最近はそのツイートにやや混乱がみられ、質問者からの質問のたびに言を翻すようにさえみえるが、そうはいっても彼がすぐれたラカン解説者であるにはかわりない。ただし、一連のツイートのひとつにみられるように、Séminaire XXIIからXXIIIににおける JA→JȺ の移行をいまだ十分に把握していないことがその混乱の理由のひとつであるようには思われる。
(敢えていえば微笑を誘うほどの二転三転である。ハイデガー化されたラカン主義者への皮肉のひとつでも、括弧つきで書いておけば、 ‘Mange ton Dasein!'――「汝の現存在を食べよ」
これはラカンのハイデガーにたいする繰り返される皮肉な嘲弄らしいがさてどういう意味であるのかは、知るところではない)。
なお小笠原氏の訳語は特殊であり、たとえば悦は享楽であり、剰余悦は剰余享楽である。
…………
2015年06月25日(木)
「悦の禁止」ないし「禁止された悦」と言うとき以外は,Lacan が単純に jouissance と言うとき,それはもっぱら,剰余悦のことです.剰余悦という表現が作り出される前も後も,そうです.その限りで,悦と実在とを相互に等価な概念と見なすことは間違いです.
la jouissance de l'Autre[他の悦]と Lacan が言うときも,1972-73年の Séminaire XX においては,「他 A の身体を悦すること」と Lacan が注釈しているように,それは剰余悦です.
ただし,1975-76年の Séminaire XXIII Le sinthome において Lacan が la jouissance de l’Ⱥutre と言うとき,それは「性関係は無い」と等価の概念となります.
ですから,この図に関して先日 JȺ と S(Ⱥ) とが相互に等価であると言ってしまいましたが,それは誤りです.訂正します.Lacan 自身が le vrai trou est ici と言っていることにつられてしまいました. https://pic.twitter.com/Q6Eg0Qp8Yo
(敢えていえば微笑を誘うほどの二転三転である。ハイデガー化されたラカン主義者への皮肉のひとつでも、括弧つきで書いておけば、 ‘Mange ton Dasein!'――「汝の現存在を食べよ」
これはラカンのハイデガーにたいする繰り返される皮肉な嘲弄らしいがさてどういう意味であるのかは、知るところではない)。
なお小笠原氏の訳語は特殊であり、たとえば悦は享楽であり、剰余悦は剰余享楽である。
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2015年06月25日(木)
「悦の禁止」ないし「禁止された悦」と言うとき以外は,Lacan が単純に jouissance と言うとき,それはもっぱら,剰余悦のことです.剰余悦という表現が作り出される前も後も,そうです.その限りで,悦と実在とを相互に等価な概念と見なすことは間違いです.
la jouissance de l'Autre[他の悦]と Lacan が言うときも,1972-73年の Séminaire XX においては,「他 A の身体を悦すること」と Lacan が注釈しているように,それは剰余悦です.
ただし,1975-76年の Séminaire XXIII Le sinthome において Lacan が la jouissance de l’Ⱥutre と言うとき,それは「性関係は無い」と等価の概念となります.
ですから,この図に関して先日 JȺ と S(Ⱥ) とが相互に等価であると言ってしまいましたが,それは誤りです.訂正します.Lacan 自身が le vrai trou est ici と言っていることにつられてしまいました. https://pic.twitter.com/Q6Eg0Qp8Yo
(2015年06月22日、次のようにツイートしているが、これは間違いだったということ。)
jouissance de l'Ⱥutre[他 Ⱥ の悦]は,穴としての a です.それは,学素 S(Ⱥ) が差し徴していること,すなわち,他 A の場処のなかの欠如の穴です.我々はこう書くこともできます: https://pic.twitter.com/hWRTl9thYn
より正確には,JȺ は,穴ではなく,Heidegger の表現で Ab-grund[無底深淵,無根拠としての根拠であるような深淵]と言うべきです.
厳密には,穴と深淵とは区別されます.深淵は,ex-sistence としての le réel のことです.それに対して,穴は,深淵の裂口として,le symbolique のことです.
ですから,措定されるのはこの等価性です: https://pic.twitter.com/By3HReMlDL
(この等価性の見解は、後に曖昧になる:6月30日のツイート参照。:引用者)
6月30日:果たして「他の悦」は,不可能な悦として φ barré であるのか,あるいは,何らかの穴として a が位置づけられる座のものであるのか?すぐさま決着をつけず,なおも思考し続けて行きましょう.
