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2016年7月6日水曜日

美容術の祕藥

喋ることと喋らないことのあいだで、言葉の意味と無意味はずるがしこくいれかわる。(富岡多恵子『女友達』あとがき)




荒木経惟



去年の秋のいまごろ  富岡多恵子


天気にかんしては
あたしゃどうでもよいと云った
ただしあたしは水を撒かねばならない
かな盥に水をいれて
肩にのせてみなくてはならぬ
会話ははじまるだろう
たいていの日の正午ごろ
男のともだちがきているのであった
その男のともだちは女のともだちを
つれているのであった
そのふたりは下界からきて
枕元に腕時計を忘れていって
あたしは得をしたかわりに
かの女に化粧水をかしてやる
男のともだちは
あめりかとか
ぷえるとりことかいう国からきて
おまいさんはわいせつが上手であると
あたしをよろこばせた
ので
あたしの瞳孔はすくなくとも三倍に
ひらいて
舌をひっこめたのである


いままでの詩なら詩というカタチにことばを書いていくことは、書いていく方のにんげんが詩から自分をズラセルということがしにくかった。つまり、詩の正面に坐っていたから自分も見物衆もたいしておもしろくないのであった。わたしは、自分がことばを書くとき、詩であれ何であれ、自分がどのようにズレル所に坐るかに興味をもっている。(富岡多恵子「詩への未練と愛想づかし」)

(ああ、キヅイタカ……この詩と彼女の解説文を、 「女はまだ浅くさえない(ニーチェ)」につなげようとしたのだけど、ヤメタンダヨ・・・、こういったことはすぐさまわかる人は、ぐだくだ言わなくてもわかるだろうし、そうではない人はいくら説明してもわからないだろうから、ーーってのはイイスギかもしれないけど:追記)


…………


富岡多恵子【行為と芸術 十三人の作家】美術出版社 1970.11より


ははあ、よい写真だーー、若き日の芸術家たちの肖像









黃入谷のいふことに、士大夫三日書を讀まなければ理義胸中にまじはらず、面貌にくむべく、ことばに味が無いとある。いつの世からのならはしか知らないが、中華の君子はよく面貌のことを氣にする。(……)

本を讀むことは美容術の祕藥であり、これは塗ぐすりではなく、ときには山水をもつて、ときには酒をもつて内服するものとされた。(……)

隨筆の骨法は博く書をさがしてその抄をつくることにあつた。美容術の祕訣、けだしここにきはまる。三日も本を讀まなければ、なるほど士大夫失格だろう。人相もまた變らざることをえない。町人はすなはち小人なのだから、もとより目鼻ととのはず、おかげで本なんぞは眼中に無く、詩の隨筆のとむだなものには洟もひつかけずに、せつせと掻きあつめた品物はおのが身の體驗にかぎつた。いかに小人でも、裏店の體驗相應に小ぶりの人生觀をもつてはいけないといふ法も無い。それでも、小人こぞつて、血相かへて、私小説を書き出すに至らなかつたのは、さすがに島國とはちがつた大國の貫祿と見受ける。……(石川淳「面貌について」『夷齋筆談』所収)











2016年5月21日土曜日

沙羅の木と寺の庭

沙羅の木
                  
褐色の根府川石に
白き花はたと落ちたり、
ありとしも靑葉がくれに
見えざりし さらの木の花。


この森鴎外の詩をめぐって、中井久夫は次のようにいう。

押韻もさることながら、「褐色(かちいろ)の根府川石(ねぶかはいし)」「石に白き花はたと」「たり/ありしとも青葉がくれに/みえざりし」に代表される遠韻、中間韻の美は交錯して、日本詩のなかで稀有な全き音楽性を持っている(中井久夫『分裂病と人類』)

こう記す中井久夫は、みずから訳詩だけでなく、散文でもこの韻の交錯を試みている。

ふたたび私はそのかおりのなかにいた。かすかに腐敗臭のまじる甘く重たく崩れた香り――、それと気づけばにわかにきつい匂いである。

それは、ニセアカシアの花のふさのたわわに垂れる木立からきていた。雨上りの、まだ足早に走る黒雲を背に、樹はふんだんに匂いをふりこぼしていた。

金銀花の蔓が幹ごとにまつわり、ほとんど樹皮をおおいつくし、その硬質の葉は樹のいつわりの毛羽となっていた。かすかに雨後の湿り気がたちのぼる。(中井久夫「世界における索引と徴候」『徴候・記憶・外傷』所収)


ここには数え切れないくらいの頭韻、押韻、遠韻、中間韻がある(参照)。もともと名文章家の中井久夫であるがーー、≪現代日本語の書き言葉がそれでもなお辛うじて保っている品格は、カヴァフィスやヴァレリーの翻訳を含む中井久夫の文業に多くを負っている≫(松浦寿輝)--、しかもその中井久夫の稀有の時期に書かれた名文章であると、わたくしは思う。

私は多くの文章を暗誦したり筆記する習慣がある。よい文章とは口唇感覚にも口腔感覚にも発声に参与する筋の筋肉感覚にも快い。筆記感覚でさえうれしい。私には、言語の深部構造とはチョムスキーのいう構造主義的なものを突き抜けて、こういう生理的・官能的なものにまで行き着くのではないかとひそかに思っている。実際、同じ口唇感覚であり口腔感覚であり、ノドと下顎を動かす筋肉であるためか、私に合った詩や散文を現前させている時には、ほとんど現実の果実を果汁を滴らせながらかぶりついている感覚を感じる。 

果実が溶けて快楽〔けらく〕となるように
その息絶える口の中で
その「不在」を甘さに変えるように
――ポール・ヴァレリー「海辺の墓地」第五節――

しかも、詩の果実は実在の果実と違って口の中に消えてもまた再生する! (中井久夫「詩を訳すまで」初出1996『アリアドネからの糸』所収)
五十歳の秋になって、何度目かの言語の節目が現れた。偶然の機会から詩を訳すようになったのである。「精神」「分裂」「傷害」「解体」というたぐいの語ばかりを語り、そういう字を書くことに私の言語意識が耐えられなくなって反抗を起こしたのであろう。ヴァレリーは「ほんとうに言葉が歌うのだよ」と言っているが、私にも、一つ一つの日本語の単語がほんとうに歌うように感じられる時期があった。その伴示、類語、類音語、音調、イマージュ、色調、粘膜感覚と筋肉感覚などで一語一語が重すぎるほどであった時期があった。頭韻や半階音が寝床までつきまとったこともあった。訳詩が完成して一年ほど経って、それが消えていることに気づいた。その時の詩集のページは知らん振りをして横顔を見せている少女のようであった。私は「詩がさっぱりわからない」という人には詩がこういうふうに映っていることを理解した。(同上)

※ヴァレリーの『魅惑』における調子の変化 ―「石榴」と 「失われた酒」―鳥山定嗣、PDF




ここにある訳文は、中井久夫訳ではない。ヴァレリーの詩がどんな工夫・彫琢がなされているかを示すために掲げた。

…………

……三好が詩に於てつとに萩原朔太郎を宗としたことは周知のとほりだが、その詩境をうかがふに、年をふるにしたがつて、むしろ室生さんのはうに「やや近距離に」あゆみ寄つて来たのではないかとおもふ。萩原さんの詩はちよつと引つかかるところがあるけれど、室生さんの詩のはうはすらすら受けとれると、げんに當人の口から聞いたことがあつた。萩原さんをつねに渝らず高く仰いてゐた三好として、これは揣らずもみづからの素質を語つたものだらう。ちなみに、そのときわたしは鑑賞上それと逆だと應へたおぼえがある。また三好が酣中よくはなしてゐたことに、芥川龍之介は百發九十九中、室生犀星は百發わづかに一中だが、のべつにはづれる犀星の鐵砲がたまにぶちあてたその一發は芥川にはあたらないものだといつて、これにはわたしも同感、われわれは大笑ひした。つち澄みうるほひ、石蕗の花咲き……といふ室生さんの有名な詩は三好が四十年あまりにわたつで「惚れ惚れ」としつづけたものである。「つち澄みうるほひ」はまさに犀星の一發。このみがき抜かれたことばの使ひぶりは詩人三好が痩せるほど氣に入つた呼吸にちがひない。(石川淳「三好達治」『夷斎小識』所収)

三行、四行目、≪あはれ知るわが育ちに/鐘の鳴る寺の庭≫は、いささか凡庸か。

だが、犀星のこの「つち澄みうるほひ、石蕗の花さき」はたしかにひどく美しい。この二行だけ取り出せば、鴎外の「沙羅の木」の詩句よりずっと美しい。

こうまで惚れ惚れするのだから、三好達治はみずからも試みていないではない。犀星のこの二行には格段に劣りはしても。

池に向へる朝餉

水澄み
ふるとしもなきうすしぐれ
啼く鳥の
鳥のねも日にかはりけり
……

奥野健男によれば、萩原朔太郎全集の編集に際して、犀星と達治は喧嘩別れし、そのまま絶交状態にあったのだが、達治は犀星の通夜に羽織袴で現われたという。「二日続いたお通夜のあと、三好さんは家にも帰らず、とん平でいつまでも飲み続けられていた。そしてたまたま隣の席に坐つたぼくに、自分がどの位犀星に決定的な影響を受けたか、詩人として完成したのは朔太郎だがそのそもそもは犀星の『抒情小曲集』の革命的な詩表現にあることを何度となく繰り返し述べ、惜しい詩人を喪つたと言つては絶句し、涙をぬぐわれるのであつた」。(三好達治の「雪」(その一~その十)


甃のうへ    三好達治

あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ

をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりにうるほひ
廂々に
風鐸のすがたしづかなれば

ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうへ



春の寺    室生犀星

うつくしきみ寺なり
み寺にさくられうらんたれば
うぐひすしたたり
さくら樹にすゞめら交(さか)り
かんかんと鐘鳴りてすずろなり。
かんかんと鐘鳴りてさかんなれば
をとめらひそやかに
ちちははのなすことをして遊ぶなり。
門もくれなゐ炎炎と
うつくしき春のみ寺なり。




2016年2月12日金曜日

安吾の爪の血の滲み

矢田津世子よ。あなたはウヌボレの強い女であった。あなたは私を天才であるかのようなことを言いつゞけた。そのくせ、あなたは、あなたの意地わるい目は、最も世俗的なところから、私を卑しめ、蔑んでいた。(坂口安吾「三十歳 」)
私はあの人をこの世で最も不潔な魂の、不潔な肉体の人だという風に考える。そう考え、それを信じきらずにはいられなくなるのであった。

そして、その不潔な人をさらに卑しめ辱しめるために、最も高貴な一人の女を空想しようと考える。すると、それも、いつしか矢田津世子になっている。気違いめいたこの相剋は、平凡な日常生活の思わぬところへ別の形で現れてもいた。(同上)

《ところで、ある年齢に達してからは、われわれの愛やわれわれの愛人は、われわれの苦悩から生みだされるのであり、われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷とが、われわれの未来を決定づける。》 (プルースト『逃げ去る女』)

私は二十七まで童貞だった。 二十七か八のころから三年ほど人の女房だった女と生活したが、これからはもう散々で、円盤ややりや自動車の比ではない。窒息しなかったのが不思議至極で、思いだしても、心に暗幕がはられてしまう。(坂口安吾「てのひら自伝」 )
英倫と一緒に遊びに来た矢田津世子は私の家へ本を忘れて行つた。ヴァレリイ・ラルボオの何とかいふ飜訳本であつた。私はそれが、その本をとゞけるために、遊びに来いといふ謎ではないか、と疑つた。私は置き残された一冊の本のおかげで、頭のシンがしびれるぐらゐ、思ひ耽らねばならなかつた。なぜなら私はその日から、恋の虫につかれたのだから。私は一冊の本の中の矢田津世子の心に話しかけた。遊びにこいといふのですか。さう信じていゝのですか。(坂口安吾「二十七歳」)




始めからハッキリ言つてしまふと、私たちは最後まで肉体の交渉はなかつた。然し、メチルドを思ふスタンダールのやうな純一な思ひは私にはない。私はたゞ、どうしても、肉体にふれる勇気がなかつた。接吻したことすら、恋し合ふやうになつて、五年目の三十一の冬の夜にたゞ一度。彼女の顔は死のやうに蒼ざめてをり、私たちの間には、冬よりも冷めたいものが立ちはだかつてゐるやうで、私はたゞ苦しみの外なにもなかつた。たかゞ肉体ではないか、私は思つたが、又、肉体はどこにでもあるのだから、この肉体だけは別にして、といふ心の叫びをどうすることもできなかつた。

そして、その接吻の夜、私は別れると、夜ふけの私の部屋で、矢田津世子へ絶交の手紙を書いたのだ。もう会ひたくない、私はあなたの肉体が怖ろしくなつたから、そして、私自身の肉体が厭になつたから、と。そのときは、それが本当の気持であつたのかも知れぬ。その時以来、私は矢田津世子に会はないのだ。彼女は死んだ。そして私はおくやみにも、墓参にも行きはしない。

その後、私は、まるで彼女の肉体に復讐する鬼のやうであつた。私は彼女の肉体をはづかしめるために小説を書いてゐるのかと疑らねばならないことが幾度かあつた。私は筆を投げて、顔を掩うたこともある。(坂口安吾「二十七歳」)

《若い娘たちの若い人妻たちの、みんなそれぞれにちがった顔、それらがわれわれにますます魅力を増し、もう一度めぐりあいたいという狂おしい欲望をつのらせるのは、それらが最後のどたん場でするりと身をかわしたからでしかない、といった場合が、われわれの回想のなかに、さらにはわれわれの忘却のなかに、いかに多いことだろう。》(プルースト『ゲルマントのほう』井上究一郎訳)

