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2019年2月2日土曜日

荒地詩人という外傷性戦争神経症者たち

たとえば霧や
あらゆる階段の跫音のなかから、
遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。
——これがすべての始まりである。

ーー鮎川信夫「死んだ男」

⋯⋯⋯⋯

わたくしの手許にある『現代の詩と詩人』(有斐閣選書、1974年)の第一章「現代詩の出発」は、鮎川信夫、北村太郎、黒田三郎、田村隆一、中桐雅夫、三好豊一郎、会田綱雄、秋谷豊の詩が二編ずつ掲げられて、別の詩人による詩への注釈、そして詩人自身による自らの詩への言葉がある。この「現代詩の出発」の詩人たちは、会田綱雄、秋谷豊を除いて、『荒地』グループの詩人だちである。

たとえば最初の鮎川信夫の項は、「「繋船のホテルの朝の歌」について」と「遥かなるブイ」が掲げられ、鮎川信夫の「我が詩を語る」がある。

(「「繋船のホテルの朝の歌」について」を書いたときは)「ひどい消耗期にあたっていた」というのは本当である。戦争から辛うじて生き残ったとはいえ、精神的にも肉体的にも、そのさまざまな後遺症に悩まされていて、生きることに悪戦苦闘しながら生死の境をさまようような毎日であった。戦争から生き残った友人の何人かが、この時期に自殺したり病死したりしたけれど、どんな慰めの言葉もなく、手を束ねて見守るほかはなかった。(鮎川信夫「我が詩を語る」)

二番目の詩人北村太郎の項は、「雨」と「ながい夜」の詩が掲げられて、黒田三郎によって注釈がなされている。

毎晩
おなじことだ
遠いゆめと
近いゆめの記憶が重なり
すこしたって、闇のなかで
ぼくの来し方行く末が
散らばった骨のように白々と見えてくる。

ーー北村太郎「ながい夜」

個人的な感慨をつけ加えると、戦争が終わったとき、北村太郎はいっきょに二十代で老人になってしまったのではないかという印象を否むことができない。死に直面した人間、多くの仲間を失った人間は、もし、一メートル右にいたら、自分も死んだかもしれないという偶然を、決してないがしろにすることはできないだろう。たとえ、それから一年たち、あるいは二十年たっても、それは同じことである。(黒田三郎ーー北村太郎「ながい夜」注釈)


わたくしは荒地詩人たちの作品をほとんど読んできていないので、あまりエラそうなことを言えない身だが、上に引用した鮎川信夫の詩や言葉とともに、黒田三郎のいう《死に直面した人間、多くの仲間を失った人間は、もし、一メートル右にいたら、自分も死んだかもしれないという偶然を、決してないがしろにすることはできないだろう》という言葉は、18才のときに読んで、いまでも強く印象に残ったままである。


黒田三郎は次のようなことを歌ったり言ってきた詩人である。

かつて僕は死の海を行く船上で
ぼんやり空を眺めていたことがある
熱帯の島で狂死した友人の枕辺に
じっと坐っていたことがある

ーー黒田三郎「もはやそれ以上」『ひとりの女に』所収、1954年


それは滴り落ちる
こわれた水道の水のように
せきとめてもせきとめても滴り落ちる
すべてが徒労に帰したあとで
僕はつぶやいてみる
別に何事もないのだ
僕はつぶやいてみる
別に何事もないのだ
僕はつぶやいてみる

ーー黒田三郎「微風のなかで」『渇いた心』、1957年



「過ぎ去ってしまってからでないと
それが何であるかわからない何か
それが何であったかわかったときには
もはや失われてしまった何か」
いや そうではない それだけではない
「それが何であるかわかっていても
みすみす過ぎ去るに任せる外はない何か」

ーー黒田三郎「ただ過ぎ去るために」『渇いた心』、1957年


僕に何ができるというのか
何が
僕がゆっくり歩くのは
ひとつの風景のなか
僕の胸にあざやかによみがえるのも
それはひとつの風景なのか
悲しみと怒りにふるえて僕が語るとき
それはひとつのお話、つまらないお話