2015年06月28日(日)
Bonsoir, mes amis ! いただいた幾つかの御質問のうち,今日はふたつを考えてみましょう.ひとつは,jouissance de l’Ⱥutre が深淵であるなら,なぜボロメオ結びの図で JȺ の場所に位置づけられるのか? https://pic.twitter.com/o4sB8hoqNE
三輪ボロメオ結びを平面に投影して,ひとつの Venn 図のように描くことを,Lacan は1974-75年の Séminaire XXII RSI で初めて提示しています.その際には,JȺ ではなく JA と表記されています. https://pic.twitter.com/4a6hiT2TQA
わたしは RSI はまだ十分に読み込んでおらず,つまみ食いしているだけですが,Lacan は RSI では jouissance de l'Autre を,1972-73年の Séminaire XX Encore におけるように「他 A の身体の悦」と規定しているようです.
ということは,1974-75年の RSI では,剰余悦 a のまわりの意味悦とファロス悦と他の悦は三つとも,剰余悦 a の三つの様態である,と言うことができるかもしれません.そして,それは図の対称性の観点からは,より整合的であると言えるでしょう.
ところが,1975-76年の Séminaire XXIII Le sinthome においては Lacan は,JA ではなく JȺ と表記し,こう言っています:「徴在は,穴として特殊化されることによって分別される.しかし,驚くべきことに,真なる穴はここ [ JȺ ] にある.そこにおいて,他の他は無いということが啓かされる」(Séminaire XXIII, p.134).
さて,なぜ Lacan は JA から JȺ へ変えたのか?この問いに答えることは,わたしには今はまだできません.公式版のまだ出版されていない Séminaires XXI と XXII をもっと読みこんでみなくてはなりません.
さて,ふたつめの問い,l'Autre jouissance について.改めて調べてみると,Lacan 自身は l'Autre jouissance という表現は使っていないようです.
l'Autre jouissance という表現は,Jacques-Alain Miller が Encore のこの文 (p.77) に基づいて作ったものだと思われます:
C'est en tant que sa jouissance est radicalement Autre que la femme a davantage rapport à Dieu que tout ce qui a pu se dire dans la spéculation antique en suivant la voie de ce qui ne s'articule manifestement que comme le bien de l'homme.
「女の悦は根元的に他なる悦である限りで,女は,古代の思弁において明らかに人間[男]の善としてしか述べられないことの道に従いつつ言われ得たことすべてよりも,より多く神との関係を有している.」
Lacan の言葉は,日本語に訳してしまうとますます分かりにくくなってしまいます.ともあれ,女の悦,la jouissance féminine は,根元的に他なる悦である.何と異なるのか?勿論,男にとって可能な悦,つまり,ファロス悦とは異なる.
女の悦は,ファロス悦とは根元的に他なる悦である.そして,それがゆえに,女と神との関係は,男と神との関係より,より近しい,または,より密接である.あるいはそもそも,こう問わねばなりません:男は,男として,神との関係を持ち得るのか?
「関係」は原文で rapport です.つまり,「性関係」[ rapport sexuel ] の「関係」です.女は,神との性関係を持ち得る.Encore において Lacan は,アヴィラの聖テレサを始めとする神秘経験に準拠しつつ,そう考えます.
アヴィラの聖テレサと並んで神秘経験者のひとりに数えられる saint Jean de la Croix[十字架の聖ヨハネ,または聖ホアン]について,彼は女の側に位置づけられる,と Lacan は述べています (Encore, p.70).
神との性関係,それはまさに,jouissance de l’Ⱥutre です.男はファロス悦の関数のなかに記入される限りにおいて,そのような根元的に他なる悦に与ることはできません.
…………
2015年06月30日(火)
Bonsoir, mes amis ! 御質問をいただいたおかげで jouissance de l'Autre ないし jouissance de l’Ⱥutre について改めて考えてみると,ボロメオ結び投影図の JA ないし JȺ の領域はまさに神秘的になってきます.
果たして「他の悦」は,不可能な悦として φ barré であるのか,あるいは,何らかの穴として a が位置づけられる座のものであるのか?すぐさま決着をつけず,なおも思考し続けて行きましょう. https://pic.twitter.com/L0TD72wKcq
ともあれ,jouissance という用語に関しては,Lacan のテクストにおいて jouissance は le réel の位のものである,と無条件に断定することは誤りです.そう気づくまでにかなり苦労しました.