ある日、酔つ払つた寅さんが、私たちに話をした。時事の編輯局長だか総務局長だか、ともかく最高幹部のWが矢田津世子と恋仲で、ある日、社内で日記の手帳を落した。拾つたのが寅さんで、日曜ごとに矢田津世子とアヒビキのメモが書き入れてある。寅さんが手帳を渡したら、大慌てゞ、ポケットへもぐしこんだといふ。寅さんはもとより私が矢田津世子に恋してゐることは知らないのだ。居合せたのが誰々だつたか忘れたが、みんな声をたてゝ笑つた。私が、笑ひ得べき。私は苦悩、失意の地獄へつき落された。(坂口安吾「三十歳 」)

《嫉妬するわたしは四度苦しむ。嫉妬に苦しみ、嫉妬している自分を責めて苦しみ、自分の嫉妬があの人を傷つけるのをおそれて苦しみ、嫉妬などという卑俗な気持に負けたことに苦しむのだ。つまりは、自分が排除されたこと、自分が攻撃的になっていること、自分が狂っていること、自分が並みの人間であることを苦しむのだ。》(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)


理想の女(坂口安吾)より

 ある婦人が私に言つた。私が情痴作家などゝ言はれることは、私が小説の中で作者の理想の女を書きさへすれば忽ち消える妄評だといふことを。まことに尤もなことだ。昔から傑作の多くは理想の女を書いてゐるものだ。けれども、私が意志することによつて、それが書けるか、といふと、さうはたやすく行かない。

 誰しも理想の女を書きたい。女のみではない、理想の人、すぐれた魂、まことの善意、高貴な精神を表現したいのだ。それはあらゆる作家の切なる希ひであるに相違ない。私とてもさうである。

 だが、書きだすと、さうは行かなくなつてしまふ。

 誰しも理想といふものはある。オフィスだの喫茶店であらゆる人が各々の理想に就て語り合ふ。理想の人に就て、政治に就て、社会に就て。

 我々の言葉はさういふ時には幻術の如きもので、どんな架空なものでも言ひ表すことができるものだ。

 ところが、文学は違ふ。文学の言葉は違ふ。文学といふものには、言葉に対する怖るべき冷酷な審判官がをるので、この審判官を作者といふ。この審判官の鬼の目の前では、幻術はきかない。すべて、空論は拒否せられ、日頃口にする理想が真実血肉こもる信念思想でない限り、原稿紙上に足跡をとゞめることを厳しく拒否されてしまふのである。

 だから私が理想の人や理想の女を書かうと思つて原稿紙に向つても、いざ書きだすと、私はもうさつきまでの私とは違ふ。私は鬼の審判官と共に言葉をより分け、言葉にこもる真偽を嗅ぎわけてをるので、かうして架空な情熱も思想もすべて襟首をつまんで投げやられてしまふ。

 私はいつも理想をめざし、高貴な魂や善良な心を書かうとして出発しながら、今、私が現にあるだけの低俗醜悪な魂や人間を書き上げてしまふことになる。私は小説に於て、私を裏切ることができない。私は善良なるものを意志し希願しつゝ醜怪な悪徳を書いてしまふといふことを、他の何人よりも私自身が悲しんでゐるのだ。

 だから、理想の女を書け、といふ、この婦人の厚意の言葉も、私がそれを単に意志するのみで成就し得ない文学本来の宿命を見落してをるので、文学は、ともかく、書くことによつて、それを卒業する、一つづゝ卒業し、一つづゝ捨ててそして、ヨヂ登つて行くよりほかに仕方がないものだ。ともかく、作家の手の爪には血が滲んでゐるものだ。


《誤った崇拝は理想化をうむ。それは他者の弱さを見えなくする──あるいは、それはむしろ、自己のいだく幻想を投影するスクリーンとして他者を利用し、他者そのものを見えなくする。》(ジジェク『信じるということ』)

結婚とは崇高化が理想化のあとに生き残るかどうかの真のテストの鍵となるものだったらどうだろう? 盲目的な愛では、パートナーは崇高化されるわけではない。彼(彼女)はただ単純に理想化されるだけだ。結婚生活はパートナーをまちがいなく非理想化する。だがかならずしも非崇高化するわけではない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012,私訳)

安吾が、《文学といふものには、言葉に対する怖るべき冷酷な審判官がをるので、この審判官を作者といふ。この審判官の鬼の目の前では、幻術はきかない。すべて、空論は拒否せられ、日頃口にする理想が真実血肉こもる信念思想でない限り、原稿紙上に足跡をとゞめることを厳しく拒否されてしまふ》というとき、幻想を投影するスクリーン上の「理想化」の欺瞞を、作者という「審判官の鬼の目」は放置しない、ということを言っているはずだ。

あるいは、安吾は「理想の女」から「崇高の女」に向かったということができるかもしれない。

友愛は主として崇高の相をもっているが、両性の愛は美の相をそれ自身にもっている。優しさと深い尊重とは、両性愛に幾分の尊厳と崇高とを、これに反し、際どい諧謔と親密さとは、美の着色を、この感情のうちに高める。(カント『美と崇高との感情性に関する観察』)





坂口三千代は、安吾の『青鬼の褌を洗う女』の「私」のモデルだと言われることがある。だが安吾は次ぎのように記していることに注意しておこう。

「青鬼の褌を洗う女」は昨年中の仕事のうちで、私の最も愛着を寄せる作品であるが、発表されたのが、週刊朝日二十五週年記念にあまれた「美と愛」という限定出版の豪華雑誌であったため、殆ど一般の目にふれなかったらしい。私の知友の中でも、これを読んだという人が殆どなかったので、淋しい思いをしたのであった。(……)

「青鬼の褌を洗う女」は、特別のモデルというようなものはない。書かれた事実を部分的に背負っている数人の男女はいるけれども、あの宿命を歩いている女は、あの作品の上にだけしか実在しない。(坂口安吾「わが思想の息吹」1948)

《文学者はひとたび書けば、その作中の諸人物の、身ぶり、独特のくせ、語調の、どれ一つとして、彼の記憶から彼の霊感をもたらさなかったものはないのである。つくりだされた人物の名のどれ一つとして、実地に見てきた人物の六十の名がその下敷きにされていないものはなく、実物の一人は顔をしかめるくせのモデルになり、他の一人は片めがねのモデルになり、某は発作的な憤り、某はいばった腕の動かしかた、等々のモデルになった。》(プルースト「見出されたとき」)


ただ、『青鬼の褌を洗う女』の「私」は、《青鬼の調子外れの胴間声が好きだ》とある。これは理想化から逃れ出た「審判官の鬼の目」の胴間声であるに決まっている。

私は腕をのばして彼の膝をゆさぶる。びっくりして目をさます。そして私がニッコリ下から彼を見上げて笑っているのを見出す。 

私は彼がうたたねを乱される苦しさよりも、そのとき見出す私のニッコリした顔が彼の心を充たしていることを知っている。

彼は再びコクリコクリやりだす。私はそれをただ見ている。彼はいつ目覚めても私のニッコリ笑っている顔だけしか見ることができないだろう。なぜなら、私はただニッコリ笑いながら、彼を見つめているだけなのだから。

このまま、どこへでも、行くがいい。私は知らない。地獄へでも。私の男がやがて赤鬼青鬼でも、私はやっぱり媚をふくめていつもニッコリその顔を見つめているだけだろう。私はだんだん考えることがなくなって行く、頭がカラになって行く、ただ見つめ、媚をふくめてニッコリ見つめている、私はそれすらも意識することが少くなって行く。

「秋になったら、旅行しよう」
「ええ」
「どこへ行く?」
「どこへでも」
「たよりない返事だな」
「知らないのですもの。びっくりするところへつれて行ってね」 
彼は頷く。そしてまたコクリコクリやりだす。 

私は谷川で青鬼の虎の皮のフンドシを洗っている。私はフンドシを干すのを忘れて、谷川のふちで眠ってしまう。青鬼が私をゆさぶる。私は目をさましてニッコリする。カッコウだのホトトギスだの山鳩がないている。私はそんなものよりも青鬼の調子外れの胴間声が好きだ。私はニッコリして彼に腕をさしだすだろう。すべてが、なんて退屈だろう。しかし、なぜ、こんなに、なつかしいのだろう。(坂口安吾「青鬼の褌を洗う女」)



生活に於て家といふ觀念をぶちこわしにかかつた坂口安吾にしても、この地上に四季の風雨をしのぐ屋根の下には、おのづから家に似た仕掛にぶつかる運命をまぬがれなかつた。ただこれが尋常の家のおもむきではない。風神雷神はもとより當人の身にあつて、のべつに家鳴振動、深夜にも柱がうなつてゐたやうである。ひとは安吾の呻吟を御方便に病患のしわざと見立てるのだらうか。この見立はこせこせして含蓄がない。くすりがときに安吾を犯したことは事實としても、犯されたのは當人の部分にすぎない。その危險な部分をふぐの肝のやうにぶらさげて、安吾といふ人閒は强烈に盛大に生き拔いて憚らなかつたやつである。

家の中の生活では、さいはひに、安吾は三千代さんといふ好伴侶に逢着する因緣をもつた。生活の機械をうごかすために、亭主の大きい齒車にとつて、この瘦せつぽちのおくさんは小さい齒車に相當したやうに見える。亭主と呼吸を一つにして噛み合つてゐたものとすれば、おこりえたすべての事件について、女房もまた相棒であつたにひとしい。亭主が椅子を投げつけても、この女房にはぶつかりつこない。そのとき早く、女房は亭主から逃げ出したのではなくて、亭主の内部にかくれてゐたのだろう。安吾がそこにゐれば、をりをりはその屬性である嵐が吹きすさぶにきまつてゐる。しかし、その嵐の被害者といふものはなかつた。すなはち、家の中に悲劇はおこりえなかつた。それどころか、たちまち屋根は飛んで天空ひろびろ、安吾がいかにあばれても、ホームドラマにはなつて見せないといふあつぱれな實績を示してゐる。たくまずして演出かくのごときに至つたについては、相棒さんもまたあづかつて力ありといはなくてはならない。

安吾とともにくらすこと約十年のあとで、さらに安吾沒後の約十年といふ時閒の元手をたつぷりかけて、三千代さんは今やうやくこの本を書きあげたことに於て安吾との生活を綿密丁寧に再經驗して來てゐる。その生活の意味がいかなるものか、今こそ三千代さんは身にしみて會得したにちがひない。會得したものはなほ今後に持續されるだらう。この本の中には、亡き亭主の證人としての女房がゐるだけではない。安吾の生活と近似的な價値をもつて、當人の三千代さんの生活が未來にむかつてそこに賭けてある。この二重の記錄が今日なまなましい氣合を發してゐ所以である。(石川淳「坂口三千代著「クラクラ日記」序」)

…………

もっとも、安吾がもっと長生きしたら、どうなっていたかはわからない。作家には、《もっとも不毛な時に彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠》であるのなら、三千代さんの存在が大きかったに違いない。

創作の全過程は精神分裂病(統合失調症)の発病過程にも、神秘家の完成過程にも、恋愛過程にも似ている。これらにおいても権力欲あるいはキリスト教に言う傲慢(ヒュプリス)は最大の陥穽である。逆に、ある種の無私な友情は保護的である。作家の伝記における孤独の強調にもかかわらず、完全な孤独で創造的たりえた作家を私は知らない。もっとも不毛な時に彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠である。多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。逆に、それだけの人間的魅力を持ちえない、持ちつづけえない人はこの時期を通り抜けることができない。(中井久夫「創造と癒し序説」——創作の生理学に向けて)

ただし、女は男のサントーム(症状+幻想)で終生ありうる。《Une femme est pour tout homme un sinthome》(Lacan,Séminaire XXIII)

外傷は破壊だけでなく、一部では昇華と自己治癒過程を介して創造に関係している。先に述べた詩人ヴァレリーの傷とは彼の意識においては二十歳の時の失恋であり、おそらくそれに続く精神病状態である(どこかで同性愛性の衝撃がからんでいると私は臆測する)。

二十歳の危機において、「クーデタ」的にエロスを排除した彼は、結局三十年を隔てて五十一歳である才女と出会い、以後もの狂いのようにエロスにとりつかれた人になった。性のような強大なものの排除はただではすまないが、彼はこの排除を数学をモデルとする正確な表現と厳格な韻律への服従によって実行しようとした。それは四十歳代の第一級の詩といして結実した。フロイトならば昇華の典型というであろう。

しかし、彼の詩が思考と思索過程をうたう下にエロス的ダブルミーニングを持って、いわば袖の下に鎧が見えていること、才女との出会いによって詩が書けなくなったことは所詮代理行為にすぎない昇華の限界を示すものであり、昇華が真の充足を与えないことを物語る。彼の五十一歳以後の「女狂い」はつねに片思い的で青年時の反復である(七十歳前後の彼が一画家に送った三千通の片思い的恋文は最近日本の某大学が購入した)。

他方、彼の自己治癒努力は、生涯毎朝書きつづけて死後公開された厖大な『カイエ』にあり、彼はこれを何よりも重要な自己への義務としていた。数学の練習と精神身体論を中心とするアフォリズム的思索と空想物語と時事雑感と多数の蛇の絵、船の絵、からみあったPとV(彼の名の頭文字であり男女性器の頭文字でもある)の落書きが「カイエ」には延々と続く。自己治癒努力は生涯の主要行為でありうるのだ。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収)

…………

《――愛というものをどういう風に感じていますか?

 とんでもない不運、恐るべき寄生体、
全てのささやかな楽しみを台無しにする
永続化された緊急事態、そういったもの。》(ジジェク

……私は精神分析実践とほとんど恐怖症の関係にあるんだ。決してあんなことをしたい気はないね。

ーーけれど、あなたはミレールに分析を受けに行ったではないですか?

