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2015年3月4日水曜日

わたくしの敬愛するマエストロ

あなた、のことを、なんと呼べばいいのだろう。あなたのことを、あなた、と呼んでは失礼にあたることは重々承知している。あなたの名前のあとに、先生、とつけて呼べば、世間的にはおさまりがよくなることを知らないわけではない。だがわたくしは、この四十年ほどのあいだ、他人を先生と呼ぶことに無縁の生涯をおくってきた。高等学校を卒業して以来、ひとを先生と呼んだことはない。いや、どこかの藪医者をやむえず先生と呼んだことは数度あったかもしれないが、大学の教師のたぐいさえ、先生と呼んだ記憶はない。

まあでもそんなことはどうでもよろしい。わたくしは今、〈あなたがた〉に背を向けて、〈あなた〉にのみ語りかけたい気分なのだ。この〈あなたがた〉には、〈あなた〉は含まれない。〈あなたがた〉とは、どこかの馬の骨の集合体のことであり、烏合の衆のことである。〈あなた〉とは、わたくしが敬愛する〈あなた〉である。本来、文章とは〈あなた〉にのみ語りかけるものではないか。ある映画批評家が、《徹底した観客無視……私の批評は、見る人のことなどまったく考えず、もっぱら撮る人のことばかり考えて書かれたむなしい「恋文」のようなものだったのかも知れません》と語ったが、映画だけではなく、人はむなしい恋文のように文章を書くべきではないか。

わたくしにとっての〈あなた〉は、あなただけではないかもしれない。すなわち敬愛する〈あなた〉は複数あるのかもしれない。だがまず恋文の対象である〈あなた〉とは誰であるのかに思いを馳せると、あなたの顔が浮んでくる。あなたは、坂口安吾によって「通俗作家」と呼ばれたり、あなたに敬意を表し続けた石川淳にさえ、戦後は葛飾をめぐっての書き物一篇のみ、《さすがに風雅なお亡びず、高興もっともよろこぶべし》、《しかし、それ以後は……何といおう、どうもいけない》としている、そして、《すべて読むに堪えぬもの、聞くに値しないものであった。わずかに日記の文があって、いささか見るべしとしても、年ふれば所詮これまた強弩の末のみ》などと。

一箇の老人が死んだ。通念上の詩人らしくもなく、小説家らしくもなく、一般に芸術的らしいと錯覚されるようなすべての雰囲気を絶ちきったところに、老人はただひとり、身近に書きちらしの反故もとどめず、そういっても貯金通帳をこの世の一大事とにぎりしめて、深夜の古畳の上に血を吐いて死んでいたという。このことはとくに奇とするにたりない。小金をためこんだ陋巷の乞食坊主の野たれじにならば、江戸の随筆なんぞにもその例を見るだろう。(石川淳「敗荷落日」)

貯金通帳には、仄聞するところでは、当時の金額で三億円ほど(現在なら百億円ほどに相当するのではないか)あったそうだが、通いのお手伝いのばあさんはあったとはいえ、部屋は埃だらけ、一説には乞食小屋同然などとも評される。万年床のボロボロのふとん、部屋の真ん中に七輪が置いており、ガスはなし。脱いだズボンや下着、紙くずが乱雑に散らかっていたそうだ。しかも家には裸電球がひとつしかない。夜分に客がたまに訪れると、その裸電球を客間につけかえて応接した。煙草は光を二つに折ってキセルに入れて吸う、食事は一日一食の外食で、おなじものを食べ続けられたと。

……晩年の荷風は、毎日正午になるとハンコで捺したように何とかいう近くの食堂(京成電車沿線の何とかいう駅前にいまもあるらしい)にあらわれて、ハンコで捺したようにカツ丼(確かにカツ丼は独身男の象徴みたいな食物だと思う)を食ったそうだ。世の中には食物の味のわからない(あるいは食物の書けないだったか?)小説家に文豪なしという説(ビフテキと茶漬けでは西洋文学にかないっこなし、というのとはまた別の説らしい)もあるらしいが、その説でゆくと荷風などはどうなるのだろう?(後藤明生『壁の中』)

後藤明生の『壁の中』という作品は原稿用紙で1700枚ほどの膨大な作品だが、そのなかで約250頁ほどがあなたとの架空の対談となっているそうだ。このような先達がいるにもかかわらず、あなたにこのように話しかけるのは不遜というものかもしれない。

 あなたは大正六年九月十六日三十七歳(数え年三十九歳)からほぼ毎日のようにーー大正六、七年に何日から抜けているのみでーー、日記を書きつづられた。それは死の日の昭和三十四年四月二十九日まで続く。《四月廿九日、祭日、陰――と、なぜだか、最後の日まであるのだ。翌三十日の朝、通いの手伝いの女性に発見されたという》(古井由吉『東京物語考』)。もちろん戦争中に空襲に襲われて逃げまどう日々にも欠かさず日記をつけられている。まずはそのことに驚く。とはいえ、わたくしの手元にはあなたの日記のすべてがあるわけではない。岩波文庫の上下二巻の摘録があるだけで、あなたの日記は岩波版全集で約三千ページにのぼるとのこと。もうこれだけであなたに語りかける資格はないのかもしれない。

