表題を「腰抜け・妄想家・詐欺師」としたが、実際は、Débilité – délire – duperieであり、脆弱 – 妄想 – 詐欺とでも訳すべきか。
これが、21世紀の分析臨床上の、《想像界・象徴界・現実界の結び目の谺、鋼鉄製の三幅対》[Débilité – délire – duperie, telle est la trilogie de fer qui répercute le nœud de l'imaginaire, du symbolique et du réel].とするジャック=アラン・ミレールの2014年の論、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER(無意識と話す身体)がある。
かつて、ジジェクが、想像界・象徴界・現実界の三幅対を、政治経済的な側面から、イデオロギー・ヘゲモニー・エコノミーとしたが、これは柄谷行人の「ネーション、ステート、資本制」に対応するものだ(参照)。かつまた柄谷行人は、《仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)》ともしている。
他方、ミレールの新しい三幅対の提案は、21世紀の臨床の正統的な三幅対「脆弱 – 妄想 – 詐欺」としたい意向のようにさえ見える。
…ラカンは現実界をさらにいっそう身体と関連づけていく。もっとも、この身体は、前期ラカンのように〈他者〉を通して構築された身体ではない。彼は結論づける、「現実界は…話す身体 corps parlant の謎 、無意識の謎だ」(S.20)と。
この知は、無意識によって、我々に明らかになった謎である。反対に、分析的言説が我々に教示するのは、知は分節化された何かであることだ。この分節化の手段によって、知は、性化された知に変形され、性関係の欠如の想像的代替物として機能する。
しかし、無意識はとりわけ一つの知を証明する。「話す存在 l'être parlant の知」から逃れる知である。我々が掴みえないこの知は、経験の審級に属する。それはララング Lalangue に影響されている。ララング、すなわち、母の舌語 la langue dite maternelle、それが謎の情動として顕現する。「話す存在」が分節化された知のなかで分節しうるものの彼方にある謎めいた情動として。(ララングの享楽 la jouissance de lalangue、それは身体の享楽である)。(ヴェルハーゲ、2001(Mind your Body & Lacan´s Answer to a Classical Deadlock. In: P. Verhaeghe、原文))
かつまた、下のミレールの論には「言存在」 parlêtre という語が頻出する。これはラカンがフロイトの「無意識」を言い換えた用語だ。ーー言い換えられたセミネール23(サントーム)での文脈上では、フロイトの「無意識」では現在(その当時)物足りないという含意がある。
le sujet qui se supporte du parlêtre… au sens que c'est là ce que je désigne comme étant l'Inconscient (S.23)
◆さて、ジャック=アラン・ミレールの2014年の『無意識と話す身体』からの粗訳を掲げる。
(わたくしは非専門家であり、こういった新しい分析治療の核心にかかわるとされる提案箇所を訳して掲げるのは、おこがましい心持がしないではない。ここでは、ただ、ミレールが脆弱 – 妄想 – 詐欺の三幅対をどのような意味合いで提議しているのかを知るための訳文である。英訳もあるので、必ず仏文か英訳を参照のこと。パラグラフはわたくしが適当に区分けしている。)
フロイトは言った、欲動理論は神話学だと。しかしながら、神話でないものは、享楽である。夢判断の第7章で、フロイトは心理装置を虚構と呼んでいる。虚構でないものは、話す身体である。
フロイトは心理装置の虚構原理を身体に見出した。それは反射弓として構成されている。興奮を、可能な最低水準に維持するような仕方にて統制される過程として。
ラカンは、反射弓によって構成された心理装置を、《言語のように構成されている無意識》に置き換えた。つまり、刺激-応答ではなく、シニフィアン-シニフィエとして。ただこの言語はーー私は強調し明らかにしたいラカンの表現があるのだがーー、《ララングについての知のとめどない空想[une élucubration de savoir sur lalangue]》(S.20)、話す身体のララングの労作であるのみだ。
これに従えば、無意識自体が、話す身体についての・言存在 parlêtre についてのとめどない空想である。何だろう、とめどない空想とは? それは、自らを現実界から切り離し同時にそれを抱きしめる semblants の分節化だ。
21世紀における象徴秩序に接触する主要な変化は、今とても広く行き渡った、見せかけの分節化としての思考である。存在を組織するものとされた伝統的カテゴリーは、バラバラになるように運命づけられたたんなる社会構築物の序列へと移行した。見せかけが揺らめいているだけではない。伝統的カテゴリー自体が、見せかけとして認知されている。
さらに、奇妙な交点によって、精神分析は、ラカンを通して、概念的な両極性の他の用語を取り戻しつつある。すなわち、すべてが見せかけではない。ひとつの現実界がある。社会的絆の現実界は、性関係の不在だ。無意識の現実界は話す身体だ。
象徴秩序が、現実界を統整しそれに法を課す「知」と思われていた限り、臨床は、神経症と精神病とのあいだの対立によって支配された。象徴秩序は今、現実界を統治せず、むしろ現実界に隷属する「見せかけ」のシステムとして認知されている。象徴秩序は、不在する性関係の現実界に応答するシステムである。
結果として私が呼ぶもの、それは、言存在 parlêtres のあいだでの根本的な臨床の一様性の布告である。言存在は、心自体によって脆弱心性だと糾弾される。まさに想像的であると理由で。身体の想像界、意味の想像界として。
象徴界は、想像的身体の上に意味論的表象を刻印する。そして、話す身体は、その刻印を折り合わせたり・ほどいたりする。この観点において、人の脆弱性は、話す身体を妄想に導くよう宿命づける。
