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2015年7月13日月曜日

仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)(柄谷行人=ラカン)

フロイトの精神分析は経験的な心理学ではない。それは、彼自身がいうように、「メタ心理学」であり、いいかえると、超越論的な心理学である。その観点からみれば、カントが超越論的に見出す感性や悟性の働きが、フロイトのいう心的な構造と同型であり、どちらも「比喩」としてしか語りえない、しかも、在るとしかいいようのない働きであることは明白なのである。

そして、フロイトの超越論的心理学の意味を回復しようとしたラカンが想定した構造は、よりカント的である。仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)。むろん、私がいいたいのは、カントをフロイトの側から解釈することではない。その逆である。(柄谷行人『トランスクリティーク』p59)
カントの『判断力批判』は三つの「批判」の最後に来て、前の二つの批判においてあった問題を解決するもの、すなわち芸術を認識と道徳、自然と自由を媒介するものとして位置づけるものと見なされている。この判断力は、認識において、感性と悟性を媒介する構想力と相同的である。カントの考えでは、芸術は、概念から出発しないが潜在的に概念を実現している。いいかえれば、芸術は、認識あるいは道徳が達成すべきことを直感的(感性的)に実現するものである。こうした芸術の位置づけは、ロマン主義以後の哲学者に、重大なヒントを与えた。彼らは、芸術こそが本来の「知」であり、科学も道徳もそこに派生するのだと考える。芸術において、「綜合」がすでになされている。ヘーゲルは哲学を芸術の上におくが、それはすでに哲学が美学化されているからである。ハイデガーも「存在と時間」から「時間と存在」への転回において、芸術(詩)を根源に位置せしめる。

カントが科学、道徳、芸術の関係を明示したことは確かである。しかし、カントが、第一批判、第二批判において示した「限界」を、第三批判において解決したと考えるのはまちがっている。彼が示したのは、これらの三つが構造的なリングをなしているということである。それは、現象、物自体、超越論的仮象がどれ一つを除いても成立しないような、ラカンのメタファーでいえば、「ボロメオの環」をなすということと対応している。だが、こうした構造を見いだすカントの「批判」は、第三批判で芸術あるいは趣味判断を論じることで完成したのではない。……(同p62)

柄谷行人は上の文で、《仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)》としている。そして下の文では、ラカンのボロメオの環に言及しつつ、《現象、物自体、超越論的仮象》としている。

ここで別の論から、「仮象」、「現象」、「超越論的仮象」の説明を聞こう。

柄谷行人は、長池講義では次のように語っている。 

カントが否定的に見ているのは、仮象(Schein)である。仮象は現象(Erscheinung)と違って、感性的な直観にもとづかない。ただ、考えられただけのものだ。考えられただけのもの(例えば神)が、実際に「存在する」というためには、(感性的)直観を通さなければならない。

通常、仮象は、理性によって取り除くことができる。古来、哲学は、感覚にもとづくドクサと、理性にもとづくエピステーメーを区別してきた。同様に、カン トに先行する啓蒙主義者は、理性にもとづいてさまざまな仮象を批判した。しかし、カントは、彼は、感性だけでなく、理性もまた仮象をもたらすと考えたので ある。それが形而上学である。

感覚によってもたらされる仮象は、理性によって訂正される。しかし、理性によってもたらされる仮象は、理性によっては是正されない。そもそも、それは理性が必要とするものであるから。カントは、理性がどうしてもさけられない仮象を、「超越論的仮象」と呼んだ。自由、神、魂の不死などがそれである。

例:超越論的仮象としての自己。デカルトの「スム:我在り」は、「同一の自己がある」ということを意味する。それに対して、ヒュームは、同一の自己などは仮象である、という。たとえば、前日の自分と今の自分とは違う。自己同一性などない。しかし、同一の自己という幻想がなくなると、実際に、深刻な病気 (統合失調症)になる。自分という仮象は、生きていくために不可欠なのだ。さらに、社会的に、同一の自己がないと、行為に対して責任をとることができない ということになる。ゆえに、同一の自己は仮象であっても、取りのぞけないような仮象、つまり、超越論的仮象である。

カントは、ある種の超越論的仮象は、実践的に有益であり、不可欠だと考えた。その場合、彼はそのような仮象を「理念」と呼んだ。ゆえに、理念とは、そもそも、仮象である。

ここでは《仮象は現象(Erscheinung)と違って》とあるにもかかわらず、《理性がどうしてもさけられない仮象を、「超越論的仮象」》と呼んでいることから判断すれば、冒頭の二つの文の叙述は、次のように想定できるのか(たぶん?--であり、信用しないように)。


