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2015年3月5日木曜日

マエストロ荷風の黒丸●赤丸○

前回、あなたのことをかりにマエストロ荷風とかりに呼んでみたが、ここでもそのとりあえずの呼び名を使ってみることにする。

さて、マエストロ荷風よ、あなたが律儀に毎日のように書き綴られる日記には、昭和四年五月からときおり黒丸を記されることになる。この徴は、研究者たちをなんの意味かと悩ましてきたのはご存知であろうか。たとえば、昭和十年の日記からいくつか拾ってみればかくの如しである。

●正月五日。くもりて西北の風強し。正午起き出でゝ舊稿を刪定す。晡下渡邊春子來る。車にて雷門に至り鳥屋金田にて夕餉をなす。向嶋の連込宿夢香莊といふ家スチームを引きありて暖なりといふ事、兼ねて聞きたれば、車を倩やとうて行く。言問橋をわたり土手を越れば一筋の廣き道あり。三階建の連込宿こゝかしこに電燈を輝したるさま大森海岸の色町に似たり。十一時頃歸る。春子といふ女年二十三四なるべし。十七八の頃活動役者岡田利彦の情婦となり一時同居せし事あり。利彦は××××××のみにて正しき交接をなさず。この習慣つきし爲春子は今だにまともの交接にては快感をおぼえず、××××られる事を望む由當人の述懐なり。昔の人のはなしに狐の美男に化けて女をたぶらかす時は必ず××××××と云ふ。蜀山人が壬申掌記にもこの事あり。左に抄録す。

武藏國神奈川の在鄕に關宿といふ所あり。此村に寡婦あり。あるとき隣家の男途中にて戯言をいひて、あすの夜はよばひわたらんなどいふ。女は誠と思いしが男はたゞ一時のたはぶれごとなりしを、狐きゝて、つぎの夜隣の男となりてしのびて行けり。女まことゝ思ひてあひしに、それより夜ごとにかよひけり。(畧)さても狐にあひしはいかなる様にやと寡婦にとひしに、房中の味美なる事人の及ぶ所にあらず。狐にもあれ今一たびあはまほしといふ。又驗者をしてよりを立てしめ、狐をせめていかなれば人の婦を犯して金をも取りしといふに、狐は人を犯す事なし、唯口をもてねぶる也といへり。金はかのつかふものゝ爲に取りてやりぬといふ。かの男の名は常右衛門といひしよし。師走五日府中にて間宮氏のまのあたり關宿のものに聞きしとて語りしまゝこゝに書きつく。清人の說部の一條を補ふべし十二月六日記

美童岡田は狐の化身なりしにや。さてまたこの春子の時折逢ふことを樂しみとする男には、前田男爵あり、画工×××あり。×××しかたにも色々秘術ありと云ふ。
●四月十二日。陰また晴。夜牛門の遲〻亭?にて飰す。奇談あり。自ら愧ぢてしるさず。 
●七月九日。晴れて風さはやかなり。梅雨も既に明けたるが如し。早朝下痢一回驚いて薬を服す。晡下渡辺来る。この日は鴎外先生の忌日なれど下痢を催したれば墓参もせず終日家に在り。
●八月初三。晴。晡下美代子及び其情人渡辺生と烏森の芳中に会す。奇事百出。記すること能はざるを憾しむ。燈刻驟雨雷鳴あり。八時過雨の霽はるゝを待ちて別れて帰る。

××××などとされる伏字について、そこになにが充当するのかは、おそらくこれは推測なのだろうが、「断腸亭日乗Wiki」なるものに書かれている。たとえば《利彦は××××××のみにて正しき交接をなさず》における伏字には、《玉門を嘗める》が代入されるとのこと。やはりこんなことまで探求されているとは、いまだマエストロファンは巷間にあまたいることを証する。あなたは冥土にて、さぞお喜びになっているのではないか。

徴については、マエストロは当然ご存知であろうとは思うが、サド侯爵、ドナスィヤン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド、すなわちマエストロ・ド・サドもベットの頭に徴をつけておられる。マエストロ荷風よ、失礼な憶測だが、ひょっとしてマエストロ・ド・サドの真似をされたのではなかろうか?

