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2015年7月14日火曜日

「意志」というものはない、あるいは遠近法的倒錯(ニーチェ)

私はあのとき「Aを選ばないこともできたはずだ」という信念を抱くからこそ、私はAを自由に選んだと了解しているのです。つまり、自由とは、みずから実現したある過去の意図的行為に対して、「そうしないこともできたはずだ」(他行為可能)という信念とともに生じてくる。(中島義道『後悔と自責の哲学』)

――という文をツイッターで拾ったので、いくらかの備忘メモ。

《「意志の不自由か自由か? 「意志」というものはない。これは「物質」と同じく、悟性が単純化するために構想したものにすぎない。すべての行為は、それが意欲される以前に、可能なものとしてまず機械的に準備されていなければならない。ないしは、「目的」は、たいてい、その遂行の準備がととのえられたときにはじめて思い浮かぶ。》(ニーチェ『権力への意志』)

…………

柄谷)ドゥルーズは超越論的といいますが、これもまさにカント的な用法ですが、これを正確に理解している人はドゥルーズ派みたいな人にはほとんどいない。カントの超越論という観点は、ある意味で無意識論なんです。実際、精神分析は超越論的心理学ですし、ニーチェの系譜学も超越論的です。(……)

ア・プリオリという言葉がありますけど、ア・プリオリというものは、実際には事後的なんです―――無意識がそうであるのと同じように。それがほとんど理解されていない。さっき言った様相のカテゴリーはア・プリオリですが、それはたとえば可能性が先にあってそれが現実化されるというような意味ではまったくない。可能性とは事後的に見いだされるア・プリオリです。最近、可能世界論などといっている連中は、こんな初歩的なこともわかっていない。『批評空間』1996Ⅱー9共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津/蓮實/前田/浅田/柄谷行人)
――私は私の行為する時点において、決して自由ではないのである。それどころかたとえ私が自分の現実的存在の全体は、なんらかの外来の原因(神のような) にまったくかかわりがないと思いなしたところで、従ってまた私の原因性の規定根拠はおろか私の全実在の規定根拠すら、私のそとにあるのではないと考えてみ たところで、そのようなことは自然必然性を転じて自由とするわけにはいかないだろう。私はいかなる時点においても、依然として〔自然〕必然性に支配され、 私の自由にならないものによって、行為を規定されているからである。それにまた私は、すでに予定されている〔自然必然的な〕秩序に従って出来事の無限の系列――  すなわち<a parte priori(その前にあるものから)>つぎつぎに連続する系列をひたすら追っていくだけで、私自身が或る時点にみずから出来事を始めるというわけにいか ないのである。要するに一切の出来事のこういう無際限な系列は、自然における不断の連鎖であり、従ってまた私の原因性は決して自由ではないのである。 (カント『実践理性批判』、波多野精一他訳、岩波文庫)

《定理48 精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意思は存しない。むしろ精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他のの原因によって決定され、このようにして無限に進む。》(スピノザ『エチカ』)

スピノザは、われわれは情念を意志によって操作できない、だが、その「原因」を知ろうとすることはできるし、少なくともその間は情念からは自由であると考える。

彼は「自由意志」を批判する。しかし、それは、自由や意志を否定することではない。実際は諸原因に規定されているのに”自由”だと思い込んでいる状態に対して、超越論的であろうとする意志(=知性)に、スピノザは自由を見出すのである。(柄谷行人『探求Ⅱ』)
スピノザは、身体からくる受動感情(情念)を”意志”によって克服しようとする姿勢を否定する。感情に対しては、われわれはその原因を知ろうと努めることしかできない。感情にとってかわるのは、意志ではなく、もう一つの感情である。いいかえれば、意志そのものが、われわれが複雑すぎるがゆえにその原因を知らないところの欲望(意識された衝動)にほかならない。くりかえしていうが、スピノザはそのような感情や欲望の不可避性を承認しようとするのであって、それを理性や意志によって克服しようとする態度を否定するのである。