ここで冒頭の問いをくり返すことにしよう、あなたのことをなんと呼べはいいのだろう、と。やはり荷風先生なのか。だがやはり、それではどうもいけない。いま仮に「マエストロ荷風」という呼び方が思い浮かんだ。あなたは人生の、そして如何に生きるかのマエストロに違いない。それは安吾が《筆を執る彼の態度の根本に「如何に生くべきか」が欠けてをり》とするにもかかわらず、である。そうでなかったら逃げる場所を追うようにして襲われた三度空襲との遭遇の日々にさえ日記を書きつづけることなどどうしてありえよう(参照:「しいんと切ない心地」)。

ここで後藤明生の小説にも引用されている詩人鮎川信夫の文章を掲げておくことにする。

当時の私が、荷風の文学、あるいはその人間にひかれるようになったのは、荷風が「家庭の幸福」から徹底的に疎外された文学者であったことが、おそらく作用しているであろうと思う。(中略)私が『墨東綺譚』を読んだ頃は、荷風の日記のことは知らなかった。しかし時勢に背反し孤立しても常に自己の道を歩きつづけようとする一徹な個人主義の耽美の精神は、その作品からでも充分に感得することができた。(中略)それは、個人主義的な強い自我の主張というよりは、享楽に徹底した人間の、のっぴきならない、生き方として、そこに在ったのである。/荷風はそのような生き方を、永年にわたって、意識的につくり上げてきた。おそらく、それは「家庭の幸福」から疎外された文学者にしてはじめて可能な、といえるような性質のものであった。(中略)荷風が戦争期のナショナリズムと無縁でありえたのは、あるいはこのような家族に対する厳しい態度と軌を一にしているのではないか、と私は思う。日本人のナショナリズムは、一心同体的な家族意識とつながっていたから、それを断ち切れる人間でないかぎり、戦争期のナショナリズムと全く無縁の位置に立つことは容易ではなかったはずである(鮎川信夫「戦中〈荷風日記〉私観」)

 わたくしは、昨晩、マエストロ荷風の大正十五年の日記をすこし覗いてみた。大正十五年とは、わたくしの父の生れた年であり、あなたは数え年四十又八歳である。そこにはこうあった。とても美しい文章である。それは小林秀雄が1951年に《私は永井氏を現代随一の文章家と思っている》としたとおりである。

