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2015年7月16日木曜日

年だけいった大ども

けっきょくのところ、われわれに確信を与えているものは、確かな認識であるよりもむしろはるかにより多く習慣であり先例であること、しかもそれにもかかわらず少し発見しにくい真理については、それらの発見者が一国民の全体であるよりもただ一人の人であるということのほうがはるかに真実らしく思われるのだから、そういう真理にとっては賛成者の数の多いことはなんら有効な証明ではないのだ、ということを知った。(デカルト『方法序説』野田又夫訳)
こどもはまず、自分をとりまく人たち、自分にすべての禍福をもたらしてくれる人たちを観察する。すなわち彼はまず政治的に生きるわけだ。この柔軟な精神は、まず慣習や気まぐれや情念を反映する。真実のものよりも好都合のものを、知識よりも礼節をはるかに貴しとする習慣は、それゆえわれわれだれしものうちにあってもっとも古いものである。多くの無分別、頑迷、不毛の論議といったものは、こうしたところから説明できる。われわれのまわりにも年だけいった大どもにはこと欠かない。(アラン「外的秩序と人間的秩序」「プロポ集」井沢義雄・杉本秀太郎訳)

…………

法学者であり東京大学先端科学技術研究センター教授でもある玉井克哉なる人物が昨晩(2015.07.16)次のようなツイートをしている。

@tamai1961: 本当は、大学というのは、すべてを疑う、疑った上で自分で確かめる、そういう知的態度を身に着ける場なのです。リンゴが落ちるのに月が落ちないのはなぜか。同じ法則で説明できないか。そういう発想を伸ばすところなのです。空気に乗ってアジ演説をする者に給料を払うために存在しているのではない。

それにたいして山口二郎が次ぎのように返している。

山口二郎@260yamaguchi: 知ったふうなことを言うなよ。もっとも疑うべきは、権力者のプロパガンダとデマゴギーだろう。この人は法学部でも、政治学を勉強していないのだろうから、政治の初歩がわかっていないのだろうが。権力者のウソを疑うために私は給料をもらっているのだ https://t.co/U5qvs28ZIb

玉井氏が《すべてを疑う、疑った上で自分で確かめ》て発言しているのか、山口氏のいうように《もっとも疑うべきは、権力者のプロパガンダとデマゴギー》であるのかは知るところではない。どちらのほうが《われわれのまわり》にいる《年だけいった大ども》であるのかも保留しておこう。ただしこうは引用しておこう。

根源的悪とは、最も極端な場合、規範を乱暴に破ることではなく、パトローギッシュな理由(感性的動因による配慮(罰の恐れ、ナルシシスティックな満足、仲間からの賞賛等々:引用者)から規範に服従することなのである。間違った理由から正しいことを行うこと、自分の利益になるから法に従うということは、たんに法を侵犯するよりもはるかに悪いことなのだ。(ジジェク『メランコリーと行為』)

これはラカン派(の一部)がカントの倫理から読み取った考え方である。この文だけでは解りにくいかもしれない。この文の前後は「デモの猥雑な補充物としての「享楽」」の後半に抜き取りがある。核心は《間違った理由から正しいことを行うこと》とは、法の尊厳を侮蔑すること、《法の自己破壊、法の自殺行為》ということである。

さて、ふたりのやりとりを垣間見て、原発事故一周年の間もないことの2012年3月24日 立教大学総長 吉岡知哉による「卒業生の皆さんへ(2011年度大学院学位授与式)」の言葉を思い出した。《「考える」という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為です》と。もちろんこの《反時代的・反社会的な行為》を押し潰そうとする勢力が最近いっそう顕著になってきているのを知らないわけではないが。

では、大学の存在根拠とはなにか。

一言で言えばそれは、「考えること」ではないかと思います。

大学とは考えるところである。もう少し丁寧に言うと、人間社会が大学の存在を認めてきたのは、大学が物事を徹底的に考えるところであるからだと思うのです。だからこそ、大学での学びについて、単なる知識の獲得ではなく、考え方、思考法を身につけることが大切だ、と言われ続けてきたのでしょう。

現実の社会は、歴史や伝統、あるいはそのときどきの必要や利益によって組み立てられています。日常を生きていく時に、日常世界の諸要素や社会の構造について、各自が深く考えることはありません。考えなくても十分生きていくことができるからです。あるいは、日常性というものをその根拠にまで立ち戻って考えてしまうと、日常が日常ではなくなってしまうからだ、と言ったほうがよいかもしれません。

しかし、マックス・ウェーバーが指摘したように、社会的な諸制度は次第に硬直化し自己目的化していきます。人間社会が健全に機能し存続するためには、既存の価値や疑われることのない諸前提を根本から考え直し、社会を再度価値づけし直す機会を持つ必要があります。

大学は、そのために人間社会が自らの中に埋め込んだ、自らとは異質な制度だと言うことができるのではないでしょうか。大学はあらゆる前提を疑い、知力の及ぶ限り考える、ということにおいて、人間社会からその存在を認知されてきたのです。

既存の価値や思考方法自体を疑い、それを変え、時には壊していくことが「考える」ということであるならば、考えるためには既存の価値や思考方法に拘束されていてはならない。つまり、大学が自由であり得たのは、「考える」という営みのためには自由がなければならないことをだれもが認めていたからに他ならない。大学の自由とは「考える自由」のことなのです。

