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The three ‘true’ reasons for the attack on Iraq (ideological belief in western democracy – Bush’s ‘democracy is god’s gift to humanity’; the assertion of US hegemony in the New World Order: economic interests – oil) should be treated like a ‘parallax’: it is not that one is the ‘truth of the others; the ‘truth’ is, rather, the very shift of perspective between them. They relate to each other like the ISR triad…: the Imaginary of democratic ideology, the Symbolic of political hegemony, the Real of the economy, and, as Lacan would have put it in his late works, they are knotted together. (Zizek Iraq)
ISR triad、すなわちボロメオの環の三幅対は、民主主義的イデオロギーの想像界、政治的ヘゲモニーの象徴界、経済の現実界とある。
イデオロギー、ヘゲモニー、エコノミーの三幅対については、柄谷行人の資本制=ネーション=ステート(capitalist-nation-state)の三幅対がすぐさま思い起される。ジジェクの記述の順に合わせれば、ネーション、ステート、資本制である。
柄谷行人の三幅対にはほかにもヴァリエーションがある(参照:仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)(柄谷行人=ラカン))。
近代国家は、資本制=ネーション=ステート(capitalist-nation-state)と呼ばれるべきである。それらは相互に補完しあい、補強しあうようになっている。たとえば、経済的に自由に振る舞い、そのことが階級的対立に帰結したとすれば、それを国民の相互扶助的な感情によって解消し、国家によって規制し富を再配分する、というような具合である。その場合、資本主義だけを打倒しようとするなら、国家主義的な形態になるし、あるいは、ネーションの感情に足をすくわれる。前者がスターリン主義で、後者がファシズムである。このように、資本のみならず、ネーションや国家をも交換の諸形態として見ることは、いわば「経済的な」視点である。そして、もし経済的下部構造という概念が重要な意義をもつとすれば、この意味においてのみである。
(……) 資本主義のグローバリゼーション(新自由主義)によって、各国の経済が圧迫されると、国家による保護(再配分)を求め、また、ナショナルな文化的同一性や地域経済の保護といったものに向かうことになる。資本への対抗が、同時に国家とネーション(共同体)への対抗でなければならない理由がここにある。資本=ネーション=ステートは三位一体であるがゆえに、強力なのである。そのどれかを否定しようとしても、結局、この環の中に回収されてしまうほかない。資本の運動を制御しようとする、コーポラティズム、福祉国家、社会民主主義といったものは、むしろそのような環の完成態であって、それらを揚棄するものではけっしてない。(柄谷行人『トランスクリティーク』pp.35-36)
柄谷行人の三幅対にはほかにもヴァリエーションがある(参照:仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)(柄谷行人=ラカン))。
フロイトの超越論的心理学の意味を回復しようとしたラカンが想定した構造は、よりカント的である。仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)。むろん、私がいいたいのは、カントをフロイトの側から解釈することではない。その逆である。(柄谷行人『トランスクリティーク』p59)
カントが科学、道徳、芸術の関係を明示したことは確かである。しかし、カントが、第一批判、第二批判において示した「限界」を、第三批判において解決したと考えるのはまちがっている。彼が示したのは、これらの三つが構造的なリングをなしているということである。それは、現象、物自体、超越論的仮象がどれ一つを除いても成立しないような、ラカンのメタファーでいえば、「ボロメオの環」をなすということと対応している。だが、こうした構造を見いだすカントの「批判」は、第三批判で芸術あるいは趣味判断を論じることで完成したのではない。……(同p62)