ーー黒田三郎「それはひとつのお話」『ある日ある時』、1968年

一篇の詩を書き上げる過程でさえ、それほど作者には明瞭ではない。詩は「つくる」ものであると同時に、「できる」ものである。極端な場合は、うっかり洩らしたひとりごとに似ている場合もある。筋肉に随意筋と不随意筋があるように、われわれの精神の内部には、われわれの自由になる部分とそうでない部分とがある。そして詩はむしろわれわれの自由にならない部分に多く依存しているようである。(黒田三郎「生活の意味・詩の意味」『内部と外部の世界』所収、1977年)
僕自身、自分自身の卑小さに慣れ、自分のみじめさに慣れて、毎日毎日の日常生活を送っている。だが、どんなにそれに慣れて、その中に没し切っていても、突然匕首のように僕を刺すものがある。電車のなかでぼんやりしているとき、パチンコに現をぬかしているとき、それは突然僕の心の中で電光のように閃く。(黒田三郎「生活の意味・詩の意味」1977年)

ーー「せきとめてもせきとめても滴り落ちる」、「僕の胸にあざやかによみがえる風景」、「突然匕首のように僕を刺すもの」等々、これらは戦争体験におけるトラウマ的光景ーー勿論それだけに限定はされないだろうがーーに先ずかかわると憶測しうる。

そして《詩はむしろわれわれの自由にならない部分に多く依存している》とは、フロイト的精神分析においては、心的秩序外部、快原理の彼岸にある領域を示している。

これらのあり方は、黒田三郎だけではない。一般化の危険を敢えて犯せば、「荒地」の詩人たちはおおむね、「外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosen」者たちである、とわたくしは考えている。

フロイトは反復強迫を例として「死の本能(死の欲動)」を提出する。これを彼に考えさえたものに戦争神経症にみられる同一内容の悪夢がある。…これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)

この反復強迫=死の欲動を、晩年のラカンは次のように表現した。

現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
私は、問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。ラカン、S23, 13 Avril 1976)

すなわち、「トラウマは書かれることを止めない」である。一般に誤解されているが、死の欲動とは反復強迫のことであり、トラウマの周りの強迫的な循環運動のことである。





ラカンはこのトラウマを穴 trou(trou-matisme =トラウマ)とも呼び、フロイトは原抑圧(=トラウマへのリビドー固着)による「引力 Anziehung」と呼んだ(参照)。

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

反復強迫の最も基本的なメカニズムは、トラウマ的出来事による過剰度の身体的な欲動興奮が、その過剰度ゆえに「心的なもの」に移行されないことにより、《暗闇の中に im Dunkeln 異者 fremd のようなものとして蔓延るwuchert》(フロイト、1915)ことによる。

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011 )
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)


上に、「荒地」の詩人たちはおおむね、「外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosen」者たちだとしたが、もちろん彼らのなかにも、戦争体験の強度の差はあるだろう。

外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。

しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

かつまた、トラウマ的出来事の刻印が残存しやすいかそうでないかという資質の差もあるに違いない。荒地の詩人たちの大半は戦前から詩人として活動していた人たちである。

私にとって、詩とは言語の徴候的使用であり、散文とは図式的使用である。(中井久夫「私と現代ギリシャ文学」1991年)

中井久夫の定義を受け入れるなら、詩人とは徴候感覚の鋭敏な人たちであり、トラウマの身体の上への刻印(=欲動固着)に翻弄されやすい資質の人たちである。

すこしまえ「幼少の砌の傷への固着」をめぐって記したが、そこでの表現を援用すれば、あれら戦争体験を経た荒地グループ詩人たちは「戦争の砌の傷への固着」の詩人たちであるだろう。こういったことがまったく言われてこなかったのは、トラウマ研究の不備によるところが大きいとわたくしは思う。日本では(実質的に)阪神大震災後の中井久夫による精力的なトラウマ研究以降でしかない。

もちろん「戦争の砌の傷への固着」は荒地詩人だけではない。

姦淫された少女のほそい股が見せる焼かれた屋根(吉岡実「死児」)

ぼくがクワイがすきだといったら
ひとりの少女が笑った
それはぼくが二十才のとき
死なせたシナの少女に似ている

ーー吉岡実「恋する絵」

或る別の部落へ行った。兵隊たちは馬を樹や垣根につなぐと、土造りの暗い家に入って、チャンチュウや卵を求めて飲む。或るものは、木のかげで博打をす る。豚の奇妙な屠殺方法に感心する。わたしは、暗いオンドルのかげに黒衣の少女をみた。老いた父へ粥をつくっている。わたしに対して、礼をとるのでもなけ れば、憎悪の眼を向けるでもなく、ただ粟粥をつくる少女に、この世のものとは思われぬ美を感じた。その帰り豪雨にあい、曠野をわたしたちは馬賊のように疾 走する。ときどき草の中の地に真紅の一むら吾亦紅が咲いていた。満人の少女と吾亦紅の花が、今日でも鮮やかにわたしの眼に見える。〔……〕反抗的でも従順 でもない彼ら満人たちにいつも、わたしたちはある種の恐れを抱いていたのではないだろうか。〔……〕彼らは今、誰に向って「陰惨な刑罰」を加えつつあるのか。