そう、でもひどく倒錯的で奇妙な分析だった。私が分析に行ったのは、個人的理由のせいだ。不幸な恋愛、深い、深い、とっても深い危機に陥ったせいだ。分析は、純粋に官僚的仕方でなされた。ミレールは私に言う、次週来るように、明日の午後5時に来るように、と。私は、約1ヶ月の間、本当に自殺したい気分だった。この思いは、ちょっと待て! と囁いた。自殺するわけにはいかない、というのは、明日の5時にミレールのところに行かなくちゃならないから。義務の純粋に形式的官僚構造が、最悪の危機を生き延びさせてくれた。…(Parker, (2003) ‘Critical Psychology: A Conversation with Slavoj Žižek、私訳)



2015年8月16日日曜日

勝夢酔とその息子

『安吾史譚』のなかに「勝夢酔」という文がある。勝夢酔とは勝海舟(勝安芳)の父であり、《捧腹絶倒的な怪オヤジであるが、海舟に具わる天才と筋金は概ね親父から貰ったものだ》と安吾はいっている。

人の目から見れば放蕩無頼で、やること為すことトンチンカンで収支つぐなわざるバカモノにすぎないが、このオヤジの一生にはチャンと心棒が通っていた。トンチンカンのようで、実は一貫した軌道から全心的に編みだされている個性的な工夫から外れていることがない。社会的には風の中のゴミのようにフラフラしている存在だが、彼の個性にジカに接触した者には、誰よりもハッキリと大地をふみしめてゆるぎのない力のこもった彼の人生がわかるはずだ。(坂口安吾「勝夢酔」)

とあるようにひどく愉快になる人物であり、かつまたひどく愉快になる安吾の文章である。《人の目から見れば放蕩無頼で、やること為すことトンチンカンで収支つぐなわざるバカモノにすぎないが、このオヤジの一生にはチャンと心棒が通っていた》とはまさに安吾の生き方を語ったものとさえいえる。

ーーといまざっと書いて上から読み返しているのだが、ここで以前写経した石川淳の文章を想い起こした。わたくしの場合、読み返すと挿入につぐ挿入でどうも記事が長くなる悪癖があるのだが、以下の文は捨て難い。

生活に於て家といふ觀念をぶちこわしにかかつた坂口安吾にしても、この地上に四季の風雨をしのぐ屋根の下には、おのづから家に似た仕掛にぶつかる運命をまぬがれなかつた。ただこれが尋常の家のおもむきではない。風神雷神はもとより當人の身にあつて、のべつに家鳴振動、深夜にも柱がうなつてゐたやうである。ひとは安吾の呻吟を御方便に病患のしわざと見立てるのだらうか。この見立はこせこせして含蓄がない。くすりがときに安吾を犯したことは事實としても、犯されたのは當人の部分にすぎない。その危險な部分をふぐの肝のやうにぶらさげて、安吾といふ人閒は强烈に盛大に生き拔いて憚らなかつたやつである。

家の中の生活では、さいはひに、安吾は三千代さんといふ好伴侶に逢着する因緣をもつた。生活の機械をうごかすために、亭主の大きい齒車にとつて、この瘦せつぽちのおくさんは小さい齒車に相當したやうに見える。亭主と呼吸を一つにして噛み合つてゐたものとすれば、おこりえたすべての事件について、女房もまた相棒であつたにひとしい。亭主が椅子を投げつけても、この女房にはぶつかりつこない。そのとき早く、女房は亭主から逃げ出したのではなくて、亭主の内部にかくれてゐたのだろう。安吾がそこにゐれば、をりをりはその屬性である嵐が吹きすさぶにきまつてゐる。しかし、その嵐の被害者といふものはなかつた。すなはち、家の中に悲劇はおこりえなかつた。それどころか、たちまち屋根は飛んで天空ひろびろ、安吾がいかにあばれても、ホームドラマにはなつて見せないといふあつぱれな實績を示してゐる。たくまずして演出かくのごときに至つたについては、相棒さんもまたあづかつて力ありといはなくてはならない。

安吾とともにくらすこと約十年のあとで、さらに安吾沒後の約十年といふ時閒の元手をたつぷりかけて、三千代さんは今やうやくこの本を書きあげたことに於て安吾との生活を綿密丁寧に再經驗して來てゐる。その生活の意味がいかなるものか、今こそ三千代さんは身にしみて會得したにちがひない。會得したものはなほ今後に持續されるだらう。この本の中には、亡き亭主の證人としての女房がゐるだけではない。安吾の生活と近似的な價値をもつて、當人の三千代さんの生活が未來にむかつてそこに賭けてある。この二重の記錄が今日なまなましい氣合を發してゐ所以である。石川淳「坂口三千代著「クラクラ日記」序」)

バー・クラクラ



ーーこの画像に行き当たって思い出した石川淳の文なのだが、なぜか投稿せずにほうってあった。

さて安吾の文に戻る。

「おれほどの馬鹿な者は世の中にもあんまり有まいと思う故に孫やひこの為に話してきかせるが、よく不法もの馬鹿もののいましめにするがいいぜ」 これは彼が自分の無頼の一生を叙述して子孫のイマシメにするために残した「夢酔独言」という奇怪にして捧腹絶倒すべき自叙伝の書き出しの文章である。

しかし彼は子孫が真人間になるようにといくらか考えたが、自分自身が真人間になることは考えなかった。まだ天罰がこないのはフシギだといぶかりつつ純粋に無頼の一生を終ったのだ。「孫やヒコのイマシメのために」とあって、子供のイマシメ、と書いてないのは、子供の出来がよかったからである。つまり海舟やその妹が子供ながら出来がよくて、オヤジがイマシメを言うところは何もなかった。仕方がないから、まだ生れない孫やヒコを相手に、世にも異様な怪自叙伝をイマシメとして書き綴ったのである。序文の文句は次のように結ばれている。「先にも言う通りおれは之までなんにも文字のむずかしいことはよめぬから、ここにかくにもかなのちがいも多くあるからよくよく考えてよむべし」(坂口安吾「勝夢酔」)


ところで安吾はもちろん息子の勝海舟についても言葉を費やしている。その箇所も面白い。いやわたくしは日本史にひどく疎く、とくに明治維新前後の英雄たちの消息はおそらく高校生ほどの知識もない、――ビジネス書などで成功のモデルとしてあげられる彼らの名やら大河ドラマやらをひどく毛嫌いしてきたのだーー、そのせいで新鮮なだけなのかもしれないが。

海舟という人は内外の学問や現実を考究して、それ以外に政治の目的はない、そして万民を安からしめるのが政治だということを骨身に徹して会得し、身命を賭して実行した人である。近代日本に於ては最大の、そして頭ぬけた傑物だ。

明治維新に勝った方の官軍というものは、尊皇を呼号しても、尊皇自体は政治ではない。薩長という各自の殻も背負ってるし、とにかく幕府を倒すために歩調を合せる程のことに政治力の限界があった。

ところが負けた方の総大将の勝海舟は、幕府のなくなる方が日本全体の改良に役立つことに成算あって確信をもって負けた。否、戦争せずに負けることに努力した。

幕府制度の欠点を知悉し、それに代るにより良き策に理論的にも実際的にも成算があって事をなした人は、勝った官軍の人々ではなく、負けた海舟ただ一人である。理を究めた確実さは彼だけにしかなかった。官軍の誰よりも段違いに幕府無き後の日本の生長に具体的な成算があった。

負けた大将だから維新後の政治に登用されなかったが、明治新政府は活気はあったが、確実さというものがない。それは海舟という理を究めた確実な識見を容れる能力のない新政府だから、当然な結果ではあった。

維新後の三十年ぐらいと、今度の敗戦後の七年とは甚だ似ているようだ。敗戦後の日本は外国の占領下だから、明治維新とは違うと考えるのは当らない。 

前記明治二十年の海舟の建白書に、
「日本の政治は薩長両藩に握られ、両藩が政権を争ってるようなものでヘンポである」 
とあるが、つまり薩長も実質的には占領軍だった。薩長政府から独立しなければ、日本という独立国ではなかったのである。維新後は三十余年もダラダラと占領政策がつづいていたようなもので、ただ一人幕府を投げすてた海舟だけが三十年前から一貫して幕府もなければ薩長もなく、日本という一ツの国の政治だけを考えていた。

つまり負けた幕府や旗本というものは、今の日本で云うと、旧軍閥や右翼のようなものだ。軍閥や右翼は敗戦後六七年で旧態依然たるウゴメキを現しはじめたが、明治の旗本は全然復活しなかった。いち早くただの日本人になりきってしまった。海舟という偉大な総大将が復活の手蔓を全然与えなかったのだ。明治新政府の政治力によるものではなかったのである。(坂口安吾「勝夢酔」)

もちろんいくら日本史に無知のわたくしでも、勝海舟が《近代日本に於ては最大の、そして頭ぬけた傑物》という評価を受けることが多かったり、逆に福沢諭吉が『痩我慢の説』で、《勝氏が和議を主張して幕府を解きたるは誠に手際よき智謀の功名なれども、これを解きて主家の廃滅したるその廃滅の因縁が、偶ま以て一旧臣の為めに富貴を得せしむるの方便となりたる姿にては、たといその富貴は自から求めずして天外より授けられたるにもせよ、三河武士の末流たる徳川一類の身として考うれば、折角の功名手柄も世間の見るところにて光を失わざるを得ず》などと書いたことぐらいは知っている。

福沢諭吉の「痩我慢の説」は書いてから十年ほど隠されたのちに発表されたものだが、この論を素直に読めば、小林秀雄が随筆「福沢諭吉」で書くように、勝安芳と榎本武勇は《ともに幕臣の身でありながら、官軍と妥協し或は敵に降参した腰抜けであった》ということになる。

そして前者の「頭抜けた傑物」の評価なら、たとえば荷風の日記にこうある。

昭和二十年九月廿八日。(……)

我らは今日まで夢にだに日本の天子が米国の陣営に微行して和を請ひ罪を謝するが如き事のあり得べきを知ら ざらりしなり。此を思へば幕府滅亡の際、将軍徳川慶喜の取り得たる態度は今日の陛下より遥に名誉ありしものならずや。今日此事のこゝに及びし理由は何ぞ や。幕府瓦解の時には幕府の家臣に身命を犠牲にせんとする真の忠臣ありしがこれに反して、昭和の現代には軍人官吏中一人の勝海舟に比すべき智勇兼備の良臣 なかりしが為なるべし。(『断腸亭日乗』昭和二十(1945)年 荷風散人年六十七)

いずれにせよ(わたくしにとって)安吾の文がことさら面白かったのは、《薩長も実質的には占領軍だった》、《負けた幕府や旗本というものは、今の日本で云うと、旧軍閥や右翼のようなものだ。軍閥や右翼は敗戦後六七年で旧態依然たるウゴメキを現しはじめた》云々という箇所である。江戸幕府にとっては、薩長は、太平洋戦争敗戦後の米国と同様に、実質的には占領軍だったとすれば、日本はその占領軍の末裔に21世紀になってふたたび占領されつつある。安倍やら「日本会議」やらの「戦後レジームからの脱却」なる標語がその「占領」の標語でなくてなんだろう。

小林教授:日本会議に沢山の知り合いがたくさんいるので私が答えますが、日本会議の人々に共通する思いは、第二次大戦で敗けたことを受け入れ難い、だから、その前の日本に戻したいと。かれらの憲法改正案も明治憲法と同じですし、今回もそうですが、日本が明治憲法下で軍事五大国だったときのように、アメリカとともに世界に進軍したいという、そういう思いを共有する人々が集まっていて、かつそれは、自民党の中に広く根を張っていて、かつよく見ると、明治憲法下でエスタブリッシュメントだったひとたちの子孫が多い。そうするとメイクセンスでしょ(笑)。(小林節

ところで『青空文庫』に勝海舟の小文が五編ほどありこの機会に読んでみたが、どれもこれも愉快になる文章であり、かつまたその文体が思い掛けなかった。たとえば以下は「大勢順応」の全文である。

憲政党が、伊藤さんに代つて、内閣を組織した当時、頻りに反対して騒ぎまはつた連中も、己れは知つて居るよ。だが随分見透しの付かない議論だと思つて、己れなどは、独りで笑つて居たのさ。御一新の際に、薩摩や、長州や、土州が政権を執れたとて、なに彼等の腕前で、迚も遣り切れるものかと、榎本や、大鳥などは、向きになつて怒つたり、冷やかしたりした連中だ。所がどうだ、暫くすると、自分から始めて薩長の伴食になつたではないか。何も大勢さ。併し今度の内閣も、最早そろ〳〵評判が悪くなつて来たが、あれでは、内輪もめがして到底永くは続くまいよ。全体、肝腎の御大将たる大隈と板垣との性質が丸で違つて居る。板垣はあんな御人よし、大隈は、あゝ云ふ抜目のない人だもの、とても始終仲よくして居られるものか、早晩必ず喧嘩するに極つて居るよ。大隈でも板垣でも、民間に居た頃には、人の遣つて居るのを冷評して、自分が出たらうまくやつてのけるなどゝと思つて居たであらうが、さあ引き渡されて見ると、存外さうは問屋が卸さないよ。所謂岡目八目で、他人の打つ手は批評が出来るが、さて自分で打つて見ると、なか〳〵傍で見て居た様には行かないものさ。(勝海舟「大勢順応」)