以前にも指摘したように,Jacques-Alain Miller の頭には,1966年1月5日の Séminaire で Lacan が提示した命題 : le a est de l'ordre du réel[a は実在の位のものである]が刷り込まれています.
Jacques-Alain Miller は当時21歳でしたから,彼がこの「a は実在の位のものである」という Lacan の命題をひとつの絶対的な断定と受けとめてしまったとしても,いたしかたありません.
ですから,Lacan が1968-69年の Séminaire で新たに a を plus-de-jouir と定義したとき,Jacques-Alain Miller は「悦は実在の位のものである」と思い込んでしまいました.
Les six paradigmes de la jouissance からも読み取れるように,Jacques-Alain Miller は jouissance そのものとの関連における plus-de-jouir の概念について十分に思考していません.
最も根本的な構造は,「性関係は無い」を代補する剰余悦というこの構造です: https://pic.twitter.com/kM7cCJ3L4a
しかし,1972-73年の Séminaire XX Encore においては Lacan は,ファロス悦に対して他なる悦としての jouissance féminine[女の悦,女性悦]に関して思考しています.この女性悦は,剰余悦 a に還元され得ません.
女性悦は,他 A の場処のなかの欠如の徴示素 S(Ⱥ) との関繋として思考されています: https://pic.twitter.com/bSzk1FLsq9
1973年2月13日の Séminaire において Lacan は,この女性悦について非常に微妙なことを言っています : s'il y en avait une autre, il ne faudrait pas que ce soit celle-là.
この命題をどう読むべきか?明日,引き続き考えて行きましょう.
Encore p.102 の dérive de la jouissance という表現に関しては,dérive は「本来的なものから逸れること」です.ですから,それは剰余悦を指していると解釈することができます.
(この黒字強調も後に曖昧化される:7月01日ツイートをみよ)
2015年07月01日(水)
Bonsoir, mes amis ! Encore p.102 の dérive de la jouissance という表現に関して,追加の御質問をいただいていますので,先に考えてみましょう.このフランス語表現においては,de は確かに両義的に解釈され得ます.
ひとつには : jouissance が,plus-de-jouir として,本来的なものから逸れる.もうひとつには : jouissance という本来的なものからの逸脱.いずれにせよ,Freud が Trieb と呼んだものは plus-de-jouir である,と言えます.
(Freud が Trieb と呼んだものは plus-de-jouir である、これは後に否定される)
※参照:2015年07月08日(水)
Bonjour, mes amis ! 6月30日から7月2日にかけて注釈した Séminaire XX p.102 の pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance に関して述べたことに混乱があったので,改めて御説明します.
Freud が性本能と呼んだものの本有は,抹消された存在,抹消されたファロス φ barré です.しかし,そのようなものとしての性本能は,そのものとしては存続し得ず,而して,剰余悦に支えられた構造においてしか思想可能ではありません. https://pic.twitter.com/rZtD7oISfJ
剰余悦 a を支えとする構造における性本能の現象を,Freud は,前オィディプス的ないし前性器的な部分本能の満足の現象として見出しました.Freud は,症状は代理満足である,とも言っています.実現され得ない性本能の満足の代理です.それも剰余悦の概念に包摂されます.
2015年07月01日(水)に戻る
Drei Abhandlungen zur Sexualtheorie[性理論のための三論文]は,Freud の著作のなかでも最も重要なものに属します.最初1905年に書いたものに,Freud は,1910年,1915年,1920年と三回にわたってかなりの量の補足を行っています.
三論文の標題は: Die sexuellen Abirrungen, Die infantile Sexualität[小児における性本能],Die Umgestaltungen der Pubertät[思春期における性本能の変様].
最初の sexuelle Abirrung は要するに性倒錯のことですが,しかし,すぐさまそう訳してしまっては,このことが見えてきません : Abirrung は,本来的なものから逸れること,つまり dérive です.
性関係は無いのですから,あらゆる可能的な jouissance は本来的なものから逸れています.つまり,広い意味で性倒錯的です.plus-de-jouir とは,そのような可能的 jouissance です.
Séminaire XXIII p.121 の「膀胱を提灯と勘違いする」は,「性関係は無い」を剰余悦と勘違いする,というこの代理構造を差し徴している,とも解釈され得ます. https://pic.twitter.com/klJ1qwxmzw
jouissance という語について付け加えるなら,動詞 jouir の命令形を以て,Lacan は超自我の命令を公式化します.すなわち,超自我とは jouis ![悦せよ!]という定言命令です.そして,補足するなら,それは「性関係の本来的な悦を悦せよ !」です.