サド公爵は女性と交渉を持つたびにベットの頭に小さな印でマークした。そして彼は幽閉されるまでこれを続けるのであった。自らの性的遂行の追及においてどこまで到達したかを確めようとするこのような必要性を持つとは、少なくとも性行為という人間の最もありふれた経験が教えることからすると、欲望の冒険によほどのめりこんでいなければまずできないことである。しかしながらサドのように人生の恵まれた時期において十進法の世界の中で自分がどこにいるかわからなくなるというのは考えられないことではない。(ラカン『同一化セミネール』向井雅明訳)

あなたが記される黒丸についての、研究者たちの憶測は次ぎのようであるらしいのだが、マエストロ! これでよろしいのでしょうか。

《これは一体何の印なのだろうか。研究者がその日の記述内容を検討してみると、どうみてもセックスをした符号としか考えられなかった。その●は昭和4年5月以降から記されていたのです。》(日本『バガボンド』チャンピオンー永井荷風を歩け 変態オヤジ

その黒丸がついているのは昭和4年(荷風50歳)で41回、5年(51歳)で87回、6年(52歳)89回、7年(53歳)69回、8年(54歳)85回、9年(55歳)66歳、10年(56歳)、11年(57歳)60回、12年(58歳)70回、13年(59歳)59回、14年(60歳)72回、15年(61歳)53回、16年(62歳)47回、17年(63歳)64回、18年(64歳)52回、19年(65歳)28回という具合である。吉野俊彦著『「断腸亭」の経済学』 NHK出版(1999年7月刊)よりのようだが、前坂俊之氏のブログからの孫引きーーいささか記載漏れや誤記があるようだが、そのままとする)




ところで、マエストロは昭和十一年二月、《余去年の六、七月頃より色慾頓挫したる事を感じ出したり》と書かれてもおられる。

昭和十一年 二月廿四日。昨夜霽れわたりし空再び曇りて風また寒し。午後徒らに眠を貪る。燈刻銀座に徃かむとせしが顔洗ふが面倒にて家に留り、夕餉の後物書かむと机に向ひしが何といふ事もなく筆とるに懶く、去年の日誌など読返して徒に夜をふかしたり。老懶とは誠にかくの如き生活をいふなるべし。芸術の制作慾は肉慾と同じきものの如し。肉慾老年に及びて薄弱となるに従ひ芸術の慾もまたさめ行くは当然の事ならむ。余去年の六、七月頃より色慾頓挫したる事を感じ出したり。その頃渡辺美代とよべる二十四、五の女に月〻五十円与へ置きしが、この女世に稀なる淫婦にてその情夫と共にわが家にも来り、また余が指定する待合にも夫婦にて出掛け秘戯を演じて見せしこともたびたびなりき。初めのほど三、四度は物めづらしく淫情を挑発せらるることありしが、それにも飽きていつか逢ふことも打絶えたり。去月二十四日の夜わが家に連れ来りし女とは、身上ばなしの哀れなるにやや興味を牽きしが、これ恐らくはわが生涯にて閨中の快楽を恣にせし最終の女なるべし。色慾消磨し尽せば人の最後は遠からざるなり。依てここに終焉の時の事をしるし置かむとす。

一余死する時葬式無用なり。死体は普通の自働車に載せ直に火葬場に送り骨は拾ふに及ばず。墓石建立また無用なり。{新聞紙に死亡広告など出す事元より無用}

一葬式不執行の理由は御神輿の如き霊柩自働車を好まず、また紙製の造花、殊に鳩などつけたる花輪を嫌ふためなり。

一余が財産は仏蘭西アカデミイゴンクウルに寄附したし。その手続は唯今の処不明なり。余が家は日本の法律にて廃家する事を得ず。故に余死する時家督相続人指定の遺書なければ法律上余が最親の血族者に定まるなり。余は余が最親の血族者が余の志を重じ余が遺産の全部を挙げて仏蘭西のアカデミイに寄附せられむことを冀ふなり。

一余は日本の文学者を嫌ふこと蛇蝎の如し。

一余が死後において余の著作及著書に関することは一切これを親友〔この間約六字切取〕の処置に一任す。

一余が死後において、余の全集及その他の著作が中央公論社の如き馬鹿〻〻しき広告文を出す書店より発行せらるることを恥辱と思ふものなり。

一余は三菱銀行本店に定期預金として金弍万五千円を所有せり。この金を以て著作全集を印刷し同好の士に配布したしと思ふなり。

夜も既に沈々としてふけ渡りたれば遺書の草案もこれにて止む。

かくのごとく、性欲衰え、遺書の草案まで記されているのに、この五十七歳当時の黒丸、昭和11年60回、12年70回などとはいかなる仕儀であるのか。この回数は、わたくしが当年五十七歳であるためもあるが、まったく理解の及び難いところではある。やはり性的にも凡庸でしかあり得ないわたくしは、マエストロに語りかける資格はないのではないかと忸怩たる思いに襲われてしまう。