あるいは「猟官運動」の全文はつぎのとおり。

併し、何にせよ今度の政変は、第二維新だ。猟官の噂もだんだん聞くが、考へて見れば、是れも無理はない話しさ。それは御一新の際には、武士が皆な家禄を持つて居たから遊んで居ても十分食へたのだ。尤も脱藩の浪士などの間には、不平家も少しはあつたが、大抵な人は所謂恒の産があつたから、そんなに騒がなくつてもよかつたのだ。西郷などは、固より例外だが、それは流石に立派なもので、幕府が倒れた時に、最早平生の志を遂げたのだからこれから山林にでも引き籠つて、悠々自適、風月でも楽んで、余生を送らうと云ひ出した位だ。処が今の政党員は、多くは無職業の徒だから役人にでもならなければ食へないのさ。だからそれは猟官もやるがよいが、併し中には何んの抱負もない癖に、つまり財政なり外交なり、自分の主張を実行するために、就官を望むのではなくて、何んでも善いから月給に有り就きさえすればよいといふ風な猟官連は、それは見つともないよ。(勝海舟「猟官運動」)

己れは知つて居るよ

己れなどは、独りで笑つて居たのさ

傍で見て居た様には行かないものさ

考へて見れば、是れも無理はない話しさ

それは見つともないよ

ーーこれらはツイッター文体とでもいうべきものではないか



2015年7月8日水曜日

マリーの本と湯豆腐

◆Anne-Marie Mieville Book of Mary, 1985



これはすげえものだと、わたしは一も二もなく感服した。おもへば、西洋のはなしには至つてよわかつた。今から何十年かまへ、わたしが中学校にはひつて匆匆のことだから、年代は大正とあらたまつて間もないころである。(石川淳「倫敦塔その他」)

わたくしが感服したのは、倫敦塔ではなく、ゴダールの妻だったか同伴者のアンヌ=マリー・ミエヴィルのこの映像であり、中学校はとっくに卒業しており、二十代の半ばすぎ(母が死んでまもなく)だったが、当時はゴダールにかかわる名には至ってよわかった。数年前にもYouTubeにこの映像があったのだが、いつのまにかなくなっていた。今みてみると2015/03/30に新しくアップされている。

だいたい音楽を聴いたら踊ったりするのはあたりまえだ。音楽好きの叔父たちが隣りに住んでいたので、下の叔父がシンフォニーを聴きながら急に立ち上がってそのあたりにある指揮棒めいたものーー耳かきとか鉛筆が多かったーーを振りだしたり踊りだしたりするのをしばしば観察していたし、上の叔父がジャズを聴きながらありとあらゆる仕草をするのも楽しみに眺めていた、--のは中学校時代でさえなく小学校のなかばごろである。だからわたくしは今でも多くの曲をきけば軀が動く。耳かきも使う。要するに上の映像には対象aが書き込まれている。つまりはわたくしの眼差しが書き込まれている。世界は開け胡麻!となる。扉を開く映像、アリババの呪文、魔法の種である。

きょうの私自身は、見すてられた石切場にすぎず、その私自身はこう思いこんでいる、この石切場にころがっているものは、みんな似たりよったりであり、同一調子のものばかりだと。ところが、そこから、一つ一つの回想が、まるでギリシアの彫刻家のように、無数の像を切りだすのだ。私はいおう、――われわれがふたたび見る一つ一つの事物が、無数の像を切りだす、と。たとえば本は、その点に関しては、事物としてこんなはたらきをする、すなわち、その背の綴目のひらきかたとか、その紙質のきめとかは、それぞれそのなかに、りっぱに一つの回想を保存していたのであって、当時の私がヴェネチアをどんなふうに想像していたか、そこに行きたいという欲望がどんなだったか、といったことのその回想は、本の文章そのものとおなじほど生き生きしている。いや、それ以上に生き生きしているとさえいおう、なぜなら、文章のほうは、ときどき障害を来たすからで、たとえばある人の写真をまえにしてその人を思いだそうとするのは、その人のことを思うだけでがまんしているときよりも、かえってうまく行かないのである。むろん、私の少年時代の多くの本、そして、ああ、ベルゴット自身のある種の本については、疲れた晩に、それらを手にとることがある、しかしそれは、私が汽車にでも乗って、旅先の異なる風物をながめ、昔の空気を吸って、気を休めたいと思ったのと変わりはなかった。しかも、求めてえられるその種の喚起は、本を長くよみつづけることで、かえってさまたげられることがあるものだ。ベルゴットの一冊にそんなのがある(大公の図書室にあるそれには、極端にへつらった俗悪な献辞がついていた)、それを私は、ジルベルトに合えなかった冬の一日に読んだ、そしていまは、あのように私が愛していた文章を、そこからうまく見つけだすことができない。いくつかの語が、その文章の個所を私に確信させそうだが、だめだ。私がそこに見出した美は一体どこへ行ったのか? しかしその書物自身からは、私がそれを読んだ日にシャン=ゼリゼをつつんでいた雪は、はらいのけられてはいなくて、私にはいつもその雪が目に見える。(プルースト『見出された時』)

母方の祖父母の家は、渡り廊下があちこちにある黒光りした家だった。




春さん蛸のぶつ切りをくれえ
それも塩でくれえ

酒はあついのがよい
それから枝豆を一皿(井伏鱒二

廊下を左に行き突き当たりの左にあったのが上の叔父の部屋で、十二畳の座敷の向こうがわに行って仏壇のある部屋に入りーー女学校の勤労奉仕のさなか空襲でなくなった伯母の写真が飾ってあり、いつも線香のにおいがしたーーその部屋の左手にあったのが下の叔父の部屋だった。

してみると、それが、明瞭であるにもかかわらず、ときとして事後にはじめて明らかになる、ということがあっても少しも驚くには当らない。そのようなことが起こるのは、長いあいだ写真を見ずに過したあと、ふたたび写真のことを考えるときである。現に見ている写真よりも、思い出した写真のほうが、いっそうよく理解できる、ということがあるものだ。まるで直接目に見える形は、言語活動を誤った方向に導くので、それがおこなわせる記述の努力は、効果を発揮する点、つまりプンクトゥムをつねにとらえそこなってしまう、とでもいうかのようである。ヴァン・ダー・ジーの写真を読んだとき、私は、何が私を感動させるかを突きとめたと思った。それは、晴れ着を着た黒人女のベルト付きの靴だった。しかしこの写真は私の心のなかで徐々に変化していって、私はその後、真のプンクトゥムは彼女が首にかけている短い首飾りである、ということを理解するようになった。というのも(おそらく)、私の家族の一員が首にかけているのを、私がいつも目にしてきたのは、これと同じ首飾り(金の鎖の細い組紐)だったからである。その首飾りは、本人が亡くなったいま、家族の古い装身具を入れておく宝石箱にしまいこまれたままになっている(この父の妹は生涯結婚せず、オールドミスとして自分の母親のもとで暮していたので、私はその田舎暮らしのわびしさを思い、いつも心を痛めていた)。プンクトゥムは、いかに直接的、いかに鋭利なものであっても、ある種の潜伏性をもつことができる(しかしいかなる検査にも決して反応しない)、ということを私はそのとき理解したのだった。(ロラン・バルト『明るい部屋』ーー「ベルト付きの靴と首飾り」)

叔父叔母たちが集ったらひどく賑やかな家でもあった。




ーーなどということを思い起したのは、小林秀雄の次の文を読んだからである。

先日、何年ぶりかで、トルストイの「クロイチェル・ソナタ」を読み返し、心を動かされたが、この作の主人公の一見奇矯と思われる近代音楽に対する毒舌は、非常に鋭くて正しい作者の感受性に裏付けられているように思われた。行進曲で軍隊が行進するのはよい、舞踏曲でダンスをするのはよい、ミサが歌われて、聖餐を受けるのはわかる、だが、クロイチェル・ソナタが演奏される時、人々は一体何をしたらいいのか。誰も知らぬ。わけの解らぬ行為を挑発するわけの解らぬ力を音楽から受けながら、音楽会の聴衆は、行為を禁止されて椅子に釘付けになっている。

行為をもって表現されないエネルギイは、彼等の頭脳を芸術鑑賞という美名の下に、あらゆる空虚な妄想で満たすというのだ。何と疑い様のな明瞭な説であるか。心理学的あるいは哲学的美学の意匠を凝らして、身動きも出来ない美の近代的鑑賞に対しては、この説は、ほとんど裸体で立っていると形容してよいくらいである。……(小林秀雄「骨董」)
もし美に対して素直な子供らしい態度をとるならば、行為を禁止された美の近代的鑑賞の不思議な架空性に関するトルストイの洞察は、僕達の経験にも親しいはずなのである。昔は建築を離れた絵画というおうな奇妙なものを誰もが考えつかなかったが、近代絵画には額縁という家しか、本当に頼りになる住居がなくなって来ている。そういう傾向に発達して来ているから、従ってそういう傾向に鑑賞されざるを得ない。展覧会とか美術館とかいう鑑賞の組織を誰が夢想し得たろうか。あそこにみんなが集って、いくらかずつ金を払って、グルグル回ってキョロキョロしている。こういう絵画の美とも日常生活とも関係のない、夢遊病者染みた機械的運動は、不自然な点では、音楽会で椅子に釘づけになっているのと同じことで、空想によって頭脳だけを昂奮させるために払わねばならぬ奇怪な代償である。しかもこれは観念過剰の近代人にはどうしても必要なことになって了っている。必要なことを自然なことと思い込むのもまた無理のないことで、だから、展覧会を出たり、音楽会を出たりした時の不快な疲労感について反省してみることもない。美が人に愉快な行為を禁じて、人を疲れさせるとは、何と奇妙なことだろう。美は逆に、人の行為を規制し、秩序づけることによって、愉快な自由感を与えてくれて然るべきではないか。美は、もはやそんな風には創られていないし、僕らもそんな風にはそれを享受出来ないのである。

買ってみなくてはわからぬ、とよく骨董好きはいうが、これは勿論、美は買う買わぬには関係はないと信じている人々に対していうのであって、骨董とは買うものだとは仲間ではわかりきったことなのである。なるほど器物の美しさは、買う買わぬと関係はあるまいが、美しい器物となれば、これを所有するとしないとでは大変な相違である。美しい物を所有したいのは人情の常であり、所有という行為に様々の悪徳がまつわるのは人生の常である。しかし一方、美術鑑賞家という一種の美学者は、悪徳すら生む力を欠いているということに想いを致さなければ片手落ちであろう。博物館や美術館は、美を金持ちの金力から解放するという。だが何者に向って解放するのかが明らかでない。もし、そこに集るものが、硝子越しに名画名器を鑑賞し、毎日使用する飯茶碗の美にはおよそ無関心な美的空想家の群れならば。また、彼らの間から、新しい美を創り出すことにより、美の日常性を奪回しようとするものが現われるのは、おそらく絶望であるならば。(小林秀雄「骨董」)

ああいい文章だ、やっぱりこういった文章をたまには玩味しなくちゃならない。じつは小林秀雄を先に読んだのではなく、石川淳を読んだ。それは、尿酸値がまた高くなりこの数日湯豆腐を食べているせいだ。

すききらひを押し通すにも、油斷はいのちとりのやうである。好むものではないすしの、ふだん手を出さうともしないなんとか貝なんぞと、いかにその場の行きがかりとはいへ、ウソにも附合はうといふ愛嬌を見せることはなかつた。いいや、いただきません、きらひです。それで立派に通つたものを、うかうかと……このひとにして、魔がさしたといふのだらう。ぽつくり、じつにあつけなく、わたしにとつてはただ一人の同鄕淺草の先輩、久保田萬太郞は地上から消えた。どうしたんです、久保田さん。久保勘さんのむすこさんの、ぶしつけながら、久保万さん。御當人のちかごろの句に、湯豆腐やいのちのはてのうすあかり。その豆腐に、これもお好みのトンカツ一丁。酒はけつかうそれでいける。もとより仕事はいける。ウニのコノワタのと小ざかしいやつの世話にはならない。元來さういふ氣合のひとであつた。この氣合すなわちエネルギーの使ひ方はハイカラといふものである。(石川淳「わが万太郎」『夷齋小識』所收)

《なるほど彼(石川淳)は、当代きっての巧みな日本語遣いというべきで、ときには威勢よく啖呵を切り、きわどい冗談をさらりと言ってのけ、下世話な題材を繊細な比喩でもっともらしい語り口に仕立てあげてみせたあたり、その小気味よさに思わずうっとりもしてしまう》ーーと書いて、しかしながらそのあとすぐさま石川淳の晩年の長篇小説を罵倒するのが蓮實重彦である(参照:写経:石川淳『夷齋筆談』と蓮實重彦の「ボロクソ」芸)。

◆HAIL MARY (JEAN-LUC GODARD, 1985)





2015年6月6日土曜日

四十年以上つづく「ある女」への恋

偉大な作家とさえいわれる人たちが『オシアン詩篇』のような凡庸で人を迷わせる作品に天才的な美を見出すにいたった、という事実を理解させる理由の一つは、おそらく過去というもののあの想像上の遠さにあるのだろう。われわれは遠い昔のケルトの吟遊詩人たちも現代思想をもちうるということにおどろくのであって、ゲール人の古い歌のつもりでいるもののなかで、現代人にしかたくみにうたえないと思っていた歌の一つに出会うと、すっかり感心してしまうのだ。才能のある翻訳者がいて、ある程度忠実に古代の作家の作品を現代語に移し、もし現代の作者名をつけてべつの形で出版したらそれだけでもよろこばれるであろうと思われているいくつかの部分を、それにつけくわえさえいいのであって、この翻訳者はたちまち詩人に感動的な偉大さをあたえることになり、詩人はそのようにして何世紀にもわたる鍵盤をかなでつづけるのである。この翻訳者は、もしその書物を彼の原作であるとして出版したならば、凡庸な書物の作者としかなれなかったのだ。翻訳として世に出されたからこそそれが一つの傑作の翻訳であると見なされるのだ。(プルースト「ゲルマントの方 Ⅱ」p190 井上究一郎訳)

※訳者注:『オシアン詩篇』。3-5世紀ごろ、古代ケルト族の勇者で詩人のオシアンがうたったアイルランドの叙事詩。1765年にスコットランド生まれのイギリス人マクファーソンが原作を英語散文に訳した『オシアン作品集』によって世界的にひろまり、ゲーテ、スタール夫人、シャトーブリアン、バイロンなどが賞賛した。


いいねえ、プルーストの性格の悪さ(?)