さて今は細部に拘らずに、もう一度冒頭のジジェクの区分け、イデオロギー、ヘゲモニー、エコノミーの三位一体に戻ってみよう。このように三つの視点の重なり合いに思いを馳せることは、われわれが議論するときに、どの視点から見ているのか、あるいはどの視点が欠けているのかについて再考させてくれるという意味で、たんなる思考の遊戯ではない。
柄谷行人は《ネーションや国家をも交換の諸形態として見ることは、いわば「経済的な」視点である》としているように、経済の視点からみている。ジジェク自身も多くの場合、資本の論理(資本の欲動)からの視点でみている。
そしてそれが必ずしも正しいわけではない。世界の事象をイデオロギーやヘゲモニーの視点からみている論者もいるだろう。たとえば政治学者や社会学者などはこの視点からであり、だが彼らの多くはエコノミーの視点がはなはだしく欠けているように感じないでもないのは、わたくしがジジェクや柄谷行人の著作に比較的馴染んでいるせいだろう。
たとえば安倍政権の政策を例にとってみよう。まずはしばしば口にされ批判される「戦後レジームからの脱却」とは安倍政権を支えると噂される「日本会議」のイデオロギーであるだろう。
日本会議の平成19年10月・設立10周年大会における記事を検索してみると、「戦後レジームからの脱却」という言葉が五箇所でてくる。
今はその内容に触れず、以前に「戦後レジームからの脱却」にかかわって拾った二つの文を掲げよう。
安倍晋三首相は14日の参院予算委員会で「私は戦後レジームから脱却をして、(戦後)70年が経つなかで、今の世界の情勢に合わせて新しいみずみずしい日本を作っていきたい」と述べた。「戦後レジームからの脱却」は第1次政権で掲げたが、最近は控えていたフレーズだ。(久々に登場、「戦後レジームからの脱却」 安倍首相 2014.3.14)
安倍政権は、経済政策のアベノミクスが「富国」を、今回の特定秘密保護法や、国家安全保障会議(日本版NSC)が「強兵」を担い、明治時代の「富国強兵」を目指しているように見えます。この両輪で事実上の憲法改正を狙い、大日本帝国を取り戻そうとしているかのようです。(浜矩子・同志社大院教授)
中井久夫の戦後レジームに関する文章もあるのだが、ここでは長くなるので、ほとんど同時期に書かれた次の文を掲げておく。
「小泉時代が終わって安倍が首相になったね。何がどう変るのかな」
「首相が若くて貴公子然としていて未知数で名門の出で、父親が有名な政治家でありながら志を得ないで早世している点では近衛文麿を思わせるかな。しかし、近衛のように、性格は弱いのにタカ派を気取り、大言壮語して日本を深みに引きずり込むようなことはないと信じたい。総じて新任の首相に対する批判をしばらく控えるのは礼儀である」
「しかし、首相はともかく、今の日本はいやに傲慢になったね。対外的にも対内的にもだ」
「たとえば格差是認か。大企業の前会長や首相までが、それを言っているのは可愛くない。“ごくろうさま”ぐらい言え。派遣社員もだけど、正社員も過密労働と低収入で大変だ。……」(中井久夫「安部政権発足に思う」ーー2006.9.30神戸新聞「清陰星雨」初出『日時計の影』所収)
これらの文は国家というヘゲモニーとネーションというイデオロギーにかかわる内容である。現在、反安倍運動にかかわる人びとの言説もおおむねこれに準じる。下の図であれば、青い輪と赤い輪の重なり合う部分の議論であり、すなわち必ずしも黄色い輪の部分を除外しているわけではない。
この図について言えば、もちろん安倍政策も、エコノミーの領域に「アベノミクス」、イデオロギーの領域に「日本会議」等、ヘゲモニーの領域に隣国などの対抗国家の脅威をいう「戦争法案」などを入れることができる。くりかえせばこれらの領域は重なり合っている。だが肝腎なのはどの視点から見ているかであり、どの視点が欠けているかである。それは状況や論者によってひどく異なり、どの態度がいいかということではない。ただしこうはいっておこう、《道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である》(二宮尊徳)と。
この文は、イデオロギー(想像界)とヘゲモニー(象徴界)をあわせて「道徳」、経済は現実界として捉えたらよい。想像界(現象)は象徴界(形式)によって、つねにーすでに構成されているのだから。
カントは、経験論者が出発する感覚データはすでに感性の形式によって構成されたものであると述べた。(柄谷行人『トランスクリティーク』P312)
彼(カント)が感性の形式や悟性のカテゴリーによって現象が構成されるといったのは、言語によって構成されるというのと同じことである。実際、それらは新カント派のカッシラーによって「象徴形式」といいかえられている。(同P101)
エコノミーとステート(経済と国家)の観点からみる記事として、次ぎの二つを掲げておこう。
1、「日本の軍需産業と戦争法案について――安倍内閣は、国民の多数が反対しているのに、なぜ国会会期を延長してまで戦争法案を執拗に押し通そうとしているのか」
