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2016年7月2日土曜日

欲動と享楽の相違

欲動と享楽は、ほとんど同じ意味で使われる場合が多い。

ラカンの最初の教えは、存在欠如 manque-à-êtreと存在欲望 désir d'êtreを基礎としている。それは解釈システム、言わば承認 reconnaissance の解釈を指示した。(…)しかし、欲望ではなくむしろ欲望の原因を引き受ける別の方法がある。それは、防衛としての欲望、存在する existe ものに対しての防衛としての存在欠如を扱う解釈である。では、存在欠如であるところの欲望に対して、何が存在 existeするのか。それはフロイトが欲動 pulsion と呼んだもの、ラカンが享楽 jouissance と名付けたものである。(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller)

ラカンの娘婿ジャック=アラン・ミレールがこう言っているのだから、同じものである・・・

ところで、ラカンは≪全ての欲動は、潜在的に(実質的に)死の欲動である[…toute pulsion est virtuellement pulsion de mort.]》(Lacan Ecrit 848)としている。

では、すべての欲動は、死へ向かう欲動であろうか。

ジジェクは、死の欲動とは、死なない欲動だと言っている。

……盲目的で破壊できないリビドーの執着を、フロイトの「死の欲動」と呼んだ。ここで忘れてはならないのは「死の欲動」は、逆説的に、その正反対のものを指すフロイト的な呼称だということである。精神分析における死の欲動とは、不滅性、生の不気味な過剰、生と死、生成と腐敗という(生物的な)循環を超えて生き続ける「死なない」衝動である。フロイトにとって、死の欲動とはいわゆる「反復強迫」とは同じものである。反復強迫とは、過去の辛い経験を繰り返したいという不気味な衝動であり、この衝動は、その衝動を抱いている生体の自然な限界を超えて、その生体が死んだ後まで生き続けるようにみえる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳)

「死なない」衝動は、原文では“un dead” urge となっているが、訳語には問題ない。不死の欲動(不死の駆り立て)、すなわち死なない欲動である。

実際、ラカンもセミネール11にて、こう言っている、《リビドーlibidoは…不死の生 vie immortelle…破壊されないindestructible》もの、と。

とはいえ、いまさら遅すぎる。巷間では(標準的には)、死の欲動とは、死に向かう欲動であると信じ込まれている。これは死の欲動という語からくるイメージでそうならざるをえない。フロイトの命名法が悪かった。

後年にはシマッタと思ったのか、次のように書いている。

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛と neikos 闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的欲動、エロスと破壊 beiden Urtriebe Eros und Destruktionと同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)

最初にタナトス概念が表れた『快原理の彼岸』(1920)の時点から、エロス=融合欲動、タナトス=分離欲動とでもしておけば誤解はなかったろうに。

(逆に、エロスとは分離不安、タナトスとは融合不安が起源にある。これが我々の原不安であり、去勢不安、ペニス羨望とは、フロイトのーー残念ながらーー寝言の一種であった・・・[参照]《去勢不安は二次的なものであり、別の、原不安の、防衛的な加工》)。

一般に受け取られるイメージとは異なり、フロイトの言いたい内実はこうだ。

・エロスとは他者との融合に向かう。すると個人の生は死ぬ。
・タナトスとは融合を破壊し、個人の生の回復を求める。

これはつい最近、そういった欲動の典型に遭遇しえたのではないだろうか。

《ヨーロッパ共同体が統合に向えば向かうほど、分離や独立のナショナリズムの衝動が芽生える。》(ポール・ヴェルハーゲ、1998)

フロイトの快原則の彼岸の発見はエロスとタナトスの対立に収斂する。それを理解するには愛と闘争のタームで理解すべきだ。エロスはより大きな統合へのカップリング、合同、合併を追い求める(自我の主要な機能としての合成を考えてみよ)、反対に、タナトスは切断、分解、破壊を追い求める。(Paul Verhaeghe,BEYOND GENDER. From subject to drive、2001)

すなわち、《生の欲動(エロス)は死を目指し、死の欲動(タナトス)は生を目指す》  (ヴェルハーゲ)という「解釈」が生まれる。

life drive aims towards death and the death drive towards life (Paul Verhaeghe、Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender、2004)

ーーとはいえ、ジジェクとヴェルハーゲがこのように捉えているということであり、この解釈を正当だと断言はしないでおこう。


…………

ところで今度は、享楽である。享楽とはエロスなのだろうか、タナトスなのだろうか。

エロス・融合・同一化・ヒステリー・女性性/タナトス・分離・隔離化・強迫神経症・男性性(ヴェルハーゲ、2004)

この図式化を信じるなら、享楽はエロスではないか。母なる大地と融合して死ぬのが至高の享楽ではないか。

ここに描かれている三人の女たちは、生む女、性的対象としての女、破壊者としての女であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係なのだ。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身と、男が母の像を標準として選ぶ愛人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『小箱選びのモティーフ』,1913)
誕生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、すなわち睡眠欲動が生じたと主張することは正当であろう。睡眠は、このような母胎内への回帰である。(フロイト、精神分析概説、1938)

ラカンは、セミネール17にて、《死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance》 としている。