@Cioran_Jp: もしニーチェ、プルースト、ボードレール、ランボー等が流行の波に流されず生き残るとすれば、それは彼らの公平無私な残酷さと、気前よくまき散らす憎悪のせいである。ひとつの作品の生命を長持ちさせるのは残忍さだ。根拠のない断定だって?福音書の威力をみたまえ。このおそろしく喧嘩早い書物を。(シオラン)

日本にもプルースト並の性格をもってる作家はいるさ

貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候。其貫之や古今集を崇拜するは誠に氣の知れぬことなどと申すものゝ實は斯く申す生も數年前迄は古今集崇拜の一人にて候ひしかば今日世人が古今集を崇拜する氣味合は能く存申候。崇拜して居る間は誠に歌といふものは優美にて古今集は殊に其粹を拔きたる者とのみ存候ひしも三年の戀一朝にさめて見ればあんな意氣地の無い女に今迄ばかされて居つた事かとくやしくも腹立たしく相成候。(正岡子規『歌よみに与ふる書』)

反対にこういうこともある

ソレルスによれば、何年か前あるフランスの若者のグループが、わざとランボーの「イリュミナシオン」をコンピュータで打ち直し平凡な作者名をつけてフランスの幾つかの主要な出版社に原稿を送りつけたらしい。新人の詩人が出版の是非を打診したみたいに。結果は予想どおりすぐに出た。全員が「拒否」!(鈴木創士ツイート)

ようするに名前と流行で愛するのさ、大半の人は。オレももちろん例外じゃないよ

連中は何もいうことがないので、名前だけでものをいうのです。テレビは、対話というか、そうした話題をめぐって話をする能力を確かに高めはしました。だが、見る能力、聴く能力の進歩に関しては何ももたらしていない。私が『リア王』にクレジット・タイトルをつけなかったのはそのこととも関係を持っています。

ふと、知らないメロディを聞いて、ああ、これは何だろうと惹きつけられることがあるでしょう。それと同じように、美しい映像に惹きつけられて、ああ、これは何だろうと人びとに思ってもらえるような映画を作ってみたいのです。しかし、名前がわからないということは人を不安におとしいれます。新聞やテレビも、一年間ぐらい絶対に固有名を使わず、たんに、彼、彼女、彼らという主語で事件を語ってみるといい。人びとは名前を発音できないために不安にもなるでしょうが、題名も作曲者もわからないメロディにふと惹きつけられるように、事件に対して別の接し方ができるかもしれません。

いま、人びとは驚くほど馬鹿になっています。彼らにわからないことを説明するにはものすごく時間がかかる。だから、生活のリズムもきわめてゆっくりしたものになっていきます。しかし、いまの私には、他人の悪口をいうことは許されません。ますます孤立して映画が撮れなくなってしまうからです。馬鹿馬鹿しいことを笑うにしても、最低二人の人間は必要でしょう(笑)。(ゴダール「憎しみの時代は終り、愛の時代が始まったと確信したい」(1987年8月15日、於スイス・ロール村――蓮實重彦インタヴュー集『光をめぐって』所収)

…………

さて、すぐれた「意地悪さ」をもったプルーストをもうすこしつけ加えておこう。

私は知っていた、――あまりにも長期にわたってかがやかしい名声を博していたものを闇に投じたり、決定的に世に埋もれるように運命づけられたかと思われたものをその闇からひきだしたりする批評の遊戯なるものは、諸世紀の長い連続のなかで、単にある作品と他の作品とのあいだにのみおこなわれるものではなく、おなじ一つの作品においてさえもおこなわれるものであることを。(……)天才たちがあきられたというのも、単に有閑知識人たちがそれらの天才たちにあきてしまったからにすぎないのであって、有閑知識人というものは、神経衰弱症患者がつねにあきやすく気がかわりやすいのに似ているのである。(同「ゲルマントのほう Ⅱ」p281)
そういう私によくわかったのは、かつて耳にした気がする彼女のマーテルリンクにたいする嘲笑のことで(もっとも、いまは彼女はマーテルリンクを讃美しているが、それは文学の流行に敏感な女性の精神的弱点によるもので、文学の流行の光というのは、おそくなってから射してくるのである)、そのことが私によくわかったのは、つぎのことが私にわかったのと軌を一にしていた、すなわり、メリメがボードレールを嘲笑し、スタンダールがバルザックを、ポール=ルイ・クーリエがヴィクトル・ユゴーを、メーヤックがマラルメを、それぞれ嘲笑していた、ということである。むろん私にわかっていたのは、嘲笑者は、自分が嘲笑している相手にくらべて、なるほどせまい考をもっているが、しかしより純粋な語彙をもっている、ということである。(プルースト「囚われの女」p51)
証券取引所で一部の値あがりの動きが起きると、その株をもっているグループの全体がそれによって利益を受けるように、これまで無視されていた何人かの作曲家たちが、この反動の恩恵を受けるのであった、それは彼らがそのような無視に値しなかったからでもあるし、また単にーーそんな彼らを激賞することが新しいといえるのであればーーただ彼らがそのような無視を受けたからでもあった。さらにまた人々は、孤立した過去のなかに、何人かの不羈独立の才能を求めにさえ行くのであった、現在の芸術運動がそれらの才能の声価に影響しているはずはないように思われたのに、新しい巨匠の一人が熱心に過去のその才能ある人の名を挙げるといわれていたからであった。それはつまり、一般に、誰でもいい、どんな排他的な流派であってもいい、ある巨匠が、彼独自の感情から判断し、自分の現在の立場を問わずにどこにでも才能を認めるということ、また才能とまでは行かなくても、彼の青春の最愛のひとときにむすびつくような、彼がかつてたのしんだ、ある快い霊感といったものを認めるということ、しばしばそういうことによるのであった。またあるときは、自分でやりたかったと思ったことにあとでその巨匠が次第に気づくようになった、そんな仕事に似た何かを、べつの時代のある芸術家たちが、何気ない小品のなかですでに実現していた、ということにもよるのである。そんなとき、その巨匠は、古い人のなかに先覚者を見るのであって、巨匠は、べつの形による一つの努力、一時的、部分的に自分と一心同体の関係にある努力を、古い人のなかで愛するのである。プッサンの作品のなかにはターナーのいくつかの部分があるし、モンテスキューのなかにはフローベールの一句がある。そしてときにはまた、その巨匠の好みが誰それであるといううわさは、どこから出たとも知れずその流派のなかにつたえられた一つのまちがいから生まれたのだ。しかし、挙げられた名がたまたまその流派の商号とちょうどうまくだきあわされてその恩恵を受けることができたのは、巨匠の選択には、まだいくらかの自由意志があり、もっともらしい趣味もあったのに、流派となると、そのほうはもう理論一辺倒に走るからなのである。そのようにして、あるときはある方向に、つぎには反対の方向に傾きながら。脱線しそうになって進むというそんな通例のコースをたどることによって、時代の精神は、いくつかの作品の上に天来の光を回復させたのであって、そうした諸作品にショパンの作品が加えられたのも、正当な認識への欲求、または復活への欲求、またはドビュッシーの好み、または彼の気まぐれ、またはおそらく彼が語ったのではなかった話によるのである。人々が全面的に信頼感を抱いていた正しい審判者たちによって激賞され、『ペレアス』がひきおこした賞賛によって恩恵を受けながら、ショパンの作品は、ふたたび新しいかがやきを見出したのであった、そして、それをききなおさないでいた人たちまでが、どうしてもそれを好きになりたくなり、自分の自由意志かれではなかったのに、そうであったような幻想にとらえられて、それを好きになるのであった。(『ソドムとゴモラ Ⅰ』p368)

…………

さて、前置き?が長くなった。

オレが相変らず四十年以上を超えてなぜか「愛し続けている」作品・作家についてだ。たぶんなにか勘違いしているんだろう・・・

いまだ、《三年の戀一朝にさめて見ればあんな意氣地の無い女に今迄ばかされて居つた事かとくやしくも腹立たしく相成候》という具合にはいっていない。

体の傷はほどなく癒えるのに心の傷はなぜ長く癒えないのだろう。四〇年前の失恋の記憶が昨日のことのように疼く。(ボール・ヴァレリー『カイエ』)

…………

バッハのシンフォニアの六番ってのは、ほとんどみんな速いテンポで演奏するんだけど、どうしてもっとゆっくりやらないのかねえ、グールドはやむえないにしろ、シフもこんなテンポだ。

グールドはやむえない? せめてモスクワライブくらいの速度だった許すけど、あのレコード録音いったいなんだ!!

ところでWolfgang Wellerっておっちゃんが、ゆっくりやってくれてるのに漸く行き当たった

いい男だなあ



だいたい、オレは人を容貌で判断するタイプなのだが、いい顔してるよ。

黃入谷のいふことに、士大夫三日書を讀まなければ理義胸中にまじはらず、面貌にくむべく、ことばに味が無いとある。いつの世からのならはしか知らないが、中華の君子はよく面貌のことを氣にする。明の袁中郞に至つては、酒席の作法を立てて、つらつきのわるいやつ、ことばづかひのぞんざいなやつは寄せつけないと記してゐる。ほとんど軍令である。またこのひとは山水花竹の鑑賞法を定めて、花の顏をもつて人閒の顏を規定するやうに、自然の享受には式目あり監戒あるべきことをいつてゐる。ほとんど刑書である。按ずるに、面貌に直結するところにまで生活の美學を完成させたのはこの袁氏あたりだらう。本を讀むことは美容術の祕藥であり、これは塗ぐすりではなく、ときには山水をもつて、ときには酒をもつて内服するものとされた。詩酒徵逐といふ。この美學者たちは詩をつくつたことはいふまでもない。山水詩酒といふ自然と生活との交流現象に筋金を入れたやうに、美意識がつらぬいてゐて、それがすなわち幸福の觀念に通つた。幸福の門なるがゆゑに、そこには強制の釘が打つてある。明淸の詩人の禮法は魏晉淸言の徒の任誕には似ない。その生活の建前かれいへば、むしろ西歐のエピキュリアンといふものに他人の空似ぐらゐには似てゐる。エピキュールの智慧はあたへられた條件に於てとぼしい材料をもつていかに人生の幸福をまかなふかといふはかりごとに係つてゐるやうに見える。限度は思想の構造にもあり、生活の資材にもあり、ここが精いつぱいといふところで片隅の境を守らざることをえない。しかし、唐山の士太夫たる美學者はその居るところが天下の廣居といふけしきで、臺所はひろく、材料はいろいろ、ただ註文がやかましいために、ゆたかなものを箕でふるつて、簡素と見えるまでに細工に手がこんでゐる。世界觀に影響をあたへたのは、この緊密な生活に集中されてエネルギーの作用である。をりをり道佛の思想なんぞを採集してゐるのは、精神の榮養學だらう。仕事は詩をつくることではなく、生活をつくることであり、よつぽど風の吹きまはしがよかつたのか、精神上の假定が日日の生活の場に造型されて行くといふ幸運にめぐまれて、美學者の身のおちつきどころは神仙への變貌であつた。人閒にして神仙の孤獨を嘗めなくてはならぬいといふ憂目にも逢つたわけだらう。もつとも、人閒のたのしみは拔目なく漁つた揚句なのだから、文句もいへまい。すでに神仙である。この美學者たちが小説を書く道理は無かつた。大人の説、小人の説といふ。必ずしも人物の小大のみには係らないだらう。身分上より見れば、士太夫の文學、町人の文學といふように聞える。士大夫の文學は詩と隨筆とにほかならない。隨筆の骨法は博く書をさがしてその抄をつくることにあつた。美容術の祕訣、けだしここにきはまる。三日も本を讀まなければ、なるほど士大夫失格だろう。人相もまた變らざることをえない。町人はすなはち小人なのだから、もとより目鼻ととのはず、おかげで本なんぞは眼中に無く、詩の隨筆のとむだなものには洟もひつかけずに、せつせと掻きあつめた品物はおのが身の體驗にかぎつた。いかに小人でも、裏店の體驗相應に小ぶりの人生觀をもつてはいけないといふ法も無い。それでも、小人こぞつて、血相かへて、私小説を書き出すに至らなかつたのは、さすがに島國とはちがつた大國の貫祿と見受ける。……(石川淳「面貌について」『夷齋筆談』所収)

というわけで、Bach, J.S., Sinfonia 6 E-Dur BWV 792, Wolfgang Weller 2013.





