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2016年7月4日月曜日

女はまだ浅くさえない(ニーチェ)

人は女を深いとみなしているーーなぜか? 女の場合にはけっして浅瀬に乗りあげることはないからである。女はまだ浅くさえないのである。(ニーチェ『偶像の黄昏』 「箴言と矢」27番)

さて、ニーチェは何を言っているのだろうか。

ひょっとして女はギリシャ人のようだと言っているなどということはないか。

・・・おお、このギリシア人たち! ギリシア人たちは、生きるすべをよくわきまえていた。生きるためには、思いきって表面に、皺に、皮膚に、踏みとどまることが必要だった。仮象を崇めること、ものの形や音調や言葉を、仮象のオリュンポス全山を信ずることが、必要だったのだ! このギリシア人たちは表面的であった。深みからして! そして、わたしたちはまさにその地点へと立ち返るのではないか、--わたしたち精神の命知らず者、わたしたち現在の思想の最高かつ最危険の絶頂に攀じのぼってそこから四方を展望した者、そこから下方を見下ろした者は? まさにこの点でわたしたちはーーギリシア人ではないのか? ものの形の、音調の、言葉の崇め人ではないのか? まさにこのゆえにーー芸術家なのではないか。(ニーチェ KSA 3,S.352)

冒頭の文の《女はまだ浅くさえない》とは、女たちの、表面に、皺に、皮膚に踏みとどまる性向・表面的な性向を言っているのではなかろうか。まさに仮象の達人としての女と!
いや、それは買いかぶりすぎであろうか。

だがーー。

《女は、見せかけに関して、とても偉大な自由をもっている![la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant !] 》(ラカン、セミネール18)

どんなにポジティブな決定をしてみても、女性というのはひとつの本質だ、女性は「彼女自身だ」と定義してみても、結局のところ、女性が演技しているもの、女性が「他者にとって」どういう役割をもっているかという問題に引き戻されてしまう。なぜなら、「女性が男性以上の主体となるのは、まさに女性が本来の仮装の特徴を帯びているときだけ、女性の特徴が、すべて人工的に「装われている」ときだけだからである」。(エリザベス・ライト『ラカンとポストフェミニズム』)

ーーもちろん解剖学的女性がすべて女だとは限らない。逆に、解剖学的男性のなかにも女はいることを断っておかなければならない。

ところで冒頭のニーチェの文には、ラカンだけでなく、後期ウィトゲンシュタインがいるのをお気づきであろうか?

ラカンは「性別化の定式」において、性差を構成する非一貫性を詳述化した。そこでは、男性側は普遍的機能とその構成的例外によって定義され、女性側は「非全体」 (pas‐tout) のパラドクスによって定義される(例外はない。そしてまさにその理由で、集合は非全体であり全体化されない)。

思い起こそう、ウィトゲンシュタインにおける「言葉で言い表せないもの」の変遷する地位を。前期から後期ウィトゲンシュタインへの移行は、全体(構成的例外を基盤とした普遍的「全て」の秩序)から、非全体(例外なしの秩序、そしてそれゆえに非普遍的・非全体的)への移行である。

すなわち、『論理哲学論考 Tractatus』の前期ウィトゲンシュタインにおいては、世界は、「諸事実」の自閉的 self‐enclosed、限界・境界づけられた「全体」として把握される。まさにそれ自体として「例外」を想定している。つまり、世界の限界として機能する神秘的な「語りえぬもの」としての「例外」の想定。

逆に、後期ウィトゲンシュタインにおいては、「語りえぬもの」の問題系は消滅する。しかしながら、まさにその理由で、世界はもはや言語の普遍的条件によって統整された「全体」として把握されない。残存しているものはことごとく、部分領域のあいだの水平的連携である。普遍的特徴の集合によって定義されたシステムとしての言語概念は、分散した実践の多様性としての言語概念に置き換えられる。つまり、「家族的類似性」によってゆるやかに相互につながった多様性としての言語概念に。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

例外の論理/非全体の論理とは、男性の論理/女性の論理のことである。《部分領域のあいだの水平的連携》、ネットワークあるいは差異の論理であるところの女性の論理(家族的類似性・非一貫性の論理)は、深さをしらない。もちろん浅瀬に乗りあげることはなく、浅くさえない・・・

だが、それならなぜ、我々は「女を深い」と考えるのだろう?