サドはジュリエットに次ぎのように語らせた、《まるまる二週間にわたって、みだらなことにかかわりを持たずにいてごらんなさい。気をまぎらせ、他の楽しみに専念しないなさい…。》五十七歳のわたくしは二週間に一度ほどでよいのだが、マエストロは年六十回、すなわち一週間に一度強ということになる。わたくしが語りかける対象は、マエストロ荷風ではなく、マエストロ・ド・サドのほうがふさわしいのかもしれぬ。

マエストロは、大正十五年四十八歳の日記に次ぎのように記されておられる。

大正十五年正月廿二日 ……予数年前築地移居の頃には、折々鰥居の寂しさに堪えざることありしが、震災の頃よりは年も漸く老来りし故にや、卻て孤眠の清絶なるを喜ぶやうになりぬ。その頃家に蓄へし小星お栄に暇 やりしも、孤眠の清絶を喜びしが故に外ならず。家に妻妾を蓄る時は、家内に強烈なる化粧品の臭気ただよひわたりて、缾中の花香も更に馥郁たらず。階砌には 糸屑髪の毛など落ち散りて、草廬の清趣全く破却せらる。是忍ぶべからざる所なり。然りと雖も淫慾もまた全く排除すること能はず。是亦人生楽事の一なればな り。独居のさびしさも棄てがたく、蓄妾の楽しみも亦容易に廃すべからず。勉学もおもしろく、放蕩も亦愉快なりとは、さてさて楽しみ多きに過ぎたるわが身な らずや。蜀山人が『擁書慢筆』の叙に、清人石龐天の語を引き、人生に三楽あり、一には読書、二には好色、三には飲酒、是外は落落として都て是無き処。とい ひしもことわりなり。

マエストロに敬意を表するわたくしは、ここに四十八歳の身勝手なエロ爺をみるなどと失礼なことはけっしてしない。むしろ詩人鮎川信夫の言葉を思い起すことになる。

それは、個人主義的な強い自我の主張というよりは、享楽に徹底した人間の、のっぴきならない、生き方として、そこに在ったのである。/荷風はそのような生き方を、永年にわたって、意識的につくり上げてきた。おそらく、それは「家庭の幸福」から疎外された文学者にしてはじめて可能な、といえるような性質のものであった。(鮎川信夫「戦中〈荷風日記〉私観」

たとえば70年代から80年代にかけて発表された日本の名高い小説家たちの作品の構造分析やテマティック分析がなされている蓮實重彦の『小説から遠く離れて』には、マエストロの名はまったく出現することはないが、後藤明生の『壁の中』ーーあなたとの架空の対話が250頁にも及ぶ小説ーーへの言及があることからも窺い知れるように、マエストロの姿が隠し味になっているとの「錯覚」に閉じこもることができる文章によって成り立っている。

そこからひとつ、こうやって引用してみよう。

心理が贅言的な介入しか示さない作中人物たちは、次に、愛への執着の希薄さという特徴を持つ。もちろん、異性との交渉がまったく描かれていないわけではなく、(……)風俗的な恋愛遊戯が登場してさえいるのだが、そこでも、愛は、家庭という秩序を支える市民的な独占欲と自己保存本能の露呈としては語られていない。(……)そうしたときに露呈されるのは、愛ではなく性交の特権化にほかならない。(蓮實重彦『小説から遠くはなれて』p222)

まるで家庭の幸福から疎外されたマエストロのことが語られているかのようではないか。《淫慾もまた全く排除すること能はず。是亦人生楽事の一なればな り》とは、マエストロが人生に立ち向かうための意識的に作り上げた姿勢にほかならない。

わたくしは、マエストロの生き方の核心の出処のひとつ、その転回を次ぎの文章にみてみたい心持でいっぱいだ。

断膓亭日記巻之二大正七戊午年 (荷風歳四十)

八月八日。筆持つに懶し。屋後の土蔵を掃除す。貴重なる家具什器は既に母上大方西大久保なる威三郎方へ運去られし後なれば、残りたるはがらくた道具のみならむと日頃思ひゐたしに、此日土蔵の床の揚板をはがし見るに、床下の殊更に奥深き片隅に炭俵屑籠などに包みたるものあまたあり。開き見れば先考の徃年上海より携へ帰られし陶器文房具の類なり。之に依つて窃に思見れば、母上は先人遺愛の物器を余に与ることを快しとせず、この床下に隠し置かれしものなるべし。果して然らば余は最早やこの旧宅を守るべき必要もなし。再び築地か浅草か、いづこにてもよし、親類縁者の人〻に顔を見られぬ陋巷に引移るにしかず。嗚呼余は幾たびか此の旧宅をわが終焉の地と思定めしかど、遂に長く留まること能はず。悲しむべきことなり。(参照:「通俗作家 荷風」)