わたしの詩の中に、大変エロティックでかつグロテスクな双貌があるとしたら、人間への愛と不信をつねに感じているからである。(吉岡実『わたしの作詩法?』)

⋯⋯⋯⋯

以下(何度もくり返し引用している文だが)、フロイトによるトラウマへのリビドー固着をめぐる反復強迫の記述をふたつ掲げておく。

外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的事故の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。

これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況 traumatische Situation を反復するwiederholen。また分析の最中にヒステリー形式の発作 hysteriforme Anfälle がおこる。この発作によって、患者は外傷的状況のなかへの完全な移行 Versetzung に導かれる事をわれわれは見出す。

それは、まるでその外傷的状況を終えていず、処理されていない急を要する仕事にいまだに直面しているかのようである。…

この状況が我々に示しているのは、心的過程の経済論的 ökonomischen 観点である。事実、「外傷的」という用語は、経済論的な意味以外の何ものでもない。

我々は「外傷的(トラウマ的 traumatisch)」という語を次の経験に用いる。すなわち「外傷的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、トラウマへの固着、無意識への固着 1916年)
トラウマの影響は二種類ある。ポジ面とネガ面である。

ポジ面は、トラウマを再生させようとする Trauma wieder zur Geltung zu bringen 試み、すなわち忘却された経験の想起、よりよく言えば、トラウマを現実的なものにしようとするreal zu machen、トラウマを反復して新しく経験しようとする Wiederholung davon von neuem zu erleben ことである。さらに忘却された経験が、初期の情動的結びつきAffektbeziehung であるなら、誰かほかの人との類似的関係においてその情動的結びつきを復活させることである。

これらの尽力は「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約される。

これらは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。…

ネガ面の反応は逆の目標に従う。忘却されたトラウマは何も想起されず、何も反復されない。我々はこれを「防衛反応 Abwehrreaktionen」として要約できる。その基本的現れは、「回避 Vermeidungen」と呼ばれるもので、「制止 Hemmungen」と「恐怖症 Phobien」に収斂しうる。これらのネガ反応もまた、「個性刻印 Prägung des Charakters」に強く貢献している。

ネガ反応はポジ反応と同様に「トラウマへの固着 Fixierungen an das Trauma」である。それはただ「反対の傾向との固着Fixierungen mit entgegengesetzter Tendenz」という相違があるだけである。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)

→「ビルマで死んだ友の眼の色



2015年3月4日水曜日

わたくしの敬愛するマエストロ

あなた、のことを、なんと呼べばいいのだろう。あなたのことを、あなた、と呼んでは失礼にあたることは重々承知している。あなたの名前のあとに、先生、とつけて呼べば、世間的にはおさまりがよくなることを知らないわけではない。だがわたくしは、この四十年ほどのあいだ、他人を先生と呼ぶことに無縁の生涯をおくってきた。高等学校を卒業して以来、ひとを先生と呼んだことはない。いや、どこかの藪医者をやむえず先生と呼んだことは数度あったかもしれないが、大学の教師のたぐいさえ、先生と呼んだ記憶はない。

まあでもそんなことはどうでもよろしい。わたくしは今、〈あなたがた〉に背を向けて、〈あなた〉にのみ語りかけたい気分なのだ。この〈あなたがた〉には、〈あなた〉は含まれない。〈あなたがた〉とは、どこかの馬の骨の集合体のことであり、烏合の衆のことである。〈あなた〉とは、わたくしが敬愛する〈あなた〉である。本来、文章とは〈あなた〉にのみ語りかけるものではないか。ある映画批評家が、《徹底した観客無視……私の批評は、見る人のことなどまったく考えず、もっぱら撮る人のことばかり考えて書かれたむなしい「恋文」のようなものだったのかも知れません》と語ったが、映画だけではなく、人はむなしい恋文のように文章を書くべきではないか。