「見せかけ」の機能は《無を覆う》ことだとジャック=アラン・ミレールは言っている[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien](J.A. Miller, "Des semblants dans la relation entre les sexes", 1997)。

ここで言われている「見せかけsemblant」とは、ヴェールの機能である。さらに、このヴェールに注意を誘引する機能だ。ミレールは続けて言っている、《「見せかけ」のこの二重の側面のために、ヴェールはファルス化され、とくに身体がファルス化する》、と。

こうして無を覆うことにより、深さの錯覚が生まれうる。

仮面の下には何もなく、それをヴェールで覆うこと自体が、逆に深さや神秘の感覚を生む場合があるーー。

自分はこの時始めて女というものをまだ研究していない事に気がついた。嫂はどこからどう押しても押しようのない女であった。こっちが積極的に進むとまるで暖簾のように抵抗がなかった。仕方なしにこっちが引き込むと、突然変なところへ強い力を見せた。その力の中にはとても寄りつけそうにない恐ろしいものもあった。またはこれなら相手にできるから進もうかと思って、まだ進みかねている中に、ふっと消えてしまうのもあった。自分は彼女と話している間始終彼女から翻弄されつつあるような心持がした。不思議な事に、その翻弄される心持が、自分に取って不愉快であるべきはずだのに、かえって愉快でならなかった。(夏目漱石『行人』)

ところで、〈あなた〉は青大将に身体を絡まれたことがおありであろうか・・・

《自分の下には嫂が横になっていた。自分は暗い中を走る汽車の響のうちに自分の下にいる嫂をどうしても忘れる事ができなかった。彼女の事を考えると愉快であった。同時に不愉快であった。何だか柔かい青大将に身体を絡まれるような心持もした。》

感情に強調が置かれる女に対して、ロゴスを代表するのが男ではない。むしろ、男にとって、全ての現実の首尾一貫・統一した普遍的原則としてのロゴスは、ある神秘的な言葉で言い表されない X (「それについて語るべきでない何かがある」)の構成的例外に依拠している。他方、女の場合、どんな例外もない、「全てを語ることができる」。そしてまさにこの理由で、ロゴスの普遍性は、非一貫的・非統一的・分散的、すなわち「非全体 pas-tout」になる。

あるいは、象徴的な肩書きの想定にかんして、男は彼の肩書きと完全に同一化する傾向にある。それに全てを賭ける(彼の「大義 Cause」のために死ぬ)。しかしながら、彼はたんに肩書き、彼が纏う「社会的仮面」だけではないという神話に依拠している。仮面の下には何かがある、「本当の私」がある、という神話だ。逆に女の場合、どんな揺るぎない・無条件のコミットメントもない。全ては究極的に「仮面」だ。そしてまさにこの理由で、「仮面の下」には何もない。

あるいはさらに、愛にかんして言えば、恋する男は、全てを与える心づもりでいる。愛された人は、絶対的・無条件の「対象」に昇華される。しかし、まさにこの理由で、彼は「彼女」を犠牲にする、公的・職業的「大義」のために。他方、女は、どんな自制や保留もなしに、完全に愛に浸り切る。彼女の存在には、愛に浸透されないどんな局面もない。しかしまさにこの理由で、彼女にとって「愛は非全体」なのだ。それは永遠に、不気味かつ根源的な無関心につき纏われている。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳ーー男は私のなかになにを見ているのかしら?