(想像的なもの) (象徴的なもの) (リアルなもの)

  仮象         形式       物自体

  現象  ⇔   超越論的仮象    物自体


いや下段の現象と超越論的仮象の位置関係はカントに無知なわたくしには見定めがたい。いずれにせよ、想像界はつねにいつも象徴界(形式)によって構成されている。ここでは想像的なもの+象徴的なもの/リアルなものとしての二項対立としてみるべきかもしれない。

カントは、経験論者が出発する感覚データはすでに感性の形式によって構成されたものであると述べた。(柄谷行人『トランスクリティーク』P312)
彼(カント)が感性の形式や悟性のカテゴリーによって現象が構成されるといったのは、言語によって構成されるというのと同じことである。実際、それらは新カント派のカッシラーによって「象徴形式」といいかえられている。P101

実際、ジジェクなどは、最近は象徴界と現実界しか主に語っていない。

ラカンは、その仕事の展開を通して、ずっと探し求めていた、S(象徴的見せかけsemblance)とJ(享楽の現実界)のあいだの「縫合点」、SとJをひとつにまとめる、あるいは少なくともそのふたつを仲介するリンクを。(ジジェク、2012ーー「波打ち際littorale」と「横棒としての象徴的ファルスΦ」)

もっとも上の柄谷行人の見解については、彼自身はラカンをそれほど読み込んでいないはずなので、おおむねあのように置けるということでだけであり、さらにはラカン自身は現実界と物自体は違うといっている。

……この概念(リアルなもの)はまったくカント的でない。私はこのことをあえて強調したい。もし<現実界>という概念があるとしたら、それは極端に複雑で、それゆえ理解不能である。そこから<すべて>を引き出すようなふうには理解できないのである。(Lacan”Le Triomphe de La Religion)

とはいえ、ラカン自身がカントの物自体概念を柄谷行人なみに摑んでいたかどうかも疑わしい。くり返せば、概ねあのようになるのだろうということであり、柄谷行人の提案自体は多くの示唆を生むということだけはいえる(ジジェクは『トランスクリティーク』を何度も引用して称揚しているが、この箇所については何もいっていない)。

ヘーゲルがおこなったカントについての基本的な修正は、したがって、次のようなものである。理性の三つの領域(理論的・実践的・美的)は、主体の態度の移行、すなわち「カッコに入れること」で出現する。つまり、学の対象は、道徳的判断と美的判断をカッコに入れることで出現する。道徳的領域は、認識的–理論的関心と美的関心をカッコに入れることで出現する。美的領域は、理論的関心と道徳的関心をカッコに入れることで出現する。たとえば、道徳的関心と美的関心をカッコに入れるなら、人間は、自由ではない、因果的関連に全面的に条件づけられたものとしてあらわれる。逆に、理論的関心をカッコに入れるとすれば、人間は、自由で自律的な存在としてあらわれる。したがって、もろもろのアンチノミーは物象化されるべきではない — アンチノミーをなす複数の立場は、主体の能度の移行によって生みだされる。柄谷の画期的成功は、しかしながら、そのようなパララックスな読みかたをマルクスに適用したこと、マルクスその人をカント主義者として読んだことにある。 (ジジェク『パララックス・ヴュー』P.94)

さてここでラカンの現実界にかかわる言葉を二つだけ拾ってみよう。

・« le réel s'affirme dans les impasses de la logique »[現実界は,論理の行き詰まりにおいて確証される](Lacan, 1971-72, p.41).

・« le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation »[現実界は,形式化の行き詰まりによってしか記入され得ないであろう](Lacan, 1972-73, p.85).

ーーなどとラカンの言葉を読めば、物自体に限りなく近いことをいっているようにも見えるのだ。

『純粋理性批判』を出版した後、カントは、同書における記述の順序に関して、現象と物自体という区分について語るのは、弁証論におけるアンチノミーについて書いてからにすべきだったと述べている。

実際、現象と物自体の区別から始めたことは、彼のいわんとすることを、現象と本質、表層と深層というような、伝統的な思考の枠組みに引き戻す結果を招いてしまった。カント以後に物自体を否定した者は、そのようなレベルで考えているのである。また、ハイデガーのように物自体を擁護した者はそれを存在論的な「深層」として見いだしている。

しかし、物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。それは自分の顔のようなものだ。それは疑いもなく存在するが、どうしても像(現象)としてしか見ることができないのである。したがって重要なのは、「強い視差」としてのアンチノミーである。それのみが像(現象)でない何かがあることを開示するのだ。