あなたがたは首をかしげることはないか。分析を成し遂げた誰かが、いまだ自らを正常だと想像するなどということに。享楽の経済において、ひとつの主人のシニフィアンは、どんなほかのシニフィアンとも同じ価値をもっている。
脆弱から妄想への結果は、よいものだ。言存在にとって、「彼方」を開く唯一の道は、自らを現実界の詐欺師にすることだ。すなわち、「言説」ーーそのなかで、見せかけが現実界を抱きしめる言説を組み立てること。
逆に、脆弱は、可能性の詐欺だ。現実界の詐欺師になることーーこれが、私が褒めたたえていることだーー、それは、唯一の光明である。話す存在に開かれた光明。それによって、彼は自らを方向づけうる。
Débilité – délire – duperie(脆弱 – 妄想 – 詐欺)。これは、想像界・象徴界・現実界の結び目の谺、鋼鉄製の三幅対である。
(…)言存在の時代において、…言存在を分析することは、妄想・脆弱・詐欺のあいだでその人なりのやり方をすることを要求する。それは、脆弱が現実界の詐欺に道を譲るような仕方で、妄想を導くことにかかわる。
フロイトはいまだ彼が抑圧と呼ぶものと格闘していた。我々は「パス」(教育分析)において観察しうる。このカテゴリーは今ではめったに使用されないことを。確かに、浮かび上がってくる記憶はある。だが、どんな抑圧の信憑性に依拠するものは何もない。それは最終的なものではない。「抑圧されたものの回帰」は常に、言存在の流れーーそこでは、真理は絶え間ない虚偽だーーのなかに引きずり込まれる。
抑圧の場において、言存在の分析は虚偽の真理を設置する。それは、フロイトが「原抑圧」と呼ぶものから生じたものだ。この意味は、真理とは、本質的に嘘と同じ本質をもっているということだ。まがいの核はまた究極の欺瞞である。嘘を吐かないものは享楽だ、話す身体の享楽である。
解釈とは、フロイトがそう考えたようには、抑圧の孤立化された要素と関係がある「構築物」の断片ではない。解釈は、知のとめどもない空想ではない。また、真理の効果ーーすぐさま嘘の継起に吸収されてしまう真理の効果でもない。
解釈は、話す身体を標的にする「言う行為(un dire)」である。そうすることによって出来事を生み出すことだ。ラカン曰く、《直感反応を呼び起こす(passer dans les tripes)》 (S.21)ことだ。これは、先取りしえない何かだ。しかし、事後的に確かめられる何かである。というのは、享楽の効果は測り知れないから。
分析ができることすべてとは、話す身体の鼓動に融和する s'accorder à la pulsation du corps parlant ことだ。それ自身を症状のなかに染み込ませるために。人が無意識を分析するとき、解釈の意味合いは真理である。人は話す身体を分析するとき、解釈の意味合いは享楽である。
この真理から享楽への置き換えが、言存在の時代において、分析実践となりつつあるものの手がかりである。
これが、「無意識と話す身体」という旗印にて、次の会議で会おうと私が提案する理由だ。ここで、ラカンが言ったように、我々は謎をもつ。我々はこの謎のなかに、何らかの形で侵入するよう努めようではないか。
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なお、ミレールは2005年のセミネール(Orientation lacanienne III, 8. Jacques-Alain Miller Première séance du Cours)にて、既に次のような二項対立図を提示している。
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※附記(http://www.legaufey.fr/Textes/Attention_files/20.rtf)より(78歳のラカンの告白)。
La métaphore du nœud borroméen à l’état le plus simple est impropre. C’est un abus de métaphore parce qu’en réalité, il n’y a pas de chose qui supporte l’imaginaire, le symbolique et le réel. Qu’il n’y ait pas de rapport sexuel, c’est l’essentiel de ce que j’énonce. Qu’il n’y ait pas de rapport sexuel parce qu’il il y a un imaginaire, un symbolique et un réel, c’est ce que je n’ai pas osé dire. Je l’ai quand même dit. Il est bien évident que j’ai eu tort, mais je m’y suis laissé glisser, tout simplement. C’est embêtant, c’est même plus qu’ennuyeux. C’est d’autant plus ennuyeux que c’est injustifié. C’est ce qui m’apparaît aujourd’hui. C’est du même coup ce que je vous avoue. (Lacan, séminaire XXVI La topologie et le temps 9 janvier 1979)
ボロメオ結びの隠喩は、最もシンプルな状態で、不適切だ。あれは隠喩の乱用だ。というのは、実際は、想像界・象徴界・現実界を支えるものなど何もないから。私が言っていることの本質は、性関係はないということだ。性関係はない。それは、想像界・象徴界・現実界があるせいだ。これは、私が敢えて言おうとしなかったことだ。が、それにもかかわらず、言ったよ。はっきりしている、私が間違っていたことは。しかし、私は自らそこにすべり落ちるに任せていた。困ったもんだ、困ったどころじゃない、とうてい正当化しえない。これが今日、事態がいかに見えるかということだ。きみたちに告白するよ,(9 janvier 1979、粗訳)