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2015年7月15日水曜日

子どものころよく座敷の柱におでこをくっつけて泣いた

批評は文学であり、「批評の方法も創作の方法と本質上異なるところはあるまい」と言う。このねたましげな表現にかくれて、小林秀雄は作品に対することをさけ、感動の出会いを演出する。その出会いは、センチメンタルな「言い方」にすぎないし、対象とは何のかかわりもない。(高橋悠治『小林秀雄「モオツァルト」読書ノート』1974年

……だが、多少とも具体 的な夢へと立ち戻りうる者になら、人が「未知」の何かと「偶然」に遭遇したりはしないという点が素直に理解できるだろうし、そればかりか、むしろ「出会 い」を準備しうる環境と徐々に馴れ合い、それを通じて出会うべき対象をかりに無意識であるにせよ引き寄せ始めていない限り、遭遇などありえはしないとさえ 察知しうるはずだ。つまり、小林秀雄は、大学における専攻領域の選択、交遊関係などにおいて、詩人ランボーの書物と「出会い」を演じて決して不思議ではな い環境にあらかじめ住まっていた「制度」的存在なのであり、そのときすでに、ボードレールもパルナシアンの何たるかも知らされてしまっていたのだ。そうで なければ、「メルキュウル版の『地獄の季節』の見すぼらしい豆本」を「ある本屋の店頭で、偶然見付け」るといったペダンチックなメロドラマは起こったりし まい。いずれにせよ、こちらがそれらしい顔でもしていない限り、「見知らぬ男」が都合よく「僕を叩きのめし」てくれるはずがなく、だからあらゆる「出会 い」は「制度」的に位置づけられ準備され組織された遭遇なのであって、その位置づけられ組織されたさまを隠蔽するために、人は「出会い」を擬似冒険的な色 調に塗りこめ「文学」と「青春」との妥協に役立てずにはいられないのだ。(蓮實重彦「言葉の夢と批評」『表層批評宣言』所収

なにやら言ってくる人がいるが、わたくしは一時期上のふたりの小林秀雄批判にいかれてしまって、どうも昔のことを記すとメロドラマになってしまいそうで、あまり書く気はしないのだがーーつまり少年時代は小林秀雄にいかれており、今も根はそれから逃れている心持は到底ないーー、できるだけ「ペタンチックなメロドラマ」か「センチメンタルな言い方」を避けて書けば、こういうことだ。これでも三分の一ぐらいカットしたが、どうもいまだメロドラマ臭が漂っている気がしてならない。

…………

歌曲が好きなんですね、と人に言われるとそうなのだろうか、と思う。合唱は好むが(学生時代、大学内のではなく外部の合唱団に入っていたくらいだ)、たとえばドイツリート好みと言われると、いやそれほどでも、といいたくなる。何か歌曲が好きだというのは気恥ずかしい心持になってしまうところがある。でも音楽を好むようになったはじまりは歌曲だったのを隠すつもりはない。

母がよく「赤いサラファン」を歌ったので、幼いころロシア民謡のレコードをしばしば聴いた。「赤いサラファン」以外にも「黒い瞳」とか「泉のほとり」、「ヴォルガの舟歌」などをことさら好んだ。その後シューベルトやシューマンの歌曲集を手に入れーー日本人の歌い手の有名な曲ばかり入っているものだーー好みはシューベルト・シューマンに移った。たぶん小学四年生前後のことだ。当時馴染んだ曲がふと流れてくると今でもいたってよわい。開け胡麻!となってその頃の記憶が蘇ってくる。

小学校入学前後、母がいわゆる「神経」を病んで大都市から母方の祖父の家の隣に移り住んだのだが、なにやらと苦しんだ。家から突然いなくなって町をさ迷うなどということもあった。家から百メートルほど先に路面電車がとおった通りがあり、その向う側のうどん屋の前に佇んでいるなどということも何度かあったらしい。大きく切った鰹節でうどんがみえないほどになって出てくるその店の「にかけ」を母は天ぷらうどんなどよりも好んだ。たしかに鰹節のにおいでくらくらするような「にかけ」だった。

子どものころよく座敷の柱におでこをくっつけて泣いた
外出している母がもう帰ってこないのではないかと思って
母はどんなにおそくなっても必ず帰ってき
ぼくはすぐに泣き止んだけれど
そのときの不安はおとなになってからも
からだのどこか奥深いところに残っていてぼくを苦しめた
だがずっとあとになって母が永遠に帰ってこなくなったとき
もう涙は出なかった