カントがアンチノミーを提示するのは、必ずしもそう明示したところだけではない。たとえば、彼はデカルトのように「同一的自己」と考えることを、「純粋理性の誤謬真理」と呼んでいる。しかし、実際には、デカルトの「同一的自己はある」というテーゼと、ヒュームの「同一的自己はない」というアンチテーゼがアンチノミーをなすのであり、カントはその解決として「超越論的主観X」をもちだしたのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』p81)

ラカンはSéminaire XXII R.S.I. の1975年2月18日の講義において、現実界と象徴界、想像界の新たな定義を加えている。

現実界 [ le réel ] は外-存在(解脱実存) [ ex-sistence]
象徴界[ le symbolique ] は穴 [ trou ]
想像界 [ l'imaginaire ] は定存 [ consistance ] 

ーーおそらく象徴界が穴というのがいっけん奇妙だろう。これについてはいろいろな議論があるが、ここでは次のパズルの図を示しておくだけにしよう。





このように穴が開いているおかげで、象徴界のシニフィアンの連鎖が起こりうる。〈あなた〉が今喋っているのも穴が開いているせいである。

“A = A”は、象徴秩序内においてのみ起こり得る。そこでは、Aの同一化は「唯一の特徴unary feature」によって支えられ構成されているのだ。その「唯一の特徴」は、その核心にある空虚を徴づけている(その空虚の代わりとなっている)。「あなたはジョンだ」は意味するのは次ぎのことである。あなたのアイデンティティの核心は、あなたの名前で示された言葉で言い表わせないje ne sais quoi深淵なのである。だからどのアイデンティティも、つねに挫折させられ、実質がなく、虚構である(ポストモダンの「脱構築主義者」の呪文のように)だけではない。アイデンティティそれ自身が、厳密な意味で stricto sensu、その反対物の徴、それ自身の欠如の徴、自己アイデンティティとして主張される実体は十全のアイデンティティを喪失しているという事実の徴なのである。(ジジェク LESS THAN NOTHING 私訳)
ヘーゲルが『論理の科学』で、悪戯っぽく言ってる、もしAがそれ自体と同じなら、どうして反復する必要があるんだい?と。“A = A” のような同語反復の同一の反復は、実際はそれ自体との非-同一の徴を示している。(Levi R. Bryant、The Democracy of Objects、2011
象徴界と現実界を分ける棒線は、厳密に象徴界の内部のものである。というのは、その棒線が、象徴界が「それ自身になる」のを妨げるのだから。シニフィアンにとっての問題は、現実界に触れ得ないことではなく、「それ自身に到達する」ことが出来ないことだ。シニフィアンに欠けているものは、特別な言語の対象ではなく、「シニフィアン」自身、棒線を引かれない、何物にも邪魔されない〈一者〉である。(ジジェク『為すところを知らざればなり』For They Know not What They Do; Enjoyment as a Political Factor - Slavoj Žižek 1996 私訳)

とはいえ、これもヘーゲル派の考え方であり、信用したくなかったら信用しなかったらよろしい・・・

穏やか系の臨床医の叙述ではこうである。

象徴秩序、主人のシニフィアン、ファルスのシニフィアン、〈一者One〉を同じものとするラカンの考え方は、読者には不明瞭かもしれない。私は次のように理解している。システムとしての象徴秩序は、差異をもとにしている(ソシュール参照)。差異自体を示す最初のシニフィアンは、ファルスのシニフィアンである。それ故、象徴秩序は、ファルスのシニフィアンを基準にしている。一つのシニフィアンとして、空虚であり、(例えば)二つの異なるジェンダーの差異を作ることはない。それが作るのは、単に〈一者〉と非一者である。これが象徴秩序の主要な効果である。それは二項対立の論拠、ある者かそのある者でないか、を適用することによって、一体化の形で作用する。(ポール・ヴェルハーゲPaul Verhaeghe、Lacan's Answer to the Classical Mind/Body Deadlock 2002 私訳)

※附記:以下はハイデガー系の議論である(小笠原晋也氏ツイート)。

…………

20150708

さて,Zizek の最新の大著 Less Than Nothing[無以下]の一節に関して御質問をいただきましたので,読んでみましょう.先ほど提示したように,blog に原文と翻訳を掲載しました:
http://ogswrs.blogspot.jp/2015/07/zizek-acan.html…

「無以下」とは何か? Heidegger と Lacan の表現で言えば,Ek-sistenz, ex-sistence, 解脱実存,すなわち,抹消された存在,抹消されたファロスです: https://pic.twitter.com/weLG0ONwSq



Zizek が ex-sistence という用語を活用しているかどうかは知りません.ともあれ,以前にも指摘したように,Zizek はあまりに多忙すぎて,もはや Lacan をみづからじっくり読まないようです.もっぱら Jacques-Alain Miller に頼っています.