しかし,性関係は無いのですから,性関係の本来的な悦を悦することは不可能です.それゆえ,jouis ![悦せよ]という超自我の定言命令に対しては,こう応ずることしかできません : j'ouïs[我れは聞けり](Écrits, p.821).
jouis ![悦せよ]に対して,j'ouïs[我れは聞けり].つまり,性関係の本来的な悦ではなく,ひとつの剰余悦 a としての声を聞くことの悦を悦することしかできません.
さて,RSI のボロメオ結びの図における imaginaire と穴との関連について Lacan が Séminaire XXIII でこう言っているのに気づきました:
身体は言語存在の唯一の consistance である (p.66).
身体は,幾つかの裂口の支えである (p.56).
鏡像の悦,身体の悦は,裂口[の座]を占める相異なる客体を定立する (p.56).
とりあえず三つに分けて表記した Lacan の命題は,Jacques-Alain Miller 編纂のテクストからはやや読み取りにくいです.Valas 版のテクストを読み比べていて,やっと気づくことができました.
……
2015年07月02日(木)
Bonsoir, mes amis ! 引き続き jouissance に関して御質問をいただいています.jouissance は Lacan の最も重要な概念のひとつです.徹底的に問い続けねばならないことです.質問者に感謝します.
まず Séminaire XX Encore p.102 の la dérive pour traduire Trieb : la dérive de la jouissance の箇所に戻りましょう.
Freud は1915年の Metapsychologie 諸論文のひとつ Verdrängung[排斥]においてこう言っています : eine Triebbefriedigung ist immer lustvoll[本能満足は,常に Lust に満ちている].
Freud は勿論,性本能のことを論じようとしています.「性本能の満足は Lust に満ちている」と言うとき,Lust は単純に plaisir[快]と訳すことはできません.なぜなら,性本能の満足においては,「快の彼方」がかかわっているからです.
快の彼方としての Lust を翻訳するために,Lacan は jouissance という語を用います.
(……)
la dérive de la jouissance に戻ると,より正確には,Trieb すなわち dérive ではなく,そう呼ばれ得るのは,部分本能としての性本能の満足です.そのような性本能の満足は,広い意味で性倒錯的です.
dérive de la jouissance[悦の逸脱]と同義の表現として,1973年の Télévision に見出される égarement de notre jouissance[我々の悦のさまよい](Autres écrits, p.534) も想起されます.
さらに,1973-74年の Séminaire XXI Les non-dupes errent[だまされぬ者らは,さまよう].だまされないことの反対は,勿論,だまされることです.何にだまされるのか?「無意識にだまされる」のです.「何かが語る」としての無意識.
無意識において何かが語る.語るのみならず,真理を言う.そう信ずることは,だまされることです.なぜなら,何かは真理をすべて言うわけではなく,語り出された言表は,真理そのものではなく,真理の仮象にすぎないからです.
にもかかわらず,無意識の場処に知を仮定しつつ,何かが真理を言っている,と信ずること.そう信ずる者は dupe[だまされた者]です.しかし,だまされない者たちはさまよう.つまり,悦のさまよい,悦の逸脱に陥る.つまり,性倒錯的な剰余悦に捕らわれたままとなっている.
そのようなさまよいから脱出するためには,一旦,だまされることが必要です.無意識にだまされること.無意識の場処に知を仮定すること.つまり,転移において,みづから精神分析を経験すること.それを通ることによって初めて,悦のさまよいから脱することができます:精神分析の終わりにおいて.
※追記(質問者の疑義に応じて)
2015年07月11日(木)ツイート
Lacan は徴在を穴と定義しながらも,ほかの図で JȺ と表示されているこの領域について「真なる穴はここにある」と言っています.
JȺ ≡ S(Ⱥ)
JȺ ≡ φ barré
これらふたつの相異なる等価性が Lacan の言っていることから導かれます.
しかし,このような矛盾を以て Lacan の「理論」は無価値だと論ずるのは,Roudinesco 流の不毛な議論です.むしろ,この矛盾に気づくことができたのは,ひとつの積極的な成果です.実在とは不可能在ですから,矛盾の地点にこそ実在はひそんでいます.