《感情は、それと反対の、しかもその感情よりもっと強力な感情によらなければ抑えることができない》(『エチカ』)。これは、ある意味で、フロイトが宗教についていったことを想起させる。フロイトの考えでは、宗教は集団神経症である。神経症を意志によって克服することはできない。が。彼は、ひとが宗教に入ると、個人的神経症から癒えることを認めている。それは、ある感情(神経症)を除去するには、もっと強力な感情(集団神経症)によらねばならないということである。むろんフロイトは、神経症を集団神経症によって癒すことに反対である。困難であるとしても、個人的・集団神経症に対して立ち向かう方法がひとつある。それはスピノザのいったつぎのことである。

受動の感情は、われわれがその感情についての明瞭・判明な観念を形成すれば、ただちに受動の感情ではなくなる》(『エチカ』)。

つまり、それについて「明瞭・判明な観念」をもつこと以外には、受動性のなかにある状態から出られないと、スピノザはいうのだ。この場合、彼は感情のみについて語っているけれども、「受動性」はすべての「意識」についてあてはまる。真理の意識さえでも表象であり、受動性においてある。真理としてのイデオロギーを越えるのは、いつも別の真理のイデオロギーである。

こ こで、すでに示唆してきたように、いくつかの疑問が生じる。それは先ず、真理の意識そのものを表象とみなす「観念」は、それ自体意識ではないのか、ということだ。これはつぎのようにもいいかえられる。われわれが自然史のなかにあり、受動性=表象のなかにあって、それを超越しうるという考えそのものが表象に すぎないとするならば、そのようにいうこと自体は超越なのではないか、と。あるいは、個としての主体を受動的な表象とみなすとき、なおそれをそのようにみ なす主体があるのではないか、と。(柄谷行人『探求Ⅱ』)

だがスピノザのいう受動の感情とは、究極的にはなんだろう。

ーーー汝の生み出した行為の内なる死の欲動を、決してしらばくれることなしに汝自身のものと認めよ。

権力への意志が原始的な欲動=情動(Affekte)形式であり、その他の欲動(Affekte)は単にその発現形態であること、――(……)「権力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)
最も純粋な超自我の審級……不可解な審級、それがわれわれを操り、自己破壊の渦巻く奈落へと導く。

超自我の機能は、まさにわれわれ人間存在を構成する恐怖の動因、人間存在の非人間的な核を途方に暮れさせることにある。この次元とは、ドイツの観念論者が否定性と呼んだものであり、そしてまたフロイトが死の欲動と呼んだものである。現実界のトラウマ的な固い核、――そこから昇華がわれわれを保護してくれるーーその核であるどころか、超自我そのものが現実界を仕切っている仮面なのである。(ZIZEK"LESS THAN NOTHING"私訳)


…………

……いまや、自然が自分のためにいかなる目的もたてず、またすべての目的因が人間の想像物にすぎないことを示すために、われわれは多くのことを論ずる必要はない。(……)だが、私はさらにこの目的に関する説が自然についての考えをまったく逆転させてしまうことをつけ加えておきたい。なぜならこの目的論は、実は原因であるものを結果と見なし、反対に〈結果であるものを原因〉と見なすからである。(スピノザ『エチカ』第一部付録)

この「原因であるものを結果と見なし、反対に〈結果であるものを原因〉と見なす」態度を「遠近法的倒錯」と呼ぶ。この倒錯をわれわれはほとんどつねにやってしまっている、たとえスピノザやカントの言葉を頭で「理解」していようと、いつのまにか「遠近法的倒錯」に囚われている。

カントがいう「批判」は、ふつうにわれわれがいう批判とはちがっている。つまり、ある立場に立って他人を批判することではない。それは、われわれが自明であると思っていることを、そういう認識を可能にしている前提そのものにさかのぼって吟味することである。「批判」の特徴は、それが自分自身の関係するということにある。それは、自らをメタ(超越的)レベルにおくのではない。逆に、それは、いかなる積極的な立場をも、それが二律背反に陥ることを示すことによって斥ける、つまり、「批判」は超越論的なのである。