わたくしにとっての〈あなた〉は、あなただけではないかもしれない。すなわち敬愛する〈あなた〉は複数あるのかもしれない。だがまず恋文の対象である〈あなた〉とは誰であるのかに思いを馳せると、あなたの顔が浮んでくる。あなたは、坂口安吾によって「通俗作家」と呼ばれたり、あなたに敬意を表し続けた石川淳にさえ、戦後は葛飾をめぐっての書き物一篇のみ、《さすがに風雅なお亡びず、高興もっともよろこぶべし》、《しかし、それ以後は……何といおう、どうもいけない》としている、そして、《すべて読むに堪えぬもの、聞くに値しないものであった。わずかに日記の文があって、いささか見るべしとしても、年ふれば所詮これまた強弩の末のみ》などと。

一箇の老人が死んだ。通念上の詩人らしくもなく、小説家らしくもなく、一般に芸術的らしいと錯覚されるようなすべての雰囲気を絶ちきったところに、老人はただひとり、身近に書きちらしの反故もとどめず、そういっても貯金通帳をこの世の一大事とにぎりしめて、深夜の古畳の上に血を吐いて死んでいたという。このことはとくに奇とするにたりない。小金をためこんだ陋巷の乞食坊主の野たれじにならば、江戸の随筆なんぞにもその例を見るだろう。(石川淳「敗荷落日」)

貯金通帳には、仄聞するところでは、当時の金額で三億円ほど(現在なら百億円ほどに相当するのではないか)あったそうだが、通いのお手伝いのばあさんはあったとはいえ、部屋は埃だらけ、一説には乞食小屋同然などとも評される。万年床のボロボロのふとん、部屋の真ん中に七輪が置いており、ガスはなし。脱いだズボンや下着、紙くずが乱雑に散らかっていたそうだ。しかも家には裸電球がひとつしかない。夜分に客がたまに訪れると、その裸電球を客間につけかえて応接した。煙草は光を二つに折ってキセルに入れて吸う、食事は一日一食の外食で、おなじものを食べ続けられたと。

……晩年の荷風は、毎日正午になるとハンコで捺したように何とかいう近くの食堂(京成電車沿線の何とかいう駅前にいまもあるらしい)にあらわれて、ハンコで捺したようにカツ丼(確かにカツ丼は独身男の象徴みたいな食物だと思う)を食ったそうだ。世の中には食物の味のわからない(あるいは食物の書けないだったか?)小説家に文豪なしという説(ビフテキと茶漬けでは西洋文学にかないっこなし、というのとはまた別の説らしい)もあるらしいが、その説でゆくと荷風などはどうなるのだろう?(後藤明生『壁の中』)

後藤明生の『壁の中』という作品は原稿用紙で1700枚ほどの膨大な作品だが、そのなかで約250頁ほどがあなたとの架空の対談となっているそうだ。このような先達がいるにもかかわらず、あなたにこのように話しかけるのは不遜というものかもしれない。

 あなたは大正六年九月十六日三十七歳(数え年三十九歳)からほぼ毎日のようにーー大正六、七年に何日から抜けているのみでーー、日記を書きつづられた。それは死の日の昭和三十四年四月二十九日まで続く。《四月廿九日、祭日、陰――と、なぜだか、最後の日まであるのだ。翌三十日の朝、通いの手伝いの女性に発見されたという》(古井由吉『東京物語考』)。もちろん戦争中に空襲に襲われて逃げまどう日々にも欠かさず日記をつけられている。まずはそのことに驚く。とはいえ、わたくしの手元にはあなたの日記のすべてがあるわけではない。岩波文庫の上下二巻の摘録があるだけで、あなたの日記は岩波版全集で約三千ページにのぼるとのこと。もうこれだけであなたに語りかける資格はないのかもしれない。

ここで冒頭の問いをくり返すことにしよう、あなたのことをなんと呼べはいいのだろう、と。やはり荷風先生なのか。だがやはり、それではどうもいけない。いま仮に「マエストロ荷風」という呼び方が思い浮かんだ。あなたは人生の、そして如何に生きるかのマエストロに違いない。それは安吾が《筆を執る彼の態度の根本に「如何に生くべきか」が欠けてをり》とするにもかかわらず、である。そうでなかったら逃げる場所を追うようにして襲われた三度空襲との遭遇の日々にさえ日記を書きつづけることなどどうしてありえよう(参照:「しいんと切ない心地」)。