言葉を換えると、大学は社会から「考える」という人間の営みを「信託」されているということになると思います。


もちろん、われわれは加藤周一や大江健三郎の師匠筋であったユマニスト渡辺一夫の言葉を引用することもできる。

秩序は守られねばならず、秩序を乱す人々に対しては、社会的な制裁を当然加えてしかるべきであろう。しかし、その制裁は、あくまでも人間的でなければならぬし、秩序の必要を納得させるような結果を持つ制裁でなければならない。

更にまた、これは忘れられ易い重大なことだと思うが、既成秩序の維持に当たる人々、現存秩序から安寧と福祉とを与えられている人々は、その秩序を乱す人々に制裁を加える権利を持つとともに、自らが恩恵を受けている秩序が果たして永劫に正しいものか、動脈硬化に陥ることはないものかどうかということを深く考え、秩序を乱す人々のなかには、既成秩序の欠陥を人一倍深く感じたり、その欠陥の犠牲になって苦しんでいる人々がいることを、十分に弁える義務を持つべきだろう。(渡辺一夫「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」)

社会秩序が動脈硬化に陥っているとき、その既存秩序を破壊しよう、あるいはその秩序の座標軸を変えようとする行為は、その秩序にとっては「悪」とならざるをえないだろう。

行為とは、不可能なことをなす身振りであるだけでなく、可能と思われるものの座標軸そのものを変えてしまう、社会的現実への介入でもあるのだ。行為は善を超えているだけではない。何が善であるのか定義し直すものでもあるのだ。(ジジェク「メランコリーと行為」『批評空間』2001 Ⅲ―1所収)

そもそも殆んどのひとは、《パトローギッシュな理由(感性的動因による配慮(罰の恐れ、ナルシシスティックな満足、仲間からの賞賛等々)から規範に服従》しているだけではないか。

《すべてを疑う、疑った上で自分で確かめる、そういう知的態度を身に着け》たつもりになっている学者たちはどうか?

学者というものは、精神上の中流階級に属している以上、真の“偉大な”問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。(ニーチェ『悦ばしき知識』)

もちろんいまさらニーチェでもあるまい。かつまた例外もあるだろう。とはいえおおむねはいまだーーいや現在ではいっそうーー次ぎの通りではないか。

文学や自然科学の学生にとってお極まりの捌け口、教職、研究、または何かはっきりしない職業などは、また別の性質のものである。これらの学科を選ぶ学生は、まだ子供っぽい世界に別れを告げていない。彼らはむしろ、そこに留まりたいと願っているのだ。教職は、大人になっても学校にいるための唯一の手段ではないか。文学や自然科学の学生は、彼らが集団の要求に対して向ける一種の拒絶によって特徴づけられる。ほとんど修道僧のような素振りで、彼らはしばらくのあいだ、あるいはもっと持続的に、学問という、移り過ぎて行く時からは独立した財産の保存と伝達に没頭するのである。( ……)彼らに向かって、君たちもまた社会に参加しているのだと言ってきかせるくらい偽りなことはない。( ……)彼らの参加とは、結局は、自分が責任を免除されたままで居続けるための特別の在り方の一つに過ぎない。この意味で、教育や研究は、何かの職業のための見習修業と混同されてはならない。隠遁であるか使命であるということは、教育や研究の栄光であり悲惨である。(レヴィ= ストロース『悲しき熱帯』 Ⅰ 川田順造訳 p77-79)

…………

The time is out of joint: O cursed spite,
That ever I was born to set it right,(Hamlet 1.5.189-190)

この世の関節がはずれてしまったのだ。なんの因果か、
それを直す役目を押しつけられるとは!(シェイクスピア 福田恆存訳)
世界はまちがいもなく脱臼してしまっている。暴力的な動きによってのみ、それをふたたびはめ込むことができる。ところが、それに役立つ道具のうちには、ひとつ、小さく、弱くて、軽やかに扱ってやらなきゃならないものがあるはずだ。(ブレヒト『真鍮買い』)

さてここでいささか過激なジジェクの言葉を抜き出しておこう。おそらく玉井サンには思いもよらぬ主張であろう。

私たちがますますもって必要としているのは、私たち自身に対するある種の暴力なの だということです。イデオロギー的で二重に拘束された窮状から脱出するためには、ある種の暴力的爆発が必要でしょう。これは破壊的なことです。たとえそれが身体的な暴力ではないとしても、それは過度の象徴的な暴力であり、私たちはそれを受け入れなければなりません。そしてこのレヴェルにおいて、現存の社会を本当に変えるためには、 このリベラルな寛容という観点からでは達成できないのではないかと思っています。おそらくそれはより強烈な経験として爆発してしまうでしょう。そして私は、これこそ、 つまり真の変革は苦痛に充ちたものなのだという自覚こそ、今日必要とされているのではないかと考えています 。(『ジジェク自身によるジジェク』)
資本主義社会では、主観的暴力((犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。(ジジェク『暴力』)

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学者のおおくは専門家なのでありーーすぐれた学者ならの話だがーー、彼らの専門性に敬意を表するのに吝かではないつもりだ。だが、

プロフェッショナルというのはある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている。(…)プロフェッショナルは絶対に必要だし、 誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。 (蓮實重彦『闘争のエチカ』)

彼らは“Sie wissen das nicht, aber sie tun es” 、「彼らはそれを知らないが、そうする」(マルクス)のである。すなわち共同体の変容の可能性を抑圧するのだ。