Zizek は S と J という記号を用いていますが,それは Encore p.83 のこの図に準拠してであろうと思われます: https://pic.twitter.com/lrSFKNycgd




Zizek は J を the Real of Jouissance[悦という実在]と規定しています.それは,Jacques-Alain Miller の解釈を踏襲してです.しかし,図を見ればわかるように,J は R, S, I が成す正三角形の中心に置かれています.つまり:

RSI のボロメオ結びの Venn 図様平面投影図において中心に置かれた剰余悦 a と同じ座に J は置かれています.ということは,J は,不可能在としての実在に相当する不可能な悦ではなく,剰余悦を差し徴している,と読めます. https://pic.twitter.com/aUIjbNPzRQ






◆(ここで質問が入る)
分かっていない私が言うのもなんですが、この二つの図を同じレヴェルで扱うことはどうも理解外です。次のようになってしまいます。 http://t.co/dr0kkVJjt9




Lacan において,彼が1950年代前半に point de capiton[留め縫いの縫い目]と呼んだ機能は,彼の晩年に至るまで重要であり続けた,という Zizek の指摘は正しいです.全く同意します.ボロメオ結びはまさにその問いへの答えのひとつだからです.

しかし,Less Than Nothing からの引用の最初の段落における phallus に関する Zizek の所論は,非常に雑です.話が長くなりますから,明日続けましょう.


2015年07月09日

Bonjour, mes amis ! 昨日提示した Encore p.83 の図が Staferla 版でどう描かれているか確認してみました: https://pic.twitter.com/FbgnetRwoX




(◆小笠原氏、質問者の指摘に慌てた様子あり)

2015年07月11日(土)

Encore p.83 の図に関して,Miller 版のものと Staferla 版のものとの相違には,驚かざるを得ません.三角形の中央部の J が単純に Miller の創作だとも思えません.Patrick Valas が当該のセミネールに出ていたかどうか,訊いてみましょう.

ついでにお伝えしておくと,Patrick Valas の site に公表されている Lacan の Séminaire の編纂者は,Staferla という偽名のもとに匿名であり続けることを決意しているそうです.

ちなみに,staferla という語は,Lacan が1968年3月27日の séminaire で用いた言葉遊びです.cette affaire-là をくだけた調子で発音すると,staferla と聞こえます.

affaire は「事」です.ドイツ語では Sache に相当します.cette affaire-là, その事,あの事.どの事か? Heidegger が Zu den Sachen selbst ! と言うときの「事」,つまり,存在そのもの,存在の真理そのものです.

ともあれ,Patrick Valas の site で公表されている版は,version Staferla, Staferla 版と呼んでください.Miller 版と読み比べると,しばしば,より良い読解の手助けとなってくれます.

1975-76年の Séminaire XXIII Le sinthome p.134 の図の「真なる穴」に関して. https://pic.twitter.com/CM6Dvi0c6S





Staferla 版の図も挙げておきましょう: https://pic.twitter.com/0izY1ESvyy




Lacan は徴在を穴と定義しながらも,ほかの図で JȺ と表示されているこの領域について「真なる穴はここにある」と言っています.

JȺ ≡ S(Ⱥ)

JȺ ≡ φ barré

これらふたつの相異なる等価性が Lacan の言っていることから導かれます.

しかし,このような矛盾を以て Lacan の「理論」は無価値だと論ずるのは,Roudinesco 流の不毛な議論です.むしろ,この矛盾に気づくことができたのは,ひとつの積極的な成果です.実在とは不可能在ですから,矛盾の地点にこそ実在はひそんでいます.

…………

彼は真摯で誠実なラカン研究者であるにもかかわらず、二つの図をくっつけてジジェク批判をしようと試みたことについては、その粗忽ぶりを晒している。

※この内容の前段にかかわる小笠原晋也氏の紆余曲折ぶりについては、「メモ:ラカンのセミネールⅩⅩⅡからⅩⅩⅢへの移行(JA→JȺ)」を見よ。小笠原晋也氏が最近「このような矛盾」に気づいたことがわかる(なお、ジジェクはすでに90年代半ばに、この矛盾に(別の角度から)気づいていたと、--具体的な記述はないにしろーーわたくしは見る:参照:象徴界(言語の世界)の住人としての女)。