ーーオレの耳がへんなのかもしれないが、途中でややテンポが速くなるところがすこし気にはなるが・・・そんなことは許してしまうさ、この見事なロマンチックフーガとも呼ぶべきシンフォニアはこの速度でやならくっちゃな


いまではだれもいわなくなったのだろう、次のような大袈裟なものいいを聞くまえからの「恋」さ

ただ一つだけ人間の仕事のなかからいちばん完璧なものを救うとすれば、それは何だろうか。おそらくバッハの音楽であろう、とシャルル・デュ・ボスは書いたことがある。「洪水のあとには、バッハ」。(加藤周一)
これまでの 80年間、私は毎日毎日、その日を、同じように始めてきた。ピアノで、バッハの平均律から、プレリュードとフーガを、 2曲ずつ弾く。(パブロ・カザルス 鳥の歌 ジュリアン・ロイド・ウェッバー編
Schumann シューマン、Mozart モーツァルト、Schubert シューベルト・・・Beethoven ベートーヴェンですら、私にとって、一日を始めるには、物足りない。Bach バッハでなくては。

どうして、と聞かれても困るが。完全で平静なるものが、必要なのだ。そして、完全と美の絶対の理想を、感じさせるくれるのは、私には、バッハしかない(同)











2015年3月4日水曜日

わたくしの敬愛するマエストロ

あなた、のことを、なんと呼べばいいのだろう。あなたのことを、あなた、と呼んでは失礼にあたることは重々承知している。あなたの名前のあとに、先生、とつけて呼べば、世間的にはおさまりがよくなることを知らないわけではない。だがわたくしは、この四十年ほどのあいだ、他人を先生と呼ぶことに無縁の生涯をおくってきた。高等学校を卒業して以来、ひとを先生と呼んだことはない。いや、どこかの藪医者をやむえず先生と呼んだことは数度あったかもしれないが、大学の教師のたぐいさえ、先生と呼んだ記憶はない。

まあでもそんなことはどうでもよろしい。わたくしは今、〈あなたがた〉に背を向けて、〈あなた〉にのみ語りかけたい気分なのだ。この〈あなたがた〉には、〈あなた〉は含まれない。〈あなたがた〉とは、どこかの馬の骨の集合体のことであり、烏合の衆のことである。〈あなた〉とは、わたくしが敬愛する〈あなた〉である。本来、文章とは〈あなた〉にのみ語りかけるものではないか。ある映画批評家が、《徹底した観客無視……私の批評は、見る人のことなどまったく考えず、もっぱら撮る人のことばかり考えて書かれたむなしい「恋文」のようなものだったのかも知れません》と語ったが、映画だけではなく、人はむなしい恋文のように文章を書くべきではないか。

わたくしにとっての〈あなた〉は、あなただけではないかもしれない。すなわち敬愛する〈あなた〉は複数あるのかもしれない。だがまず恋文の対象である〈あなた〉とは誰であるのかに思いを馳せると、あなたの顔が浮んでくる。あなたは、坂口安吾によって「通俗作家」と呼ばれたり、あなたに敬意を表し続けた石川淳にさえ、戦後は葛飾をめぐっての書き物一篇のみ、《さすがに風雅なお亡びず、高興もっともよろこぶべし》、《しかし、それ以後は……何といおう、どうもいけない》としている、そして、《すべて読むに堪えぬもの、聞くに値しないものであった。わずかに日記の文があって、いささか見るべしとしても、年ふれば所詮これまた強弩の末のみ》などと。

一箇の老人が死んだ。通念上の詩人らしくもなく、小説家らしくもなく、一般に芸術的らしいと錯覚されるようなすべての雰囲気を絶ちきったところに、老人はただひとり、身近に書きちらしの反故もとどめず、そういっても貯金通帳をこの世の一大事とにぎりしめて、深夜の古畳の上に血を吐いて死んでいたという。このことはとくに奇とするにたりない。小金をためこんだ陋巷の乞食坊主の野たれじにならば、江戸の随筆なんぞにもその例を見るだろう。(石川淳「敗荷落日」)

貯金通帳には、仄聞するところでは、当時の金額で三億円ほど(現在なら百億円ほどに相当するのではないか)あったそうだが、通いのお手伝いのばあさんはあったとはいえ、部屋は埃だらけ、一説には乞食小屋同然などとも評される。万年床のボロボロのふとん、部屋の真ん中に七輪が置いており、ガスはなし。脱いだズボンや下着、紙くずが乱雑に散らかっていたそうだ。しかも家には裸電球がひとつしかない。夜分に客がたまに訪れると、その裸電球を客間につけかえて応接した。煙草は光を二つに折ってキセルに入れて吸う、食事は一日一食の外食で、おなじものを食べ続けられたと。

……晩年の荷風は、毎日正午になるとハンコで捺したように何とかいう近くの食堂(京成電車沿線の何とかいう駅前にいまもあるらしい)にあらわれて、ハンコで捺したようにカツ丼(確かにカツ丼は独身男の象徴みたいな食物だと思う)を食ったそうだ。世の中には食物の味のわからない(あるいは食物の書けないだったか?)小説家に文豪なしという説(ビフテキと茶漬けでは西洋文学にかないっこなし、というのとはまた別の説らしい)もあるらしいが、その説でゆくと荷風などはどうなるのだろう?(後藤明生『壁の中』)

後藤明生の『壁の中』という作品は原稿用紙で1700枚ほどの膨大な作品だが、そのなかで約250頁ほどがあなたとの架空の対談となっているそうだ。このような先達がいるにもかかわらず、あなたにこのように話しかけるのは不遜というものかもしれない。

 あなたは大正六年九月十六日三十七歳(数え年三十九歳)からほぼ毎日のようにーー大正六、七年に何日から抜けているのみでーー、日記を書きつづられた。それは死の日の昭和三十四年四月二十九日まで続く。《四月廿九日、祭日、陰――と、なぜだか、最後の日まであるのだ。翌三十日の朝、通いの手伝いの女性に発見されたという》(古井由吉『東京物語考』)。もちろん戦争中に空襲に襲われて逃げまどう日々にも欠かさず日記をつけられている。まずはそのことに驚く。とはいえ、わたくしの手元にはあなたの日記のすべてがあるわけではない。岩波文庫の上下二巻の摘録があるだけで、あなたの日記は岩波版全集で約三千ページにのぼるとのこと。もうこれだけであなたに語りかける資格はないのかもしれない。

ここで冒頭の問いをくり返すことにしよう、あなたのことをなんと呼べはいいのだろう、と。やはり荷風先生なのか。だがやはり、それではどうもいけない。いま仮に「マエストロ荷風」という呼び方が思い浮かんだ。あなたは人生の、そして如何に生きるかのマエストロに違いない。それは安吾が《筆を執る彼の態度の根本に「如何に生くべきか」が欠けてをり》とするにもかかわらず、である。そうでなかったら逃げる場所を追うようにして襲われた三度空襲との遭遇の日々にさえ日記を書きつづけることなどどうしてありえよう(参照:「しいんと切ない心地」)。

ここで後藤明生の小説にも引用されている詩人鮎川信夫の文章を掲げておくことにする。

当時の私が、荷風の文学、あるいはその人間にひかれるようになったのは、荷風が「家庭の幸福」から徹底的に疎外された文学者であったことが、おそらく作用しているであろうと思う。(中略)私が『墨東綺譚』を読んだ頃は、荷風の日記のことは知らなかった。しかし時勢に背反し孤立しても常に自己の道を歩きつづけようとする一徹な個人主義の耽美の精神は、その作品からでも充分に感得することができた。(中略)それは、個人主義的な強い自我の主張というよりは、享楽に徹底した人間の、のっぴきならない、生き方として、そこに在ったのである。/荷風はそのような生き方を、永年にわたって、意識的につくり上げてきた。おそらく、それは「家庭の幸福」から疎外された文学者にしてはじめて可能な、といえるような性質のものであった。(中略)荷風が戦争期のナショナリズムと無縁でありえたのは、あるいはこのような家族に対する厳しい態度と軌を一にしているのではないか、と私は思う。日本人のナショナリズムは、一心同体的な家族意識とつながっていたから、それを断ち切れる人間でないかぎり、戦争期のナショナリズムと全く無縁の位置に立つことは容易ではなかったはずである(鮎川信夫「戦中〈荷風日記〉私観」)

 わたくしは、昨晩、マエストロ荷風の大正十五年の日記をすこし覗いてみた。大正十五年とは、わたくしの父の生れた年であり、あなたは数え年四十又八歳である。そこにはこうあった。とても美しい文章である。それは小林秀雄が1951年に《私は永井氏を現代随一の文章家と思っている》としたとおりである。

正月元日。かつて大久保なる断腸亭に病みし年の秋、ふと思ひつきて、一時打棄てたりし日記に再び筆とりつづけしが、今年にて早くも十載とはなりぬ。そもそも予の始めて日記をつけ出せしは、明治二十九年の秋にして、あたかも小説をつくりならひし頃なりき。それより以後西洋遊学中も筆を擱かず。帰国の跡半歳ばかりは仏蘭西語のなつかしきがまま、文法の誤りも顧ず、蟹行の文にてこまごまと誌したりしが、翌年の春頃より怠りがちになりて、遂に中絶したり。今これを合算すれば二十余年間の日乗なりしを、大正七年の冬大久保邸売却の際邪魔なればとて、悉く落葉と共に焚きすてたり。今日に至りては聊惜しき心地もせらるるなり。昼餔の跡、雲南阪下より自働車を買ひ雑司ヶ谷墓地に徃きて先考の墓を拝す。墓前の臘梅今年は去年に較べて多く花をつけたり。帰路歩みて池袋の駅に抵る。沿道商廛酒肆櫛比するさま市内の町に異らず。王子電車の線路延長して鬼子母神の祠後に及べりといふ。池袋より電車に乗り、渋谷に出て、家に帰る。日いまだ没せず。この日天気快晴。終日風なく、温暖春日の如し。崖下の静なる横町には遣羽子の音日の暮れ果てし後までも聞えたり。軒の燈火の薄暗かりしわれら幼時の正月にくらべて、世のさまの変りたるは、これにても思知らるるなり。
正月初二。先考の忌辰なれば早朝書斎の塵を掃ひ、壁上に掛けたる小影の前に香を焚き、花に新しき花をさし添へたり。先考脳溢血にて卒倒せられしは大正改元の歳十二月三十日、恰も雪降りしきりし午後四時頃なり。これも今は亡き人の数に入りし叔父大島氏訪ね来られ、款語して立帰られし後、庭に在りし松の盆栽に雪のつもりしを見、その枝の折るゝを慮り、家の内に運入れむとして両の手に力を籠められし途端、卒倒せられしなり。予はこの時家に在らず。数日前より狎妓八重次を伴ひ箱根塔之沢に遊び、二十九日の夜妓家に還り、翌朝帰宅の心なりしに、意外の大雪にて妓のいま一日と引留むるさま、「障子細目に引きあけて」と云ふ、葉唄の言葉その儘なるに、心まどひて帰ることを忘れしこそ、償ひがたき吾一生の過なりけれ。予は日頃箱根の如き流行の湯治場に遊ぶことは、当世の紳士らしく思はれて好むところにあらざりしが、その年にかぎり偶然湯治に赴きしいはれいかにと言へば、予その年の秋正妻を迎へたれば、心の中八重次にはすまぬと思ひゐたるを以て、歳暮学校の休暇を幸、八重次を慰めんとて予は一日先立つて塔之沢に出掛け、電話にて呼寄せたりしなり。予は家の凶変を夢にだも知らず、灯ともし頃に至りて雪いよいよ烈しく降りしきるほどに、三十日の夜は早く妓家の一間に臥しぬ。世には父子親友死別の境には虫の知らせと云ふこともありと聞きしに、平生不孝の身にはこの日虫の知らせだも無かりしこそいよいよ罪深き次第なれ。かくて夜もふけ初めし頃、頻に戸口を敲く者あり。八重次の家は山城河岸中央新聞社の裏に在り、下女一人のみにて抱はなかりしかば、八重次長襦袢にて半纏引掛け下女より先に起出で、どなたと恐る恐る問ふ。森田なりと答る声、平家建の借家なれば、わが枕元まで能く聞えたり。是文士森田草平なり。草平子の細君は八重次と同じく藤間勘翁の門弟なりし故、草平子早くより八重次と相識りしなり。此の夜草平子酔ひて電車に乗りおくれ、電車帰宅すること能はざれば、是非ともとめて貰ひたしと言ひたる由なり。後日に至り当夜の仔細を聞きしに、予の正妻を迎へしころより草平子折々事に托して八重次の家に訪来りしと云ふ。 かくて夜のあくれば其の年の除日なれば、是非にも帰るべしと既にその仕度せし時、籾山庭後君の許より電話かゝり、「昨日夕方より尊大人御急病なりとて、尊邸より頻に貴下の行衛(ゆくえ)を問合せ来るにより、内々にて鳥渡お知らせ申す」との事なり。予はこの電話を聞くと共に、胸轟き出して容易に止まず。心中窃に父上は既に事きれたるに相違なし。予は妓家に流連して親の死目にも遭はざりし不孝者とはなり果てたりと、覚悟を極めて家に帰りね。母上わが姿を見、涙ながらに「父上は昨日いつになく汝の事をいひ出で、壮吉は如何せしぞ。まだ帰らざるやと。度々問ひたまひしぞや」と告げられたり。予は一語をも発すること能はず、黙然として母上の後に随ひ行くに、父上は来青閣十畳の間に仰臥し、昏睡に陥りたまへるなり。 鷲津氏を継ぎたる弟貞二郎は常州水戸の勤先より、此夜大久保の家に来りぬ。末弟威三郎は独逸留学中なりき。こゝに曾て先考の学僕なりし小川新太朗とて、其時は海軍機関少監となりゐたりし人、横須賀軍港より上京し、予が外泊の不始末を聞き、帯剣にて予を刺殺さんとまで奮激したりし由なり。尤この海軍士官酒乱の上甚好色にて、予が家の学僕たりし頃たりし頃下女を孕ませしこと二三名に及べり。葬式の前夜も台所にて大酔し、下女の意に従はざるを憤りて殴打せしことなどあり。今は何処に居住せるにや。先考易簀の後予とは全く音信なし。扨先考は昏睡より寤めざること三昼夜、正月二日の暁もまだ明けやらぬ頃、遂に世を去りたまへり。 来春閣に殯すること二昼夜。五日の朝十時神田美土代町基督青年会館にて邪蘇教の式を以て葬式を執行し、雑司ヶ谷墓地に葬りぬ。先考は耶蘇教徒にてはあらざりしかど、平生仏僧を悪み、常に家人に向つて予が葬式は宣教師に依頼すべし。それも横浜あたりの外国宣教師に依頼するがよし。耶蘇教には年会法事の如き煩累なければ、多忙の世には之に如くものなしなど語られし事ありしかば、その如くになしたるなり。尤母上は久しき以前より耶蘇教に帰依し、予が弟鷲津氏は早くより宣教師となり、神学に造詣あり。先考の墓誌は永阪石翁撰したまへり。葬儀万端は郵舩会社の重役春田源之亟氏斡旋せられき。郵舩会社より葬式料金参千円。遺族に壱万円を贈り来りしも皆春田氏の尽力によれるなり。尾州家よりは金五千円下されしやに記憶すれど確ならず。当時の事思返せば、猶記すべきもの多けれど、徒に紙を費すのみなればやむ。 此日朝より風ありしが晴れて暖なり。午後生田葵山巌谷三一両君来訪。談笑中文士細田氏来りて面談を求められしが、未知の操觚者には成るべく面談を避くるが故病と称して会はず。下虎の門にて三一葵山の二子に別れ、桜川町の女を訪ふ。夜半家に帰る。