もちろん、この文章が書かれる以前にも、とんでもないスケベで自分勝手な野郎だったという評価があることは重々承知している。かつまた、父の死に際における不始末にも思いを馳せねばならぬのであろう、《予は妓家に流連して親の死目にも遭はざりし不孝者とはなり果てたりと、覚悟を極めて家に帰りね。母上わが姿を見、涙ながらに「父上は昨日いつになく汝の事をいひ出で、壮吉は如何せしぞ。まだ帰らざるやと。度々問ひたまひしぞや」と告げられたり。予は一語をも発すること能はず、黙然として母上の後に随ひ行くに、父上は来青閣十畳の間に仰臥し、昏睡に陥りたまへるなり》(大正十五年正月初二)

さらにいえば、大正七年八月の《母上は先人遺愛の物器を余に与ることを快しとせず、この床下に隠し置かれしものなるべし。果して然らば余は最早やこの旧宅を守るべき必要もなし》という文章自体、父から受け継いだ来青閣を売り払う言い訳、あるいは単なる「演技」であるという見方もあるのかもしれぬ。だがいまはマエストロへの愛から、ここにあなたの真摯な悲しみがあるという「偏見」に閉じこもっていたい。

さて、ここで再び徴の話に戻ろう(同じく元毎日新聞社情報調査部副部長のジャーナリスト前坂俊之のブログから)。

昭和20,21年には●は出てこないが、22年には2回記されており、以後は全くない。ところが、22年から新たに赤鉛筆の○が出てくる。これは、一体何の印であろうか。

23年(68歳)45回、23年(69歳)76回、24年(70歳)56回、25年(71歳)61回、26年(72歳)67回、27年(73歳)81回、28年(74歳)68回、29年(75歳)47回、30年(76歳)40回、31年(77歳)33回、32年(78歳)4回つけられており、以後はない。

これをセックスの回数だとみると、70歳代で5,60歳のもろよりも盛んということになるが、荷風もそこまで性豪ではないであろう。実際のセックスそのものではなく、多分、性にまつわるもの、セックスの夢とか、性欲を刺激された女性との交渉、会話、会った事などを憶えておくための印ではないだろうか。そう考えれば納得がいく。(日本風狂人伝(23) 日本『バガボンド』ー永井荷風散人とひそやかに野垂れ死に


昭和20,21年には●は出てこない、というところが、いかにも信憑性が高い。とはいえ、マエストロは昭和22年には仏文学者の小西茂也宅に間借りし、のぞきに励んでおられたとの噂がある。

「復讐がこはいから僕は何も云ひません。その代り荷風が死ねば洗ひざらひぶちまけます よ」と言っていたのに、小西氏は荷風よりも早く逝ってしまった。ゆえに小西氏に代わって と、佐藤春夫氏がバラしている巷説--それもありそうでなさそうな噂話であるが、フム、フ ム、なるほど、と納得させられるところもある。 「……小西夫妻の寝室の障子には毎晩、廊下ざかひの障子に新しい破れ穴ができて荷 風がのぞきに来るらしいといふので、小西の細君がノイローゼ気味になつたのが、小西の荷風に退去を求めた理由であつたと説く者もある」(参照:「大雨沛然たり」)

のぞきというのは赤鉛筆の○には含まれないのだろうか。そこがいささか疑念を与えないでもないが、当時はまた黒丸に執心されていたとも考えられる。





古井由吉が、《当時の日本人としては何と言っても懸け離れた振舞いである》と、あなた、すなわちマエストロ荷風を評している。わたくしも、マエストロを知れば知るほど、その思いが募る今日この頃である。

昭和四十年頃に私は或る同人誌に加わっていたが、その同人の一人で戦中にお年頃を迎えた女性がこんな話をしていた。終戦直後、その女性は千葉県のほうにいたらしいのだが、或る日総武線の電車に乗っていたら市川の駅から、荷風散人が乗りこんできた。例の風体をしていて、まず車内をじわりと物色する。それからやおらその女性の席の前に寄ってくると、吊り皮につかまって、身を乗り出すようにして、しばし脇目もふらずに顔をのぞきこむ。

色白の細面、目鼻立ちも爽やかな、往年の令嬢の美貌は拝察された。それにしても荷風さん陣こそ、いかに文豪いかに老人、いかに敗戦後の空気の中とはいえ、白昼また傍若無人な、機嫌を悪くした行きずりの客に撲られる危険はさて措くとしても、当時の日本人としては何と言っても懸け離れた振舞いである。(古井由吉『東京物語考』)