ここで後藤明生の小説にも引用されている詩人鮎川信夫の文章を掲げておくことにする。

当時の私が、荷風の文学、あるいはその人間にひかれるようになったのは、荷風が「家庭の幸福」から徹底的に疎外された文学者であったことが、おそらく作用しているであろうと思う。(中略)私が『墨東綺譚』を読んだ頃は、荷風の日記のことは知らなかった。しかし時勢に背反し孤立しても常に自己の道を歩きつづけようとする一徹な個人主義の耽美の精神は、その作品からでも充分に感得することができた。(中略)それは、個人主義的な強い自我の主張というよりは、享楽に徹底した人間の、のっぴきならない、生き方として、そこに在ったのである。/荷風はそのような生き方を、永年にわたって、意識的につくり上げてきた。おそらく、それは「家庭の幸福」から疎外された文学者にしてはじめて可能な、といえるような性質のものであった。(中略)荷風が戦争期のナショナリズムと無縁でありえたのは、あるいはこのような家族に対する厳しい態度と軌を一にしているのではないか、と私は思う。日本人のナショナリズムは、一心同体的な家族意識とつながっていたから、それを断ち切れる人間でないかぎり、戦争期のナショナリズムと全く無縁の位置に立つことは容易ではなかったはずである(鮎川信夫「戦中〈荷風日記〉私観」)

 わたくしは、昨晩、マエストロ荷風の大正十五年の日記をすこし覗いてみた。大正十五年とは、わたくしの父の生れた年であり、あなたは数え年四十又八歳である。そこにはこうあった。とても美しい文章である。それは小林秀雄が1951年に《私は永井氏を現代随一の文章家と思っている》としたとおりである。