(谷川俊太郎「なみだうた」より 『モーツァルトを聴く人』)


後に精神分裂病と診断されていたことを知ったがーー当時のことだ、誤診だったかもしれない、 名古屋市立大学医学部精神科における伝説の「木村教授・中井助教授」黄金時代はまだ始まっていなかったーー、祖父の家の台所の横にあった六畳の部屋で寝ていることが多かった。南向きの部屋だったのに前庭の大きな松が陰気な影を落していつも暗く、母の軀から発しているらしい粘り気のある淀んだ熱のにおいが重苦しかった。台所がざわめき叔父たちが祖母に向かう母を取り押さえようとするなどということもあった。ナイフの刃が煌めいた。だれかが後ろからわたくしの眼を塞いで抱きかかえ遠くに連れて行こうとした。

……だから今でもシューベルトやシューマンを聴くと平静でいられない心持に襲われることがある。不思議にロシア民謡はそうでない。その理由がよくわからない。最近はシューベルトよりもシューマンのほうが痛い。よく聴いたのはシューベルトなのに。





この冒頭のIm wunderschönen Monat Mai 素晴らしく美しい五月にの終り方なんてくらくらするよ、Fischer-Dieskauの名演はあるが、オレには女の声がいいんだな、ときに少女のような声をだすBarbara Bonneyの歌唱もわるくない(彼女はなによりもフォーレがよいが)。

断章は(俳句と同様に)《頓理》である。それは無媒介的な享楽を内含する。言述の幻想、欲望の裂け目である。文としての思考、という形をとって、断章の胚種は、場所を選ばず、あなたの念頭に現れる。それはキャフェでかもしれず、列車の中かもしれず、友だちとしゃべっているときかもしれない(それは、その友だちが話していることがらの側面から突然出現するのだ)。そういうときには、手帳を取り出す。が、その場合書きとめようとしているものは、ある一個の「思考」ではなく、何やら刻印のようなもの、昔だったら一行の「詩句」と呼んだであろうようなものである。 何だって? それでは、いくつもの断章を順に配列するときも、そこには組織化がまったくありえないとでも? いや、そうではない、断章とは、音楽でいう連環形式のような考えかたによるものなのだ(『やさしき歌』、『詩人の恋』)。個々の小品は、それだけで充足したものでありながら、しかも、隣接する小品群を連結するものでしかない。作品はテクストの外にしか成立しない。断章の美学を(ウェーベルン以前に)もっともよく理解し実践した人、それはだぶんシューマンである。彼は断片を「間奏曲」と呼んでいた。彼は自分の作品の中に、間奏曲の数をふやした。彼がつくり出したすべては、けっきょく、《挿入された》ものであった。しかし、何と何の間に挿入されていたと言えばいいのか。頻繁にくりかえされる中断の系列以外の何ものでもないもの、それはいったい何を意味しているのか。 断章にもその理想がある。それは高度の濃縮性だ。ただし、(“マクシム〔箴言、格言〕”の場合のように)思想や、知恵や、真理のではなく、音楽の濃縮性である。すなわち、「展開」に対して、「主調」が、つまり、分節され歌われる何か、一種の語法が、対立していることになるだろう。そこでは《音色》が支配するはずである。ウェーベルンの《小品》群。終止形はない。至上の権威をもって彼は《突然切り上げる》のだ! (ロラン・バルト『彼自身によるバルト』)

シューベルトは短いものであっても、始まりがあって終りがある。だがシューマンはどこか遠くからやってきて宙吊りのまま終わるものがおおい。シューマンの「享楽」、あるいは「痛み」はそこにある。

痛みはつねに内部を語る。しかしながら、あたかも痛みは手の届かないところにあり、感じえないというかのようである。身の回りの動物のように、てなづけて可愛がることができるのは苦しみだけだ。おそらく痛みはただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもないだろう。

この遠くのもの、シューマンはそれを「幻影音」と呼んでいた。ちょうど切断された身体の一部がなくなってしまったはずなのに現実の痛みの原因となる場合に「幻影肢」という表現が用いられるのに似ている。もはや存在しないはずのものがもたらす疼痛である。切断された部分は、苦しむ者から離れて遠くには行けないのだ。

音楽はこれと同じだ。内側に無限があり、核の部分に外側がある。(ミシェル・シュネデール『シューマン 黄昏のアリア』)