しかし、カントの「批判」を、べつに「批判哲学」のように限定して考える必要はない。たとえば、今日デリダやド・マンのいうディコンストラクションは、「批判」以外の何であろうか。それは、一義的な意味(真理)を、決定不能性(二律背反)に追いこむことによって無効化するものだし、批判(解体)ではなく、「批判」(脱構築)なのである。「超越論的」という言葉も同様である。それをとくにフッサールのいう意味に限定する必要はない。

したがって、私は、超越論的ということを、自己意識の構造や自我の統一などといった問題に限定しないで、われわれが経験的に自明且つ自然であると思っていることをカッコにいれ、そのような思いこみを可能にしている諸条件を吟味(批判)することだという意味で考える。

すると、これは狭義の認識論に領域にとどまりえないことがわかる。たとえば、近代の思考が、デカルト的な二元論の機制の下にあると言うことは、それ自体超越論的なのだ。なぜなら、それは、われわれにとって自明且つ自然にみえていることがらをカッコにいれ、それをそのように受けとめさせている認識論的枠組そのものを吟味するということだからである。

しかし、これはいわゆる歴史的に考えるということと似て非なるものだ。ふつうの歴史的思考は、現代の認識論的枠組で過去を構成し解釈することでしかないからである。ニーチェがこのような「歴史主義」を攻撃する一方で、「歴史的に考える」ことを説いたことは矛盾しない。後者は、前者を超越論的に考察することにほかならない。

混乱を避けるために、後者を「系譜学的」と呼ぶことにしよう。系譜学的であることは、結果であるものを原因とみなす「認識の遠近法的倒錯」をえぐり出すことである。ニーチェがいう「歴史性」は、歴史的に規定されているということではなくて、この遠近法的な倒錯性ということなのだ。

けれども、こういう考え方はニーチェに固有のものではない。たとえば、マルクスもいっている。

《歴史とは、個々の世代の連続的交代にほかならない。それらのどの世代も、それ以前の全世代が贈った諸材料、諸資本、生産諸力を利用する。したがって各世代は、一面ではまったく変化した状況で、継承した活動を続行するのであり、他面ではまったく変化した活動によって、これまでのふるい状況の姿を変更するのである。ところが、思弁的にゆがめられたかたちでこれがとらえられると、後代の歴史が、前代の歴史の目的にされてしまう。たとえば、アメリカの発見の根底には、フランス革命の勃発を助けるという目的があったというように。こうなると、歴史は、自分だけの特殊な目的をかかえており(《自己意識》、《批評》、《唯一者》などといった)、《他の諸登場人物にならぶ登場人物》の一人となるのであるが、しかし、前代の歴史の《使命》、《目的》、《萌芽》、《理念》といった言葉でしめされているものは、実際は、後代の歴史からの抽象物、前代の歴史が後代におよぼす能動的な影響の抽象物にすぎない。》(マルクス『ドイツ・イデオロギー』)

つまり、マルクスはすでに系譜学的なのである。歴史が倒錯的に構成されていること、発生論的記述が「自然成長的」な生成を結果から逆投射的に構成したにすぎないことを指摘する、そのときにのみ、彼は「歴史性」を見出すのである。それは一切の目的論に対する「批判」である。それは、俗にマルクス主義といわれる目的論的な歴史観とは正反対なのであるから、そんなものを批判したところで、マルクスをこえたことにはならない。

そもそも、このような系譜学はこえること(超越的)ではなく、超越論的なのである。たとえば、マルクスやニーチェが何といおうと、ひとは(彼ら自身も)“目的論的”に生きている。それを否定することはできない。だが、それをカッコにいれることはできる。たとえば、日常的にもの(客観)が私(主観)の前にあるという考え方を否定するならば、ひとはまず生きていけない。その自明性をとりあえず還元(カッコ入れ)しようとするのが超越論的ということであって、本当にその通りに生きてしまえば、分裂病者になるだろう。(柄谷行人『探求Ⅱ』p187-189)