2015年1月15日木曜日

「今日、社会問題が、私の思想を占めているのは、創造の魔神が退いたからである」

今日、社会問題が、私の思想を占めているのは、創造の魔神が退いたからである。これらの問題は、想像の魔神がすでに敗退したのでないなら、席を占めることはできなかったのである。どうして自己の価値を誇称する必要があろう。かつてトルストイに現れたもの、すなわち否定し難い減退を自分のうちに認めることを何故拒否する要があろう。(「ジイドの日記 1932年」)

ーー「創造の魔神」に引き続いて「想像の魔神」とあるのは原文通り。

小林秀雄の「作家の顔」からの孫引きであるが、「作家の顔」とは正宗白鳥とのいわゆるトルストイ論争ーートルストイの晩年の妻のヒステリーによる家出、あるいはその野垂れ死をめぐるーーの三連発の第一弾目であり、その後「思想と生活」、「文学者の思想と実生活」と続く。いまごろこの昭和十一年に書かれた文章に感心するのもなんだが、ようやく小林秀雄が何をこの論争で言いたかったのかが、その尻尾のひとつのようなものをみかけた気分だ。とはいえみかけただけであり、地の文を引用する気にはいまだならない。当時小林は、ドストエフスキー論を執筆中で、ドストエフスキーへの言及も豊富であり、それ以外にもフローベールを引用したりして、縦横無尽の感がある、――とだけ今はしておく。

とはいえ、今後、噛み砕いて、あるいは要領を得て、引用できる自信もないので、小林秀雄節の例を、その第三弾「文学者の思想と実生活」から、文脈とは離れて、ふたつのパラグラフだけ引用しておこう。

「芸術も思想も絵空ごとだ、人は生まれて苦しんで死ぬだけのことだ、という無気味な思想を、トルストイが『アンナ・カレニナ』で実現し、これを捨て去ったことは周知のことだ。他人がいったん捨て去った思想を拾い上げるのは勝手だが、ナポレオンの凡人たることを証明した天才を捕え、その凡人性に感慨をもよおすことは気が利かないのである」と僕が書いたのを、正宗氏は、奇怪な言だ、と言う。なぜ奇怪な言なのだろうか。トルストイが彼の思想を捨て去ったことは、正宗氏がこれを再び拾い上げるのを妨げぬし、正宗氏がこれによって抽象的煩悶を抱くことも妨げない。そして誰も正宗氏の煩悶を侮蔑する者はあるまい。僕はそんなことが言いたかったのではない。およそ人間の凡人性に感慨をもよおすのに何もトルストイを選ばなくてもよいではないかと言うので、それが気が効かないという言葉の意味である。選ばなくてよいと言うよりむしろ僕は選んではならぬと言いたいのだ。そういうことは偉人を遇する道ではないと思うし、偉人の真相を不必要に歪めることだと思う。なるほどいかにも凡人らしい奴が実は凡人だったりしてもおもしろくなかろう。天才と称えられた人物の日記なぞ読んでみてやっぱりただの人だったりすれば、劇的興味が湧くだけの話だ。
前の文章でドストエフスキイの複雑な実生活の相について述べたが、正宗氏は文豪の性行には美醜両面があるので、一方、神のような人間にも他面、獣のような処もあるという僕の論じ方は常識的世間通の口吻を出ないと言っている。これは意外なことで、僕は、まさしくそういう世間通の口吻を皮肉ったつもりであれを書いたのである。皮肉のつもりで書いたところを、馬鹿正直に読まれては迷惑に思う。その実生活をよく知った親友から獣と罵られ、細君からは理想の人間と讃美され、スタヴロギンを書き、ゾシマを書いたドストエフスキイという現実の人間の真相とは何か。もしそれが明瞭なものだったら、他人が詮索するまでもない、当人が判然たる自画像の一つも書いておいてくれたはずだ。

さて、ここでは、小林秀雄批判もある岡崎乾二郎が、どうして95年にモダニズムのハード・コアが出たのかという話のなかで、《日本にグリーンバーグがいなかったのは、グリーンバーグより優秀な小林秀雄がいたから》とか、同じく高橋悠治と同様、小林秀雄メロドラマ説を流通させた蓮實重彦が、《で、小林秀雄あたりからそれがおかしくなってきている。やっぱり小 林秀雄ってのは頭がよすぎて、そんなことを考えてたらば、早晩なんにも書く ことがなくなるということがかなり若いときからわかっていたんでしょう》などと語っているようだが、正宗白鳥とのトルストイ論争にても、小林秀雄は頭がよすぎたのだ、ーーなどと漠然とした感想を書き綴るのはいかにも芸がないがやむ得ない。

彼(小林秀雄)の批評の「飛躍的な高さ」は、やはり、ヴァレリー、ベルクソン、アランを読むこと、そしてそれらを異種交配してしまうところにあった。公平にいって、彼の読みは抜群であったばかりでなく、同時代の欧米の批評家に比べても優れているといってよい。今日われわれが小林秀雄の批評の古さをいうとしたら、それなりの覚悟がいる。たとえば、サルトル、カミュ、メルロ=ポンティの三人組にいかれた連中が、いま読むに耐えるテクストを残しているか。あるいは、フーコー、ドゥルーズ、デリダの新三人組を、小林秀雄がかつて読んだほどの水準で読みえているか。なにより、それが作品たりえているか。そう問えば、問題ははっきりするだろう。(柄谷行人「交通について」――中上健次との共著、『小林秀雄をこえて』所収)

 いずれにせよ、今はその話ーー小林秀雄の批評の飛躍的な高さの話ーー、ではない。冒頭のジイドの文にある、《社会問題が、私の思想を占めているのは、創造の魔神が退いたからである》とは、プルーストも似たようなことを言っているので、そのメモである。

未知の表徴(私が注意力を集中して、私の無意識を探索しながら、海底をしらべる潜水夫のように、手さぐりにゆき、ぶつかり、なでまわす、いわば浮彫状の表徴)、そんな未知の表徴をもった内的な書物といえば、それらの表徴を読みとることにかけては、誰も、どんな規定〔ルール〕も、私をたすけることができなかった、それらを読みとることは、どこまでも一種の創造的行為であった、その行為ではわれわれは誰にも代わってもらうことができない、いや協力してもらうことさえできないのである。だから、いかに多くの人々が、そういう書物の執筆を思いとどまることだろう! そういう努力を避けるためなら、人はいかに多くの努力を惜しまないことだろう! ドレフェス事件であれ、今次の戦争であれ、事変はそのたびに、作家たちに、そのような書物を判読しないためのべつの口実を提供したのだった。彼ら作家たちは、正義の勝利を確証しようとしたり、国民の道徳的一致を強化しようとしたりして、文学のことを考える余裕をもっていないのだった。しかし、それらは、口実にすぎなかった、ということは、彼らが才能〔ジェニー〕、すなわち本能をもっていなかったか、もはやもっていないかだった。なぜなら、本能は義務をうながすが、理知は義務を避けるための口実をもたらすからだ。ただ、口実は断じて芸術のなかにはいらないし、意図は芸術にかぞえられない、いかなるときも芸術家はおのれの本能に耳を傾けるべきであって、そのことが、芸術をもっとも現実的なもの、人生のもっとも厳粛な学校、そしてもっとも正しい最後の審判たらしめるのだ。そのような書物こそ、すべての書物のなかで、判読するのにもっとも骨の折れる書物である、と同時にまた、現実がわれわれにうながした唯一の書物であり、現実そのものによってわれわれのなかに「印刷=印象アンプレッション」された唯一の書物である。人生がわれわれのなかに残した思想が何に関するものであろうとも、その思想の具体的形象、すなわちその思想がわれわれのなかに生んだ印象の痕跡は、なんといってもその思想がふくむ真理の必然性を保証するしるしである。単なる理知のみのよって形づくられる思想は、論理的な真実、可能な真実しかもたない、そのような思想の選択は任意にやれる。われわれの文字で跡づけられるのではなくて、象形的な文字であらわされた書物、それこそがわれわれの唯一の書物である。といっても、われわれが形成する諸般の思想が、論理的に正しくない、というのではなくて、それらが真実であるかどうかをわれわれは知らない、というのだ。印象だけが、たとえその印象の材料がどんなにみすぼらしくても、またその印象の痕跡がどんなにとらえにくくても、真実の基準となるのであって、そのために、印象こそは、精神によって把握される価値をもつ唯一のものなのだ、ということはまた、印象からそうした真実をひきだす力が精神にあるとすれば、印象こそ、そうした精神を一段と大きな完成にみちびき、それに純粋のよろこびをあたえうる唯一のものなのである。作家にとっての印象は、科学者にとっての実験のようなものだ、ただし、つぎのような相違はある、すなわち、科学者にあっては理知のはたらきが先立ち、作家にあってはそれがあとにくる。われわれが個人の努力で判読し、あきらかにする必要のなかったもの、われわれよりも以前にあきらかであったものは、われわれのやるべきことではない。われわれ自身から出てくるものといえば、われわれのなかにあって他人は知らない暗所から、われわれがひっぱりだすものしかないのだ。(プルースト『見出された時』井上究一郎訳)

…………

さて、ーーしかし、これではなにか足りない気がする。

一月ほど前読んで、ひどく愉快になった坂口安吾の文章でもつけ加えておくことにする。もっとも、これは石川淳の話が面白いのだが。

そう、あの名文家の石川淳である。

日本語の文学的散文を操って比類を絶するのは石川淳である。その漢文くずし短文は、語彙の豊かさにおいて、語法の気品において、また内容の緊密さにおいて、荷風を抜きほとんど鴎外の塁に迫る。・・・・・・荷風以後に文人と称し得る者はただ一人の夷斎石川である。(加藤周一『日本文学史序説』)
おそらく日本語が到達しうる文体の極限がここにある。(安部公房「解題」石川淳『夷齋筆談』)
なるほど彼(石川淳)は、当代きっての巧みな日本語遣いというべきで、ときには威勢よく啖呵を切り、きわどい冗談をさらりと言ってのけ、下世話な題材を繊細な比喩でもっともらしい語り口に仕立てあげてみせたあたり、その小気味よさに思わずうっとしもしてしまう(蓮實重彦『小説から遠く離れて』

ということで、坂口安吾の『安吾巷談』より。

ヤジウマ根性というものは、文学者の素質の一つなのである。是非ともなければならない、という必須のものではないが、バルザックでも、ドストエフスキーでも、ヤジウマ根性の逞しい作家は、作家的にも逞しいのが通例で、小林と福田は、日本の批評家では異例に属する創造的作家であり、その人生を創造精神で一貫しており、批評家ではなくて、作家とよぶべき二人である。そろって旺盛なヤジウマ根性にめぐまれているのは偶然ではない。

 しかし、天性敏活で、チョコ/\と非常線をくぐるぐらいお茶の子サイサイの運動神経をもつ小林秀雄が大ヤジウマなのにフシギはないが、幼稚園なみのキャッチボールも満足にできそうにない福田恆存が大ヤジウマだとは意外千万であった。

 私は熱海の火事場を歩きまわってヘトヘトになり、しかし、いくらでもミレンはあったが、女房がついてるから仕方がない。終電車の一つ前の電車にのって伊東へ戻った。満員スシ詰め、死ものぐるいに押しこまれて来ノ宮へ吐きだされた幾つかの電車のヤジウマの大半が終電車に殺到すると見てとったからで、事実、私たちの電車は、満員ではあったが、ギュウ/\詰めではなかった。さすればヤジウマの大半が終電事につめかけたわけで、罹災者の乗りこむ者も多いから、終電車の阿鼻叫喚が思いやられた次第であった。

 網代の漁師のアンチャン連の多くは火事場のどこで飲んだのか酔っぱらっており、とうとう喧嘩になったらしく、網代のプラットフォームは鮮血で染っていた。

 伊東へついて、疲れた足をひきずり地下道へ降りようとすると、
「アッ。奥さん」
「アラア」
 と云って、女房が奇声をあげて誰かと挨拶している。新潮社の菅原記者だ。ふと見ると、石川淳が一しょじゃないか。
「ヤ、どうしたの」

 ときくと、石川淳は顔面蒼白、紙の如しとはこの顔色である。せつなげに笑って(せつないところは見せたがらない男なのだが、それがこうなるのだからなおさら痛々しい)
「熱海で焼けだされたんだ。菅原と二人でね。熱海へついて、散歩して一風呂あびてると、火事だから逃げろ、というんでね」