…………
ラカンのJA→JȺ の移行を詳細に説明する解釈者は、わたくしの知るかぎりひどく少ない。以下、いままで何度か部分的に私訳してしめしてきたLorenzo Chiesaの書物から英文のまま抜き出しておく。もちろんこの解釈が正しいなどというつもりは毛頭ない。わたくしが巡りあった唯一の詳細にわたる解釈というだけである。
◆Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa 2007
The third variant refers to what Lacan names Other-jouissance, which he denotes with the algebraic sign JA; in the early 1970s, Other-jouissance is famously associated with feminine jouissance. Other-jouissance should definitely not be confused with the jouissance of the Other. Should we then regard it as extrasymbolic? If, on the one hand, it is true that, in Seminar XX, Other-jouissance seems to indicate the pure jouissance of the Real beyond any symbolic contamination—indeed, it is located “beyond the phallus”270—on the other, it should be evident by now that such a definition of Other-jouissance is highly problematic for any serious attempt to develop a consistent theory out of Lacan's antistructuralist move. The first versions of the so-called Borromean knot—a topological figure which Lacan uses to represent the interdependency of the orders of the Real, the Symbolic, and the Imaginary in the subject (see graph 5.4 below)—show us precisely where the difficulty , if not the contradiction, lies:271 JA (Other—feminine—jouissance) lies outside the ring of the Symbolic, but it is not outside all the rings. In other words, without the ring of the Symbolic it would not be possible to have the Borromean knot and, consequently , not even JA. The important point to grasp here is that feminine jouissance remains indirectly related to the Symbolic: the feminine not-all is ultimately both different from and dependent on the phallic Symbolic, precisely insofar as it stands as the not-all of the Symbolic, its constitutive point of exception. . . . 272 Consequently JA cannot stand for the jouissance of the “real Real”: in other words, there is no Other-jouissance given that there is no Other of the Other.
Lacan seems to become aware of this deadlock in Seminar XXIII, in which in fact J (A barred), a fourth variant of the notion of jouissance, takes the place of JA in the Borromean knot (see graph 5.5).273 In one of the most important lessons of that year, Lacan says: “J (A barred) concerns jouissance, but not Other-jouissance . . . there is no Other-jouissance inasmuch as there is no Other of the Other.”274 The passage from the notion of Other-jouissance JA to that of the jouissance of the barred Other J (A barred) epitomizes the distance that separates Saint Teresa's holy ecstasy , as referred to by Lacan in Seminar XX, from the “naming” of lack carried out by Joyce-le-saint-homme, as analyzed in detail in Seminar XXIII. In this seminar, JA (of Woman; of God) becomes impossible; however, feminine jouissance could be redefined in terms of J (A barred).275 J (A barred) is therefore a (form of ) jouissance of the impossibility of JA. Most importantly , I must emphasize that the jouissance of the barred Other differs from phallic jouissance without being “beyond” the phallus.
The elaboration of the notion of J (A barred) also has a significant repercussion for Lacan's late dictum according to which “Y a d' l'Un” (“There's such a thing as One”).276 In Seminar XX, Lacan seems to identify this One with JA, with the idea of a pure Real conceived of in the guise of pure difference, a fermenting Nature; although in Seminar XXIII he declares that JA is meant to designate the fact that there is a Universe, he nevertheless specifies that it is quite improbable that the Universe is, as such, a Uni-verse, that the Universe is a One (of pure, Other-jouissance).277 That is to say , a pure, mythical Real—the undead—must be presupposed retroactively , but it cannot be counted as (a self-enjoying, divine) One, not even as the supposedly “weaker” One of pure difference.
At this stage, we should ask a crucial question: how does the jouissance of the impossibility of Other-jouissance, the jouissance of the barred Other, distinguish itself from “standard” phallic jouissance? After all, the latter is also, in its own way , a form of barred jouissance, of jouis-sans. . . . Lacan's straightforward answer is: phallic jouissance makes One, whereas J (A barred) makes the individual. If phallic jouissance (of the object a) makes the symbolic One, increasingly pretending to obliterate the lack, on the other hand, J (A barred), which also enjoys the object a, makes the individual who, as it were, develops “his own” Symbolic from that lack. Joyce is “the individual” for Lacan insofar as he succeeds in subjectivizing himself by (partially) individualizing the object a, the lack in the Symbolic;278 the individual is not the ideological One, but stands for another modality of the One, another (nonpsychotic) way of inhabiting the Symbolic, “starting” from its real lack. In this way , the leitmotiv of the ex nihilo finds a new expression which goes beyond the “suicidal” figure of Antigone.
