうのも悪くないね」(6)

「題なんてどうだっていいよ/詩に題をつけるなんて俗物根性だよ」(9)

「寝台の下にはきなれた靴があってね」(10)


ーー『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』より

ゴシップ性もふんだんにある詩の集まりで
谷川が後年カヴァフィス詩を愛したのがよくわかるよ

(8)  飯島耕一に

にわかにいくつか詩みたいなもの書いたんだ
こういう文体つかんでね一応
きみはウツ病で寝てるっていうけど
ぼくはウツ病でまだ起きている
(……)
でも何もかもつまらないよ
モーツァルトまできらいになるんだ
せめて何かにさわりたいよ
(……)
きみはどうなんだ
きみの手はどうしてる
親指はまだ親指かい?
ちゃんとウンコはふけてるかい
弱虫野郎め

ただ、カヴァフィス詩には、たしかにどこか「ゴシップ」的なものがある。われわれ皆がゴシップを楽しむ、その感覚に訴える何ものかがある。上質のゴシップというものなしでは「サロン」は成り立たない。レプシウス街十番地も盛んにゴシップが飛び交っただろう。カヴァフィス詩の「ゴシップ感覚」的側面である。この感覚が、登場人物とわれわれとの近しさをつくりだしているのももしれない。ヘレニズム期ギリシャの市井笑劇家ヘロダスのパピルスはカヴァフィスの若い時にエジプトの砂漠から発見され、それにカヴァフィスは感激している。このヘロダスの「ミーモセス」(擬曲)はゴシップ的快楽から成り立っている。これを「普遍的ゴシップ性」といおうか。

シェイクスピアにはゴシップ的要素がないか、当時の時代的背景の中におけば、たとえば「アントニーとクレオパトラ」にもその要素がある。エリザベス一世とその寵臣エセックスとの重ね合わせである。T・S・エリオットがその「荒地」においてシェイクスピアのこの劇を引く時には、明らかにこの二重性を意識している。また「荒地」自体、特にその前半は「普遍的ゴシップ性」にみちみちている。エズラ・バウンドの手がはいる前の原稿にはいっそう著しい。

状況を共有し、演出者となり、「ゴシップ」感覚を享楽するという、一見矛盾した点からであろうが、カヴァフィス詩の読者の中には、あるふしぎな感覚、「コミットしながらも醒めている」という奇妙な状態が生じる。すなわち、われわれはカヴァフィス詩の状況に共感し共振するが、決して主人公に同一化することはない。彼が感傷的になっている時でさえ、われわれは、その感傷からある距離を保ち、決してこの距離を失うことはない。おそらく、詩人自身が対象との距離を失わないからであろう。カヴァフィス詩の現代性は、安易な感情移入と同一化を許さないというところにある。(中井久夫「劇詩人としてのカヴァフィス」『家族の深淵』所収)

中井久夫はカヴァフィス絶賛ってわけだろうか
でも訳詩の自負はカヴァフィスでもヴァレリーでもなく
エリティスの『アルバニア戦線に倒れた少尉にささげる英雄詩』だそうだ
(前回一部掲げたけどさ)

『日時計の影』の「あとがき」次のように書いている。

…拙い翻訳ながら、私の訳詩の中では最良のものかと、ひそかに思っている。翻訳をしながら、また読み返しながら、涙がこみあげてきたのは、他にも絶無ではないが、訳者を泣かせるパワーがいちばん大きかったのはこの詩である。

実際とてつもなく美しいよ
西脇順三郎のいくつかの詩句とどっちを選ぼうか
迷っちまうぐらいにさ

「向うの家ではたおやめが横になり
女同士で碁をうっている」

「美容師と女あんまは愛らしいひょうたんを
かたむけてシェリー酒をのんでいる」

「女神は足の甲を蜂にさされて
足をひきずりながら六本木へ
膏薬を買いに出かけた」

でもきのこの匂いはしないな
晩年の西脇みたいにさ

「灌木について語りたいと思うが
キノコの生えた丸太に腰かけて
考えている間に」

「もう秋は四十女のように匂い始めた」

ギリシャの文学に親しんでいささか参るのは、裏も表もない若さの賛美である。山間で老人が背を曲げて碁でも打っているといった南画の世界がギリシャから一番遠いものであるという、どなたかの指摘を読んでなるほどと思ったことがある。だから、カヴァフィスのような現代ギリシャ詩人も若い時から老・病・死を恐れる強迫を持ち、この強迫がその詩に隠顕するのだろう。私はたまたま彼の詩をだいたい全部訳したけれども、時には非常に違和感を感じて手に取れないことがある。それは一言にしていえば、菌臭の持つ安らぎから実に遠いということである。(中井久夫「きのこの匂いについて」1986年初出『家族の深淵』所収)

ところでキノコの匂いのする音楽ってのはあるんだろうか
さてとーー。
ちょっと思いつかないな
キノコ研究家のケージの音楽にもにおいを嗅いだおぼえはないよ
武満徹にだってないな

東欧あたりの民謡にはすこしはあるのかな





バルトークは性格わるかったらしいからな
「あんた方はみんなつんぼだっていったんだ。
そら、あれが聞こえないのかい?」 (バルトーク)

キノコのにおい嗅ぐまえに性格の悪さきいちまうな
で「アンタ方はみんな鼻がきかないっていったんだ。
ほら、このにおいに気づかないのかい?」ってわけだ

ヤナーチェクあたりにもキノコはあるのかもな
でもこのところヤナーチェク鼻ずまり症でね

どれもに夢中になり
そのどれもにやがて飽きちまうんだな

女に忠実
音楽には不実?

ショパンにあるとしたらマズルカだけだよ
しかも地元出身のピアニストじゃないとな
Maryla Jonasとかさ
彼女には忠実なままだな今のところ