正月元日。かつて大久保なる断腸亭に病みし年の秋、ふと思ひつきて、一時打棄てたりし日記に再び筆とりつづけしが、今年にて早くも十載とはなりぬ。そもそも予の始めて日記をつけ出せしは、明治二十九年の秋にして、あたかも小説をつくりならひし頃なりき。それより以後西洋遊学中も筆を擱かず。帰国の跡半歳ばかりは仏蘭西語のなつかしきがまま、文法の誤りも顧ず、蟹行の文にてこまごまと誌したりしが、翌年の春頃より怠りがちになりて、遂に中絶したり。今これを合算すれば二十余年間の日乗なりしを、大正七年の冬大久保邸売却の際邪魔なればとて、悉く落葉と共に焚きすてたり。今日に至りては聊惜しき心地もせらるるなり。昼餔の跡、雲南阪下より自働車を買ひ雑司ヶ谷墓地に徃きて先考の墓を拝す。墓前の臘梅今年は去年に較べて多く花をつけたり。帰路歩みて池袋の駅に抵る。沿道商廛酒肆櫛比するさま市内の町に異らず。王子電車の線路延長して鬼子母神の祠後に及べりといふ。池袋より電車に乗り、渋谷に出て、家に帰る。日いまだ没せず。この日天気快晴。終日風なく、温暖春日の如し。崖下の静なる横町には遣羽子の音日の暮れ果てし後までも聞えたり。軒の燈火の薄暗かりしわれら幼時の正月にくらべて、世のさまの変りたるは、これにても思知らるるなり。
正月初二。先考の忌辰なれば早朝書斎の塵を掃ひ、壁上に掛けたる小影の前に香を焚き、花に新しき花をさし添へたり。先考脳溢血にて卒倒せられしは大正改元の歳十二月三十日、恰も雪降りしきりし午後四時頃なり。これも今は亡き人の数に入りし叔父大島氏訪ね来られ、款語して立帰られし後、庭に在りし松の盆栽に雪のつもりしを見、その枝の折るゝを慮り、家の内に運入れむとして両の手に力を籠められし途端、卒倒せられしなり。予はこの時家に在らず。数日前より狎妓八重次を伴ひ箱根塔之沢に遊び、二十九日の夜妓家に還り、翌朝帰宅の心なりしに、意外の大雪にて妓のいま一日と引留むるさま、「障子細目に引きあけて」と云ふ、葉唄の言葉その儘なるに、心まどひて帰ることを忘れしこそ、償ひがたき吾一生の過なりけれ。予は日頃箱根の如き流行の湯治場に遊ぶことは、当世の紳士らしく思はれて好むところにあらざりしが、その年にかぎり偶然湯治に赴きしいはれいかにと言へば、予その年の秋正妻を迎へたれば、心の中八重次にはすまぬと思ひゐたるを以て、歳暮学校の休暇を幸、八重次を慰めんとて予は一日先立つて塔之沢に出掛け、電話にて呼寄せたりしなり。予は家の凶変を夢にだも知らず、灯ともし頃に至りて雪いよいよ烈しく降りしきるほどに、三十日の夜は早く妓家の一間に臥しぬ。世には父子親友死別の境には虫の知らせと云ふこともありと聞きしに、平生不孝の身にはこの日虫の知らせだも無かりしこそいよいよ罪深き次第なれ。かくて夜もふけ初めし頃、頻に戸口を敲く者あり。八重次の家は山城河岸中央新聞社の裏に在り、下女一人のみにて抱はなかりしかば、八重次長襦袢にて半纏引掛け下女より先に起出で、どなたと恐る恐る問ふ。森田なりと答る声、平家建の借家なれば、わが枕元まで能く聞えたり。是文士森田草平なり。草平子の細君は八重次と同じく藤間勘翁の門弟なりし故、草平子早くより八重次と相識りしなり。此の夜草平子酔ひて電車に乗りおくれ、電車帰宅すること能はざれば、是非ともとめて貰ひたしと言ひたる由なり。後日に至り当夜の仔細を聞きしに、予の正妻を迎へしころより草平子折々事に托して八重次の家に訪来りしと云ふ。 かくて夜のあくれば其の年の除日なれば、是非にも帰るべしと既にその仕度せし時、籾山庭後君の許より電話かゝり、「昨日夕方より尊大人御急病なりとて、尊邸より頻に貴下の行衛(ゆくえ)を問合せ来るにより、内々にて鳥渡お知らせ申す」との事なり。予はこの電話を聞くと共に、胸轟き出して容易に止まず。心中窃に父上は既に事きれたるに相違なし。予は妓家に流連して親の死目にも遭はざりし不孝者とはなり果てたりと、覚悟を極めて家に帰りね。母上わが姿を見、涙ながらに「父上は昨日いつになく汝の事をいひ出で、壮吉は如何せしぞ。まだ帰らざるやと。度々問ひたまひしぞや」と告げられたり。予は一語をも発すること能はず、黙然として母上の後に随ひ行くに、父上は来青閣十畳の間に仰臥し、昏睡に陥りたまへるなり。 鷲津氏を継ぎたる弟貞二郎は常州水戸の勤先より、此夜大久保の家に来りぬ。末弟威三郎は独逸留学中なりき。こゝに曾て先考の学僕なりし小川新太朗とて、其時は海軍機関少監となりゐたりし人、横須賀軍港より上京し、予が外泊の不始末を聞き、帯剣にて予を刺殺さんとまで奮激したりし由なり。尤この海軍士官酒乱の上甚好色にて、予が家の学僕たりし頃たりし頃下女を孕ませしこと二三名に及べり。葬式の前夜も台所にて大酔し、下女の意に従はざるを憤りて殴打せしことなどあり。今は何処に居住せるにや。先考易簀の後予とは全く音信なし。扨先考は昏睡より寤めざること三昼夜、正月二日の暁もまだ明けやらぬ頃、遂に世を去りたまへり。 来春閣に殯すること二昼夜。五日の朝十時神田美土代町基督青年会館にて邪蘇教の式を以て葬式を執行し、雑司ヶ谷墓地に葬りぬ。先考は耶蘇教徒にてはあらざりしかど、平生仏僧を悪み、常に家人に向つて予が葬式は宣教師に依頼すべし。それも横浜あたりの外国宣教師に依頼するがよし。耶蘇教には年会法事の如き煩累なければ、多忙の世には之に如くものなしなど語られし事ありしかば、その如くになしたるなり。尤母上は久しき以前より耶蘇教に帰依し、予が弟鷲津氏は早くより宣教師となり、神学に造詣あり。先考の墓誌は永阪石翁撰したまへり。葬儀万端は郵舩会社の重役春田源之亟氏斡旋せられき。郵舩会社より葬式料金参千円。遺族に壱万円を贈り来りしも皆春田氏の尽力によれるなり。尾州家よりは金五千円下されしやに記憶すれど確ならず。当時の事思返せば、猶記すべきもの多けれど、徒に紙を費すのみなればやむ。 此日朝より風ありしが晴れて暖なり。午後生田葵山巌谷三一両君来訪。談笑中文士細田氏来りて面談を求められしが、未知の操觚者には成るべく面談を避くるが故病と称して会はず。下虎の門にて三一葵山の二子に別れ、桜川町の女を訪ふ。夜半家に帰る。