Here, I should particularly emphasize the way in which Lacan closely associates the emergence of J (A barred)—which he also more famously calls the sinthome— with the issue of the naming of the Real and the “marking” of jouissance, with the long-deferred question concerning the way in which the subject should bring about a reinscription in and a resymbolization of the Symbolic after he has temporarily assumed the real lack in the Other.279 For Lacan, Joyce is indeed “Joyce-le-sinthome.”280 If, on the one hand, it is true that Joyce “abolishes the symbol”281 (his “subscription to the [existing, hegemonic] Unconscious”),282 on the other, it is equally the case that the “identification with the sinthome” (as the naming of one's Real) advocated in Lacan's last works as the aim of psychoanalysis could never amount to a permanent subjective destitution, a psychotic nonfunctioning of the Symbolic. In opposition to such a mistaken conclusion, I should stress that:
(1) Joyce is—to adopt a formula proposed by Leader—a “non-triggered” psychotic. He is initially “in between” neurosis and psychosis, and subsequently man-ages to produce a (partially) individualized Symbolic;
(2) neurotics can eventually turn their ideological symptom—the jouissance imposed by hegemonic fundamental fantasies—into a nonpsychotic sinthome when they undergo the traversal of the fundamental fantasy , the moment of separation from the Symbolic and the subsequent process of symbolic reinscription through a new, individualized Master-Signifier. This also means that Joyce, despite not being a psychotic, does not initially need to traverse any fundamental fantasy . Unlike neurotics, he is already separated from the Symbolic; instead, he needs to create his founding Master-Signifier. As Miller puts it: “[Joyce's] authentic Name-of-the-Father is his name as a writer . . . his literary production allows him to relocate himself in the meaning he lacked.”283
270. The Seminar of Jacques Lacan, On Feminine Sexuality, The Limits of Love and Knowledge. Book XX, Encore, 1972–1973 (New York: Norton, 1999), p. 74.
271. Graph 5.4 represents a synthesis of the different versions of the Borromean knot proposed by Lacan in Seminar XXII, “R.S.I.,” 1974‒1975, unpublished (see lessons of January 21, 1975 and January 14, 1975).
272. “The feminine ‘non-All’ does not mean that there is a mysterious part of woman outside the symbolic, but a simple absence of totalization”( S. Zˇizˇek, The Puppet and the Dwarf: The Perverse Core of Christianity [Cambridge, MA: MIT Press, 2003], p. 68).
273. See Le séminaire livre XXIII, p. 55.
274. Seminar XXIII, lesson of December 16, 1975. This passage has been modified beyond recognition in the Seuil version of Seminar XXIII. I rely here on the version provided by the École Lacanienne de Psychanalyse.
275. In this way, it would be easy to think of Joy-cean jouissance as a thorough reelaboration of the jouissance of the mystic which Seminar XX had already paired up with feminine jouissance. It then also becomes clear why Lacan’s recurrent parallelism between Joyce and a saint is far from being gratuitous (“Joyce-the-sinthome is homophonous with sanctity”; J. Lacan, “Joyce le symptôme,” in Le séminaire livre XXIII, p. 162).
276. See, for example, The Seminar. Book XX, p. 5.
277. Le séminaire livre XXIII, p. 64. Lacan also unequivocally states: “I would say that nature presents itself [se spécifie] as not being one. From this then follows the problem of which logical procedure [we should adopt] in order to approach it” (ibid., p. 12).
278. “Joyce identifies himself with the individual” (“Joyce le symptôme,” p. 168).
279. As for the strict relation between the sinthome and a particular form of jouissance, Lacan writes: “Joyce is in relation to joy, that is, jouissance, written in the llanguage that is English; this en-joycing, this jouissance is the only thing one can get from the text. This is the symptom” (ibid., p. 167).
280. Ibid., p. 164.
281. Ibid.
282. Ibid.
283. J.-A. Miller, “Lacan con Joyce: Seminario di Barcellona II,” La Psicoanalisi, no. 23 (1998), p. 40.
※なお、Lorenzo Chiesaの論文に出てくる“Y a d' l'Un”については、「Y a d'l'Un〈一〉が有る」と「il y a du non‐rapport (sexuel)(性の)無-関係は有る」を見よ。