正月元日。かつて大久保なる断腸亭に病みし年の秋、ふと思ひつきて、一時打棄てたりし日記に再び筆とりつづけしが、今年にて早くも十載とはなりぬ。そもそも予の始めて日記をつけ出せしは、明治二十九年の秋にして、あたかも小説をつくりならひし頃なりき。それより以後西洋遊学中も筆を擱かず。帰国の跡半歳ばかりは仏蘭西語のなつかしきがまま、文法の誤りも顧ず、蟹行の文にてこまごまと誌したりしが、翌年の春頃より怠りがちになりて、遂に中絶したり。今これを合算すれば二十余年間の日乗なりしを、大正七年の冬大久保邸売却の際邪魔なればとて、悉く落葉と共に焚きすてたり。今日に至りては聊惜しき心地もせらるるなり。昼餔の跡、雲南阪下より自働車を買ひ雑司ヶ谷墓地に徃きて先考の墓を拝す。墓前の臘梅今年は去年に較べて多く花をつけたり。帰路歩みて池袋の駅に抵る。沿道商廛酒肆櫛比するさま市内の町に異らず。王子電車の線路延長して鬼子母神の祠後に及べりといふ。池袋より電車に乗り、渋谷に出て、家に帰る。日いまだ没せず。この日天気快晴。終日風なく、温暖春日の如し。崖下の静なる横町には遣羽子の音日の暮れ果てし後までも聞えたり。軒の燈火の薄暗かりしわれら幼時の正月にくらべて、世のさまの変りたるは、これにても思知らるるなり。
正月初二。先考の忌辰なれば早朝書斎の塵を掃ひ、壁上に掛けたる小影の前に香を焚き、花に新しき花をさし添へたり。先考脳溢血にて卒倒せられしは大正改元の歳十二月三十日、恰も雪降りしきりし午後四時頃なり。これも今は亡き人の数に入りし叔父大島氏訪ね来られ、款語して立帰られし後、庭に在りし松の盆栽に雪のつもりしを見、その枝の折るゝを慮り、家の内に運入れむとして両の手に力を籠められし途端、卒倒せられしなり。予はこの時家に在らず。数日前より狎妓八重次を伴ひ箱根塔之沢に遊び、二十九日の夜妓家に還り、翌朝帰宅の心なりしに、意外の大雪にて妓のいま一日と引留むるさま、「障子細目に引きあけて」と云ふ、葉唄の言葉その儘なるに、心まどひて帰ることを忘れしこそ、償ひがたき吾一生の過なりけれ。予は日頃箱根の如き流行の湯治場に遊ぶことは、当世の紳士らしく思はれて好むところにあらざりしが、その年にかぎり偶然湯治に赴きしいはれいかにと言へば、予その年の秋正妻を迎へたれば、心の中八重次にはすまぬと思ひゐたるを以て、歳暮学校の休暇を幸、八重次を慰めんとて予は一日先立つて塔之沢に出掛け、電話にて呼寄せたりしなり。予は家の凶変を夢にだも知らず、灯ともし頃に至りて雪いよいよ烈しく降りしきるほどに、三十日の夜は早く妓家の一間に臥しぬ。世には父子親友死別の境には虫の知らせと云ふこともありと聞きしに、平生不孝の身にはこの日虫の知らせだも無かりしこそいよいよ罪深き次第なれ。かくて夜もふけ初めし頃、頻に戸口を敲く者あり。八重次の家は山城河岸中央新聞社の裏に在り、下女一人のみにて抱はなかりしかば、八重次長襦袢にて半纏引掛け下女より先に起出で、どなたと恐る恐る問ふ。森田なりと答る声、平家建の借家なれば、わが枕元まで能く聞えたり。是文士森田草平なり。草平子の細君は八重次と同じく藤間勘翁の門弟なりし故、草平子早くより八重次と相識りしなり。此の夜草平子酔ひて電車に乗りおくれ、電車帰宅すること能はざれば、是非ともとめて貰ひたしと言ひたる由なり。後日に至り当夜の仔細を聞きしに、予の正妻を迎へしころより草平子折々事に托して八重次の家に訪来りしと云ふ。 かくて夜のあくれば其の年の除日なれば、是非にも帰るべしと既にその仕度せし時、籾山庭後君の許より電話かゝり、「昨日夕方より尊大人御急病なりとて、尊邸より頻に貴下の行衛(ゆくえ)を問合せ来るにより、内々にて鳥渡お知らせ申す」との事なり。予はこの電話を聞くと共に、胸轟き出して容易に止まず。心中窃に父上は既に事きれたるに相違なし。予は妓家に流連して親の死目にも遭はざりし不孝者とはなり果てたりと、覚悟を極めて家に帰りね。母上わが姿を見、涙ながらに「父上は昨日いつになく汝の事をいひ出で、壮吉は如何せしぞ。まだ帰らざるやと。度々問ひたまひしぞや」と告げられたり。予は一語をも発すること能はず、黙然として母上の後に随ひ行くに、父上は来青閣十畳の間に仰臥し、昏睡に陥りたまへるなり。 鷲津氏を継ぎたる弟貞二郎は常州水戸の勤先より、此夜大久保の家に来りぬ。末弟威三郎は独逸留学中なりき。こゝに曾て先考の学僕なりし小川新太朗とて、其時は海軍機関少監となりゐたりし人、横須賀軍港より上京し、予が外泊の不始末を聞き、帯剣にて予を刺殺さんとまで奮激したりし由なり。尤この海軍士官酒乱の上甚好色にて、予が家の学僕たりし頃たりし頃下女を孕ませしこと二三名に及べり。葬式の前夜も台所にて大酔し、下女の意に従はざるを憤りて殴打せしことなどあり。今は何処に居住せるにや。先考易簀の後予とは全く音信なし。扨先考は昏睡より寤めざること三昼夜、正月二日の暁もまだ明けやらぬ頃、遂に世を去りたまへり。 来春閣に殯すること二昼夜。五日の朝十時神田美土代町基督青年会館にて邪蘇教の式を以て葬式を執行し、雑司ヶ谷墓地に葬りぬ。先考は耶蘇教徒にてはあらざりしかど、平生仏僧を悪み、常に家人に向つて予が葬式は宣教師に依頼すべし。それも横浜あたりの外国宣教師に依頼するがよし。耶蘇教には年会法事の如き煩累なければ、多忙の世には之に如くものなしなど語られし事ありしかば、その如くになしたるなり。尤母上は久しき以前より耶蘇教に帰依し、予が弟鷲津氏は早くより宣教師となり、神学に造詣あり。先考の墓誌は永阪石翁撰したまへり。葬儀万端は郵舩会社の重役春田源之亟氏斡旋せられき。郵舩会社より葬式料金参千円。遺族に壱万円を贈り来りしも皆春田氏の尽力によれるなり。尾州家よりは金五千円下されしやに記憶すれど確ならず。当時の事思返せば、猶記すべきもの多けれど、徒に紙を費すのみなればやむ。 此日朝より風ありしが晴れて暖なり。午後生田葵山巌谷三一両君来訪。談笑中文士細田氏来りて面談を求められしが、未知の操觚者には成るべく面談を避くるが故病と称して会はず。下虎の門にて三一葵山の二子に別れ、桜川町の女を訪ふ。夜半家に帰る。