2、「アメリカの2016年度国防予算が日本の安保法制(集団的自衛権)を前提に組まれている」
(この戦争屋の「ろくでなし」のせいで、“十字軍企業”が標的) |
ここでさらに、ほとんどエコノミーのみの視点からみる少しまえ流通していた次のツイートを掲げておく。
安倍晋三は集団的自衛権で、この米国の真似っこをしたいのです。だから中国も韓国も関係ない。保守も愛国も関係ない。領土も防衛も関係ない。たんに経団連傘下の大企業の受注を増やしてあげて、公共事業として戦争をやりたいってだけです。だってそういう企業の献金で生き延びてきたのが自民党だもん(西沢大良氏ツイート)
※詳しくは、「資本の欲動のはてしなさ(endless)と無目的(end-less)」
この立場を穏やかに変奏させればーーエコノミーの下部構造からみつつも三幅対の全体を視野に入れる視点ならーー次のようになる。
フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』をバカにするのが流行ですが、現実には左翼でさえフクヤマ主義者ではないですか。資本主義の継続、国家機構の継続を疑う者はいない。かつては"人間の顔をした社会主義"を求めたのに、今の左翼は"人間の顔をしたグローバル資本主義"で妥協する。それでいいのか?(ジジェク 2008)
資本主義的な現実が矛盾をきたしたときに、それを根底から批判しないまま、ある種の人間主義的モラリズムで彌縫するだけ。上からの計画というのは、つまり構成的理念というのは、もうありえないので、私的所有と自由競争にもとづいた市場に任すほかない。しかし、弱肉強食であまりむちゃくちゃになっても困るから、例えば社会民主主義で「セイフティ・ネット」を整えておかないといかない。(『可能なるコミュニズム』シンポジウム 2000.11.17 浅田彰発言)
ホルクハイマーが1930年代にファシズムと資本主義について言ったこと--資本主義について批判的に語りたくない者はファシズムについても沈黙すべきである--は今日の原理主義にも当てはまる。リベラルデモクラシーについて批判的に語りたくない者は原理主義についても沈黙すべきである。(Slavoj Žižek on the Charlie Hebdo massacre: Are the worst really full of passionate intensity?)
さらに歴史の俯瞰的視線からならば次の通りである。
もともと戦後体制は、1929年恐慌以後の世界資本主義の危機からの脱出方法としてとらえられた、ファシズム、共産主義、ケインズ主義のなかで、ファシズムが没落した結果である。それらの根底に「世界資本主義」の危機があったことを忘れてはならない。それは「自由主義」への信頼、いいかえれば、市場の自動的メカニズムへの信頼をうしなわせめた。国家が全面的に介入することなくしてやって行けないというのが、これらの形態に共通する事態なのだ。(柄谷行人「歴史の終焉について」『終焉をめぐって』所収)
われわれは忘れるべきではない、二十世紀の最初の半分は“代替する近代“alternate modernity””概念に完全にフィットする二つの大きなプロジェクトにより刻印されれていたことを。すなわちファシズムとコミュニズムである。ファシズムの基本的な考え方は、標準的なアングロサクソンの自由主義-資本家への代替を提供する近代の考え方ではなかったであろうか。そしてそれは、“偶発的な contingent ”ユダヤ-個人主義-利益追求の歪みを取り除くことによって資本家の近代の核心を救うものだったのでは? そして1920 年代後半から三十年代にかけての、急速なソ連邦の工業化もまた西洋の資本家ヴァージョンとは異なった近代化の試みではなかっただろうか。(ジジェク『LESS THAN NOTHIN』2012 私訳)
柄谷行人の視点は今見たようにエコノミー(経済)からの視点である。それは2015年安保の盛りでも変わらないはずだ。
【柄谷】最初に言っておきたいことがあります。地震が起こり、原発災害が起こって以来、日本人が忘れてしまっていることがあります。今年の3月まで、一体何が語られていたのか。リーマンショック以後の世界資本主義の危機と、少子化高齢化による日本経済の避けがたい衰退、そして、低成長社会にどう生きるか、というようなことです。別に地震のせいで、日本経済がだめになったのではない。今後、近いうちに、世界経済の危機が必ず訪れる。それなのに、「地震からの復興とビジネスチャンス」とか言っている人たちがいる。また、「自然エネルギーへの移行」と言う人たちがいる。こういう考えの前提には、経済成長を維持し世界資本主義の中での競争を続けるという考えがあるわけです。しかし、そのように言う人たちは、少し前まで彼らが恐れていたはずのことを完全に没却している。もともと、世界経済の破綻が迫っていたのだし、まちがいなく、今後にそれが来ます。(柄谷行人「反原発デモが日本を変える」)
※補遺:「宴のあと」