剰余享楽 plus-de-jouir は「享楽の欠片 les lichettes de la jouissance」(S.17)ともある。

とすれば、死という至高の享楽の欠片が、剰余享楽であり、死は至高の享楽ではないだろうか。

かつてラカン自身から分析を受けその後分析家になったS・シュナイダーマンは、ほぼ次のようなことを言っている、「ラカンは精神分析理論の中心軸を、フロイトの「性」から、「死」へとずらしたい願望を密かに抱いていた。が、なんらかの事情があって(シュナイダーマン曰く、トラブルを回避すべく)、「死」ではなく「享楽jouissance」にすり替えるという妥協の道を選んだ」(『ラカンの《死》』)。

セミネール20には、欲動は《享楽の漂流 la dérive de la jouissance》(セミネールⅩⅩ)とある。

不死の反復運動としての死の欲動は、喪われた享楽 jouissance perdue =究極のエロスの周囲を永遠に旋回(漂流 dérive)する欲動、としてよいのではないか。

これも、わたくしは断言するつもりはない。一つの観点であり、こういう捉え方も可能だということだけだ。

まさに享楽の喪失が、その自身の享楽、剰余享楽(plus‐de‐jouir)を生み出す。というのは享楽は、いつも常に喪われたものであると同時に、それから決して免れる得ないものだからだ。フロイトが反復強迫と呼んだものは、この現実界の根源的に曖昧な地位に根ざしている。それ自身を反復するものは、現実界自体である。それは最初から喪われており、何度も何度もしつこく回帰を繰り返す。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

実際には、ラカン派でさえも享楽という語を使うときは、剰余享楽を意味している場合が多い。それがかならずしも間違いでないのは、ここでもまたジジェクの注釈が示している。

享楽自体の地位は、ある意味で、二重化された見せかけsemblanceの地位である。享楽はそれ自体としては存在しない。享楽は象徴的過程、その内在する非一貫性と反作用の過程の残余あるいは生産物として、ただ己れを主張するだけである。言い換えれば、象徴的見せかけsemblancesは、ある揺るぎない実体的な現実界自体に関する見せかけではない。この現実界は(ラカン自身が定式化しているように)、ただ象徴化の袋小路を通してのみ識別できる。(LESS THAN NOTHING)

「究極の」という意味での享楽は、存在しないが機能するもの(ゼロ)に限りなく近い。

《現実界は全きゼロの側に探し求められるべきだ。[Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu]》(Lacan, Seminar XXIII)

とすれば、生きている主体にとってのエロスとは、欲動融合Triebmischungであり、タナトスも混淆している。究極の享楽は不可能である。この意味合いで、《すべての欲動は実質的に死の欲動》(ラカン)という命題を捉えるべきだろう。

ミレールは剰余享楽は昇華だとしている(2013)。なんの昇華なのか。



安永と、生涯を通じてのファントム空間の「発達」を語り合ったことがある。簡単にいえば、自極と対象極とを両端とするファントム空間軸は、次第に分化して、成年に達してもっとも離れ、老年になってまた接近するということになる。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)

《人生は、自己流儀の死への廻り道である。大抵の場合、急いで目標に到達する必要はない。》(ラカン、セミネール17)

ーーというわけで至高の享楽=至高のエロスの昇華なのだろうか、我々の人生は。

もっとも、次の文を参照する手もある。

すべてが見せかけではない。ひとつの現実界がある。社会的絆の現実界は、性関係の不在だ。無意識の現実界は話す身体だ。(ジャック=アラン・ミレール『無意識と話す身体』2014ーー腰抜け・妄想家・詐欺師

すなわち、「性関係はない」と「話す身体Le corps parlant」の昇華だと。

ジジェクによる「性関係はない」解釈は次の通り。

ラカンの命題が孕んでいるもの…その命題によれば、「原初的に抑圧されている」ものは、二項シニフィアン binary signifier (Vorstellungs-Repräsentanz 表象-代表のシニフィアン)である。すなわち象徴秩序が締め出しているものは、(二つの)主人のシニフィアン Master-signifiers、S1ーS2 のカップルの十全な調和的現前 full harmonious presence である。S1 – S2 、すなわち陰陽(明暗、天地等々)、あるいはどんなほかのものでもいい、二つの釣り合いのとれた「根本原理」だ。「性関係はない」という事態が意味するのは、まさに第二のシニフィアン(女のシニフィアン)が「原初的に抑圧されている」ということであり、この抑圧の場に我々が得るもの、その裂け目を満たすもの、それは「抑圧されたものの回帰」としての多数的なもの multitude、「ふつうの」シニフィアンの連続 series である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012 、私訳)

さて、いずれにせよ、冒頭のジャック=アラン・ミレールの文、《フロイトが欲動 pulsion と呼んだもの、ラカンが享楽 jouissance と名付けたもの》とは、厳密に言えば、「フロイトが死の欲動と呼んだもの、ラカンが剰余享楽と名付けたもの」となるはずだ。

…………

途中、愛すべきフロイトも「寝言の一種」をおっしゃったと記したが、もちろん、ここに書かれた記述も、寝言の一種である可能性を疑わなければならない・・・