例外の論理は、まさに例外があるために世界は安定化・退屈化する。だが非全体の論理は、《表面に、皺に、皮膚に踏みとどまる》ことゆえに、まさに不気味さや神秘、深淵の感覚をもたらすのではないか。

私は、「永遠の女性」の本質に通じた最初の心理学者なのかもしれない。女という女はわたしを愛するーーいまさらのことではない。もっとも、かたわになった女たち、子供を産む器官を失った例の「解放された女性群」は別だ。 ――幸いにしてわたしには、八つ裂きにされたいという気はない。完全な女は、愛する者を引き裂くのだ ……わたしは、そういう愛らしい狂乱女〔メナーデ〕たちを知っている ……ああ、なんという危険な、足音をたてない、地中にかくれ住む、小さな猛獣だろう! しかも実にかわいい! ……ひとりの小さな女であっても、復讐の一念に駆られると、運命そのものを突き倒しかねない。 ――女は男よりはるかに邪悪である、またはるかに利口だ。女に善意が認められるなら、それはすでに、女としての退化の現われの一つである ……すべての、いわゆる「美しき魂」の所有者には、生理的欠陥がその根底にあるーーこれ以上は言うまい。話が、医学的(半ば露骨)になってしまうから。(ニーチェ『この人を見よ』)

ーーなぜかここでの文脈とはあまり関係がない、ニーチェのフモールあふれる文を挿入してしまったが、この文でなにが言いたいわけでもない。ただし、《女に善意が認められるなら、それはすでに、女としての退化の現われの一つである》くらいは注目しておいてもよい。

とすれば冒頭の『偶像の黄昏』27番の次にはこうあることのを自ずと思い起こすことになる、、《女が男の徳をもっているなら、逃げだすよい。また、男の徳をもっていないなら、女自身が逃げだす》(「箴言と矢」28番)。

ああ、なんという至高の心理学者!


さて、話をもとに戻せば、詩人や芸術家諸君も、深さを生み出すために、《思いきって表面に、皺に、皮膚に、踏みとどまることが必要》ではないだろうか?

(もっとも女は芸術家になる必要など毛頭ない。存在自体が芸術家なのだから。)

というわけでーーなにが「とういうわけ」かは知らぬがーー、芸術家志望の男性諸君!どうだろう、全き表面に生き、あとは、それを効果的に「揺らめかす」技法を身に着けることに専念したら?

身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちららと見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体 ce scintillement même qui séduit である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出 la mise en scène d'une apparition-disparition である。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

ーー「ちらちら見えること」と訳されている scintillement も結局、バルトのマナ語の「揺らめかす」の変奏である(参照:揺らめかすvaciller というロラン・バルトの鍵言葉)。

「出現ー消滅の演出」とは、まさにミニスカ芸術家の演出方法でもあるだろう。




一方の手で着物をまくり上げようとし、他方の手で着物を押さえようとするヒステリー患者の発作…(「矛盾する同時性」)。患者は分析中に一方の性的意味から逆の意味の領域へと「隣りの線路の上へそらせるように」たえずそらせようとする。(フロイト『ヒステリー性空想、ならびに両性性に対するその関係』ーーミニスカ症候群と集団ヒステリー)

蛇足ながら、ラカンは1950年代、人間の昇華形式の三様式として、芸術・宗教・科学(ヒステリー・強迫神経症・パラノイア)としている[l'hystérie, de la névrose obsessionnelle et de la paranoïa, de ces trois termes de sublimation : l'art, la religion et la science(S.7)](後年、哲学もパラノイアの仲間入りをさせている)。

これが普遍的に正しいか否かは別にして、ミニスカ芸術家は、どうやらヒステリー的であるのは間違いなさそうである・・・

上の画像の芸術家は、わたくしの好みからすると、やや見えすぎるきらいがあり、わたくしを「油断」させることがいささか少ないのが玉に瑕である。

エリオットは、詩の意味とは、読者の注意をそちらのほうにひきつけ、油断させて、その間に本質的な何ものかが読者の心に滑り込むようにする、そういう働きのものだとしている(参照:生垣の「結び目をほどく」詩人)。