 文士の誰かがこんな目にあってるとは思っていたが、石川淳とは思いもよらなかった。

 彼らは夕方熱海についた。起雲閣というところへ旅装をといて、散歩にでると、埋立地が火事だという。そのとき火事がはじまったのである。

 火事はすぐ近いが、石川淳はそれには見向きもせず、魚見崎へ散歩に行った。菅原が罹災者の荷物を運んでやろうとすると、

「コレ、コレ。逆上しては、いかん。焼け出されが逆上するのは分るが、お前さんまで逆上することはない」

 と云って、たしなめて散歩につれ去ったのである。魚見崎が消えてなくなることはあるまいのに。しかし、火事は一度のものだ。その火事も相当の大火であるというのに、火の手の方はふりむきもせず、アベコベの方角へ散歩に行った石川淳という男のヤジウマ根性の稀薄さも珍しい




2015年1月8日木曜日

「つち澄みうるほひ」(室生犀星)と「水澄み/ふるとしもなき」(三好達治)

微恙あり、ベッドに寝転がって三好達治の『測量船』をiPadで読む。今年(2015)から青空文庫には三好達治、佐藤春夫などが新たに加わっている。『測量船』は文庫本が手元にないわけではないが、大きな活字で読む方が――詩はとくにーー好ましい。

以前にも、『測量船』をそれほど熱心に読んだわけではない。冒頭近くにある「春の岬」やら「乳母車」、「雪」などの名高い詩を中心に拾い読みする程度で、中ほどから居並ぶ散文詩のたぐいは殆んど読み飛ばし、その散文詩のなかでは、「海、遠い海よ! と私は紙にしたためる。――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」との文がある「郷愁」が印象に残っているぐらいだ。

ところで自由詩のなかに「池に向へる朝餉」という題の詩がある。冒頭の四行は次ぎの通り。

水澄み
ふるとしもなきうすしぐれ
啼く鳥の
鳥のねも日にかはりけり

この詩句は以前はなんの印象も受けておらず、今ごろになってその存在に気づいたと云ってもいいぐらいなのだが、この若き日に書かれた詩の「水澄み」に今注目することになったのは訳がある。それは次ぎの文章に感心していたからである。

……三好が詩に於てつとに萩原朔太郎を宗としたことは周知のとほりだが、その詩境をうかがふに、年をふるにしたがつて、むしろ室生さんのはうに「やや近距離に」あゆみ寄つて来たのではないかとおもふ。萩原さんの詩はちよつと引つかかるところがあるけれど、室生さんの詩のはうはすらすら受けとれると、げんに當人の口から聞いたことがあつた。萩原さんをつねに渝らず高く仰いてゐた三好として、これは揣らずもみづからの素質を語つたものだらう。ちなみに、そのときわたしは鑑賞上それと逆だと應へたおぼえがある。また三好が酣中よくはなしてゐたことに、芥川龍之介は百發九十九中、室生犀星は百發わづかに一中だが、のべつにはづれる犀星の鐵砲がたまにぶちあてたその一發は芥川にはあたらないものだといつて、これにはわたしも同感、われわれは大笑ひした。つち澄みうるほひ、石蕗の花咲き……といふ室生さんの有名な詩は三好が四十年あまりにわたつで「惚れ惚れ」としつづけたものである。「つち澄みうるほひ」はまさに犀星の一發。このみがき抜かれたことばの使ひぶりは詩人三好が痩せるほど氣に入つた呼吸にちがひない。(石川淳「三好達治」『夷斎小識』所収)

寺の庭は四行詩で、全編を掲げれば次ぎのごとし。

つち澄みうるほひ
石蕗の花さき
あはれ知るわが育ちに
鐘の鳴る寺の庭

なによりも《つち澄みうるほひ》はひどく美しい詩句である、――ということも、上の石川淳の文章を読んで、はじめて御意と思ったのであり、この「寺の庭」という詩をかつて読んだことはありながら、たいしてその詩句に魅了されていたわけではない。初老の身になってはじめてひどく感心することになった詩句である。

ところで土が澄むとはどういうことか。

後年庭作りに丹念であった室生さんででもなければ、最初の一行「土澄みうるほひ」などと歌ひ起す詩人が、凡そ天地のひらけて以来他にはゐなかつだであらうと思ふ。その「「土澄みうるほひ」で「石蕗の花咲き」が、詩中でたいへん美しい。……「土澄みーー」といふのは、まことに異な表現であつたのを思ふと、そもそもこの際その美の發端は、この「土澄み」にあつた、その發見といつてもいい一種の呼吸に、私はいつでも變らず惚れ惚れとしてものを覺える。(三好達治「土澄みうるほひ」1963.1「週刊読書人」初出ーー犀星没年1962に書かれているとしていいだろう)

三好達治は《まことに異な表現であつた》と言っているが、「土」と「澄み」が組み合わされるのは、オクシモロンとまではいかないにしろ、それに近い印象をあたえるということか(いずれにせよその後に続く「澄み」と「うるほひ」の接合はオクシモロンの一種としてもよいだろう)。

修辞学で言うオクシモロンoxymoronという言葉は、語源の上ではギリシャ語で「鋭い」を表すoxyと「愚か」の意味のmOrosとが結びついたもので、「無冠の帝王」とか「輝ける闇」などの表現のように、通念の上では相反する、あるいは結びつき難い意味を持つ二つの言葉が結びつき、ぶつかりあいながら、思いがけない第三の意味を生み出すという一つの表現技法である。撞着語法とも、矛盾語法とも呼ばれる。(安永愛「 ポール・ヴァレリーのオクシモロンをめぐって」)

【シェイクスピアの例】
ああ喧嘩しながらの恋 、ああ恋しながらの憎しみ、ああ無から創られたあらゆるもの、ああ心の重い浮気、真剣な戯れ、美しい形の醜い混沌、鉛の羽根、輝く煙、燃えない火、病める健康、綺麗は汚い、汚いはきれい……

【ヴァレリーの例】
魅惑の岩、豊かな砂漠、黄金の闇、さすらふ囚われびと、おぞましい補ひ合ひ、昏い百合、凍る火花、世に古る若さ、はかない不死、正しい詐欺、不吉な名誉、敬虔な計略、最高の落下(以上、中井久夫訳ヴァレリー『若きパルク 魅惑』巻末の「「オクシモロンー覧表」」

「つち澄み」は、オクシモロンに近い《まことに異な表現》として捉えうるのかもしれないが、とはいえ、次ぎのような見解もある。すなわち、この「つち澄みうるほひ」は、金沢の気候、風土、その曇り空の下の特有の現象であり、《北陸は雨が多いので、常にしっとりと湿っている秋の庭を見ているものには、とても「異な表現」とは思われない》(安宅夏夫「蠟燭と鳩笛」ーー北川透「《無類の直接性》をめぐって」より孫引き)。






ところでトルストイの『アンナ・カレーニナ』の主人公としてよい地主リョーヴィン--トルストイ自身がモデルとして読むことができるだろうーー、彼がモスクワだったかペテルブルグから自らの田舎に帰って来て、己れの領地の肥沃な黒土をみやり、いや手にすくってみたのだったかもしれないが、これが俺の宝だというようなことを呟く場面があったと記憶するのだが、いまその箇所を探し出せないでいる。あの黒土は「土澄みうるほひ」と言いうるものではないか。滋養で匂い立つ黒土がさらさらとかつ潤って手に指の股から零れ落ちる……。だがこれは記憶違いかもしれない。


ここで、バルトークの《生と死とが相半ばしてできているこの刺激臭のあるカーペット》をめぐる文が「つち澄みうるほひ」であると、そのままいうつもりはないが、トルストイのかわりに引用しておこう。

バルトークは……森の中に腰をおろすと、かがみこんで足下につもった松葉を手で掘るのだった。

「膝くらいつもっている。何百年もかかって堆積されたんだ。あなた方御婦人は、こういう種類のカーペットをお宅の床にほしいとは思わないだろうけれど、これは飛びっきり高価な手織りのカーペットより、ずっと時間も労力もかかっていることはわかるだろう。太陽、雨、霜、雪、風が私たちの頭上にあるこの木々にふりそそぎ、季節がめまぐるしく変わる毎に、葉は落ちて死に、それに代わって生まれるべき無数の新しいもの、こうした生命のための場を整えるんだ。それに昆虫や鳥、毛虫のことも忘れちゃいけない。それぞれのやり方で、この過程を助けているのだから。彼らはみんな、この生と死とが相半ばしてできているこの刺激臭のあるカーペットの生成に関わっているんだ」(あんた方はみんなつんぼだっていったんだ。そら、あれが聞こえないのかい? (バルトーク)




…………

さて三好達治の「水澄み」は犀星起源ということは充分にありうるが、とはいえ「水」と「澄み」はごく標準的な組み合せであり、犀星の「つち澄み」には到底かなわない。

だがそれ以外にも音韻上の工夫を見てみよう、ここで見るのは母音だけだが。


つち澄みうるほひ
石蕗の花さき
あはれ知るわが育ちに
鐘の鳴る寺の庭

uiuiuuoi
uauioaaai
aaeiuaaoaii
aeoaueaoia


水澄み
ふるとしもなきうすしぐれ
啼く鳥の
鳥のねも日にかはりけり

iuui
uuoioaiuuiue
auoio
oioeoiiaaiei


両詩とも、一行目、二行目とウ音が重り、《くらがりにうごめくはっきりしない幼虫のよう》ではないか。そして三行目の冒頭に明るいア音がきて、唐突の転調のような印象を生んでいる。

くらがりにうごめくはっきりしない幼虫のように目につかなかったいくつかの楽節が、いまはまぶしいばかりにあかるい建造物になっていた。そのなかのある楽節はうちとけた女の友人たちにそっくりだった、はじめはそういう女たちに似ていることが私にはほとんど見わけられなかった、せいぜいみにくい女たちのようにしか見えなかった、ところが、たとえば最初虫の好かなかった相手でも、いったん気持が通じたとなると、思いも設けなかった友人を発見したような気にわれわれがなる、そんな相手に似ているのであった。(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳ーー馬鈴薯、あるいはプラトン・カラターエフの歌うような声

ーーさあて、すこしパクってみよう。

うみ澄みゆらめき 
船ゆれの山なみ 
あはれ見るわが港に 
柿のなる枝の先


酒澄みうるほひ
たおやめの頬あからみ
秋は女の垣根の奥のやうに
香液したたり匂いだす庭


(ははあ、音韻が合わない語句多く、鋭意エラボレーション中)

《生垣に穴をあけなければ永遠の世界を眺めることが出来ない》(西脇順三郎)

……この真っ昼間、……
トカゲも壁の割れ目にもぐり、
墓守ヒバリも見えない時刻なのに。
……
実もたわわなスモモの枝が
地面に向かってしなだれる。
――テオクリトス『牧歌(Idyllia)』第7歌(古澤ゆう子訳)

享楽の垣根における欲望の災難「Mesaventure du desir aux haies de la jouissance」》(ラカン)

ーー欲望が享楽に向かって進もうとするときはいつでも、《トカゲの尻尾のように落ちる》[ca tombe]


…………


室生犀星の詩、あるいは三好達治の詩をいま読むと、その懐古の仕草、あるいは「感傷性」にほとんど耐えきれなくなるときがある。だが二十世紀前半の詩人たちの多くの作品はそうだったのだろう。とはいえ、あんなにも過去に歩み寄り、とくに「母」への思いに耽溺して「退行」してよいものだろうか。

……わが国の著者はいささか幼児的ではないかという気もしないではないが、何人であろうと、「デーモン」が熾烈に働いている時には、それに「創造的」という形容詞を冠しようとも「退行」すなわち「幼児化」が起こることは避けがたい。(中井久夫「執筆過程の生理学)

この「創造的退行」とでもいうべきものなのだろうか。

この機会に室生犀星の『抒情小曲集』を覗いてみたのだが、序には北原白秋の文などが掲げられている。

初めて会つた頃の君は寂しさうであつた、苦しさうであつた、悲しさうであつた。初めて君の詩に接した時、私はその声の清清しさに、初めて湧きいでた同じ泉の水の鮮かさと歓ばしさとを痛切に感じた。君はまた自然の儘で、稚い、それでも銀の柔毛を持つた栗の若葉のやうに真純な、感傷家であつた。それは強い特殊の真実と自信と正確さを特つた若葉だ。その栗の木は日を追うて完全な樹木の姿となつた。

ここにも「感傷家」という言葉がある。そしてわたくしには、彼らの作品から《つかれを吹きとばす笑いのやさしさと、たたかいの意志》を、感じとれることは稀にしかない。

ふりむくことは回想にひたることではない。つかれを吹きとばす笑いのやさしさと、たたかいの意志をおもいだし、過去に歩みよるそれ以上の力で未来へ押しもどされるようなふりむき方をするのだ。 (高橋悠治『ロベルト・シューマン』)

だからといって捨て去るにはーーたいした文学読みではないわたくしが言っても始まらないがーー忍びない詩句に溢れている。そこに内容ではなく形式的な美をみる方法もあるのだろう。

「軽薄にソネットを扱いそこにピタゴラス的な美をみないのは馬鹿げている」(ボードレール)。ピタゴラス的な美とは、”現実”や”意味”と無関係に形式的な項の関係のみで成り立つものである。(柄谷行人『隠喩としての建築』)

ようするに、海外住まいを二十年続けてしまったわたくしは、最近「日本語」が懐かしいのだ。この「懐かしい」とは、やはり感傷なのだろうか。かりに「感傷」であっても、こうでありたいものだ。

傷によって生気は増し、力は生長する increscunt animi,virescit volnere virtus (Furio Anziate (II sec. a. C.)